第七話 白龍、里を知る
朝食の席で、銀澪はいつになく真剣な顔をしていた。
箸は手にしているものの、先ほどからほとんど動いていない。目の前には焼き魚と味噌汁、炊きたてのご飯が並んでいるというのに、視線はどこか遠くへ向けられていた。
向かい側に座る黒凪は、そんな彼の様子をしばらく眺めていた。
「……銀澪」
「はい?」
「お魚、冷めてしまうわよ」
「あっ……すみません」
銀澪は慌てて箸を動かし、焼き魚を一口食べた。
黒凪は小さく笑ったものの、すぐに不思議そうな顔になる。
「何か考え事?」
「……ええ。昨日の話なんですけど」
「水守の里のこと?」
「それもあります。でも、もう一つ気になっていることがあって」
銀澪は箸を置いた。
「黒凪さんって、完全な龍の姿にもなれるんですよね?」
その質問に、黒凪は一瞬だけ目を丸くした。
それから、納得したように頷く。
「……ああ、そういうこと」
「はい。僕、まだ角と尻尾を出したり隠したりするくらいしかできなくて」
銀澪は自分の白い角へ軽く触れた。
「せっかく龍になれたのなら、やっぱり一度は本当の龍の姿になってみたいんです」
黒凪は彼の顔を見つめた。
蒼と紅の瞳には、隠しきれない期待が浮かんでいる。
初めて出会ったときから、銀澪は龍の話になると途端に表情が明るくなる。
どうやら今回も同じらしい。
「ふふっ。そうね。あなたなら、いつか聞いてくると思っていたわ」
「……そんなに分かりやすいですか?」
「ええ、とっても」
黒凪は楽しそうに答えた。
それから、少しだけ真面目な表情になる。
「でも、完全な龍の姿になるのは、角や尻尾を出すのとは少し違うのよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。身体全体を変えるわけだから、最初は戸惑うと思うわ。人間の姿では使わない感覚もあるし、身体の大きさだって変わるもの」
黒凪は湯呑みを手に取った。
「それに、初めて変身するときは、周囲に十分な空間が必要よ。屋敷の中で試すのはおすすめしないわね」
「……それは確かに」
銀澪は想像してみた。
もし、この食卓で突然巨大な白龍になってしまったら。
柱も壁も、無事では済まないだろう。
黒凪も同じことを考えたのか、口元を緩めた。
「少なくとも、家の屋根を壊されるのは困るわ」
「……気をつけます」
「ふふっ。まだ何もしていないでしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。
黒凪は残っていたお茶を飲み、ゆっくりと湯呑みを置く。
「……そうね。今日は少し時間があるし、龍の姿について教えてあげましょうか」
銀澪の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、まずは朝ごはんをちゃんと食べること」
「……はい!」
銀澪は勢いよく頷き、再び箸を取った。
その様子を見て、黒凪は思わず笑みをこぼした。
まだ出会って間もない青年。
それなのに、こうしていると、彼が次に何を言い出すのか少しずつ分かるようになってきた。
龍の話になれば、目を輝かせる。
新しいことを教えれば、素直に喜ぶ。
失敗すれば落ち込みながらも、次にはどうすればいいのか考え始める。
長い年月の中で、黒凪はさまざまな龍を見てきた。
けれど、銀澪ほど自分が龍であることを嬉しそうに受け止める者は、そう多くなかった。
黒凪はそんな彼を眺めながら、静かに朝食を続けた。
◇
食器を片づけた後、二人は居間へ移動した。
黒凪は棚から一冊の古い本を取り出し、食卓へ置く。
厚い表紙には、雲の間を泳ぐ龍の姿が描かれていた。
細かな線で描かれたその姿は、まるで生きているようだった。
「……綺麗な絵ですね」
「祖母が残してくれた本よ。龍の身体や能力について、昔の人たちがまとめたものなの」
黒凪は本を開いた。
最初のページには、三つの姿が並んで描かれていた。
一つ目は、人間。
二つ目は、角と尻尾を持つ龍人。
そして三つ目は、長い身体と四本の脚を持つ、東洋の龍だった。
銀澪は思わず身を乗り出した。
「……これって」
「龍の三つの基本的な姿よ」
黒凪は最初の絵を指差した。
「一つ目は、人間に近い姿。角や尻尾、鱗などを隠して、人間社会で暮らすための形ね」
「今、街へ出かけるときの姿ですね」
「そう。もっとも、すべての龍が完全に人間の姿になれるわけではないけれど」
次に、中央の絵へ指を移す。
「二つ目は龍人の姿。人間に近い身体を保ちながら、角や尻尾を持つ形よ。力も扱いやすいし、私たちにとっては一番自然な姿ね」
銀澪は自分の角へ触れた。
「……なるほど」
「そして、三つ目」
黒凪の指が、最後の絵で止まった。
「これが本来の龍の姿。私たちは真龍の姿とも呼んでいるわ」
銀澪は絵を見つめた。
長くしなやかな身体。
枝分かれした角。
鋭い爪と、立派な尾。
雲をまとい、空を泳ぐように描かれた龍の姿は、まさに彼が幼い頃から憧れ続けたものだった。
「……すごい」
思わず呟く。
黒凪は小さく笑った。
「まだ絵を見ただけでしょう?」
「それでも、です」
銀澪は真剣な顔で答えた。
「僕、こういう龍になりたかったんですよ」
「……そう」
黒凪は少しだけ目を細めた。
銀澪は絵から目を離さず、続ける。
「角があって、長い身体で、空を自由に飛べて……できれば大きさも変えられたらいいなって」
「ふふっ。随分と具体的なのね」
「何度も想像していましたから」
黒凪はページをめくった。
そこには、大小さまざまな龍が描かれていた。
山ほど大きな龍。
人間の腕に収まるほど小さな龍。
そして、人間の姿から龍へ変化する過程を示した絵。
「龍の大きさは、ある程度自由に変えられるわ。ただし、得意な大きさには個人差があるの」
「……どこまでも大きくなれるわけじゃないんですね」
「少なくとも、最初から限界を試そうとするのはやめておきなさい」
黒凪は少し厳しい顔をした。
「身体を大きくするほど、周囲のものに気を配る必要があるわ。山を踏み荒らしたり、木々を倒したりしたら意味がないでしょう?」
「……はい」
「それに、力は大きければいいというものでもないの。小さな姿の方が便利なことだってあるわ」
銀澪は頷いた。
確かに、巨大な龍になれたとしても、普段の生活では使いどころが限られるだろう。
黒凪は本を閉じた。
「……さて。ここまでで何か質問はある?」
銀澪は少し考えた。
それから、ゆっくりと手を挙げる。
「……一つだけ」
「あら、何?」
「黒凪さんの真龍の姿って、どんな感じなんですか?」
黒凪は一瞬、言葉を止めた。
銀澪は慌てて付け加える。
「あっ、もちろん、見せてもらえなくても大丈夫です。ただ、ちょっと気になって……」
黒凪はしばらく彼を見つめていた。
やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……見たいの?」
「……はい」
銀澪は素直に頷いた。
黒凪は少し考える。
それから、静かに立ち上がった。
「……いいわよ」
「えっ?」
「今日は天気もいいし、山の奥なら人目もないでしょう。せっかくだから、実際に見せてあげる」
銀澪は思わず立ち上がった。
「……本当ですか!?」
「ええ。ただし、近くに寄りすぎないこと。龍の姿になると、思っているより身体が大きくなるから」
「分かりました!」
黒凪はその返事を聞いて、少しだけ呆れたように笑った。
「……まったく。今朝から一番元気な返事ね」
そう言いながらも、その表情は楽しそうだった。
◇
出かける前に、黒凪は一度書庫へ立ち寄った。
銀澪が玄関で待っている間、彼女は机の引き出しから小さな木札を取り出す。
表面には、古い龍の紋様が彫られていた。
昨日見つけた地図の印と、よく似た形だった。
「…………」
黒凪は木札を見つめた。
祖母から受け継いだものだ。
昔は山へ入るとき、必ず持っていくように言われていた。
当時の黒凪には、その理由がよく分からなかった。
祖母はただ、山の水を乱さず、静かに歩くことを大切にしなさいと言っていた。
それ以上の説明を聞いた記憶はない。
「……お祖母様」
黒凪は小さく呟く。
今になって思えば、祖母が教えてくれたことには、まだ理解できていない意味があるのかもしれない。
けれど、それを確かめる手段は限られていた。
黒凪は木札を布袋へ収め、鞄に入れた。
今は、銀澪の練習が先だ。
地図に描かれていた名もない谷へ、いきなり向かうつもりはなかった。
あの場所は古い記録にしか残されていない。
まずは安全な場所で、銀澪が自分の力をどこまで扱えるのか確かめた方がいい。
黒凪は書庫の扉を閉め、玄関へ向かった。
◇
屋敷から山道を三十分ほど歩くと、木々の間に広い空間が現れた。
そこは、周囲を高い岩壁に囲まれた小さな盆地だった。
中央には柔らかな草地が広がり、端には澄んだ水の流れる沢がある。
岩壁の上からは、細い滝がいくつも落ちていた。
人の手がほとんど入っていない場所らしく、草木は自然な形で生い茂り、岩肌には厚い苔が付いている。
銀澪は思わず足を止めた。
「……うわぁ」
見渡す限りの緑。
澄んだ水。
そして、山の奥に隠されたような静かな空間。
まるで、昔から想像していた龍の住処そのものだった。
「……すごい場所ですね」
黒凪は小さく頷いた。
「ここは私が昔から使っている場所なの。人里からも離れているし、周囲の地形もよく知っているから」
「……ここで練習するんですか?」
「ええ。まずは周りに人がいないことを確かめましょう」
二人は草地の端まで歩き、周囲の様子を確認した。
遠くに獣の気配はあったが、人の足音や話し声は聞こえなかった。
黒凪はさらに、空を見上げた。
雲がゆっくりと流れている。
山々の稜線は周囲の尾根に遮られ、麓の街から直接見通せる場所ではなかった。
「……大丈夫そうね」
黒凪は頷いた。
「ただ、空高く飛ぶのは今日はなしよ。遠くから見られるかもしれないから」
「分かりました」
「それと、私が龍になっている間は、少し距離を取っていてね」
黒凪は銀澪へ振り返る。
「変身そのものは危険じゃないけれど、慣れていない相手が近くにいると、身体が触れてしまうことがあるの」
「……はい」
銀澪は言われたとおり、草地の端へ下がった。
黒凪は中央へ歩いていく。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
黒い角。
長い尻尾。
風に揺れる漆黒の髪。
それらが、静かな山の光景の中に溶け込んでいる。
銀澪は息を呑んだ。
何が起きるのだろう。
期待と緊張が、胸の奥で混ざり合っていた。
「……それじゃあ、見ていて」
黒凪が静かに告げた。
次の瞬間。
彼女の周囲で、空気が揺らいだ。
黒い鱗が淡い光を受けて浮かび上がり、身体の輪郭がゆっくりと変わり始める。
それは、肉体が無理に引き伸ばされるような変化ではなかった。
むしろ、人の姿という小さな器から、本来の形がほどけていくような光景だった。
黒凪の身体が滑らかに伸び、四本の脚が大地へ触れる。
長い尾が草地の上をゆっくりと流れ、背中には漆黒の鱗が幾重にも重なっていく。
最後に、金色の瞳が開いた。
そこにいたのは、一頭の黒龍だった。
長く、しなやかな身体。
光を吸い込むような漆黒の鱗。
額から伸びる、枝分かれした二本の角。
顎の下には細い髭が揺れ、四本の脚には鋭く美しい爪が備わっている。
その姿は、まるで山の影が命を得たかのようだった。
銀澪は、声を出すことさえ忘れていた。
黒龍はゆっくりと首をもたげる。
金色の瞳が、銀澪を見つめた。
『……銀澪?』
「…………」
『聞こえている?』
「……あっ」
銀澪は我に返った。
「……はい!」
黒龍の口元が、わずかに緩む。
『ふふっ。そんなに驚いた?』
「……驚いたというか」
銀澪は言葉を探した。
けれど、なかなか見つからない。
目の前にいるのは、本物の龍だった。
しかも、ただの龍ではない。
漆黒の鱗と金色の瞳を持つ、美しく威厳に満ちた黒龍。
幼い頃から憧れ続けた存在が、今、自分の目の前にいる。
「……すごく、綺麗です」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
黒龍は一瞬、動きを止めた。
『……また、それを言うのね』
声には、少し照れたような響きがあった。
「だって、本当にそう思ったので」
『……そう』
黒凪はゆっくりと身体を動かした。
長い尾が草地を滑り、黒い鱗が陽光を受けて静かに輝く。
その動きには、無駄がなかった。
巨大な身体でありながら、一本の草すら必要以上に踏み荒らさない。
銀澪は、その様子を夢中で見つめていた。
『これが、私の真龍の姿よ』
黒凪はゆっくりと首を下ろした。
『あなたも、いつか自分の姿を知ることになるわ』
銀澪は静かに頷いた。
「……はい」
そして、少しだけ笑った。
「僕も、こんなふうになれるんですね」
『もちろん。ただし、最初から同じように動けると思わないこと』
「……分かっています」
『本当に?』
「……多分」
黒凪は喉の奥で笑った。
龍の姿になると、その笑い声さえ低く響く。
『ふふっ。正直でよろしい』
彼女は長い身体をゆっくりと動かし、沢の近くへ移動した。
そして、ほんの少しだけ地面から浮かび上がる。
脚は動いていない。
それなのに、黒龍の身体は空中へ滑らかに持ち上がった。
「……飛んでる」
『ええ。龍にとって、空を移動するのは特別なことではないわ』
黒凪は低い高度を保ったまま、草地の上をゆっくりと進んだ。
まるで、水の中を泳いでいるようだった。
銀澪はその光景を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
自分も、いつか。
あんなふうに空を泳ぎたい。
風の中を自由に進み、山々を越え、雲の上から世界を見下ろしてみたい。
その願いが、以前よりもずっと現実的なものに感じられた。
◇
黒凪は草地へ戻ると、ゆっくりと身体を丸めた。
そして、淡い揺らぎとともに人の形へ戻っていく。
長い身体は自然に縮まり、四本の脚は人間の手足へと変わる。
最後に漆黒の髪が肩の辺りで揺れ、黒い角と尻尾を持つ女性が現れた。
「……どうだった?」
黒凪が尋ねる。
銀澪はしばらく言葉を探していた。
そして、深く息を吐く。
「……最高でした」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、声を出して笑った。
「ふふっ……そんなに?」
「はい。想像していた以上です」
「……そう。なら、見せた甲斐があったわね」
黒凪は少し照れくさそうに髪を整えた。
銀澪はまだ興奮が収まらない様子だった。
「身体が長くて、鱗も綺麗で……それに、空を飛ぶときの動きがすごく自然でした」
「ありがとう。でも、あれくらいなら、慣れればあなたにもできるわよ」
「……本当ですか?」
「ええ。ただし、今はまだ無理をしないこと」
黒凪は人差し指を立てた。
「初めての変身は、自分の身体を知るためのものよ。大きさや力を競うものじゃないわ」
銀澪は真剣に頷いた。
「……分かりました」
「じゃあ、まずは落ち着いて」
黒凪は銀澪の正面へ立った。
「角と尻尾はそのままでいいわ。身体の感覚を、ゆっくり確かめてみて」
銀澪は目を閉じた。
足元の草。
山の風。
遠くから聞こえる水の音。
そして、自分の身体。
白銀の角。
背後に伸びる長い尾。
今では、そのすべてが自然に感じられるようになっていた。
「……いい?」
黒凪が静かに尋ねる。
「はい」
「では、自分が龍の姿になるところを想像してみて」
銀澪はゆっくりと息を吸った。
頭の中に、白龍の姿を思い描く。
長い身体。
四本の脚。
白銀の鱗。
枝分かれした角。
そして、雲の間を自由に泳ぐ姿。
何度も夢に見てきたものだった。
銀澪はその姿を、できる限り鮮明に思い浮かべた。
すると。
「……あれ?」
身体の奥で、何かが動いた。
温かな感覚が胸から広がり、背中を伝って腰へ向かう。
白銀の尻尾が、ゆっくりと持ち上がった。
黒凪は黙って見守っていた。
銀澪の腕に、細かな鱗が浮かび上がる。
手の甲から指先へ、白い光が走った。
「……黒凪さん」
「大丈夫。慌てなくていいわ」
黒凪の声は落ち着いていた。
「そのまま、自分の身体を感じて」
銀澪は頷いた。
しかし、次の瞬間。
周囲の音が、急に遠くなった。
「……っ?」
耳が塞がれたわけではない。
むしろ、今まで聞こえていなかったものまで、いっせいに聞こえ始めたのだ。
沢の流れ。
岩の下を伝う水。
山の斜面に染み込んだ雨水。
そのさらに奥。
地中深くを進む水脈の気配。
銀澪は息を止めた。
あまりにも多い。
どこを意識すればいいのか分からない。
目を閉じているはずなのに、頭の中には複雑に枝分かれした水の流れが浮かんでいた。
その中心で、自分の身体が何かに引き寄せられるような感覚がある。
「……あれ、これ……」
銀澪の声が震えた。
手足の感覚が曖昧になる。
変身しようとしているのか、それとも別の力が動いているのか、自分でも分からなかった。
そのとき。
「銀澪」
黒凪の声が聞こえた。
「……はい」
「私の声を聞いて」
穏やかで、はっきりとした声だった。
「今は変身しなくていいわ。まず、足元を感じて」
銀澪は必死に意識を戻そうとした。
草地を踏む足の裏。
指先に触れる風。
自分の呼吸。
「……そう。ゆっくりでいいの」
黒凪は銀澪の近くへ歩み寄った。
ただし、すぐには身体へ触れなかった。
「目を開けられる?」
「……はい」
銀澪はゆっくりと目を開いた。
目の前には、金色の瞳を持つ黒凪がいた。
彼女は静かに頷いた。
「大丈夫。ここにいるわ」
その言葉に、銀澪は深く息を吐いた。
次の瞬間、腕に浮かんでいた鱗が少しずつ消えていく。
身体の奥にあった熱も、ゆっくりと収まっていった。
周囲の音が元に戻る。
沢のせせらぎ。
木々のざわめき。
鳥の声。
銀澪はその場に膝をついた。
「……はぁ……」
大きく息を吐く。
黒凪もしゃがみ込み、彼の顔を覗き込んだ。
「……気分はどう?」
「……少し、驚きました」
「痛いところは?」
「ありません。ただ……」
銀澪は自分の手を見つめた。
そこには、いつもの人間に近い手があった。
「……何か、すごくたくさんの水が見えた気がして」
黒凪の表情がわずかに変わった。
「……水が?」
「はい。沢だけじゃなくて、地面の下とか、もっと遠くの方まで……」
銀澪は言葉を探す。
「……うまく説明できないんですけど、全部いっぺんに頭の中に入ってきた感じです」
黒凪はしばらく考え込んだ。
そして、静かに頷く。
「……そう」
「僕、失敗したんですよね」
銀澪が少し落ち込んだように言う。
黒凪はすぐに首を振った。
「いいえ。初めてなんだから、うまくいかなくて当然よ」
「……でも」
「それに、途中でやめられたでしょう?」
銀澪が顔を上げる。
黒凪は穏やかに続けた。
「自分の身体が分からなくなりかけたときに、ちゃんと止まれた。それは大切なことよ」
「……そうなんですか?」
「ええ。力を使うとき、何より危ないのは無理をすることだから」
黒凪は銀澪の手元を見た。
「腕に鱗が出ていたわ。変身そのものは始まっていたのよ」
「……本当ですか?」
「ええ。だから今日は、それで十分」
黒凪は立ち上がり、銀澪へ手を差し出した。
「さあ。少し休みましょう」
銀澪はその手を見つめた。
細く、美しい指。
けれど、先ほど見た黒龍の姿を思い出すと、その手が持つ力の大きさも理解できた。
「……ありがとうございます」
銀澪は手を取った。
黒凪は軽く力を込め、彼を立ち上がらせる。
「どういたしまして」
そして、少しだけ笑った。
「でも、初めてにしては上出来だったわよ」
銀澪は小さく微笑んだ。
「……そう言ってもらえると、嬉しいです」
◇
二人は沢のほとりに腰を下ろした。
黒凪が持ってきた水筒からお茶を注ぎ、銀澪へ渡す。
銀澪は礼を言って受け取り、ゆっくりと口をつけた。
冷たいお茶が喉を通ると、ようやく身体の力が抜けた。
「……それにしても」
銀澪は自分の右手を見つめた。
「本当に鱗が出ていたんですね」
「ええ。白くて綺麗だったわよ」
黒凪が答える。
「それに、少しだけ指先の形も変わっていたわ」
「……全然気づきませんでした」
「初めてなら、そんなものよ」
黒凪は沢へ目を向けた。
「私も最初は、自分の身体が急に大きくなる感覚に驚いたもの」
「……黒凪さんも失敗したんですか?」
「もちろん」
黒凪は小さく笑った。
「昔、祖母に教えてもらって初めて龍になったとき、嬉しくなって庭を走り回ったの」
「……庭を?」
「ええ。まだ身体も小さかったから、何とかなると思ったのよ」
黒凪は少し懐かしそうに続けた。
「でも、尻尾の長さを忘れてしまってね。物干し台を倒して、洗濯物を全部泥だらけにしてしまったわ」
銀澪は数秒間、黙っていた。
そして、思わず笑ってしまった。
「……黒凪さん、それ、僕よりひどくないですか?」
「……そうかもしれないわね」
黒凪も笑った。
「祖母には、随分叱られたものよ」
「……何て言われたんですか?」
黒凪は少し考えた。
それから、祖母の口調を思い出すように、静かに言った。
「『龍の力を持つ前に、まず自分の尻尾くらい大人しくさせなさい』って」
銀澪はとうとう声を出して笑った。
「……それ、僕にも言われそうですね」
「ふふっ。実際、今のあなたには必要な言葉かもしれないわ」
「……ですよね」
二人はしばらく笑い合った。
山の中に響く笑い声は、沢の音に混じってすぐに消えていった。
けれど、銀澪にはその時間が妙に心地よかった。
さっきまで感じていた緊張も、いつの間にか薄れていた。
◇
休憩を終えた後、黒凪は銀澪を連れて沢沿いの小道を歩いた。
今日はもう変身の練習はしない。
代わりに、山の中にある古い石碑を見せたいという。
「……石碑、ですか?」
「ええ。昔、この辺りの龍人たちが建てたものよ」
黒凪は木々の間へ入った。
銀澪も後に続く。
しばらく進むと、小さな岩場に出た。
そこには、苔に覆われた石碑が一つ立っていた。
高さは銀澪の胸ほど。
表面には、かすれた文字が彫られている。
「……これですか?」
「ええ」
黒凪は石碑の前に立ち、静かに頭を下げた。
銀澪もそれにならう。
石碑には、短い言葉が刻まれていた。
『水を奪うなかれ。山を乱すなかれ。命を軽んずるなかれ。』
銀澪はゆっくりと読み上げた。
「……水を奪うなかれ。山を乱すなかれ。命を軽んずるなかれ」
黒凪は静かに頷いた。
「昔、この山に暮らしていた龍たちが、大切にしていた教えよ」
「……いい言葉ですね」
「ええ。龍は大きな力を持っている。だからこそ、その力で自然や人々の暮らしを壊してはいけない、という戒めなの」
黒凪は石碑へ視線を向けた。
「昔は、龍の力を誇示する者もいたそうよ。自分の領地を広げるために川を変えたり、山を削ったりした者もいたと聞いているわ」
銀澪は眉を寄せた。
「……そんなことまで」
「ええ。でも、その結果、困るのはそこに暮らす人間や動物たちでしょう?」
黒凪は穏やかに続けた。
「だから、力を持つ者ほど慎重でなければならない。祖母はよくそう言っていたわ」
銀澪は石碑を見つめた。
自分が龍になれたことは、今でも嬉しい。
けれど、それは強い力を好き勝手に使っていいという意味ではない。
むしろ、できることが増えたからこそ、気をつけなければならないことも増える。
「……僕も、忘れないようにします」
銀澪が言うと、黒凪は顔を向けた。
「……何を?」
「この言葉です」
銀澪は石碑へ目を向けたまま続ける。
「僕、昔から龍になりたいと思っていました。でも、強い力を持つことよりも、龍としてどう生きるかの方が大切なんだなって」
黒凪は静かに聞いていた。
「せっかく憧れていた姿になれたんですから、誰かに怖がられるだけの龍にはなりたくないです」
銀澪は少し笑った。
「……できれば、困っている人を助けられるような龍になりたいですね」
黒凪はしばらく、彼の横顔を見つめていた。
それから、静かに微笑んだ。
「……銀澪」
「はい?」
「あなたは、きっといい龍になれるわ」
銀澪は少し驚いた。
「……そうですか?」
「ええ。少なくとも、そうなろうとしていることは伝わってくるもの」
黒凪は石碑へ向き直った。
「ただ、忘れないで。誰かを守るためだからといって、自分のことを粗末にしていいわけではないのよ」
「……自分のことも?」
「もちろん。あなたにも、あなた自身の人生があるでしょう?」
黒凪は少しだけ真面目な顔になる。
「力を持っているから、必ず誰かを助けなければならない。そんなふうに考え始めたら、いつか苦しくなってしまうわ」
銀澪は黙っていた。
「できることを、できる範囲で。それでいいのよ」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「誰かを守るためには、まず自分がちゃんと生きていなければならないもの」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
それから、もう一度石碑へ目を向ける。
苔むした古い文字。
長い年月を経ても、そこには確かに誰かの願いが残されていた。
銀澪は静かに頭を下げた。
黒凪も隣で、同じように一礼した。
◇
帰り道、銀澪は何度も自分の手を見つめていた。
先ほど、一瞬だけ浮かび上がった白い鱗。
あれは、確かに自分の身体から現れたものだった。
完全な龍になることはできなかった。
けれど、その一歩を踏み出せたことが嬉しかった。
黒凪はそんな銀澪を横目で見ながら、少しだけ笑った。
「……そんなに気になる?」
「はい」
「ふふっ。正直ね」
「だって、初めてだったので」
銀澪は小さく笑った。
「……いつか、本当に龍の姿になってみたいです」
「ええ。焦らず練習していけばいいわ」
黒凪は前を向いた。
「ただ、今日みたいに周囲の水が一度に感じられることがあるなら、しばらくは慎重に進めた方がよさそうね」
「……そうですね」
銀澪は頷いた。
変身しかけたときの感覚は、まだ鮮明に残っていた。
遠くの水まで、すべてが自分へ流れ込んでくるような感覚。
あれは、普通の龍にも起きることなのだろうか。
「……黒凪さん」
「何?」
「さっきの水の感覚って、黒凪さんにもあるんですか?」
黒凪は少し考えた。
「……似たものなら、あるわ」
「……似たもの?」
「ええ。龍は水の流れを感じ取れるけれど、その範囲や鮮明さには個人差があるの。私の場合は、意識を向けた場所の水がよく分かるわ」
「……僕とは違うんですね」
「少しね」
黒凪は足を止めた。
「あなたの場合は、意識を向けていない場所の水まで、急に感じ取ってしまったように見えたの」
銀澪は静かに頷いた。
「……はい。そんな感じでした」
「だから、今は無理に感覚を広げようとしない方がいいわ。まずは、目の前の水だけを感じ取る練習を続けましょう」
「分かりました」
黒凪は満足そうに頷いた。
「それに、今日のことは水葉にも相談してみるつもりよ。あの子なら、何か知っているかもしれないから」
銀澪の表情が少し明るくなった。
「……水葉さん、ですね」
「ええ。あなたも、会ってみたいのでしょう?」
「……はい」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「龍人の里って、どんなところなのか気になりますし」
「そうね。きっと気に入ると思うわ」
黒凪は再び歩き始めた。
銀澪も隣へ並ぶ。
山道は木々の影に包まれ、足元には柔らかな落ち葉が積もっていた。
しばらく歩いていると、銀澪がふと口を開いた。
「……黒凪さん」
「今度は何?」
「今日、龍の姿を見せてくれてありがとうございました」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
それから、小さく笑う。
「……どういたしまして」
「本当に嬉しかったです。昔からの夢だったので」
銀澪は少しだけ遠くを見るような目をした。
「人間だった頃は、龍なんて物語の中の存在だと思っていましたから」
黒凪は黙って聞いていた。
「それなのに、今はこうして本物の龍と一緒に歩いている」
銀澪は小さく笑った。
「……不思議ですね」
黒凪はゆっくりと頷いた。
「……そうね」
彼女は少し考えた後、穏やかに続ける。
「でも、私にとっても不思議なことなのよ」
「……黒凪さんも?」
「ええ。長く生きてきたけれど、自分の龍の姿を見て、あんなに嬉しそうにしてくれる人は久しぶりだったもの」
銀澪は少し驚いた。
黒凪は小さく微笑んだ。
「だから、私も少し嬉しかったわ」
その言葉に、銀澪は照れくさそうに笑った。
「……それなら、よかったです」
二人は再び歩き始めた。
木々の間から、屋敷の屋根が見えてくる。
遠くでは、庭の滝が流れる音が聞こえていた。
長い年月を生きる黒龍。
人間の記憶を持つ白龍。
二人の歩幅は、まだ完全に同じではない。
けれど、歩く速さを少しずつ合わせることはできる。
銀澪が足元の木の根を避けるために歩調を緩めると、黒凪も自然に速度を落とした。
彼が追いつくのを待ってから、また歩き始める。
ただ、それだけのことだった。
それでも黒凪は、誰かと並んで山道を歩く時間を、久しぶりに心地よく感じていた。
◇
屋敷へ戻った頃には、午後の日差しが庭を明るく照らしていた。
銀澪は手を洗い、台所で昼食の準備を始めた。
黒凪は居間で、朝に使っていた本を片づけている。
しばらくすると、台所から銀澪の声が聞こえた。
「黒凪さんー?」
「はーい。どうしたの?」
「お昼、うどんでいいですか?」
「あら、いいわね」
「温かいのと冷たいの、どっちがいいです?」
黒凪は少し考えた。
「……今日は冷たい方がいいかしら」
「分かりました。じゃあ、冷やしうどんにしますね」
「ありがとう」
黒凪はそう答え、再び本を棚へ戻した。
その手が、ふと止まる。
今朝、銀澪に龍の姿を見せたときのことを思い出した。
あの青年は、本当に嬉しそうだった。
目を輝かせ、言葉を失い、まるで子どものように純粋な表情をしていた。
それが、黒凪には少し不思議だった。
龍の姿など、自分にとっては当たり前のものだ。
長い年月を生きていれば、特別に感じることも少なくなる。
けれど、銀澪は違う。
自分たちが当然だと思っているものを、心から美しいと感じてくれる。
そのことが、黒凪には新鮮だった。
「……綺麗、か」
小さく呟く。
黒凪は少しだけ笑った。
初めて会ったときも、銀澪は同じことを言っていた。
あのときは、ただの変わった青年だと思った。
けれど、今は少し違う。
彼は本当に、龍という存在が好きなのだろう。
その気持ちに、嘘はないように思えた。
「……ふふっ」
黒凪は本を棚へ戻した。
そして、台所へ向かう。
「銀澪、何か手伝おうかしら?」
「あ、じゃあ、薬味を切ってもらってもいいですか?」
「ええ。任せて」
二人は並んで台所に立った。
銀澪がうどんを茹で、黒凪が長ねぎと大葉を刻む。
窓の外から、山の風が吹き込んでくる。
誰かと一緒に料理をする。
それが、すっかり自然になり始めていた。
◇
夕方。
黒凪は再び書庫へ向かった。
机の上には、水守の里へ送るための記録が置かれている。
今日、銀澪が変身を試みた際に起きたことも、簡単に書き留めておくつもりだった。
ただし、本人の記憶については、まだ詳しく書いていない。
銀澪が許可したのは、水脈の異変と自分の力に関する情報だけだ。
黒凪はその約束を守るつもりだった。
彼女は筆記用具を手に取り、今日の出来事を整理し始めた。
変身を試みたこと。
腕に白い鱗が現れたこと。
そして、周囲の水脈を一度に感じ取ったらしいこと。
事実だけを記し、推測は別に書き分けていく。
その途中、黒凪はふと手を止めた。
銀澪が変身しかけたとき、周囲の水がわずかに揺らいでいたことを思い出したのだ。
黒凪が感じた限りでは、明確な逆流は起きていなかった。
けれど、あの瞬間、銀澪の気配が一時的に広がったように感じられた。
水脈の方が反応したのか。
それとも、銀澪自身の感覚が広がっただけなのか。
黒凪には、まだ判断できなかった。
「……やっぱり、水葉に聞くのがよさそうね」
小さく呟き、記録を閉じる。
そのとき、机の端に置かれた古い地図が目に入った。
昨日見つけた、三つの谷が一つにつながる場所。
黒凪は地図を広げた。
そして、細い青線を指先でたどる。
水守の里。
この山。
銀澪が目覚めた神社。
その三つを結ぶ水脈は、古い地図の上で一つの場所へ集まっていた。
黒凪は、その印を見つめた。
二匹の龍が向かい合うような紋様。
祖母が大切にしていた木札にも、似た模様が彫られている。
「……何か、関係があるのかしら」
黒凪は静かに呟いた。
そして、しばらく考え込んだ。
地図を見つけたことは、まだ銀澪に詳しく話していない。
不確かな情報で不安にさせたくなかったからだ。
けれど、今日の彼の姿を見て、少し考えが変わっていた。
銀澪は自分の力を怖がりすぎることもなく、無理に誇示することもなかった。
分からないことがあれば尋ね、危険だと言われれば立ち止まる。
そして、龍としてどう生きるべきかを、自分なりに考え始めている。
黒凪は地図を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……もう少し、信用してもいいのかもしれないわね」
そう呟き、地図を丁寧に畳んだ。
そのときだった。
廊下から、小さな足音が聞こえてきた。
「……黒凪さん?」
銀澪の声だった。
「どうしたの?」
「夕飯の準備を始めようかと思って。今日は何か食べたいもの、ありますか?」
黒凪は一瞬、目を丸くした。
そして、自然と笑みを浮かべる。
「……そうね」
少し考えてから、答えた。
「今日は、あなたの好きなものにしましょうか」
「僕の、ですか?」
「ええ。昨日も今日も、いろいろ頑張ったでしょう?」
黒凪は机から離れ、扉へ向かった。
「だから、今夜は少し好きなものを食べたらいいわ」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「……じゃあ、カレーでもいいですか?」
黒凪は一瞬、きょとんとした。
「……カレー?」
「はい。人間だった頃から好きだったので」
黒凪は数秒間、銀澪を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……ふふっ。いいわね」
「……本当ですか?」
「ええ。私も好きよ」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、今夜は二人でカレーを作りましょうか」
「はい!」
銀澪は嬉しそうに頷いた。
黒凪は書庫の灯りを消し、扉を閉めた。
その前に、机の上に置いていた地図を一度だけ振り返る。
古い水脈。
向かい合う二匹の龍。
そして、まだ明らかになっていない銀澪の転生。
いずれ、向き合わなければならない問題なのだろう。
けれど、今夜は違う。
今は、夕食を作る時間だ。
黒凪はそう考え、銀澪と並んで廊下を歩き始めた。
長い年月を生きる龍にとって、一日など短いものなのかもしれない。
それでも、今日という日は確かに残る。
初めて見せた真龍の姿。
初めて挑んだ変身。
山の奥に残された古い教え。
そして、二人で作る夕食。
どれも、決して世界を変えるような出来事ではない。
けれど、銀澪と黒凪にとっては、新しい日常を形作る大切な一日だった。
その夜。
山の奥に建つ古い和風屋敷には、カレーの香りが広がっていた。
台所からは、野菜を刻む音と、二人の笑い声が聞こえてくる。
黒凪が何かを言い、銀澪が笑いながら答える。
時折、黒い尻尾と白い尻尾が、床の上で静かに揺れた。
誰にも知られていない、龍たちの小さな暮らし。
その穏やかな時間は、今日も変わらず続いていた。
そして、遠く離れた水守の里では。
山々の水を記録する一人の龍人が、机に広げた観測記録を見つめていた。
そこには、ここ数日で確認された水脈の異変が、細かく書き込まれている。
水葉は、その中の一か所へ指を置いた。
「……おかしいわね」
小さく呟く。
記録によれば、三つの谷で起きた異変には、ある共通点があった。
水の流れが変わった時刻。
その直前に生じた、わずかな振動。
そして、地下水脈の奥から伝わってくる、不規則な反応。
水葉は何度も記録を見直した。
その表情が、少しずつ険しくなっていく。
「……これ、本当に自然現象なのかしら」
答えは出なかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
異変は、まだ終わっていない。
むしろ、少しずつ範囲を広げている。
水葉は窓の外へ目を向けた。
遠くの山々は、夕日に照らされていた。
その山のどこかに、黒凪がいる。
そして、彼女のもとには、まだ会ったことのない白龍の青年がいるという。
水葉は小さく息を吐いた。
「……黒凪。あなたのところでも、何か起きているのね」
彼女は机の上に置かれた筆記具を手に取り、新しい記録を書き始めた。
長い年月、静かに流れ続けてきた山の水。
その奥で、何かが変わり始めていた。
それが何を意味するのか。
まだ誰にも分からない。
ただ、白龍と黒龍の穏やかな日常の向こうで、古い龍たちの歴史が少しずつ姿を現そうとしていた。




