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第五話 二人分の朝食

まだ夜の名残が残る山の中で、一羽の鳥が鳴いた。


 それに応えるように別の鳥が声を上げ、やがて木々の間に朝の気配が広がっていく。


 東の空は薄い青色に染まり始めていたが、庭にはまだ冷たい空気が漂っていた。池の水面には朝霧が浮かび、その向こうで小さな滝が絶え間なく水を落としている。


 銀澪は静かに布団から起き上がった。


「……よし」


 小さく呟き、枕元に置いていた時計を確認する。


 午前五時半。


 普段なら、もう少し眠っていてもよい時間だった。しかし今日は、いつもより早く起きると決めていた。


 昨日、黒凪と約束したのだ。


 朝食を自分が作る、と。


「……さて、何を作ろうかな」


 布団を畳みながら、頭の中で献立を考える。


 昨日の買い物で、必要な食材はある程度揃っている。卵、豆腐、長ねぎ、ほうれん草、それから鮭も買ってあったはずだ。


 冷蔵庫の中身を思い出しながら、銀澪は小さく頷いた。


「卵焼きに、味噌汁。それから焼き魚と……」


 少し考え、笑みを浮かべる。


「まあ、普通の和朝食でいいか」


 凝った料理を作ろうとして失敗するより、慣れているものを丁寧に仕上げた方がいい。


 人間だった頃にも、何度となく朝食を作ってきた。


 その経験が今も役立つのは、少し嬉しかった。


 布団を押し入れへしまい、身支度を整える。


 鏡の前に立つと、白銀の髪が寝癖で少し跳ねていた。


「……髪、長いと大変だな」


 以前の自分とは違う、肩を少し越える長さの髪。


 手櫛で整えようとしても、後ろの毛先がなかなか言うことを聞かない。


 仕方なく、洗面所で軽く濡らして整えることにした。


 顔を洗い、髪を直し、借りていた部屋着に袖を通す。


 それから、ふと額に触れた。


 そこには、白銀の龍角があった。


 昨夜は角と尻尾を出したまま眠っていたが、今朝はどちらも布団や家具にぶつけることなく起きられたらしい。


 少なくとも、以前のように水差しを倒すことはなかった。


「……少しは成長したかな」


 満足そうに頷いたところで、背後の尻尾が小さく揺れた。


 銀澪は鏡越しにその動きを確認する。


「……今日は大人しくしていてくれよ」


 もちろん、尻尾に別の意思があるわけではない。


 自分の身体の一部なのだから、扱い方を覚えるしかないのだ。


 そう考えて、銀澪は尻尾を消した。


 角は出したままにしておく。


 この屋敷では、黒凪も普段から龍人の姿で過ごしている。自分も少しずつ、その生活に慣れていきたかった。


 準備を終えると、銀澪は静かに客間を出た。


 廊下には、まだ誰の気配もない。


 古い木造の屋敷は夜明け前の静けさに包まれており、歩くたびに床板が小さく軋んだ。


 銀澪は足音を立てないよう気をつけながら、居間へ向かった。


     ◇


 台所に入ると、銀澪はまず冷蔵庫を開けた。


 昨日買った食材は、黒凪と一緒に整理してある。


 卵は上段。


 豆腐は中段。


 野菜は下の引き出し。


 魚は奥の保存スペースに入れてあった。


「……うん。大丈夫そうだ」


 銀澪は必要なものを取り出し、調理台へ並べた。


 そのとき、ふと手を止める。


 まだ、この台所の道具がどこにあるのか、すべて把握しているわけではなかった。


 包丁やまな板はすぐに見つかったものの、菜箸や計量器具は別の引き出しにしまわれていた。


 鍋も大小さまざまなものがあり、どれを使えばいいのか少し迷う。


「……人の台所って、慣れるまで難しいな」


 小さく苦笑する。


 とはいえ、昨日黒凪が使っているところを見ていたおかげで、ある程度の見当はついた。


 必要な道具を揃えると、銀澪は米の入った容器を取り出した。


 炊飯器には予約機能もあったが、今日は自分で準備してみることにする。


 米を量り、ボウルへ移す。


 水を注ぎ、指先で軽く混ぜる。


 白く濁った水を捨てようとしたところで、銀澪はふと手を止めた。


「……そういえば」


 水を操る力。


 この数日で、少しずつ扱い方が分かってきた。


 ならば、米を研ぐときにも使えるのではないだろうか。


 試しに、ボウルの中の水へ意識を向ける。


 水面が小さく揺れた。


 そのまま水だけを持ち上げようとした瞬間、銀澪の脳裏に黒凪の言葉が蘇った。


『力を使うことに慣れないうちは、普通に片づけた方が早いこともあるわ。特に、家の中ではね』


「…………」


 銀澪はゆっくりと手を下ろした。


「……やめておこう」


 昨日の水差しの一件を思い出す。


 水を操ること自体はできても、まだ細かな制御には不安が残っている。


 せっかくの朝食を台無しにする必要はない。


 銀澪は普通に水を捨て、再び新しい水を注いだ。


 人間だった頃から慣れ親しんだ動作。


 それを繰り返しているうちに、少し不思議な気持ちになった。


 龍になっても、こうして米を研いでいる。


 角が生えていても、尻尾があっても、朝食を作る手順は変わらない。


「……なんか、面白いな」


 自然と笑みが浮かんだ。


 自分が龍になることを夢見ていた頃、こんな日常までは想像していなかった。


 空を飛び、山を越え、強大な力を振るう。


 思い描いていたのは、そんな壮大な姿ばかりだった。


 けれど実際には、龍になった翌朝も、こうして朝食の準備をしている。


 そのことが、銀澪には少し嬉しかった。


 どんな姿になっても、普通の生活を大切にできる。


 それはきっと、悪いことではない。


     ◇


 米を炊飯器にセットすると、銀澪は味噌汁の準備を始めた。


 小鍋に水を入れ、昆布を浸しておく。


 その間に長ねぎを刻み、豆腐を食べやすい大きさに切った。


 包丁を動かしていると、手元が妙に軽いことに気づく。


 以前の身体よりも、指先の動きが滑らかだった。


 包丁の重さも、ほとんど感じない。


「……龍の身体って、器用なのかな」


 そう呟きながら、長ねぎを細かく刻んでいく。


 切り終えたところで、銀澪は少し考えた。


 身体能力が高くなったからといって、料理の腕まで上がるわけではない。


 むしろ、力加減を間違えれば包丁やまな板を傷めてしまうかもしれない。


 道具の扱いは、これまで以上に慎重にした方がよさそうだった。


 続いて卵を取り出す。


 小さなボウルに割り入れ、調味料を加えて混ぜる。


 味つけは少し甘めにした。


 昨日、黒凪が作ってくれた煮物も、わずかに甘い味つけだった。


 ならば、卵焼きも好みに合うかもしれない。


「……まあ、嫌いだったら次から変えればいいか」


 そんなことを考えながら、卵焼き器を温める。


 油を薄く広げ、卵液を流し込んだ。


 じゅっ、と小さな音が響く。


 卵の表面が固まり始めたところで、菜箸を使って端から巻いていく。


 最初の一巻きは少し歪んでしまったが、二度目、三度目と重ねるうちに形が整ってきた。


 焼き上がった卵焼きを皿へ移す。


「……よし。悪くない」


 銀澪は満足そうに頷いた。


 続いて魚を焼く準備を始める。


 その頃には、窓の外も随分と明るくなっていた。


 庭では朝日が木々の葉を照らし、池の水面に細かな光を散らしている。


 銀澪は一度手を止め、窓の外へ目を向けた。


 静かな山。


 流れる水。


 そして、誰かのために作っている朝食。


 人間だった頃の記憶にある、何気ない朝の風景と重なるようで、少しだけ違っていた。


「……今日も、いい朝だな」


 そう呟いたときだった。


「……あら?」


 背後から声が聞こえた。


 銀澪が振り返ると、台所の入口に黒凪が立っていた。


 漆黒のショートウルフは少し乱れており、普段よりも柔らかな印象だった。


 服装は薄い白色の部屋着に、ゆったりした黒のパンツ。


 龍角と尻尾も出したままだ。


 黒凪は台所の様子を見渡し、少し驚いた顔をしていた。


「……銀澪?」


「おはようございます、黒凪さん」


「あ……ええ。おはよう」


 黒凪は一度、時計へ目を向けた。


 それから、調理台に並んだ食材を見る。


「……もう起きていたのね」


「はい。今日は朝食を作る約束でしたから」


「そうだったわね。でも、こんなに早くから?」


「せっかくなので、ちゃんと作ろうと思いまして」


 銀澪は少し笑った。


「もう少しでできますよ」


 黒凪はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと台所へ入ってくる。


「……何か手伝おうかしら」


「大丈夫ですよ。今日は任せてください」


「でも……」


 黒凪は卵焼きへ視線を向けた。


 綺麗に焼き上がった卵焼きが、まな板の上で冷まされている。


 隣には刻んだねぎと豆腐。


 炊飯器からは、米の炊ける香りが漂い始めていた。


「……本当に、ちゃんと作れるのね」


「黒凪さん、もしかして疑ってました?」


 銀澪が苦笑する。


 黒凪は小さく首を振った。


「いいえ。ただ……少し驚いただけよ」


「……?」


「人に朝食を作ってもらうなんて、久しぶりだから」


 その言葉は、何気なく口にされたものだった。


 けれど、黒凪の声には、わずかな懐かしさが混じっていた。


 銀澪は一瞬だけ手を止めた。


 それでも、すぐにいつもの調子で答える。


「じゃあ、久しぶりの朝食、期待してください」


 黒凪は目を瞬かせた。


 それから、ゆっくりと笑った。


「……ええ。楽しみにしているわ」


 彼女はそれ以上手を出さず、食卓の椅子へ腰を下ろした。


 普段なら自分が立っている台所。


 そこに、今日は別の誰かがいる。


 黒凪はその光景を、しばらく黙って眺めていた。


     ◇


 朝食が完成したのは、それから二十分ほど後だった。


 銀澪は最後に味噌汁の味を確かめ、火を止める。


 炊飯器からご飯をよそい、焼き魚を皿に移す。


 卵焼きには大根おろしを添えた。


 それから、二人分の食器を盆に載せて運んでいく。


「……お待たせしました」


 食卓に並んだ料理を見て、黒凪は小さく目を見開いた。


 白米。


 豆腐と長ねぎの味噌汁。


 焼き鮭。


 少し甘めの厚焼き卵。


 ほうれん草のおひたし。


 そして、昨夜のうちに用意しておいた浅漬け。


 派手さはないが、品数の揃った和朝食だった。


「……すごいじゃない」


 黒凪が感心したように言った。


「本当に、全部一人で?」


「はい。といっても、そんなに難しいものは作っていませんけど」


「十分よ。私なんて、一人のときはもっと簡単に済ませることも多いもの」


 黒凪は椅子に座り、銀澪を見上げた。


「……ありがとう」


 その声は、いつもより少し静かだった。


 銀澪は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、柔らかく微笑む。


「どういたしまして」


 二人は手を合わせ、朝食を食べ始めた。


 黒凪はまず、味噌汁を一口飲んだ。


 銀澪は少し緊張しながら、その様子を見守る。


 黒凪はゆっくりと味を確かめた。


 それから、もう一口。


「……うん」


 銀澪は思わず尋ねた。


「……どうですか?」


「美味しいわ」


 黒凪は顔を上げた。


「出汁がしっかりしているし、味噌の量もちょうどいい。優しい味ね」


「……よかった」


 銀澪はほっと息を吐いた。


 黒凪はその反応を見て、小さく笑う。


「そんなに緊張していたの?」


「……少しだけ」


「ふふっ。昨日は随分自信がありそうだったのに」


「いや、料理はできるんですけど、人に食べてもらうとなると別ですから」


「そういうもの?」


「そういうものです」


 銀澪が真面目に答えると、黒凪は楽しそうに笑った。


「……なるほどね」


 続いて卵焼きを口へ運ぶ。


 噛むと、出汁の香りと柔らかな甘みが広がった。


 黒凪は目を細める。


「……あら。これ、好きな味だわ」


「本当ですか?」


「ええ。少し甘めなのね」


「昨日の煮物が甘めだったので、もしかしたら好みかなと思って」


 黒凪の箸が止まった。


「……昨日の煮物?」


「はい。黒凪さん、甘めの味つけが好きなのかなって」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 やがて、ふっと表情を和らげる。


「……よく覚えていたのね」


「美味しかったので」


「そう……」


 黒凪はもう一口、卵焼きを食べた。


 その表情は穏やかだった。


 けれど、銀澪には彼女が少しだけ物思いに耽っているように見えた。


 何かを思い出しているのだろうか。


 そう思ったものの、銀澪は無理に尋ねなかった。


 代わりに、自分も卵焼きを一切れ口へ運ぶ。


「……うん。悪くないですね」


「悪くない、どころじゃないわよ」


 黒凪が小さく笑った。


「これなら、毎朝お願いしたくなってしまうわね」


「それは……さすがに毎日は大変かもしれません」


「あら、残念」


「でも、交代で作るくらいならいいですよ」


 銀澪は自然にそう答えた。


 黒凪が顔を上げる。


「……交代?」


「はい。黒凪さんばかり料理するのも大変でしょうし。僕も作れるので、交代で担当するとか」


 銀澪は何気ない調子で続けた。


「そうすれば、お互い少しは楽になりますよね」


 黒凪はすぐには返事をしなかった。


 しばらく銀澪の顔を見つめ、それから食卓へ視線を落とす。


 二人分の茶碗。


 二人分の汁椀。


 二人分の箸。


 その光景を見つめながら、彼女は静かに息を吐いた。


「……そうね」


 小さな声だった。


「……それも、いいかもしれないわね」


     ◇


 食事を終えると、黒凪は食器を片づけようと立ち上がった。


 銀澪も反射的に席を立つ。


「僕が洗いますよ」


「いいわ。今朝は料理を作ってもらったもの。片づけくらいは私がやるわ」


「でも……」


「銀澪」


 黒凪は少しだけ眉を上げた。


「全部一人でやろうとしたら、交代にする意味がないでしょう?」


「……あ」


 銀澪は思わず口を閉じた。


 確かに、そのとおりだった。


 黒凪は小さく笑う。


「今日はあなたが料理を作ってくれたんだから、片づけは私がする。それでいいじゃない」


「……分かりました」


「よろしい」


 黒凪は満足そうに頷いた。


 そして、食器を重ねて流しへ運んでいく。


 銀澪はその様子を眺めながら、少しだけ考えた。


 自分は黒凪に助けてもらっている。


 だから、できるだけ負担をかけたくない。


 その気持ちは今も変わらなかった。


 けれど、相手が手伝いたいと思っているなら、その気持ちを受け取ることも必要なのかもしれない。


「……じゃあ、お茶を淹れておきますね」


 銀澪が言うと、黒凪は振り返った。


「あら、お願いできる?」


「もちろんです」


「ありがとう。食器を片づけたら、縁側で飲みましょうか」


「はい」


 銀澪は頷いた。


 そのやり取りが、あまりにも自然だったことに、二人ともまだ気づいていなかった。


     ◇


 片づけを終えた黒凪は、棚の奥から小さな木箱を取り出していた。


 銀澪が湯呑みを持って居間へ戻ると、彼女は食卓に木箱を置き、中身を確かめているところだった。


「……何を見ているんですか?」


 銀澪が尋ねる。


 黒凪は顔を上げた。


「ああ、これ?」


 木箱の中には、古い写真が何枚か入っていた。


 色褪せた白黒写真。


 少し黄ばんだ集合写真。


 そして、古い屋敷の前で撮影されたらしい、一枚の写真。


 黒凪はその中から、一枚を取り出した。


「……昔の写真よ」


 銀澪は少しだけ身を乗り出した。


 写真には、今とよく似た屋敷の縁側が写っていた。


 ただし、庭の木々は今よりも低く、池の周囲にはまだ石灯籠が置かれていない。


 縁側には、二人の女性が座っていた。


 一人は、見覚えのある漆黒の髪を持つ女性。


 もう一人は、落ち着いた表情をした年配の女性だった。


「……これ、黒凪さんですか?」


 銀澪が尋ねると、黒凪は頷いた。


「ええ。随分昔の写真だけれど」


「……全然変わっていませんね」


「ふふっ。龍だもの。人間ほど早くは年を取らないわ」


 黒凪は写真を見つめた。


 その金色の瞳が、少しだけ柔らかくなる。


「……隣にいるのは、私の祖母よ」


「……お祖母さん?」


「ええ。私を育ててくれた人なの」


 銀澪は改めて写真へ目を向けた。


 年配の女性は、穏やかな笑みを浮かべていた。


 黒凪とよく似た目元をしている。


 髪は長く、後ろで丁寧にまとめられていた。


 写真だけでは分からないが、どこか凛とした雰囲気がある。


「……優しそうな方ですね」


 銀澪が呟くと、黒凪は小さく笑った。


「優しかったわよ。でも、怒ると怖かったの」


「……黒凪さんが?」


「そうよ。私だって、昔はいたずらばかりしていたんだから」


 銀澪は少し驚いた。


「……想像できませんね」


「あら、そう?」


「はい。黒凪さんって、昔から落ち着いていたのかと思っていました」


 黒凪は声を出して笑った。


「そんなわけないでしょう。小さい頃は、よく山で遊んでいたわ」


 彼女は写真を指先で軽く撫でた。


「龍の姿になって川を泳いだり、山の上まで飛んでいったり。祖母には、何度も叱られたものよ」


「……へえ」


「一番怒られたのは、庭の池をひっくり返したときかしら」


 銀澪は思わず瞬きをした。


「……池を?」


「ええ。水を操る練習をしていたら、加減を間違えてしまってね。池の水を全部空中へ持ち上げてしまったの」


「……全部ですか?」


「全部よ」


 黒凪は少し恥ずかしそうに笑った。


「そのまま制御できなくなって、庭が水浸し。祖母に見つかったときは、もう大変だったわ」


 銀澪は想像してしまった。


 まだ幼かった黒凪が、庭の上に巨大な水球を浮かべている。


 その下では、池の魚が大慌て。


 そして、現れた祖母に叱られる。


「……ふふっ」


「……銀澪?」


「いえ……すみません」


 銀澪は笑いを堪えようとした。


 しかし、黒凪が少しだけ頬を膨らませたのを見て、とうとう笑ってしまった。


「……黒凪さんにも、そんな時代があったんですね」


「もう。何度も言っているでしょう? 私だって最初から大人だったわけじゃないのよ」


 そう言いながらも、黒凪は楽しそうだった。


 やがて、もう一度写真へ目を落とす。


「……祖母はね、何でも教えてくれたの」


 その声が、少しだけ静かになった。


「龍の力の扱い方も、人間との付き合い方も。この山のことも、家のことも……本当に、いろいろ」


 銀澪は黙って聞いていた。


「料理も、祖母から教わったのよ。今朝あなたが作ってくれた卵焼きも、昔よく食べていたものに少し似ていたわ」


「……そうだったんですか」


「ええ。祖母も、少し甘めの味つけが好きだったから」


 黒凪は懐かしそうに微笑んだ。


 銀澪は、今朝彼女が卵焼きを口にしたときの表情を思い出した。


 何かを思い出しているように見えた理由が、ようやく分かった気がした。


「……お祖母さんは、今は?」


 そこまで言って、銀澪は少しだけ迷った。


 聞いてよいことなのか、判断できなかった。


 けれど、黒凪は静かに答えた。


「……もう、いないわ」


「…………」


「随分昔に亡くなったの」


 黒凪は写真を木箱へ戻さず、しばらく見つめていた。


 銀澪は何と答えるべきか迷った。


 軽々しく慰めることもできない。


 何千年も生きる龍にとって、大切な家族との別れがどれほどのものなのか、自分にはまだ分からない。


 しばらく考えた末、銀澪は静かに口を開いた。


「……大切な方だったんですね」


 黒凪は顔を上げた。


 銀澪は続ける。


「お話を聞いていると、すごく伝わってくるので」


 黒凪はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと微笑む。


「……ええ。大切な人だったわ」


 彼女は写真を丁寧に木箱へ戻した。


「でも、不思議なものね。何百年経っても、こうして話していると、つい昨日のことみたいに思い出せるの」


「……そういうものなんですね」


「ええ。声も、笑い方も、怒ったときの顔も。今でもはっきり覚えているわ」


 黒凪は木箱の蓋を閉じた。


 その手つきは、とても丁寧だった。


「……だから、この家を残しているのかもしれないわね」


 銀澪は顔を上げた。


「この家を?」


「ええ。祖母が大切にしていた場所だから」


 黒凪は窓の外へ視線を向けた。


 庭の池。


 古い石灯籠。


 その向こうに見える、小さな滝。


「昔は、ここにも家族がいたの。毎朝誰かが台所に立って、食卓には何人分もの料理が並んでいた。庭では子どもたちが遊んで、夜になれば居間に集まって……」


 そこで、少しだけ言葉を止める。


「……賑やかだったわ」


 銀澪は静かに頷いた。


「皆さん、今は別の場所に?」


「ええ。自分の暮らしを持って離れていった者もいるし、もう会えなくなった者もいるわ」


 黒凪は少し考えた後、続けた。


「龍は長生きだから、家族だからといって、いつまでも同じ家で暮らすわけじゃないのよ。それぞれの道を選んで、遠くへ旅立つ者もいる」


「……なるほど」


「私も昔は、随分あちこちへ行ったわ。でも、結局ここへ戻ってきたの」


「……どうしてですか?」


 黒凪は庭を見つめた。


「……ここが好きだったから、かしら」


 少し考えてから、小さく笑う。


「祖母の思い出もあるし、この山の水も好き。何より、落ち着くのよ。ここにいると」


 銀澪はその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。


「……分かる気がします」


「あら、あなたも?」


「はい。僕も、この家は好きです」


 銀澪は窓の外へ目を向けた。


「山があって、川があって、静かで……何となく、ずっとここにいたくなる感じがするんです」


 黒凪は少し驚いたように銀澪を見た。


「……ずっと?」


「あっ、いや、その……」


 銀澪は慌てて顔を向けた。


「もちろん、居候するつもりで言ったわけじゃないですよ。ただ、こういう場所が好きだなって……」


 黒凪は一瞬、目を丸くした。


 それから、くすりと笑った。


「……分かっているわよ」


「……よかった」


「そんなに慌てなくても大丈夫」


 黒凪は穏やかに微笑んだ。


「でも、嬉しいわ。私が大切にしている場所を、あなたも気に入ってくれたのなら」


 銀澪は少し照れくさそうに笑った。


「……はい」


 二人の間に、短い沈黙が流れる。


 けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。


 窓の外から聞こえる水の音が、静かな居間を満たしていた。


     ◇


 午前十時を過ぎた頃。


 銀澪は縁側で洗濯物を畳んでいた。


 黒凪は庭へ出て、植木の様子を確かめている。


 今日は天気がよく、山から吹く風も穏やかだった。


 銀澪は手元の衣服を畳みながら、先ほど聞いた話を思い返していた。


 黒凪の祖母。


 昔の家族。


 そして、長い年月を経て一人になった屋敷。


 これまで、黒凪のことを穏やかで親切な龍だと思っていた。


 もちろん、それは間違っていない。


 けれど、今朝の話を聞いて、彼女にも長い歴史があることを改めて感じた。


 自分の知らない時代を生き、家族と笑い合い、別れを経験してきた。


 今の黒凪は、そうした時間の積み重ねの上にいる。


「……何千年、か」


 銀澪は小さく呟いた。


 人間だった頃なら、到底想像できない長さだった。


 もし自分も、これから何千年も生きるのだとしたら。


 その間に、何人の人と出会うのだろう。


 どれほどの別れを経験するのだろう。


 そして、何を大切にして生きていくのだろうか。


 銀澪は畳んだ衣服を重ね、庭へ目を向けた。


 黒凪は池のほとりにしゃがみ込み、何かを確かめている。


 長い黒龍の尻尾が、庭石を避けるように静かに動いていた。


 その姿を眺めていると、不意に彼女が振り返った。


「……銀澪?」


「あ、はい」


「少し手を貸してもらえるかしら」


「もちろんです」


 銀澪は立ち上がり、庭へ降りた。


 黒凪は池の端にある小さな水路を指差した。


「ここの落ち葉を取り除きたいの。昨日の雨で、少し詰まってしまったみたい」


「ああ、なるほど」


「水を動かす必要はないわ。枝を使って、少しずつ取り出せば大丈夫だから」


 黒凪はそう言って、銀澪へ細い竹の棒を渡した。


 銀澪は受け取り、池の端へしゃがみ込む。


 水路には落ち葉がいくつも溜まっていた。


 雨で流されてきたものが、石の隙間に引っかかったらしい。


「……これくらいなら、すぐ終わりそうですね」


「ええ。私も反対側を片づけるわ」


 二人は並んで作業を始めた。


 銀澪が竹の棒で落ち葉を寄せ、黒凪が小さな網ですくい上げる。


 ときどき水が跳ね、二人の袖を濡らした。


「……あら」


 黒凪が小さく声を上げる。


「どうしました?」


「小さな魚が引っかかっているみたい」


 黒凪が網を持ち上げると、中には落ち葉と一緒に小さな魚が入っていた。


 銀澪は覗き込む。


「……本当だ」


「水路を遡ろうとして、流されてしまったのかもしれないわね」


 黒凪は慎重に落ち葉を取り除き、魚を池へ戻した。


 小さな魚は一瞬だけ水面近くに留まり、すぐに深いところへ泳いでいった。


「……元気そうですね」


「ええ。よかったわ」


 黒凪は穏やかに微笑んだ。


 銀澪はその横顔を眺めた。


 昨日、車の中で彼女が話していたことを思い出す。


『私は必要なときに少し手を貸すだけ』


 山の水を見守る龍。


 けれど、こうして小さな魚一匹のことも気にかけている。


 銀澪は小さく笑った。


「……黒凪さんらしいですね」


 黒凪が顔を向ける。


「……何が?」


「いえ。こういうところが、です」


「……?」


 黒凪は不思議そうに首を傾げた。


 銀澪は少し考えてから、言葉を選んだ。


「黒凪さんって、強い龍なんですよね?」


「……まあ、人並みにはね」


「龍の人並みって、基準が分からないですけど」


 銀澪が苦笑すると、黒凪も小さく笑った。


「それで?」


「……強い力を持っていても、こういう小さなことを大切にしているのが、いいなと思って」


 黒凪は一瞬、言葉を失った。


 銀澪は続ける。


「僕も、そういう龍になりたいです」


「…………」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「……あなた、時々不思議なことを言うわね」


「……そうですか?」


「ええ。でも……」


 黒凪は池へ視線を戻した。


「……嫌いじゃないわ」


 その声は、少しだけ照れくさそうだった。


 銀澪は何も言わず、再び水路の落ち葉を取り除き始めた。


 黒凪も隣で作業を続ける。


 二人の間には、再び穏やかな時間が流れ始めた。


     ◇


 作業を終え、縁側へ戻った頃には、昼前になっていた。


 黒凪は冷たい麦茶を二つ用意し、銀澪の隣へ腰を下ろした。


「……今日はありがとう。随分助かったわ」


「いえ。これくらいなら、いつでも」


「ふふっ。頼もしいわね」


 二人は湯呑みを手に取り、庭を眺めた。


 水路の詰まりが解消されたおかげで、池の水は以前よりも滑らかに流れている。


 小さな滝から落ちた水が池へ入り、反対側の水路からゆっくりと抜けていく。


 銀澪はその流れを見つめながら、ふと口を開いた。


「……黒凪さん」


「何?」


「お祖母さんのこと、話してくれてありがとうございました」


 黒凪が顔を向けた。


 銀澪は少しだけ微笑んだ。


「大切な思い出だったんですよね」


「……ええ」


「無理に聞くつもりはないですけど、またいつか、昔の話を聞かせてもらえたら嬉しいです」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……そうね」


 その声は、穏やかだった。


「機会があれば、また話すわ」


「はい」


 銀澪は小さく頷いた。


 黒凪は湯呑みを両手で包み、庭へ視線を戻した。


「……それにしても」


「はい?」


「今朝の卵焼き、本当に美味しかったわ」


 銀澪は少し驚いた。


「……ありがとうございます」


「祖母の作っていたものに似ていたから、懐かしかったのかもしれないけれど」


 黒凪は少しだけ微笑んだ。


「でも、それだけじゃないと思うの」


「……?」


「誰かが自分のために料理を作ってくれるって、やっぱり嬉しいものね」


 銀澪はその言葉を静かに聞いていた。


 黒凪は続ける。


「一人で暮らしていると、食事って、つい簡単に済ませてしまうことがあるの。自分のためだけに作るなら、それでも困らないでしょう?」


「……そうですね」


「でも、今日は違ったわ」


 黒凪は少し照れくさそうに笑った。


「朝起きたら、台所から料理の音が聞こえてきて。誰かが朝食を作ってくれている。それだけで、何だか昔に戻ったような気がしたの」


 銀澪は静かに微笑んだ。


「……それなら、作った甲斐がありました」


「ええ。本当に」


 黒凪は頷いた。


 それから、ふと銀澪の方を見る。


「……ねえ、銀澪」


「はい?」


「しばらく、朝食は交代で作ることにしましょうか」


 銀澪は目を瞬かせた。


「……いいんですか?」


「ええ。あなたが嫌じゃなければ、だけれど」


「もちろん、いいですよ」


 銀澪は嬉しそうに頷いた。


「僕も料理するのは好きなので」


 黒凪は少し笑った。


「じゃあ、決まりね」


「はい」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。


 ただ、それだけの約束だった。


 特別な誓いでも、深い意味を持つ言葉でもない。


 けれど、黒凪にとっては少し違った。


 長い年月を一人で暮らしてきた屋敷。


 そこに、明日の朝食を作る相手がいる。


 明後日は、自分が作る。


 その次は、また銀澪が作るかもしれない。


 そんな何気ない予定が、少しずつ生まれていく。


 黒凪はそのことを、静かに嬉しく感じていた。


     ◇


 その日の夕方。


 銀澪は客間で、黒凪から借りたノートを開いていた。


 昨日、街へ出かけたときに聞いたこと。


 身分を確認するために必要な情報。


 これから調べなければならないこと。


 それらを一つずつ整理していた。


 ノートの端には、人間だった頃に覚えていた地名が書き込まれている。


 家族のこと。


 住んでいた場所。


 そして、記憶が途切れる直前の出来事。


 銀澪はペンを止めた。


「……やっぱり、思い出せないな」


 どれだけ考えても、最後の部分だけが曖昧だった。


 そこへ至るまでの記憶は、はっきりしている。


 なのに、その先だけが切り取られたように抜け落ちている。


 銀澪は小さく息を吐いた。


 無理に思い出そうとしても、仕方がない。


 それは黒凪にも言われていた。


 ノートを閉じ、窓の外へ目を向ける。


 庭の池には夕日が映り、木々の影が長く伸びている。


 明日も、黒凪と一緒に朝食を食べる。


 その後は、庭の手入れをするかもしれない。


 あるいは、龍の力について教えてもらうかもしれない。


 先のことは、まだ分からない。


 それでも、自分には今、できることがある。


「……一つずつ、だな」


 銀澪は静かに呟いた。


 そして、机の上のノートを丁寧に閉じた。


     ◇


 同じ頃。


 黒凪は居間で、朝に見ていた木箱を再び開いていた。


 中から、祖母と一緒に写った写真を取り出す。


 古い屋敷。


 まだ若かった庭木。


 そして、穏やかに笑う祖母。


 黒凪は写真を見つめながら、小さく微笑んだ。


「……お祖母様」


 誰にも聞こえないほどの声で呟く。


「今日はね、久しぶりに誰かが朝ごはんを作ってくれたの」


 写真の中の祖母は、変わらず穏やかに笑っている。


「卵焼きが少し甘くて……昔、お祖母様が作ってくれたものに似ていたわ」


 黒凪は静かに息を吐いた。


 長い年月を生きてきた。


 何度も別れを経験し、何度も新しい出会いを迎えてきた。


 その中で、一人で過ごすことにも慣れたつもりだった。


 朝起きて、食事を作り、庭を整え、夜になれば本を読む。


 誰かがいなくても、困ることはない。


 そう思っていた。


 けれど。


「……不思議ね」


 黒凪は小さく笑った。


「たった数日で、こんなに賑やかになるなんて」


 銀澪の姿が浮かぶ。


 朝、台所で料理をしていた姿。


 卵焼きの味を気にして、少し緊張していた顔。


 庭で落ち葉を集めながら、何気ない会話を交わした時間。


 どれも、特別な出来事ではなかった。


 むしろ、昔は当たり前だった光景ばかりだ。


 それなのに、今は一つひとつが新鮮に感じられる。


「……あの人、何者なのかしらね」


 黒凪は写真を木箱へ戻した。


 銀澪の転生については、まだ分からないことが多い。


 彼がなぜ龍になったのか。


 なぜ、あの神社に現れたのか。


 そして、山の水脈が彼に反応した理由。


 調べるべきことは山ほどある。


 それでも、今朝の食卓を思い返すと、黒凪は少しだけ違うことを考えてしまう。


 もし、銀澪がこの屋敷を離れることになったら。


 また、一人の朝に戻るのだろうか。


 その想像が浮かんだ瞬間、黒凪は小さく首を振った。


「……何を考えているのかしら、私」


 まだ出会って数日しか経っていない。


 銀澪には、銀澪自身の人生がある。


 人間だった頃の家族を探したいという願いもある。


 自分が寂しいからといって、その道を引き止める理由にはならない。


 黒凪は静かに息を吐いた。


「……そうよね」


 そして、木箱の蓋を閉じた。


 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。


「……黒凪さん?」


 銀澪の声だった。


 黒凪は顔を上げる。


「どうしたの?」


「夕飯の準備、そろそろ始めようかと思って。何か手伝えることありますか?」


 黒凪は一瞬、目を丸くした。


 それから、ふっと微笑んだ。


「……そうね」


 少し考えてから、立ち上がる。


「今日は一緒に作りましょうか」


「いいですね」


 銀澪の嬉しそうな声が返ってくる。


 黒凪は木箱を棚へ戻し、居間を出た。


 廊下には、夕日が差し込んでいる。


 その先で銀澪が待っていた。


「……何を作ります?」


 銀澪が尋ねる。


 黒凪は少し考えた。


「そうね。昨日買った大根があるから、煮物にしましょうか」


「いいですね。じゃあ、僕が下ごしらえします」


「あら、助かるわ」


 二人は並んで台所へ向かった。


 その背中を、夕日の柔らかな光が照らしていた。


 長い時間を生きる龍にとって、一日などほんの短いものなのかもしれない。


 けれど、その短い一日の中にも、忘れたくない時間は生まれる。


 誰かが用意してくれた朝食。


 何気ない会話。


 一緒に片づける食器。


 そして、明日もまた同じ食卓を囲むという、小さな約束。


 銀澪と黒凪は、まだ互いのことをほとんど知らない。


 それでも、少しずつ知ろうとしていた。


 長い年月を生きる白龍と黒龍。


 二人の間に生まれたものは、まだ恋ではない。


 ただ、相手がいることで、今までとは少し違う明日を楽しみに思える。


 そんな穏やかな変化だった。


 そして、その夜。


 山の奥に建つ古い和風屋敷には、二人分の夕食を作る音が、いつもより少し長く響いていた。

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