第六話 龍の里からの便り
山の朝は、いつも水の音から始まる。
屋敷の庭を流れる小さな滝。木々の間を縫う沢。軒先から落ちた朝露が、石の上で弾ける音。
銀澪は縁側の雨戸を開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……気持ちいいな」
朝日はすでに山の稜線を越え、庭の半分ほどを照らしていた。池のほとりには薄い霧が残っているものの、昨日までの湿った空気とは違い、今日は穏やかな晴天になりそうだった。
銀澪は縁側から庭へ降り、ゆっくりと背伸びをした。
額には白銀の龍角。腰からは、細かな鱗に覆われた長い尻尾が伸びている。
この姿にも、随分と慣れてきた。
最初は何かを動かすたびに尻尾まで大きく揺れてしまったが、今では少し意識するだけで自然に身体の横へ収められる。
もっとも、油断すると家具を倒しかねないことに変わりはない。
銀澪は尻尾の先を軽く持ち上げ、その動きを確かめた。
「……よし。今日も問題なし」
「何が問題ないの?」
背後から声が聞こえた。
銀澪は振り返る。
そこには、湯気の立つ湯呑みを二つ載せた盆を持った黒凪が立っていた。
漆黒のショートウルフは朝日に照らされ、毛先にわずかな銀色の光を宿している。頭から伸びる黒い角は滑らかな曲線を描き、その後ろでは龍の尾がゆったりと揺れていた。
「おはようございます、黒凪さん」
「ええ、おはよう。随分早いのね」
「目が覚めてしまったので、庭を眺めていました」
黒凪は縁側へ盆を置き、銀澪の尻尾へ目を向けた。
「……なるほど。今朝は何も倒していないみたいね」
「まだその話をするんですか?」
「あら、大切な成長の記録でしょう?」
悪戯っぽく笑う黒凪に、銀澪は小さく肩を落とした。
「……黒凪さん、案外意地悪ですよね」
「そうかしら。私は結構優しいつもりなのだけれど」
「優しいのは間違いありませんけど、たまに楽しんでますよね?」
「ふふっ。否定はしないわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
銀澪が縁側へ戻ると、黒凪は彼の隣へ腰を下ろした。用意されたのは温かい緑茶だった。
今日は黒凪が朝食を作る番だという。
昨日決めたばかりの小さな約束だったが、銀澪はそれを楽しみにしていた。
「今朝は何を作るんですか?」
「そうね。昨日の大根がまだ残っているから、少し煮物を作ろうかと思っているの。あとは焼き魚と、お味噌汁かしら」
「いいですね。何か手伝いますよ」
「ありがとう。でも、その前に少しお茶を飲みましょう。まだ時間もあるし」
銀澪は頷き、湯呑みに口をつけた。
柔らかな苦味と茶葉の香りが広がる。
庭では、池の縁に止まった小鳥が水を飲んでいた。
その光景を見つめながら、銀澪はふと考える。
この屋敷に来てから、まだ一週間も経っていない。
それなのに、朝起きて黒凪と言葉を交わし、食卓を囲み、庭仕事をするという流れが、少しずつ当たり前になり始めていた。
人間だった頃の生活とは違う。
けれど、不思議と落ち着く。
その理由は、きっと山や水が近くにあるからだけではないのだろう。
そんなことを考えていると、黒凪が口を開いた。
「……銀澪」
「はい?」
「昨日の夜、少し考えていたのだけれど」
黒凪は湯呑みを膝の前へ置いた。
「今度、あなたに龍の一族について話しておこうと思うの」
「……一族、ですか?」
「ええ。これから龍として生きていくなら、自分たちがどういう存在なのか、知っておいた方がいいでしょう?」
銀澪は少し身を乗り出した。
「ぜひ、聞きたいです」
「ふふっ。そんなに目を輝かせなくても、逃げたりしないわよ」
「……すみません。昔から龍が好きだったので、つい」
「知っているわ。もう何度も聞いたもの」
黒凪は楽しそうに笑った。
しかし、すぐに少し真面目な表情になる。
「ただ、今の龍人たちのことを、私も全部知っているわけじゃないの。長い間、人里を離れて暮らしている一族もいるし、人間とほとんど変わらない生活をしている者もいる」
「……いろいろなんですね」
「そうよ。龍だからといって、みんな同じ考え方をしているわけではないの」
黒凪は庭へ視線を向けた。
「それに、古い決まりを大切にする一族もいれば、そんなものに縛られず自由に生きたいという龍もいるわ」
銀澪は静かに頷いた。
人間にも、さまざまな生き方がある。
ならば、龍にだって違いがあるのは当然だろう。
「……僕は、自由に生きたいですね」
何気なく言うと、黒凪が顔を向けた。
「自由に?」
「はい。もちろん、迷惑をかけたり、好き勝手に暴れたいという意味じゃないですけど」
銀澪は少し考え、言葉を続けた。
「せっかく長く生きられるのなら、いろいろな場所を見て、いろいろなことを経験したいです。それに、誰かを守れる力があるのなら、必要なときには使いたいと思います」
黒凪は黙って聞いていた。
「……ただ、自分の生き方まで誰かに決められるのは、少し違うかなって」
その言葉を聞いた黒凪は、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうね」
彼女は静かに頷いた。
「私も、その考え方は嫌いじゃないわ」
そのときだった。
山道の方から、車のエンジン音が聞こえてきた。
銀澪は耳を動かすように顔を上げる。
「……車?」
「郵便屋さんね」
黒凪は湯呑みを置いて立ち上がった。
「今日は少し早いわね。行ってくるから、銀澪はここにいて」
「あ、はい」
黒凪は角と尻尾を隠し、玄関へ向かった。
銀澪は彼女の後ろ姿を見送りながら、改めて庭へ目を向けた。
郵便が届く。
当たり前のことだ。
けれど、龍人の屋敷に届く郵便というものが、何となく気になった。
数分後。
戻ってきた黒凪の手には、数通の封書があった。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
黒凪は軽く頷き、縁側へ腰を下ろす。
そして、封書を一通ずつ確認し始めた。
銀澪は何気なくその様子を眺めていた。
町内の案内らしい封筒。
公共料金に関する通知。
それから、少し厚手の和紙でできた、一通の手紙。
黒凪の指が、その最後の封筒で止まった。
「…………」
表情が変わった。
驚いたようでもあり、懐かしそうでもある。
銀澪は思わず尋ねた。
「……黒凪さん?」
「……あら」
黒凪は小さく息を漏らした。
「珍しい人から手紙が来たわ」
「お知り合いですか?」
「ええ。随分昔からの友人よ」
彼女は封筒を裏返した。
そこには、丁寧な文字で差出人の名前が記されていた。
――水葉。
「……みずは?」
銀澪が名前を読み上げると、黒凪は頷いた。
「水葉。昔からの知り合いでね。今は龍人たちの暮らす里にいるの」
「……龍人の里?」
銀澪の声が、思わず大きくなった。
黒凪はその反応を見て、少し笑った。
「ふふっ。やっぱり、気になるわよね」
「はい。そんな場所があるんですか?」
「あるわよ。人間の街とそう変わらない場所だけれどね」
黒凪は封筒を開ける前に、少しだけ考え込んだ。
「……ただ、あの子がわざわざ手紙を送ってくるなんて」
その声には、小さな疑問が混じっていた。
「普段は、もっと簡単に連絡を取るのだけれど」
黒凪は封筒の中身を取り出した。
厚手の便箋が二枚。
その一枚目を開いた瞬間、黒凪の表情から笑みが消えた。
◇
銀澪は黙って待っていた。
黒凪が手紙を読んでいる間、彼女の金色の瞳は何度か同じ行を行き来していた。
時折、眉がわずかに寄る。
読み終えた後も、黒凪はすぐには口を開かなかった。
「……黒凪さん?」
銀澪が控えめに声をかける。
黒凪は顔を上げた。
「……ごめんなさい。少し考えていたの」
「何か、あったんですか?」
「ええ。少し気になる知らせが届いたわ」
黒凪は便箋を折り畳みかけたが、途中で手を止めた。
それから、銀澪を見つめる。
「……銀澪。あなたにも関係があるかもしれない話なの」
「僕に?」
「ええ。ただし、まだ確かなことは分からないわ」
彼女は一度、庭へ視線を向けた。
朝の光が池を照らし、水面には穏やかな波紋が広がっている。
「……少し長い話になるけれど、聞いてくれる?」
銀澪は真剣に頷いた。
「もちろんです」
黒凪は手紙を膝の上へ広げた。
「まず、送り主の水葉について話しておくわね」
彼女は静かに語り始めた。
水葉は、黒凪がまだ若かった頃からの友人だった。
水の流れを読み、川や地下水脈の変化を調べることを得意とする龍人で、今は山間にある『水守の里』で水脈の記録を管理しているという。
黒凪とは何百年もの付き合いがあり、互いの近況を知らせ合うこともあった。
「……何百年もの友人って、すごいですね」
銀澪が呟くと、黒凪は少し笑った。
「私たちにとっては、それほど珍しいことじゃないわ。もっとも、しょっちゅう会っているわけではないけれど」
「水葉さんも黒龍なんですか?」
「いいえ。あの子は青緑色の鱗を持つ龍よ。私とは水の扱い方も少し違うわ」
「……青緑の龍」
銀澪は思わず想像した。
深い森のような色の鱗。
澄んだ水を操る龍。
まだ見ぬ存在に、自然と興味が湧いてくる。
黒凪はそんな銀澪の顔を見て、くすりと笑った。
「……本当に分かりやすいわね」
「え?」
「龍の話になると、すぐに楽しそうな顔をするんだもの」
「……そんなにですか?」
「ええ。見ていて飽きないくらいには」
銀澪は少し照れくさそうに頬を掻いた。
黒凪は小さく笑った後、改めて手紙へ目を落とした。
「……でも、今回の用件は少し真面目なものなの」
銀澪も姿勢を正した。
黒凪は便箋の一部を指で示す。
「ここ数日、水守の里の周辺で、妙な現象が続いているらしいわ」
「……妙な現象?」
「ええ。普段なら一定の方向へ流れているはずの水が、一時的に逆流したり、地下水脈の流れが突然弱まったりしているそうよ」
銀澪は眉を寄せた。
「……水の逆流?」
「そう。しかも、原因が分からないの」
黒凪は続けた。
「雨の量が急に変わったわけでもないし、地形が崩れた様子もない。水葉たちが調べても、はっきりした理由が見つからなかったそうよ」
「……それって」
銀澪は言いかけて、庭の池へ目を向けた。
数日前、黒凪と水を操る練習をしたときのことを思い出す。
自分が意識して動かしていた水とは別に、池の中央から波紋が広がった。
黒凪は、その現象を地下水脈の反応ではないかと考えていた。
「……この家の池で起きたことと、似ていますね」
銀澪が言うと、黒凪はゆっくりと頷いた。
「ええ。私もそう思ったわ」
彼女は二枚目の便箋へ目を向けた。
「それに、気になることがもう一つあるの」
「……何でしょう?」
「この現象が最初に確認された日付よ」
黒凪は便箋を銀澪へ差し出した。
銀澪は受け取り、示された箇所を読んだ。
そこには、水の流れに異変が生じた日と、その後の観測記録が記されていた。
銀澪は数秒間、その数字を見つめる。
「……あれ?」
「気づいた?」
黒凪が静かに尋ねる。
銀澪は顔を上げた。
「……僕が目覚めるより、前ですね」
「ええ」
黒凪は頷いた。
「少なくとも、水守の里では、あなたがあの神社に現れる前から異変が起きていたことになるわ」
銀澪は再び便箋へ目を落とした。
自分が転生したから水脈に異変が生じた。
もしそう考えるなら、時系列が合わない。
もちろん、今の自分が水脈に何らかの影響を与えている可能性まで消えたわけではない。
けれど、少なくとも話はそれほど単純ではなさそうだった。
「……僕が原因とは限らないんですね」
「そういうこと」
黒凪は落ち着いた声で答えた。
「ただ、無関係だとも言い切れないわ。今の段階では、どちらの可能性も残っている」
「……なるほど」
銀澪は静かに頷いた。
自分の知らないところで、何かが起きている。
そして、その異変は一つの山だけに留まっていないらしい。
それは、龍になってから初めて感じる、少し大きな世界の動きだった。
◇
黒凪は手紙を丁寧に畳み、封筒へ戻した。
それから、残っていたお茶を一口飲む。
「……そういえば、銀澪」
「はい?」
「さっき、龍人の里があると言ったでしょう?」
「はい。水守の里、ですよね」
「そう。少し説明しておこうかしら」
黒凪は縁側の柱へ軽く背を預けた。
「水守の里は、山間にある小さな集落よ。田畑があって、家があって、人々が普通に生活している。外から見れば、どこにでもある山里ね」
「……龍人だけが暮らしているんですか?」
「いいえ。人間も暮らしているわ」
その答えに、銀澪は少し驚いた。
「人間も?」
「ええ。もちろん、全員が龍人の存在を知っているわけではないけれど、事情を理解した上で一緒に暮らしている人たちもいるの」
黒凪は穏やかに続けた。
「龍人の家族として生きることを選んだ人間もいれば、昔から里の暮らしを支えてきた家系もあるわ。だから、里の人たちにとっては、龍も人間も、同じ土地で暮らす隣人なのよ」
「……いいですね、そういう場所」
銀澪は素直にそう思った。
龍の正体を隠して暮らす。
その必要性は理解できるものの、いつでも隠さなければならないというのは、少し寂しい気もしていた。
だからこそ、互いの存在を理解しながら暮らす人々がいるという話には、自然と心を惹かれた。
「……ただ、もちろん問題もあるわよ」
黒凪が付け加える。
「価値観の違いもあれば、寿命の違いもある。秘密を守ることに納得できない者だっているわ」
「……そうですよね」
「人間同士でも考え方は違うでしょう? 龍と人間なら、なおさらよ」
銀澪は頷いた。
黒凪は遠くの山を眺めた。
「あの里には、昔から大切にされている決まりがあるの」
「……どんな決まりですか?」
「力を持つ者は、持たない者の暮らしを脅かしてはならない。龍の力は、誰かを支配するためのものではない。そして、里を離れる者の自由を妨げてはならない」
黒凪は指を折ることもなく、静かに言葉を続けた。
「細かな決まりは他にもあるけれど、大切なのはその三つね」
「……自由を妨げない、ですか」
銀澪がその一節を繰り返す。
黒凪は小さく頷いた。
「ええ。龍は長く生きるもの。だからこそ、古い習慣に縛られてしまうこともあるわ。何百年も前の考え方を、今も変えられずにいる一族だってある」
「……なるほど」
「でも、長く生きることと、変わらずにいることは同じじゃないでしょう?」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「時代が変わるなら、私たちも変わっていかなければならない。祖母は、よくそう言っていたわ」
銀澪は静かに頷いた。
黒凪が大切にしている考え方の多くは、祖母から受け継いだものなのだろう。
あの古い写真に写っていた、穏やかな女性。
まだ会ったこともない相手なのに、銀澪は少しずつ、その人柄を想像できるようになっていた。
「……黒凪さんのお祖母さん、立派な方だったんですね」
「ふふっ。そうね。少し頑固だったけれど」
黒凪は懐かしそうに笑った。
「でも、私は祖母のそういうところが好きだったわ」
銀澪も微笑んだ。
そのとき、黒凪は何かを思い出したように顔を上げた。
「ああ、そうだわ。水守の里について、一つだけ覚えておいて」
「何でしょう?」
「場所そのものは普通の集落だけれど、龍人に関する事情を外で話してはいけないの。里に住む人たちの安全にも関わるから」
銀澪は真剣に頷いた。
「分かりました」
「もし、いつか一緒に行く機会があったら、そのときは私から案内するわ」
その言葉に、銀澪は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ええ。あなたも龍人なのだから、いずれは知っておいた方がいいでしょうし」
黒凪は少し笑った。
「それに、あなたなら楽しめそうだものね」
「……それはもう、すごく楽しみです」
「ふふっ。やっぱり」
黒凪は楽しそうに笑った。
けれど、彼女の視線はすぐに手紙へ戻った。
「……まずは、この件を確かめないとね」
銀澪も頷いた。
穏やかな朝は、まだ続いている。
しかし、その日から二人には、新しく調べなければならないことが増えた。
◇
朝食を済ませた後、黒凪は銀澪を書庫へ案内した。
これまで銀澪が立ち入らないように言われていた、屋敷の奥にある部屋だった。
「……ここ、入ってもいいんですか?」
廊下の突き当たりで、銀澪が足を止める。
黒凪は鍵を取り出しながら振り返った。
「今日は私が一緒にいるから大丈夫よ。ただし、置いてあるものは勝手に触らないでね。古い書物も多いから」
「分かりました」
黒凪が扉を開ける。
途端に、乾いた紙と木の香りが漂ってきた。
部屋の中には天井近くまで届く書棚が並び、その間には細い通路が通っている。棚には和綴じの書物だけでなく、洋装の本、古い地図、木箱、巻物などが丁寧に収められていた。
窓は小さく、直射日光が入りにくい造りになっている。
湿度を保つためなのか、壁際には現代的な空調設備も設置されていた。
「……すごいですね」
銀澪は思わず声を漏らした。
「これ、全部黒凪さんが集めたんですか?」
「全部ではないわ。祖母や、その前の代から受け継いだものもあるの。私が集めたのは、ほんの一部よ」
「……何百年分の記録なんでしょう」
「ものによっては、もっと古いわね」
黒凪は迷わず部屋の奥へ進み、木製の引き出しを開けた。
中から取り出したのは、大きな紙筒だった。
「……ちょっと、そこの机を空けてもらえる?」
「あ、はい」
銀澪は机の端に置かれていた筆記用具を移動させ、場所を作った。
黒凪は紙筒から古い地図を取り出し、慎重に広げる。
描かれていたのは、周辺の山々だった。
細い線で川や沢の流れが記され、ところどころに赤や青の印が付けられている。
「……これは?」
「この山の水脈を記録した古い地図よ」
黒凪は一つの印を指差した。
「ここが、この屋敷」
「……はい」
「そして、こっちがあなたの目覚めた神社ね」
銀澪は身を乗り出した。
確かに、山の斜面に小さな社の印が描かれている。
その周囲には、幾本もの細い線が集まっていた。
「……この青い線は?」
「地下水の流れよ。地表の川と違って、見ただけでは分からないものも多いわ」
黒凪は指先を滑らせた。
神社の周囲から伸びた線は、いくつもの分岐を経て、遠くの谷へ続いている。
そして、その先には別の印があった。
「……ここが、水守の里」
銀澪は地図を見つめた。
「……つながっているんですね」
「少なくとも、昔の記録ではね」
黒凪は頷いた。
「もちろん、今もまったく同じように水が流れているとは限らないわ。長い年月の間に地形も変わっているし、人間が作った水路もあるから」
「でも、可能性はある」
「ええ」
黒凪は地図の上に手紙を置いた。
「水葉が報告してきた異変が、同じ水脈の中で起きているとしたら……」
そこで言葉を止める。
銀澪は地図を見つめたまま、静かに続きを考えた。
一つの山で起きている異変ではない。
離れた土地で、似たような現象が発生している。
もし、それらが地下水脈でつながっているのなら。
「……どこか別の場所に、原因があるのかもしれませんね」
銀澪が言うと、黒凪は小さく頷いた。
「私もそう考えているわ」
彼女は地図を指差した。
「だから、今日は少しだけ山の水を確かめておこうと思うの」
「……調査、ですか?」
「ええ。屋敷の裏に小さな湧水があるでしょう? そこなら、水脈の流れを直接確かめられるわ」
銀澪はすぐに頷きかけた。
しかし、そこで一度考え直す。
「……僕も行っていいんでしょうか」
黒凪が顔を上げる。
「どうして?」
「僕の力が原因かどうか、まだ分からないんですよね。もしまた水が暴れたりしたら……」
黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。
それから、ゆっくりと首を振る。
「今日は力を使ってもらうつもりはないわ」
「……そうなんですか?」
「ええ。まずは、何もしていない状態で水の様子を見たいの。何が起きるか分からないのに、無理に力を試す必要はないでしょう?」
銀澪は納得したように頷いた。
「……なるほど」
「それに、あなたは水の動きを感じ取るのが得意みたいだから、私とは違うことに気づくかもしれないわ」
黒凪は少し笑った。
「一緒に来てもらえると助かるのだけれど、どうかしら?」
銀澪は顔を上げた。
「……もちろんです」
今度は、迷わず答えた。
「僕にできることがあるなら、手伝わせてください」
「ありがとう。じゃあ、準備しましょうか」
黒凪は地図を丁寧に畳み、紙筒へ戻した。
銀澪は机に置かれた手紙を見つめた。
龍になってから、初めて自分にも関わるかもしれない問題が現れた。
不安はある。
けれど、それ以上に、何が起きているのかを知りたいという気持ちが強かった。
◇
屋敷の裏手にある湧水までは、歩いて十五分ほどだった。
母屋から続く小道を抜けると、杉と広葉樹が混じった森へ入る。地面には落ち葉が積もり、その下には雨を含んだ柔らかな土が広がっていた。
黒凪は先を歩き、銀澪は少し後ろをついていく。
二人とも、角と尻尾は出したままだった。
この辺りは黒凪の屋敷から続く管理地で、人が立ち入ることはほとんどないという。
それでも、山道へ入る前には周囲に人の気配がないことを確かめていた。
「……それにしても、黒凪さん」
「何?」
「水葉さんとは、最後にいつ会ったんですか?」
黒凪は少し考えた。
「……直接会ったのは、三十年くらい前かしら」
「三十年……」
「そんなに驚くこと?」
「人間だった頃なら、随分久しぶりだと思うので」
黒凪は小さく笑った。
「そうね。でも、手紙や連絡は取っていたから。それに、あの子は昔から変わらないもの」
「……どんな方なんですか?」
「そうねぇ……」
黒凪は少しだけ歩く速度を落とした。
「真面目で、細かなことによく気づく子よ。水脈の記録なんて、私なら途中で飽きてしまいそうな仕事を、何百年も続けているんだから」
「……すごいですね」
「ええ。でも、一度何かが気になり始めると、納得するまで調べないと気が済まないの。昔からそういうところがあるわ」
黒凪は少し懐かしそうに笑った。
「子どもの頃なんて、川の流れがいつもと違うと言い出して、夜中に私を起こしに来たこともあったのよ」
「……夜中に?」
「ええ。私が眠そうにしていると、『大事な発見なのに!』って怒るの」
銀澪は思わず笑った。
「……楽しそうな方ですね」
「ふふっ。実際、話していると退屈しないわ」
黒凪はそう答えた後、少しだけ表情を引き締めた。
「……だからこそ、気になるのよ」
「……何がですか?」
「あの子が手紙を送ってきたこと」
銀澪は首を傾げた。
「手紙って、そんなに珍しいんですか?」
「普通の近況報告なら、電話でも済むでしょう?」
「……確かに」
「でも、水葉は今回、わざわざ観測記録を書き写して送ってきた。私が後から日付や場所を確かめられるようにね」
黒凪は足元の木の根を避けながら続けた。
「それだけ、正確に伝えたいことだったんだと思うわ」
銀澪は黙って頷いた。
しばらく歩くと、森の中から水音が聞こえてきた。
最初はかすかな音だった。
しかし、近づくにつれて、岩を伝う清流の音がはっきりとしてくる。
やがて木々が開け、小さな湧水が姿を現した。
苔むした岩の隙間から澄んだ水が湧き出し、石を伝って細い沢へ流れ込んでいる。
水量はそれほど多くないが、流れは安定していた。
黒凪は湧水の前で足を止めた。
「……ここよ」
銀澪は周囲を見渡した。
「……綺麗な場所ですね」
「ええ。昔から変わらず水が湧いているの」
黒凪は岩の近くへしゃがみ込み、指先を水へ浸した。
銀澪も隣へ腰を下ろす。
水は驚くほど冷たかった。
「……さて」
黒凪が静かに口を開いた。
「銀澪。まずは、何もせず水の流れを感じてみて」
「……はい」
「無理に動かそうとしなくていいわ。ただ、どこから来て、どこへ流れているのか。それを確かめるだけ」
銀澪は頷き、ゆっくりと目を閉じた。
周囲の音が遠ざかる。
木々のざわめき。
鳥の声。
足元の落ち葉が擦れる音。
その奥に、水の音があった。
岩の隙間から湧き出す水。
小石の間を通り抜ける流れ。
地面の下を、ゆっくりと移動する水の気配。
銀澪は息を整えた。
水の流れが、少しずつ頭の中に浮かび上がる。
「……見える」
思わず呟く。
隣で黒凪が顔を向けた気配がした。
「……何が?」
「水の流れです。地面の下の方まで、何となく……」
銀澪は目を閉じたまま続ける。
「この岩の下から、奥へ続いています。それから……」
そこで、言葉が途切れた。
何かが、おかしい。
湧水は絶え間なく流れている。
水音も変わらない。
けれど、そのさらに奥。
地面の下を流れる水の一部に、妙な違和感があった。
「……あれ?」
銀澪は眉を寄せた。
「……黒凪さん」
「何?」
「この奥の水……少し変じゃありませんか?」
黒凪はすぐには答えなかった。
代わりに、水へ浸していた指先を静かに動かした。
彼女も何かを確かめているらしい。
数秒後。
「……ええ」
黒凪の声が、少し低くなった。
「……私にも感じるわ」
銀澪はゆっくりと目を開けた。
湧水は、変わらず流れている。
しかし、その奥から伝わる気配だけが、妙に不規則だった。
まるで、二つの異なる流れが、同じ場所でぶつかり合っているような感覚。
「……水が逆向きに流れているんでしょうか」
銀澪が尋ねる。
黒凪は慎重に首を振った。
「……正確には、まだ分からないわ。ただ、普通の流れではないのは確かね」
彼女は立ち上がり、周囲を見渡した。
「銀澪。少し離れていて」
「……はい」
銀澪は言われたとおり、数歩後ろへ下がった。
黒凪は湧水の前に片膝をつき、再び手を伸ばした。
その瞬間だった。
ぴたり、と。
水音が止まった。
「…………え?」
銀澪は目を見開いた。
ほんの一瞬だった。
岩の隙間から流れ出していた水が、まるで時間を止められたかのように動きを失ったのだ。
直後、細い水の筋が岩肌を逆向きに伝った。
下へ落ちるはずの水が、数センチだけ上へ戻る。
そして、何事もなかったかのように元の流れへ戻った。
水音が再び響き始める。
黒凪は手を引き、しばらく動かなかった。
「……今の」
銀澪が呟く。
黒凪はゆっくりと頷いた。
「……見えたわ」
彼女の表情は、真剣だった。
「私が起こしたわけじゃない」
「……僕も、何もしていません」
「ええ。分かっているわ」
黒凪は立ち上がり、湧水を見つめた。
水はすでに普段どおり流れていた。
何も知らずに見れば、さっきの異変など想像もできないだろう。
銀澪は慎重に口を開いた。
「……水葉さんの手紙にあった現象と、似ていますね」
「そうね。今のところは、同じ現象と考えて調べた方がよさそう」
黒凪は鞄から小さなノートを取り出し、時間と場所を記録した。
続けて、湧水の状態を簡単に書き留める。
銀澪はその様子を見守っていた。
「……黒凪さん」
「何?」
「こういうこと、今までにもあったんですか?」
黒凪のペンが止まった。
彼女は少し考えてから答えた。
「……水の流れが変わること自体は、珍しくないわ。大雨や地震、地形の変化でも起きるもの」
「……はい」
「でも、今みたいに何の前触れもなく、一瞬だけ流れが止まるというのは……」
黒凪は湧水へ目を向けた。
「……私の知る限り、普通ではないわね」
銀澪は静かに頷いた。
そのとき、黒凪がノートを閉じた。
「……今日はここまでにしましょう」
「もう調べないんですか?」
「ええ。少なくとも、同じ現象がここでも起きていることは確認できたわ。これ以上、無理に水脈へ干渉する必要はないでしょう?」
黒凪は銀澪へ微笑んだ。
「焦っても、いい結果になるとは限らないもの」
「……そうですね」
銀澪は頷いた。
二人は湧水を離れ、来た道を戻り始めた。
その途中、銀澪は一度だけ振り返った。
苔むした岩。
澄んだ水。
静かな森。
先ほどまで、あそこでは確かに奇妙な現象が起きていた。
けれど、今は何事もなかったかのように水が流れている。
「……不思議ですね」
銀澪が呟く。
黒凪も足を止めた。
「ええ。本当に」
しばらく二人は、湧水を見つめていた。
それから黒凪が、静かに言った。
「……でも、銀澪」
「はい?」
「一つ、よかったことがあるわ」
「……何でしょう?」
「あなたが何もしていないときにも、異変が起きたことよ」
銀澪は顔を上げた。
「少なくとも、あなたが意識して力を使った結果ではないと分かったでしょう?」
「……はい」
「だから、何でも自分のせいだと思わなくていいの」
黒凪は穏やかに続けた。
「原因は、これから一緒に調べればいいわ」
銀澪はしばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……そうですね」
胸の奥にあった不安が、少しだけ軽くなった気がした。
黒凪は歩き出す。
銀澪も、その隣へ並んだ。
森の中には、いつもの水音が響いていた。
◇
屋敷へ戻った頃には、昼を少し過ぎていた。
二人は遅めの昼食を済ませ、居間で水葉への返事を考えていた。
黒凪は便箋を広げ、筆記用具を手にしている。
「……まず、こちらでも異変を確認したことは伝えた方がいいわね」
「はい。場所と時間も書いておいた方がよさそうです」
「そうね。水葉なら、記録と照らし合わせてくれるでしょう」
黒凪は静かに文章を書き始めた。
山の湧水で確認した現象。
流れが一瞬止まったこと。
その直後、わずかに逆流したこと。
そして、少なくとも二人が意図して起こした現象ではないこと。
一つひとつ、事実だけを記していく。
銀澪はその横で、先ほどの出来事を思い返していた。
水音が止まった瞬間。
あの奇妙な静けさ。
そして、水が逆向きに動いた感覚。
黒凪の説明を聞いても、まだ理解できないことばかりだった。
「……銀澪」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。
「はい?」
「一つ、聞いておきたいことがあるの」
黒凪は筆を置いた。
「あなたのことを、水葉に話してもいいかしら?」
銀澪は少し驚いた。
「……僕のこと、ですか?」
「ええ。白龍の青年が現れて、水脈に不思議な反応を示していること。調査を進めるなら、知らせておいた方がいいかもしれないわ」
黒凪はそこで言葉を切った。
「でも、あなたの過去のことや、転生の話まで勝手に伝えるつもりはないの。そこは、あなた自身に決めてほしい」
銀澪はしばらく考えた。
水葉という龍人について、まだ直接会ったことはない。
けれど、黒凪が信頼している相手だということは分かる。
それに、自分の力が何なのかを知るには、ほかの龍の知識が必要になるかもしれない。
「……黒凪さんが信頼している方なんですよね?」
「ええ」
黒凪は迷わず答えた。
「長い付き合いだもの。少なくとも、あなたを利用するような子ではないと信じているわ」
銀澪は静かに頷いた。
「だったら、話してもらって大丈夫です」
「……いいの?」
「はい。ただ、まだ僕自身にも分からないことが多いので、そのことは伝えておいてほしいです」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「もちろんよ。あなたに会ったばかりのことも、力のことも、分かっている範囲だけを伝えるわ」
銀澪は安心したように笑った。
「……ありがとうございます」
黒凪は再び筆を取る。
そして、少しだけ考えた後、文章を書き加えた。
それを見ていた銀澪は、ふと尋ねた。
「……黒凪さん」
「何?」
「水葉さんって、会いに行けば話を聞いてもらえるでしょうか?」
黒凪の手が止まった。
「……水守の里へ行きたいの?」
「はい。もちろん、すぐにというわけではないですけど」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「龍人の里にも興味がありますし……何より、自分のことを少しでも知りたいので」
黒凪は静かに頷いた。
「……そうね」
彼女は窓の外へ目を向けた。
「いずれは、一緒に行ってもいいかもしれないわね」
「……本当ですか?」
「ええ。ただし、まずは水葉の返事を待ちましょう。里にも事情があるし、いきなり訪ねて驚かせるわけにはいかないから」
銀澪は頷いた。
「分かりました」
「それに、あなたの生活のことも、まだ整理している途中でしょう?」
「……そうでした」
銀澪は少し苦笑した。
身分の問題。
人間だった頃の記憶。
龍としての能力。
そして、今後どこで暮らしていくのか。
考えるべきことは、本当に多かった。
黒凪はそんな銀澪を見て、小さく笑った。
「……焦らなくていいわよ」
「……はい」
「一つずつ、できることから進めていきましょう」
銀澪はゆっくりと頷いた。
◇
夕方になり、黒凪は手紙を書き終えた。
封筒へ入れる前に内容をもう一度読み返し、間違いがないことを確かめる。
銀澪も隣で確認していたが、黒凪の字は驚くほど綺麗だった。
「……黒凪さん、字が上手ですね」
「あら、ありがとう」
「昔から書いているんですか?」
「ええ。長く生きていると、いろいろな文字を書く機会があるもの」
黒凪は小さく笑った。
「昔は筆で書くことが多かったし、手紙も今よりずっと大切な連絡手段だったのよ」
「……そうなんですね」
「今は便利になったわね。遠くの相手とも、すぐに話せるんだもの」
彼女は封筒の口を閉じた。
それから、銀澪へ視線を向ける。
「……でも、こうして手紙を書くのも、私は嫌いじゃないわ」
「僕も、何となく分かる気がします」
銀澪は封筒を見つめた。
「文章を考えて、相手のことを思いながら書く時間って、いいですよね」
黒凪は少しだけ目を細めた。
「……そうね」
そして、穏やかに微笑んだ。
「だからこそ、大切なことは、ちゃんと自分の言葉で伝えたいのかもしれないわ」
銀澪は頷いた。
何気ない会話だった。
けれど、その言葉は妙に心に残った。
◇
その夜。
銀澪は客間で、今日の出来事をノートへ書き留めていた。
水葉という龍人。
水守の里。
各地で起きている水脈の異変。
そして、黒凪と一緒に確かめた湧水の様子。
分かったことと、まだ分からないことを分けて書いていく。
最初の頃は、頭の中で考えているだけだった。
けれど、黒凪の勧めで記録を残すようになってから、少しずつ自分の状況を整理できるようになっていた。
「……水守の里、か」
銀澪は小さく呟いた。
龍人たちが暮らす場所。
そこには、どんな人たちがいるのだろう。
どんな家が建っていて、どんな暮らしをしているのだろう。
龍の姿で空を飛ぶ者もいるのだろうか。
それとも、黒凪のように普段は人間の姿で暮らしているのだろうか。
想像するだけで、少し胸が躍った。
しかし、すぐに別のことを思い出す。
黒凪の言葉。
『龍だからといって、みんな同じ考え方をしているわけではないの』
銀澪はペンを止めた。
人間だった頃にも、いろいろな人と出会ってきた。
優しい人。
厳しい人。
考え方の合わない人。
それでも、互いに理解しようとすることはできる。
龍になったからといって、そのことまで変わるわけではないのだろう。
「……まずは、ちゃんと挨拶できるようにならないとな」
小さく笑う。
それから、ノートの端へ一つの言葉を書き加えた。
『龍の力は、守るために使う。』
銀澪はその文字を見つめた。
誰かに教えられた言葉ではない。
ただ、自分がこれからどんな龍でありたいのかを、忘れないために書いたものだった。
しばらくして、銀澪はノートを閉じた。
障子を少し開けると、庭には月明かりが差し込んでいた。
池の水面が、淡く輝いている。
その向こうでは、滝がいつもどおり流れていた。
「……明日も、いい日になるといいな」
銀澪は静かに呟き、障子を閉めた。
◇
同じ頃。
黒凪は書庫にいた。
机の上には、昼間広げた水脈の地図が置かれている。
その隣には、水葉から届いた手紙。
黒凪は二つを交互に見比べていた。
水守の里。
この山の湧水。
そして、銀澪が目覚めた神社。
地図には、それぞれを結ぶように細い青線が描かれている。
古い時代に調べられた地下水脈だった。
「……やっぱり、つながっているのね」
黒凪は小さく呟いた。
もちろん、それだけで異変の原因が分かるわけではない。
けれど、いくつもの場所で似た現象が起きていることには、何らかの意味があるように思えた。
黒凪は机の引き出しを開け、もう一冊の古い書物を取り出した。
祖母が生前、大切に保管していたものだった。
表紙には、かすれた文字で『水脈古録』と記されている。
黒凪は慎重にページをめくった。
その途中、見覚えのある地名が目に入った。
水守の里。
そして、銀澪が目覚めた神社の古い呼び名。
黒凪は指を止めた。
「……これは」
その下には、短い文章が記されていた。
古い言い回しだったが、黒凪には読むことができた。
『山の水、乱れるときは、まずその源を尋ねよ。水は己の意志なく逆らわず、されど地下にあるものの動きによって、その道を変える。』
黒凪はしばらく、その一節を見つめていた。
水は、自分の意思で逆流するわけではない。
何かが、その流れを変えている。
そう読むこともできる文章だった。
ただし、古い自然観に基づく教えなのか、それとも龍の力に関する記録なのかは分からない。
黒凪は慎重にページをめくった。
すると、その先に、もう一つ気になる言葉があった。
『三つの谷の水、ひとところに帰す。』
黒凪は息を止めた。
三つの谷。
水葉の手紙には、水守の里を含む三つの谷で異変が報告されていると書かれていた。
偶然だろうか。
それとも、この記録は何かを示しているのだろうか。
黒凪は本を閉じず、机の上の地図へ目を向けた。
そして、三つの谷を示す青線を、指先でゆっくりとなぞった。
細い水脈は、いくつもの枝に分かれている。
しかし、さらに古い地図の線をたどっていくと、それらは山の奥深くで一つの場所へ集まっていた。
黒凪の指が止まる。
そこには、小さな印が描かれていた。
ただの丸印ではない。
円の中に、二匹の龍が向かい合うような紋様。
黒凪は、その形を知っていた。
「……この紋様」
彼女は顔を上げた。
どこかで見たことがある。
屋敷の門柱。
祖母の木箱。
そして、昔から受け継がれてきた一族の記録。
そこに刻まれていたものと、よく似ていた。
「……まさか」
黒凪は思わず呟いた。
だが、すぐに首を振る。
まだ何も確かめていない。
古い紋様が似ているだけかもしれないし、地図の記録そのものが正確ではない可能性もある。
それでも。
黒凪の胸には、久しく感じたことのない緊張が生まれていた。
「……お祖母様」
小さく呟く。
「あなたは、何を残していたの……?」
答えは返ってこない。
書庫の外では、夜の風が木々を揺らしている。
黒凪は再び地図へ目を落とした。
そして、細い青線が集まる場所を見つめた。
そこは、今ではほとんど人が訪れない山奥だった。
古い地図にだけ残された、名もない谷。
黒凪はその場所へ、小さな印を付けた。
いずれ、確かめる必要がある。
そう思った。
けれど、今はまだ、銀澪に話すべきか迷っていた。
彼は、ようやく新しい生活に慣れ始めたばかりだ。
人間だった頃の記憶に向き合い、龍として生きていくことを決めたばかりでもある。
その彼を、根拠の曖昧な古い伝承で不安にさせたくはなかった。
「……もう少し、調べてからね」
黒凪は静かに呟いた。
それから、机の端に置かれていた水葉の手紙へ目を向ける。
何百年もの付き合いがある友人。
あの子なら、何かを知っているかもしれない。
黒凪は書物を丁寧に閉じ、立ち上がった。
長く静かだった山の水が、少しずつ変わり始めている。
その理由は、まだ分からない。
けれど、今は一人で考える必要はないのかもしれない。
黒凪の脳裏に、銀澪の姿が浮かんだ。
見知らぬ世界で目を覚まし、何も分からないまま、それでも前を向こうとしている白龍。
困っている人を見れば迷わず手を貸し、自分が助けてもらったときには何度でも感謝を伝える青年。
その姿を思い出すと、黒凪は自然と口元を緩めていた。
「……本当に、不思議な出会いね」
彼女は小さく笑った。
数日前まで、この屋敷には自分一人しかいなかった。
今は、廊下の向こうにもう一人いる。
まだ出会って間もない、白銀の龍。
彼がどんな存在なのか、まだ分からない。
それでも、少なくとも一つだけ、黒凪には分かっていた。
銀澪が来てから、この屋敷の朝は少し賑やかになった。
食卓には二人分の料理が並び、庭では誰かが笑っている。
そして、自分もまた、以前より少しだけ明日を楽しみにしている。
「……さて」
黒凪は机の灯りを落とした。
「明日は、何を教えてあげようかしら」
その声には、わずかな楽しさが混じっていた。
書庫の扉を閉め、廊下へ出る。
月明かりの差し込む廊下を歩きながら、黒凪はふと客間の方へ目を向けた。
もう、銀澪は眠っているだろうか。
明日になれば、また何かを尋ねてくるかもしれない。
龍の力について。
昔の一族について。
あるいは、まったく関係のない日常のことかもしれない。
黒凪は小さく微笑んだ。
どんな質問でも、答えられる範囲で教えてあげよう。
そう思った。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
そこでは今、白龍と黒龍の新しい日常が続いている。
そして、その穏やかな暮らしの向こうで、長く眠っていた龍たちの歴史が、静かに動き始めていた。




