↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/16

第十五話 失われた参道

古い写真には、時間が残る。


 写された人の服装も、道端に立つ電柱も、今では失われた建物も。撮影した者が何を残そうとしたのかに関係なく、その一瞬に存在していたものが、紙の上に留められる。


 けれど、写真に写っていないものを知ることは難しい。


 その場所にどんな音が響いていたのか。


 どんな風が吹いていたのか。


 そして、そこに立つ人間が何を考えていたのか。


 そうしたものまでは、写真だけでは分からない。


 銀澪は居間の食卓に置かれた一枚の写真を見つめながら、そんなことを考えていた。


 写っているのは、山間の小さな橋だった。


 古いコンクリート製の欄干。下を流れる細い川。そして、橋の向こう側で緩やかに曲がる道。


 写真の裏側には、かすれた文字で名前が記されている。


 ――旧参道橋。


 昨日、黒凪の書庫で見つけたものだった。


「……やっぱり、似ているんだよな」


 銀澪は呟き、隣へ置いたノートを開いた。


 そこには、夢で見た橋の絵が描かれていた。


 古い欄干。


 川の位置。


 橋を渡った先にある曲がり道。


 完全に同じとは言えない。夢の方には鳥居が見えていたが、写真には写っていなかった。


 それでも、二つの景色には妙な共通点があった。


 しかも、この絵を描いたのは写真を見る前だ。


 後から見たものに合わせて記憶を書き換えたわけではない。


 そのことが、銀澪には気になっていた。


「……銀澪?」


 背後から声がした。


 振り返ると、黒凪が台所から顔を出していた。


 薄い藍色の上着に、黒いゆったりとしたパンツ。いつもの短いウルフカットの髪は、朝の光を受けて毛先がわずかに銀色に見える。


「おはようございます、黒凪さん」


「ええ、おはよう。随分早いのね」


「昨日の写真が気になってしまって」


 銀澪が答えると、黒凪は食卓へ目を向けた。


「ああ、旧参道橋ね」


 彼女は銀澪の向かい側へ腰を下ろし、写真と絵を見比べた。


「……確かに、似ているところはあるわ」


「ですよね」


「ええ。でも、これだけで同じ場所だとは決められないわね」


 黒凪は写真の欄干を指差した。


「こういう橋は、昔の山道ではよく使われていたの。似た構造のものなら、ほかにもあると思うわ」


 銀澪は頷いた。


「……それでも、調べてみたいです」


「もちろん。そのために昨日、写真を出してきたんだもの」


 黒凪は微笑んだ。


 それから、写真の裏側にある文字へ目を向ける。


「まずは、この橋がどこにあったのかを確かめましょう」


 銀澪は顔を上げた。


「場所、分かりそうですか?」


「ある程度なら。古い地図を見れば、今の道路との位置関係も分かるはずよ」


 黒凪は立ち上がった。


「朝食の後で、書庫に行きましょうか」


「はい」


 銀澪は頷いた。


 そのとき、台所から湯気が上がる音が聞こえてきた。


 黒凪が顔を向ける。


「あら、いけない。お味噌汁を温めていたんだったわ」


 慌てた様子ではなかったが、彼女はすぐに台所へ戻っていった。


 銀澪は少し笑い、写真を封筒へ戻した。


 昔の橋が、どこかに残っているかもしれない。


 そう考えると、胸の奥に小さな期待が生まれていた。


 けれど、同時に少し怖くもあった。


 もし本当に夢の場所だったら。


 そこには、自分の知らない何かが残されているのだろうか。


 銀澪はその考えをいったん脇へ置き、食器棚へ向かった。


 今は、朝食の準備を手伝おう。


 調べ物は、その後でもできる。


     ◇


 書庫の机には、三枚の地図が並べられていた。


 一枚は、現在の道路と山道を記した比較的新しい地図。


 二枚目は、数十年前に作られた地域の地形図。


 そして三枚目は、黒凪の祖母が残した古い参道の見取り図だった。


 銀澪はそれらを交互に眺めていた。


「……随分、道が変わっていますね」


「そうでしょう?」


 黒凪は一番新しい地図を指差した。


「今は、この道路から神社へ向かうのが一般的なの。車も途中までは入れるわ」


 指先が山の中を走る一本の線をたどる。


 銀澪も、その道には見覚えがあった。


 黒凪と初めて出会った日、自分が歩いていた山道につながる道だった。


「……じゃあ、昔は違ったんですか?」


「ええ」


 黒凪は古い地図へ指を移した。


「以前は、山の反対側から沢沿いに登る参道があったのよ。集落の人たちは、こちらを使うことも多かったみたい」


 銀澪は身を乗り出した。


 古い地図には、細い線で山道が描かれていた。


 川を渡り、斜面を登り、尾根の手前で神社へ向かう。


 その途中に、小さな橋の記号があった。


「……ここですか?」


「おそらくね」


 黒凪は頷いた。


「写真の裏に旧参道橋と書かれていたでしょう? 古い道筋と合わせれば、この場所の可能性が高いわ」


 銀澪は現在の地図を見た。


 同じ位置を探す。


 しかし、そこには橋の記号がなかった。


「……あれ?」


 思わず声が漏れる。


「今の地図には、ありませんね」


「そうなの」


 黒凪は静かに答えた。


「この辺りの道は、かなり前に使われなくなっているのよ」


 銀澪は彼女を見た。


「……どうしてですか?」


「山の斜面が崩れやすくなったからよ。昔は人が歩く程度なら問題なかった場所も、雨が続くと危険になってね」


 黒凪は古い地図を指差した。


「その後、新しい道路が整備されたこともあって、参道として使う人が減っていったの」


「……なるほど」


 銀澪は頷いた。


 黒凪は地図の端にある小さな文字を読もうとした。


「……ただ、私の記憶だけでは、いつ完全に使われなくなったのか曖昧なの。少し確かめてみましょう」


 彼女は書棚から別の薄い冊子を取り出した。


 昔の山道の管理記録だった。


 ページをめくっていくと、橋の名前が見つかった。


「……あったわ」


 銀澪が顔を上げる。


 黒凪は記録を指差した。


 そこには、旧参道橋周辺で起きた斜面崩落についての記述があった。


 大雨によって参道の一部が損傷したこと。


 復旧には費用がかかるため、通行を制限したこと。


 そして、その後、新しい道路を利用する方針が決められたこと。


「……橋そのものは?」


 銀澪が尋ねる。


 黒凪は続きを読んだ。


「少なくとも、この記録が書かれた時点では残っていたみたい。ただ、その後の状態までは書いていないわね」


 銀澪は少し考えた。


「……今もある可能性は、ありますか?」


「ええ。ただし、渡れる状態かどうかは別の話よ」


 黒凪は真面目な表情になった。


「使われなくなった橋は、見た目が綺麗でも危険なことがあるわ。地面の下が崩れていたり、欄干が弱っていたりすることもあるから」


「……分かりました」


 銀澪は頷いた。


「無理に渡ろうとは思いません。まずは場所を確かめたいだけなので」


「それなら、いいわ」


 黒凪は少し微笑んだ。


 それから、古い地図へ目を戻す。


「……一つ、気になることもあるのよ」


「何でしょう?」


「この参道の途中、ここを見て」


 黒凪の指が、橋の少し先で止まった。


 道はそこで、二つに分かれていた。


 一方は神社へ向かっている。


 もう一方は、山の奥へ続いていた。


「……分かれ道?」


「ええ。でも、今の地図には片方しか残っていないの」


 銀澪は三枚の地図を見比べた。


 確かに、古い地図では参道が二つに分かれている。


 しかし、新しい地図では、そのうち神社へ向かう道しか描かれていなかった。


「……もう一つの道は、どこへ続いているんでしょう」


 黒凪はしばらく考えた。


 そして、静かに答える。


「……それを、私も知りたいの」


 銀澪は顔を上げた。


 黒凪は古い地図を見つめていた。


「この道、子どもの頃に祖母から聞いたことがあるような気がするの。でも、どこへ続いていたのかまでは……」


 そこで言葉が止まった。


 黒凪は小さく首を振る。


「……駄目ね。はっきり思い出せないわ」


 銀澪は静かに頷いた。


 長く生きる黒凪にも、忘れてしまったことがある。


 あるいは、幼い頃には意味が分からなかった話が、今になって気になり始めているのかもしれない。


「……現地で、少し分かるかもしれませんね」


 銀澪が言うと、黒凪は頷いた。


「ええ。ただし、安全に行ける場所までよ」


「はい」


 銀澪は微笑んだ。


 黒凪も、小さく笑った。


     ◇


 すぐに山へ向かうことはしなかった。


 黒凪はまず、古い参道の周辺が現在どのように管理されているのかを確かめた。


 土地の境界。


 現存する点検路。


 そして、立ち入りが制限されている区域。


 古い資料だけでは判断できない部分もあったため、地域の山林管理に関わる窓口へ連絡し、現地の状況を尋ねた。


 銀澪はその間、机の上の地図を見比べていた。


 夢で見た橋。


 写真に残された橋。


 そして、今では消えてしまった参道。


 少しずつ、頭の中に道筋が浮かび上がってくる。


 しばらくして、黒凪が電話を終えた。


「……確認できたわ」


 銀澪が顔を上げる。


「どうでしたか?」


「旧参道の入口付近までは、今も点検路として使われているそうよ。ただし、橋の周辺は足場が悪く、通行には注意が必要とのことだったわ」


「……橋は残っているんですか?」


「橋台の一部は残っているらしいわ。でも、橋そのものはずっと前に失われているそうよ」


 銀澪は瞬きをした。


「……失われている?」


「ええ。少なくとも、今は渡れる橋はないみたい」


 黒凪は少しだけ眉を寄せた。


「何年も前に撤去された部分もあるそうだから、古い写真と同じ景色を見ることは難しいでしょうね」


 銀澪は地図へ目を落とした。


 胸の奥に、小さな落胆が広がった。


 夢の中で見た橋。


 そこへ行けば、何かを思い出せるかもしれないと思っていた。


 しかし、現実にはその橋は残っていないらしい。


「……そうですか」


 銀澪が呟くと、黒凪は少しだけ表情を和らげた。


「でも、場所そのものは確かめられるわ」


 銀澪が顔を上げる。


「橋がなくなっていても、川の流れや周囲の地形は残っているでしょう? 古い写真と見比べることはできると思う」


「……はい」


「それに、あなたが夢で見た橋と同じ場所だと決まったわけでもないもの」


 銀澪はゆっくりと頷いた。


「……そうですね」


 黒凪は古い地図を折り畳み、鞄へ入れた。


「天気は回復しているけれど、雨の後だから足元には気をつけましょう。危険そうなら、途中で引き返すわよ」


「分かりました」


 二人は山へ向かう準備を始めた。


     ◇


 昼過ぎ。


 黒凪の車は、山の麓を走る細い道路へ入っていた。


 周囲には田畑が広がり、その向こうには濃い緑の山々が連なっている。


 道路沿いには古い民家が点在し、庭先では洗濯物が風に揺れていた。


 銀澪は助手席から景色を眺めていた。


 今日の服装は、歩きやすさを優先したものだった。


 濃い灰色の長袖シャツに、丈夫な生地のパンツ。


 足元には滑りにくい靴を履いている。


 黒凪も同じように動きやすい服装で、薄手の上着を羽織っていた。


 当然ながら、二人とも角と尻尾は隠している。


 現地で誰かに出会う可能性があるからだ。


「……黒凪さん」


「何?」


「昔は、この辺りにも集落があったんですよね?」


「ええ。今より家が多かった時期もあったわ」


 黒凪は前方を見つめながら答えた。


「山の仕事をしている人たちが暮らしていてね。炭を焼いたり、木を切り出したり。畑を作っていた家もあったわ」


「……そうなんですね」


「でも、時代が変わるにつれて、麓や街へ移る人が増えていったの」


 銀澪は窓の外へ目を向けた。


 山の斜面には、今も古い石垣が残っている。


 その上には草木が生い茂り、かつて何かが建っていたような場所もあった。


「……人がいなくなると、道も消えていくんですね」


 銀澪が呟く。


 黒凪は静かに頷いた。


「そうね。道というのは、人が通り続けることで残るものだから」


 彼女は少しだけ笑った。


「何十年も使われなければ、草木に覆われてしまうわ」


 銀澪は頷いた。


 昔は、多くの人が歩いていた道。


 今は、地図からも消えかけている。


 その変化を考えると、少し不思議な気持ちになった。


「……黒凪さんは、昔の道を覚えているんですか?」


「全部ではないわ。でも、よく通った場所なら今でも分かるわよ」


「……すごいですね」


「ふふっ。長く生きていると、そういうこともあるの」


 黒凪は微笑んだ。


 しかし、すぐに少しだけ真面目な表情になる。


「……ただ、昔を知っているからといって、今も同じように歩けるとは限らないわ。山は少しずつ変わるもの」


「……はい」


 銀澪は頷いた。


 その言葉を、しっかり覚えておこうと思った。


     ◇


 車を停めたのは、山の斜面に設けられた小さな駐車スペースだった。


 そこから先は、徒歩で進むことになる。


 黒凪は車のトランクから小さな鞄を取り出し、地図と水筒を確認した。


 銀澪も自分の荷物を確かめる。


「……準備はいい?」


「はい」


 黒凪は頷いた。


 二人は点検路へ入った。


 最初の道は、それほど険しくなかった。


 足元には砕石が敷かれ、脇には排水溝が設けられている。


 しかし、少し進むと道幅が狭くなり、周囲の草木が近づいてきた。


 木々の間からは、沢の音が聞こえていた。


「……水が近いですね」


 銀澪が呟く。


「ええ。旧参道は、しばらくこの沢に沿って続いていたの」


 黒凪は地図を確認した。


「この先に、昔の橋があったはずよ」


 銀澪は頷いた。


 周囲には、湿った土の匂いが漂っている。


 雨上がりの山は美しかった。


 苔むした岩。


 木の根を伝う水滴。


 小さな草花。


 その一つひとつが、静かな光を受けていた。


 しかし、銀澪はいつもより慎重に歩いていた。


 足元には濡れた落ち葉が多く、ところどころに滑りやすい石がある。


 黒凪も速度を落とし、安全な場所を確かめながら進んでいた。


 やがて、二人は小さな広場のような場所へ出た。


 その先には、沢が流れている。


 そして。


「……あ」


 銀澪は足を止めた。


 沢の両岸に、古いコンクリートの構造物が残っていた。


 橋台だった。


 かつて橋を支えていた部分だけが、苔と草木に覆われながら残されている。


 その間には、もう橋がなかった。


 下には澄んだ水が流れ、石の間を通って下流へ向かっている。


「……ここが」


 黒凪が静かに口を開いた。


「旧参道橋の跡だと思うわ」


 銀澪は黙っていた。


 写真に写っていた橋は、もう存在しない。


 けれど、川の曲がり方。


 周囲の斜面。


 そして、橋の向こうへ続いていたであろう道の位置。


 どれも、古い写真とよく似ていた。


 銀澪は鞄から写真を取り出した。


 それを、目の前の景色へ重ねるように眺める。


 写真の中では、コンクリート製の橋が沢を渡っていた。


 その向こうには、細い山道が続いている。


 しかし、今は橋がなく、道の先は草木に覆われていた。


「……本当に、ここだったんですね」


 銀澪が小さく呟く。


 黒凪は頷いた。


「ええ。写真の場所であることは、ほぼ間違いなさそうね」


 銀澪はしばらく沢を見つめていた。


 夢の中で見た橋。


 雨の中に立つ人影。


 鈴の音。


 そして、水たまりに映った白龍。


 そのすべてが、頭の中で重なりかける。


「…………」


 銀澪はゆっくりと息を吸った。


 黒凪が隣へ歩み寄る。


「……何か、思い出せそう?」


 銀澪は少し考えた。


 けれど、すぐに首を振った。


「……いえ」


 目の前の景色を見つめながら続ける。


「似ているとは思います。でも、はっきりした記憶は……」


 黒凪は静かに頷いた。


「……そう」


 銀澪は小さく笑った。


「……少し、期待しすぎましたかね」


「そんなことはないわ」


 黒凪は穏やかに答えた。


「来てみなければ分からなかったこともあるでしょう?」


 銀澪が顔を上げる。


「少なくとも、写真の場所がどこなのかは分かった。それだけでも、ちゃんと前へ進んでいるわよ」


 銀澪はしばらく黒凪を見つめていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……そうですね」


 黒凪は微笑んだ。


 二人はしばらく、旧参道橋の跡を眺めていた。


 沢の水は、何事もなかったかのように流れている。


 橋があった頃も。


 橋が失われた後も。


 変わらず、同じ谷を流れ続けてきた水だった。


     ◇


 銀澪は沢の音へ耳を澄ませた。


 地面の下を流れる水。


 岩の間を通る細い流れ。


 そして、少し離れた場所から合流する水脈。


 龍になってから身についた感覚が、自然と働いていた。


 ただし、今日は無理に広げようとはしなかった。


 目の前の沢だけを、静かに感じ取る。


 しばらくして、銀澪は一つのことに気づいた。


「……黒凪さん」


「何?」


「この沢、少し変わった流れ方をしていますね」


 黒凪が顔を向ける。


「……どういうこと?」


「表面の水は普通に下流へ流れているんですけど……」


 銀澪は沢の上流側へ目を向けた。


「地面の下の水が、少し違う方向へ向かっている気がします」


 黒凪はしばらく考えた。


「……どの辺り?」


 銀澪は手を伸ばしかけた。


 しかし、すぐに止める。


 沢の向こう側。


 草木に覆われた古い道の先。


 そちらから、わずかな水の気配が伝わってきていた。


「……あの辺りです」


 銀澪が示すと、黒凪は静かに頷いた。


 彼女もその方向へ意識を向けたらしい。


 しばらくして、眉をわずかに寄せる。


「……確かに、何か流れがあるわね」


「……やっぱり」


「でも、ここからでは詳しく分からないわ」


 黒凪は周囲を見渡した。


 旧参道橋の跡は、今では通行できない場所になっている。


 沢を渡ることも、崩れかけた斜面を登ることも、安全とは言えなかった。


「……今日は、ここまでにしましょう」


 黒凪が言う。


 銀澪は一瞬、沢の向こうへ目を向けた。


 もう少し先へ行けば、何か分かるかもしれない。


 そんな気持ちが浮かんだ。


 けれど、すぐに頷いた。


「……はい」


 黒凪は少しだけ微笑んだ。


「また来る方法を調べればいいわ。安全な道があるかもしれないもの」


「……そうですね」


 銀澪は頷いた。


 それから、もう一度だけ橋の跡を見つめた。


 古いコンクリート。


 苔むした石。


 そして、絶え間なく流れる水。


 かつて、ここには橋があった。


 人々が歩き、荷物を運び、神社へ参拝するために渡っていた。


 しかし、今はその姿を失っている。


 銀澪は小さく息を吐いた。


「……橋がなくなっても、道の記憶は残るんですね」


 黒凪が顔を向けた。


「……道の記憶?」


「はい。地図とか、写真とか……それに、こうして残っている橋台とか」


 銀澪は少しだけ笑った。


「誰かが使っていたことは、まだ分かるので」


 黒凪はしばらく彼を見つめていた。


 それから、静かに微笑む。


「……そうね」


 彼女は沢へ目を向けた。


「道は消えても、そこを歩いた人たちの時間まで消えるわけじゃないものね」


 銀澪は頷いた。


 二人はしばらく、静かな沢を眺めていた。


     ◇


 帰り道。


 黒凪は途中で足を止め、古い石垣の前へ近づいた。


「……あら?」


 銀澪が振り返る。


「どうしました?」


 黒凪は足元の草を見つめていた。


「……これ、昔の道標かもしれないわ」


 銀澪も近づいた。


 石垣の脇に、小さな石柱が半ば埋もれていた。


 表面には苔が生え、文字の多くは読み取れない。


 けれど、黒凪はその形に見覚えがあるらしかった。


「……少し、見てみましょう」


 彼女は持っていた布を取り出し、石柱の表面に付いた落ち葉をそっと払った。


 銀澪は隣でしゃがみ込み、様子を見守る。


 やがて、かすれた文字が現れた。


 縦に刻まれた、古い文字。


 黒凪はゆっくりと読み上げる。


「……右、社道」


 銀澪は顔を上げた。


「……神社へ行く道ですか?」


「ええ。おそらくね」


 黒凪はさらに下へ目を向けた。


 石柱の反対側にも、文字が刻まれていた。


 しかし、そこは苔と土に覆われていて、ほとんど見えない。


「……こっちは、何でしょう?」


 銀澪が尋ねる。


 黒凪は少し考えた。


「……無理に削らない方がいいわね。石そのものを傷めてしまうかもしれないから」


 銀澪は頷いた。


 黒凪は鞄からスマートフォンを取り出し、石柱を数枚撮影した。


 正面。


 側面。


 そして、周囲の石垣との位置関係。


 撮影を終えると、彼女は静かに立ち上がった。


「……これなら、あとで拡大して確かめられるかもしれないわ」


「……なるほど」


 銀澪も立ち上がった。


 それから、ふと古い地図を思い出す。


 旧参道橋の先で、道は二つに分かれていた。


 一方は神社。


 もう一方は、山の奥。


「……黒凪さん」


「何?」


「この石柱、あの分かれ道と関係しているんでしょうか」


 黒凪は少しだけ目を細めた。


「……可能性はあるわね」


 彼女は石柱と、周囲の地形を見比べた。


「ただ、ここは橋より手前でしょう? 昔の参道が途中で付け替えられた可能性もあるから、今の段階では何とも言えないわ」


 銀澪は頷いた。


「……そうですね」


 黒凪は少しだけ微笑んだ。


「でも、いいものを見つけたわ」


「……はい」


 銀澪も小さく笑った。


 橋そのものは失われていた。


 けれど、道標は残っていた。


 古い地図には描かれていない細かな情報が、まだ山の中に眠っているのかもしれない。


 銀澪はそのことを、少し嬉しく思った。


     ◇


 屋敷へ戻った頃には、夕方の光が庭を照らしていた。


 黒凪は玄関で靴を脱ぎ、持っていた鞄を居間へ運んだ。


 銀澪も後へ続く。


「……お疲れさまでした」


 銀澪が言うと、黒凪は振り返った。


「ええ。あなたもね」


 それから、少しだけ笑う。


「今日は随分歩いたでしょう?」


「はい。でも、楽しかったです」


「そう?」


「ええ。昔の道を実際に歩くのって、面白いですね」


 黒凪は小さく頷いた。


「そうね。私も久しぶりに歩いた場所だったわ」


 銀澪は居間へ入り、鞄を置いた。


 それから、少しだけ考える。


「……黒凪さん」


「何?」


「今日、夢の橋に似た場所へ行けたのは嬉しかったです」


 黒凪が顔を向ける。


 銀澪は続けた。


「でも、思ったほど何も思い出せなくて……少し残念でした」


 黒凪は静かに頷いた。


「……そうね」


「ただ、行ってみてよかったとは思っています」


 銀澪は少し笑った。


「少なくとも、写真の場所は分かりましたから」


 黒凪は穏やかに微笑んだ。


「ええ。十分な収穫だと思うわ」


 彼女は鞄から古い写真を取り出し、机の上へ置いた。


「それに、道標も見つかったものね」


「……はい」


 銀澪は頷いた。


 そして、今日歩いた道を思い返した。


 苔むした石垣。


 沢沿いの細い道。


 橋の跡。


 そして、草木に埋もれた道標。


 そこには、確かに昔の人々が暮らしていた痕跡が残っていた。


 銀澪は少しだけ微笑んだ。


「……また行ってみたいですね」


 黒凪は頷いた。


「ええ。今度は、もう少し資料を集めてからにしましょう」


 銀澪は笑った。


「……そうですね」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。


     ◇


 夕食は、黒凪が作った温かい煮込みうどんだった。


 山を歩いて少し疲れた身体には、ちょうどいい料理だった。


 鍋の中には鶏肉ときのこ、長ねぎが入っており、湯気と一緒に出汁の香りが立ち上っている。


 銀澪はうどんを一口食べ、ほっと息を吐いた。


「……美味しいですね」


「ふふっ。今日は少し冷えたでしょう?」


「はい。山の中は、思っていたより涼しかったです」


「雨上がりだったものね」


 黒凪は小さく頷いた。


 しばらく、二人は静かに食事を続けた。


 やがて銀澪が、ふと口を開いた。


「……黒凪さん」


「何?」


「今日、昔の参道を歩いていて思ったんですけど」


 黒凪が顔を上げる。


「……何かしら?」


「黒凪さんは、昔の山のことをたくさん知っていますよね」


「そうね。ある程度は」


「でも、今日みたいに分からない場所もある」


 黒凪は静かに頷いた。


「ええ」


 銀澪は少しだけ笑った。


「……何だか、面白いですね」


「面白い?」


「はい。長く生きていても、知らないことがあるんだなって」


 黒凪は一瞬、目を丸くした。


 それから、小さく笑った。


「……そうね」


 彼女は箸を置いた。


「私たち龍も、何でも知っているわけではないもの。長く生きているだけで、世界のすべてが分かるわけじゃないわ」


 銀澪は頷いた。


「……でも、だからこそ、調べるのが楽しいのかもしれませんね」


 黒凪は少し考えた。


 そして、ゆっくりと微笑む。


「……ええ。そうかもしれないわね」


 その声は、とても穏やかだった。


 二人は再び食事を続けた。


 窓の外では、夜の山が静かに広がっていた。


     ◇


 その夜。


 銀澪は客間で、今日の出来事をノートへ書き留めていた。


 旧参道橋の跡。


 使われなくなった山道。


 そして、石垣の脇に残っていた道標。


 銀澪はできるだけ具体的に、見たものを記録した。


 橋はすでに失われていたこと。


 周囲の地形が、古い写真と似ていたこと。


 夢の中の景色を思い出すような感覚は、特になかったこと。


 そして、道標には『右、社道』と刻まれていたこと。


 銀澪はペンを止めた。


「……今日は、ここまでかな」


 小さく呟く。


 夢の中の橋。


 その場所を見つけたと思った。


 けれど、現地へ行っても新しい記憶が戻ることはなかった。


 それは、少し残念だった。


 しかし、銀澪は不思議と落ち込んでいなかった。


 何も思い出せなかったことも、一つの結果だった。


 それに、橋が残っていないことも分かった。


 これから先、夢の内容を考えるときには、その事実を無視できない。


 銀澪はノートを閉じ、障子を少し開けた。


 庭には月明かりが差し込んでいる。


 池の水面には、淡い光が映っていた。


 その向こうでは、小さな滝が絶え間なく流れている。


「……次は、何が分かるかな」


 銀澪は静かに呟いた。


 そして、少しだけ笑った。


 答えは、まだ遠い。


 けれど、今日も一歩進んだ。


 それだけで、今は十分だった。


     ◇


 一方、黒凪は書庫で、今日撮影した道標の写真を確認していた。


 机の上には古い地図が広げられている。


 その隣には、祖母が残した木札と『水脈古録』が置かれていた。


 黒凪は端末の画面を拡大し、道標の文字を確かめる。


 正面には『右、社道』。


 そして、側面には、かすれた文字。


 黒凪は目を細めた。


「……これは」


 何かが読めそうだった。


 ただ、苔と土に覆われた部分が多く、すべてを判読することは難しい。


 それでも、残された文字の形には、見覚えがあった。


 黒凪は机の上に置かれた古い地図へ目を向けた。


 旧参道橋。


 神社へ向かう道。


 そして、山の奥へ続いていたもう一つの道。


 その先には、小さな文字が記されていた。


 長い年月の間にかすれ、ほとんど読めなくなっていたものだった。


 黒凪は拡大鏡を取り出し、慎重に確かめた。


 そして、息を止めた。


「……鏡、淵」


 かすかに残された二文字。


 それは、以前『水脈古録』で見つけた地名と同じだった。


 ――鏡淵。


 黒凪はしばらく、文字を見つめていた。


 その名前が、古い参道の先に記されている。


 つまり、旧参道橋の近くにあった分かれ道は、神社だけではなく、鏡淵へ向かう道でもあった可能性がある。


「……そういうことだったのね」


 黒凪は小さく呟いた。


 ただし、すぐに首を振る。


 まだ確かなことは分からない。


 地図の文字が本当に鏡淵を指しているのか。


 そして、今もその道をたどることができるのか。


 どちらも、まだ調べる必要があった。


 黒凪は机の引き出しを開け、祖母が残した木札を取り出した。


 双龍の紋様。


 月のような形。


 そして、裏側に刻まれた言葉。


『水鏡は、姿のみを映さず』


 黒凪は木札を見つめた。


 鏡淵。


 水鏡。


 そして、銀澪が夢の中で見たという、水たまりに映る白龍。


 似た言葉と景色が、少しずつ集まり始めている。


 けれど、黒凪はそれらをすぐに結びつけようとはしなかった。


 今日、銀澪と一緒に旧参道を歩いた。


 夢の橋に似た場所を見つけた。


 しかし、銀澪は何も思い出さなかった。


 それも、忘れてはいけない事実だった。


「……焦らないこと、ね」


 黒凪は静かに呟いた。


 それから、机の上のノートを開く。


 今日分かったことを、順番に書き留めていった。


 旧参道橋の位置。


 現在の通行状況。


 道標の存在。


 そして、鏡淵へ続いていた可能性のある古い道。


 最後に、短い一文を書き加えた。


『明日、銀澪と一緒に確認する。』


 黒凪はその文字を見つめた。


 以前なら、もう少し一人で調べていたかもしれない。


 不確かなことを伝えれば、銀澪が期待してしまうと考えて。


 けれど、今は違う。


 彼は、自分に関わることは一緒に考えたいと言っていた。


 黒凪も、それを約束した。


「……明日、話しましょう」


 静かに呟く。


 黒凪は木札を布へ包み、引き出しへ戻した。


 そして、書庫の灯りを消す。


 廊下には、月明かりが差し込んでいた。


 庭の池からは、いつもどおり水の音が聞こえている。


 その向こうでは、山の木々が夜風に揺れていた。


 長い年月を経て失われた参道。


 その道は、かつて人々を神社へ導いていた。


 そして、もう一つ。


 今では地図から消えてしまった場所へも、続いていたのかもしれない。


 その場所の名は、鏡淵。


 黒凪の祖母が残した記録に、何度も現れる名前だった。


 けれど、その場所に何があるのか。


 なぜ古い龍たちが記録を残していたのか。


 そして、銀澪の転生と関係があるのか。


 答えは、まだ分からない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 銀澪と黒凪は今日、失われた道の痕跡を見つけた。


 そして、その道の先には、まだ知らない歴史が眠っている。


 山の水は、今夜も静かに流れていた。


 まるで、誰かが再びその道を訪れる日を、長い間待っていたかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。