第十五話 失われた参道
古い写真には、時間が残る。
写された人の服装も、道端に立つ電柱も、今では失われた建物も。撮影した者が何を残そうとしたのかに関係なく、その一瞬に存在していたものが、紙の上に留められる。
けれど、写真に写っていないものを知ることは難しい。
その場所にどんな音が響いていたのか。
どんな風が吹いていたのか。
そして、そこに立つ人間が何を考えていたのか。
そうしたものまでは、写真だけでは分からない。
銀澪は居間の食卓に置かれた一枚の写真を見つめながら、そんなことを考えていた。
写っているのは、山間の小さな橋だった。
古いコンクリート製の欄干。下を流れる細い川。そして、橋の向こう側で緩やかに曲がる道。
写真の裏側には、かすれた文字で名前が記されている。
――旧参道橋。
昨日、黒凪の書庫で見つけたものだった。
「……やっぱり、似ているんだよな」
銀澪は呟き、隣へ置いたノートを開いた。
そこには、夢で見た橋の絵が描かれていた。
古い欄干。
川の位置。
橋を渡った先にある曲がり道。
完全に同じとは言えない。夢の方には鳥居が見えていたが、写真には写っていなかった。
それでも、二つの景色には妙な共通点があった。
しかも、この絵を描いたのは写真を見る前だ。
後から見たものに合わせて記憶を書き換えたわけではない。
そのことが、銀澪には気になっていた。
「……銀澪?」
背後から声がした。
振り返ると、黒凪が台所から顔を出していた。
薄い藍色の上着に、黒いゆったりとしたパンツ。いつもの短いウルフカットの髪は、朝の光を受けて毛先がわずかに銀色に見える。
「おはようございます、黒凪さん」
「ええ、おはよう。随分早いのね」
「昨日の写真が気になってしまって」
銀澪が答えると、黒凪は食卓へ目を向けた。
「ああ、旧参道橋ね」
彼女は銀澪の向かい側へ腰を下ろし、写真と絵を見比べた。
「……確かに、似ているところはあるわ」
「ですよね」
「ええ。でも、これだけで同じ場所だとは決められないわね」
黒凪は写真の欄干を指差した。
「こういう橋は、昔の山道ではよく使われていたの。似た構造のものなら、ほかにもあると思うわ」
銀澪は頷いた。
「……それでも、調べてみたいです」
「もちろん。そのために昨日、写真を出してきたんだもの」
黒凪は微笑んだ。
それから、写真の裏側にある文字へ目を向ける。
「まずは、この橋がどこにあったのかを確かめましょう」
銀澪は顔を上げた。
「場所、分かりそうですか?」
「ある程度なら。古い地図を見れば、今の道路との位置関係も分かるはずよ」
黒凪は立ち上がった。
「朝食の後で、書庫に行きましょうか」
「はい」
銀澪は頷いた。
そのとき、台所から湯気が上がる音が聞こえてきた。
黒凪が顔を向ける。
「あら、いけない。お味噌汁を温めていたんだったわ」
慌てた様子ではなかったが、彼女はすぐに台所へ戻っていった。
銀澪は少し笑い、写真を封筒へ戻した。
昔の橋が、どこかに残っているかもしれない。
そう考えると、胸の奥に小さな期待が生まれていた。
けれど、同時に少し怖くもあった。
もし本当に夢の場所だったら。
そこには、自分の知らない何かが残されているのだろうか。
銀澪はその考えをいったん脇へ置き、食器棚へ向かった。
今は、朝食の準備を手伝おう。
調べ物は、その後でもできる。
◇
書庫の机には、三枚の地図が並べられていた。
一枚は、現在の道路と山道を記した比較的新しい地図。
二枚目は、数十年前に作られた地域の地形図。
そして三枚目は、黒凪の祖母が残した古い参道の見取り図だった。
銀澪はそれらを交互に眺めていた。
「……随分、道が変わっていますね」
「そうでしょう?」
黒凪は一番新しい地図を指差した。
「今は、この道路から神社へ向かうのが一般的なの。車も途中までは入れるわ」
指先が山の中を走る一本の線をたどる。
銀澪も、その道には見覚えがあった。
黒凪と初めて出会った日、自分が歩いていた山道につながる道だった。
「……じゃあ、昔は違ったんですか?」
「ええ」
黒凪は古い地図へ指を移した。
「以前は、山の反対側から沢沿いに登る参道があったのよ。集落の人たちは、こちらを使うことも多かったみたい」
銀澪は身を乗り出した。
古い地図には、細い線で山道が描かれていた。
川を渡り、斜面を登り、尾根の手前で神社へ向かう。
その途中に、小さな橋の記号があった。
「……ここですか?」
「おそらくね」
黒凪は頷いた。
「写真の裏に旧参道橋と書かれていたでしょう? 古い道筋と合わせれば、この場所の可能性が高いわ」
銀澪は現在の地図を見た。
同じ位置を探す。
しかし、そこには橋の記号がなかった。
「……あれ?」
思わず声が漏れる。
「今の地図には、ありませんね」
「そうなの」
黒凪は静かに答えた。
「この辺りの道は、かなり前に使われなくなっているのよ」
銀澪は彼女を見た。
「……どうしてですか?」
「山の斜面が崩れやすくなったからよ。昔は人が歩く程度なら問題なかった場所も、雨が続くと危険になってね」
黒凪は古い地図を指差した。
「その後、新しい道路が整備されたこともあって、参道として使う人が減っていったの」
「……なるほど」
銀澪は頷いた。
黒凪は地図の端にある小さな文字を読もうとした。
「……ただ、私の記憶だけでは、いつ完全に使われなくなったのか曖昧なの。少し確かめてみましょう」
彼女は書棚から別の薄い冊子を取り出した。
昔の山道の管理記録だった。
ページをめくっていくと、橋の名前が見つかった。
「……あったわ」
銀澪が顔を上げる。
黒凪は記録を指差した。
そこには、旧参道橋周辺で起きた斜面崩落についての記述があった。
大雨によって参道の一部が損傷したこと。
復旧には費用がかかるため、通行を制限したこと。
そして、その後、新しい道路を利用する方針が決められたこと。
「……橋そのものは?」
銀澪が尋ねる。
黒凪は続きを読んだ。
「少なくとも、この記録が書かれた時点では残っていたみたい。ただ、その後の状態までは書いていないわね」
銀澪は少し考えた。
「……今もある可能性は、ありますか?」
「ええ。ただし、渡れる状態かどうかは別の話よ」
黒凪は真面目な表情になった。
「使われなくなった橋は、見た目が綺麗でも危険なことがあるわ。地面の下が崩れていたり、欄干が弱っていたりすることもあるから」
「……分かりました」
銀澪は頷いた。
「無理に渡ろうとは思いません。まずは場所を確かめたいだけなので」
「それなら、いいわ」
黒凪は少し微笑んだ。
それから、古い地図へ目を戻す。
「……一つ、気になることもあるのよ」
「何でしょう?」
「この参道の途中、ここを見て」
黒凪の指が、橋の少し先で止まった。
道はそこで、二つに分かれていた。
一方は神社へ向かっている。
もう一方は、山の奥へ続いていた。
「……分かれ道?」
「ええ。でも、今の地図には片方しか残っていないの」
銀澪は三枚の地図を見比べた。
確かに、古い地図では参道が二つに分かれている。
しかし、新しい地図では、そのうち神社へ向かう道しか描かれていなかった。
「……もう一つの道は、どこへ続いているんでしょう」
黒凪はしばらく考えた。
そして、静かに答える。
「……それを、私も知りたいの」
銀澪は顔を上げた。
黒凪は古い地図を見つめていた。
「この道、子どもの頃に祖母から聞いたことがあるような気がするの。でも、どこへ続いていたのかまでは……」
そこで言葉が止まった。
黒凪は小さく首を振る。
「……駄目ね。はっきり思い出せないわ」
銀澪は静かに頷いた。
長く生きる黒凪にも、忘れてしまったことがある。
あるいは、幼い頃には意味が分からなかった話が、今になって気になり始めているのかもしれない。
「……現地で、少し分かるかもしれませんね」
銀澪が言うと、黒凪は頷いた。
「ええ。ただし、安全に行ける場所までよ」
「はい」
銀澪は微笑んだ。
黒凪も、小さく笑った。
◇
すぐに山へ向かうことはしなかった。
黒凪はまず、古い参道の周辺が現在どのように管理されているのかを確かめた。
土地の境界。
現存する点検路。
そして、立ち入りが制限されている区域。
古い資料だけでは判断できない部分もあったため、地域の山林管理に関わる窓口へ連絡し、現地の状況を尋ねた。
銀澪はその間、机の上の地図を見比べていた。
夢で見た橋。
写真に残された橋。
そして、今では消えてしまった参道。
少しずつ、頭の中に道筋が浮かび上がってくる。
しばらくして、黒凪が電話を終えた。
「……確認できたわ」
銀澪が顔を上げる。
「どうでしたか?」
「旧参道の入口付近までは、今も点検路として使われているそうよ。ただし、橋の周辺は足場が悪く、通行には注意が必要とのことだったわ」
「……橋は残っているんですか?」
「橋台の一部は残っているらしいわ。でも、橋そのものはずっと前に失われているそうよ」
銀澪は瞬きをした。
「……失われている?」
「ええ。少なくとも、今は渡れる橋はないみたい」
黒凪は少しだけ眉を寄せた。
「何年も前に撤去された部分もあるそうだから、古い写真と同じ景色を見ることは難しいでしょうね」
銀澪は地図へ目を落とした。
胸の奥に、小さな落胆が広がった。
夢の中で見た橋。
そこへ行けば、何かを思い出せるかもしれないと思っていた。
しかし、現実にはその橋は残っていないらしい。
「……そうですか」
銀澪が呟くと、黒凪は少しだけ表情を和らげた。
「でも、場所そのものは確かめられるわ」
銀澪が顔を上げる。
「橋がなくなっていても、川の流れや周囲の地形は残っているでしょう? 古い写真と見比べることはできると思う」
「……はい」
「それに、あなたが夢で見た橋と同じ場所だと決まったわけでもないもの」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
黒凪は古い地図を折り畳み、鞄へ入れた。
「天気は回復しているけれど、雨の後だから足元には気をつけましょう。危険そうなら、途中で引き返すわよ」
「分かりました」
二人は山へ向かう準備を始めた。
◇
昼過ぎ。
黒凪の車は、山の麓を走る細い道路へ入っていた。
周囲には田畑が広がり、その向こうには濃い緑の山々が連なっている。
道路沿いには古い民家が点在し、庭先では洗濯物が風に揺れていた。
銀澪は助手席から景色を眺めていた。
今日の服装は、歩きやすさを優先したものだった。
濃い灰色の長袖シャツに、丈夫な生地のパンツ。
足元には滑りにくい靴を履いている。
黒凪も同じように動きやすい服装で、薄手の上着を羽織っていた。
当然ながら、二人とも角と尻尾は隠している。
現地で誰かに出会う可能性があるからだ。
「……黒凪さん」
「何?」
「昔は、この辺りにも集落があったんですよね?」
「ええ。今より家が多かった時期もあったわ」
黒凪は前方を見つめながら答えた。
「山の仕事をしている人たちが暮らしていてね。炭を焼いたり、木を切り出したり。畑を作っていた家もあったわ」
「……そうなんですね」
「でも、時代が変わるにつれて、麓や街へ移る人が増えていったの」
銀澪は窓の外へ目を向けた。
山の斜面には、今も古い石垣が残っている。
その上には草木が生い茂り、かつて何かが建っていたような場所もあった。
「……人がいなくなると、道も消えていくんですね」
銀澪が呟く。
黒凪は静かに頷いた。
「そうね。道というのは、人が通り続けることで残るものだから」
彼女は少しだけ笑った。
「何十年も使われなければ、草木に覆われてしまうわ」
銀澪は頷いた。
昔は、多くの人が歩いていた道。
今は、地図からも消えかけている。
その変化を考えると、少し不思議な気持ちになった。
「……黒凪さんは、昔の道を覚えているんですか?」
「全部ではないわ。でも、よく通った場所なら今でも分かるわよ」
「……すごいですね」
「ふふっ。長く生きていると、そういうこともあるの」
黒凪は微笑んだ。
しかし、すぐに少しだけ真面目な表情になる。
「……ただ、昔を知っているからといって、今も同じように歩けるとは限らないわ。山は少しずつ変わるもの」
「……はい」
銀澪は頷いた。
その言葉を、しっかり覚えておこうと思った。
◇
車を停めたのは、山の斜面に設けられた小さな駐車スペースだった。
そこから先は、徒歩で進むことになる。
黒凪は車のトランクから小さな鞄を取り出し、地図と水筒を確認した。
銀澪も自分の荷物を確かめる。
「……準備はいい?」
「はい」
黒凪は頷いた。
二人は点検路へ入った。
最初の道は、それほど険しくなかった。
足元には砕石が敷かれ、脇には排水溝が設けられている。
しかし、少し進むと道幅が狭くなり、周囲の草木が近づいてきた。
木々の間からは、沢の音が聞こえていた。
「……水が近いですね」
銀澪が呟く。
「ええ。旧参道は、しばらくこの沢に沿って続いていたの」
黒凪は地図を確認した。
「この先に、昔の橋があったはずよ」
銀澪は頷いた。
周囲には、湿った土の匂いが漂っている。
雨上がりの山は美しかった。
苔むした岩。
木の根を伝う水滴。
小さな草花。
その一つひとつが、静かな光を受けていた。
しかし、銀澪はいつもより慎重に歩いていた。
足元には濡れた落ち葉が多く、ところどころに滑りやすい石がある。
黒凪も速度を落とし、安全な場所を確かめながら進んでいた。
やがて、二人は小さな広場のような場所へ出た。
その先には、沢が流れている。
そして。
「……あ」
銀澪は足を止めた。
沢の両岸に、古いコンクリートの構造物が残っていた。
橋台だった。
かつて橋を支えていた部分だけが、苔と草木に覆われながら残されている。
その間には、もう橋がなかった。
下には澄んだ水が流れ、石の間を通って下流へ向かっている。
「……ここが」
黒凪が静かに口を開いた。
「旧参道橋の跡だと思うわ」
銀澪は黙っていた。
写真に写っていた橋は、もう存在しない。
けれど、川の曲がり方。
周囲の斜面。
そして、橋の向こうへ続いていたであろう道の位置。
どれも、古い写真とよく似ていた。
銀澪は鞄から写真を取り出した。
それを、目の前の景色へ重ねるように眺める。
写真の中では、コンクリート製の橋が沢を渡っていた。
その向こうには、細い山道が続いている。
しかし、今は橋がなく、道の先は草木に覆われていた。
「……本当に、ここだったんですね」
銀澪が小さく呟く。
黒凪は頷いた。
「ええ。写真の場所であることは、ほぼ間違いなさそうね」
銀澪はしばらく沢を見つめていた。
夢の中で見た橋。
雨の中に立つ人影。
鈴の音。
そして、水たまりに映った白龍。
そのすべてが、頭の中で重なりかける。
「…………」
銀澪はゆっくりと息を吸った。
黒凪が隣へ歩み寄る。
「……何か、思い出せそう?」
銀澪は少し考えた。
けれど、すぐに首を振った。
「……いえ」
目の前の景色を見つめながら続ける。
「似ているとは思います。でも、はっきりした記憶は……」
黒凪は静かに頷いた。
「……そう」
銀澪は小さく笑った。
「……少し、期待しすぎましたかね」
「そんなことはないわ」
黒凪は穏やかに答えた。
「来てみなければ分からなかったこともあるでしょう?」
銀澪が顔を上げる。
「少なくとも、写真の場所がどこなのかは分かった。それだけでも、ちゃんと前へ進んでいるわよ」
銀澪はしばらく黒凪を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
黒凪は微笑んだ。
二人はしばらく、旧参道橋の跡を眺めていた。
沢の水は、何事もなかったかのように流れている。
橋があった頃も。
橋が失われた後も。
変わらず、同じ谷を流れ続けてきた水だった。
◇
銀澪は沢の音へ耳を澄ませた。
地面の下を流れる水。
岩の間を通る細い流れ。
そして、少し離れた場所から合流する水脈。
龍になってから身についた感覚が、自然と働いていた。
ただし、今日は無理に広げようとはしなかった。
目の前の沢だけを、静かに感じ取る。
しばらくして、銀澪は一つのことに気づいた。
「……黒凪さん」
「何?」
「この沢、少し変わった流れ方をしていますね」
黒凪が顔を向ける。
「……どういうこと?」
「表面の水は普通に下流へ流れているんですけど……」
銀澪は沢の上流側へ目を向けた。
「地面の下の水が、少し違う方向へ向かっている気がします」
黒凪はしばらく考えた。
「……どの辺り?」
銀澪は手を伸ばしかけた。
しかし、すぐに止める。
沢の向こう側。
草木に覆われた古い道の先。
そちらから、わずかな水の気配が伝わってきていた。
「……あの辺りです」
銀澪が示すと、黒凪は静かに頷いた。
彼女もその方向へ意識を向けたらしい。
しばらくして、眉をわずかに寄せる。
「……確かに、何か流れがあるわね」
「……やっぱり」
「でも、ここからでは詳しく分からないわ」
黒凪は周囲を見渡した。
旧参道橋の跡は、今では通行できない場所になっている。
沢を渡ることも、崩れかけた斜面を登ることも、安全とは言えなかった。
「……今日は、ここまでにしましょう」
黒凪が言う。
銀澪は一瞬、沢の向こうへ目を向けた。
もう少し先へ行けば、何か分かるかもしれない。
そんな気持ちが浮かんだ。
けれど、すぐに頷いた。
「……はい」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「また来る方法を調べればいいわ。安全な道があるかもしれないもの」
「……そうですね」
銀澪は頷いた。
それから、もう一度だけ橋の跡を見つめた。
古いコンクリート。
苔むした石。
そして、絶え間なく流れる水。
かつて、ここには橋があった。
人々が歩き、荷物を運び、神社へ参拝するために渡っていた。
しかし、今はその姿を失っている。
銀澪は小さく息を吐いた。
「……橋がなくなっても、道の記憶は残るんですね」
黒凪が顔を向けた。
「……道の記憶?」
「はい。地図とか、写真とか……それに、こうして残っている橋台とか」
銀澪は少しだけ笑った。
「誰かが使っていたことは、まだ分かるので」
黒凪はしばらく彼を見つめていた。
それから、静かに微笑む。
「……そうね」
彼女は沢へ目を向けた。
「道は消えても、そこを歩いた人たちの時間まで消えるわけじゃないものね」
銀澪は頷いた。
二人はしばらく、静かな沢を眺めていた。
◇
帰り道。
黒凪は途中で足を止め、古い石垣の前へ近づいた。
「……あら?」
銀澪が振り返る。
「どうしました?」
黒凪は足元の草を見つめていた。
「……これ、昔の道標かもしれないわ」
銀澪も近づいた。
石垣の脇に、小さな石柱が半ば埋もれていた。
表面には苔が生え、文字の多くは読み取れない。
けれど、黒凪はその形に見覚えがあるらしかった。
「……少し、見てみましょう」
彼女は持っていた布を取り出し、石柱の表面に付いた落ち葉をそっと払った。
銀澪は隣でしゃがみ込み、様子を見守る。
やがて、かすれた文字が現れた。
縦に刻まれた、古い文字。
黒凪はゆっくりと読み上げる。
「……右、社道」
銀澪は顔を上げた。
「……神社へ行く道ですか?」
「ええ。おそらくね」
黒凪はさらに下へ目を向けた。
石柱の反対側にも、文字が刻まれていた。
しかし、そこは苔と土に覆われていて、ほとんど見えない。
「……こっちは、何でしょう?」
銀澪が尋ねる。
黒凪は少し考えた。
「……無理に削らない方がいいわね。石そのものを傷めてしまうかもしれないから」
銀澪は頷いた。
黒凪は鞄からスマートフォンを取り出し、石柱を数枚撮影した。
正面。
側面。
そして、周囲の石垣との位置関係。
撮影を終えると、彼女は静かに立ち上がった。
「……これなら、あとで拡大して確かめられるかもしれないわ」
「……なるほど」
銀澪も立ち上がった。
それから、ふと古い地図を思い出す。
旧参道橋の先で、道は二つに分かれていた。
一方は神社。
もう一方は、山の奥。
「……黒凪さん」
「何?」
「この石柱、あの分かれ道と関係しているんでしょうか」
黒凪は少しだけ目を細めた。
「……可能性はあるわね」
彼女は石柱と、周囲の地形を見比べた。
「ただ、ここは橋より手前でしょう? 昔の参道が途中で付け替えられた可能性もあるから、今の段階では何とも言えないわ」
銀澪は頷いた。
「……そうですね」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「でも、いいものを見つけたわ」
「……はい」
銀澪も小さく笑った。
橋そのものは失われていた。
けれど、道標は残っていた。
古い地図には描かれていない細かな情報が、まだ山の中に眠っているのかもしれない。
銀澪はそのことを、少し嬉しく思った。
◇
屋敷へ戻った頃には、夕方の光が庭を照らしていた。
黒凪は玄関で靴を脱ぎ、持っていた鞄を居間へ運んだ。
銀澪も後へ続く。
「……お疲れさまでした」
銀澪が言うと、黒凪は振り返った。
「ええ。あなたもね」
それから、少しだけ笑う。
「今日は随分歩いたでしょう?」
「はい。でも、楽しかったです」
「そう?」
「ええ。昔の道を実際に歩くのって、面白いですね」
黒凪は小さく頷いた。
「そうね。私も久しぶりに歩いた場所だったわ」
銀澪は居間へ入り、鞄を置いた。
それから、少しだけ考える。
「……黒凪さん」
「何?」
「今日、夢の橋に似た場所へ行けたのは嬉しかったです」
黒凪が顔を向ける。
銀澪は続けた。
「でも、思ったほど何も思い出せなくて……少し残念でした」
黒凪は静かに頷いた。
「……そうね」
「ただ、行ってみてよかったとは思っています」
銀澪は少し笑った。
「少なくとも、写真の場所は分かりましたから」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「ええ。十分な収穫だと思うわ」
彼女は鞄から古い写真を取り出し、机の上へ置いた。
「それに、道標も見つかったものね」
「……はい」
銀澪は頷いた。
そして、今日歩いた道を思い返した。
苔むした石垣。
沢沿いの細い道。
橋の跡。
そして、草木に埋もれた道標。
そこには、確かに昔の人々が暮らしていた痕跡が残っていた。
銀澪は少しだけ微笑んだ。
「……また行ってみたいですね」
黒凪は頷いた。
「ええ。今度は、もう少し資料を集めてからにしましょう」
銀澪は笑った。
「……そうですね」
二人は顔を見合わせ、穏やかに微笑んだ。
◇
夕食は、黒凪が作った温かい煮込みうどんだった。
山を歩いて少し疲れた身体には、ちょうどいい料理だった。
鍋の中には鶏肉ときのこ、長ねぎが入っており、湯気と一緒に出汁の香りが立ち上っている。
銀澪はうどんを一口食べ、ほっと息を吐いた。
「……美味しいですね」
「ふふっ。今日は少し冷えたでしょう?」
「はい。山の中は、思っていたより涼しかったです」
「雨上がりだったものね」
黒凪は小さく頷いた。
しばらく、二人は静かに食事を続けた。
やがて銀澪が、ふと口を開いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「今日、昔の参道を歩いていて思ったんですけど」
黒凪が顔を上げる。
「……何かしら?」
「黒凪さんは、昔の山のことをたくさん知っていますよね」
「そうね。ある程度は」
「でも、今日みたいに分からない場所もある」
黒凪は静かに頷いた。
「ええ」
銀澪は少しだけ笑った。
「……何だか、面白いですね」
「面白い?」
「はい。長く生きていても、知らないことがあるんだなって」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「……そうね」
彼女は箸を置いた。
「私たち龍も、何でも知っているわけではないもの。長く生きているだけで、世界のすべてが分かるわけじゃないわ」
銀澪は頷いた。
「……でも、だからこそ、調べるのが楽しいのかもしれませんね」
黒凪は少し考えた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……ええ。そうかもしれないわね」
その声は、とても穏やかだった。
二人は再び食事を続けた。
窓の外では、夜の山が静かに広がっていた。
◇
その夜。
銀澪は客間で、今日の出来事をノートへ書き留めていた。
旧参道橋の跡。
使われなくなった山道。
そして、石垣の脇に残っていた道標。
銀澪はできるだけ具体的に、見たものを記録した。
橋はすでに失われていたこと。
周囲の地形が、古い写真と似ていたこと。
夢の中の景色を思い出すような感覚は、特になかったこと。
そして、道標には『右、社道』と刻まれていたこと。
銀澪はペンを止めた。
「……今日は、ここまでかな」
小さく呟く。
夢の中の橋。
その場所を見つけたと思った。
けれど、現地へ行っても新しい記憶が戻ることはなかった。
それは、少し残念だった。
しかし、銀澪は不思議と落ち込んでいなかった。
何も思い出せなかったことも、一つの結果だった。
それに、橋が残っていないことも分かった。
これから先、夢の内容を考えるときには、その事実を無視できない。
銀澪はノートを閉じ、障子を少し開けた。
庭には月明かりが差し込んでいる。
池の水面には、淡い光が映っていた。
その向こうでは、小さな滝が絶え間なく流れている。
「……次は、何が分かるかな」
銀澪は静かに呟いた。
そして、少しだけ笑った。
答えは、まだ遠い。
けれど、今日も一歩進んだ。
それだけで、今は十分だった。
◇
一方、黒凪は書庫で、今日撮影した道標の写真を確認していた。
机の上には古い地図が広げられている。
その隣には、祖母が残した木札と『水脈古録』が置かれていた。
黒凪は端末の画面を拡大し、道標の文字を確かめる。
正面には『右、社道』。
そして、側面には、かすれた文字。
黒凪は目を細めた。
「……これは」
何かが読めそうだった。
ただ、苔と土に覆われた部分が多く、すべてを判読することは難しい。
それでも、残された文字の形には、見覚えがあった。
黒凪は机の上に置かれた古い地図へ目を向けた。
旧参道橋。
神社へ向かう道。
そして、山の奥へ続いていたもう一つの道。
その先には、小さな文字が記されていた。
長い年月の間にかすれ、ほとんど読めなくなっていたものだった。
黒凪は拡大鏡を取り出し、慎重に確かめた。
そして、息を止めた。
「……鏡、淵」
かすかに残された二文字。
それは、以前『水脈古録』で見つけた地名と同じだった。
――鏡淵。
黒凪はしばらく、文字を見つめていた。
その名前が、古い参道の先に記されている。
つまり、旧参道橋の近くにあった分かれ道は、神社だけではなく、鏡淵へ向かう道でもあった可能性がある。
「……そういうことだったのね」
黒凪は小さく呟いた。
ただし、すぐに首を振る。
まだ確かなことは分からない。
地図の文字が本当に鏡淵を指しているのか。
そして、今もその道をたどることができるのか。
どちらも、まだ調べる必要があった。
黒凪は机の引き出しを開け、祖母が残した木札を取り出した。
双龍の紋様。
月のような形。
そして、裏側に刻まれた言葉。
『水鏡は、姿のみを映さず』
黒凪は木札を見つめた。
鏡淵。
水鏡。
そして、銀澪が夢の中で見たという、水たまりに映る白龍。
似た言葉と景色が、少しずつ集まり始めている。
けれど、黒凪はそれらをすぐに結びつけようとはしなかった。
今日、銀澪と一緒に旧参道を歩いた。
夢の橋に似た場所を見つけた。
しかし、銀澪は何も思い出さなかった。
それも、忘れてはいけない事実だった。
「……焦らないこと、ね」
黒凪は静かに呟いた。
それから、机の上のノートを開く。
今日分かったことを、順番に書き留めていった。
旧参道橋の位置。
現在の通行状況。
道標の存在。
そして、鏡淵へ続いていた可能性のある古い道。
最後に、短い一文を書き加えた。
『明日、銀澪と一緒に確認する。』
黒凪はその文字を見つめた。
以前なら、もう少し一人で調べていたかもしれない。
不確かなことを伝えれば、銀澪が期待してしまうと考えて。
けれど、今は違う。
彼は、自分に関わることは一緒に考えたいと言っていた。
黒凪も、それを約束した。
「……明日、話しましょう」
静かに呟く。
黒凪は木札を布へ包み、引き出しへ戻した。
そして、書庫の灯りを消す。
廊下には、月明かりが差し込んでいた。
庭の池からは、いつもどおり水の音が聞こえている。
その向こうでは、山の木々が夜風に揺れていた。
長い年月を経て失われた参道。
その道は、かつて人々を神社へ導いていた。
そして、もう一つ。
今では地図から消えてしまった場所へも、続いていたのかもしれない。
その場所の名は、鏡淵。
黒凪の祖母が残した記録に、何度も現れる名前だった。
けれど、その場所に何があるのか。
なぜ古い龍たちが記録を残していたのか。
そして、銀澪の転生と関係があるのか。
答えは、まだ分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
銀澪と黒凪は今日、失われた道の痕跡を見つけた。
そして、その道の先には、まだ知らない歴史が眠っている。
山の水は、今夜も静かに流れていた。
まるで、誰かが再びその道を訪れる日を、長い間待っていたかのように。




