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第四話 人間たちの街へ

銀澪が黒凪の屋敷で暮らし始めて、四日目の朝を迎えた。


 山の空気はまだ冷たかったが、ここ数日続いていた雨はすっかり上がっていた。雲の切れ間から差し込む朝日が、庭の池を淡い金色に染めている。


 縁側では、銀澪が両手に湯呑みを持って座っていた。


 もっとも、ただ景色を眺めているわけではない。


 背後に伸びる白銀の尻尾を、ゆっくりと左右へ動かしている。


 右へ。


 左へ。


 少し持ち上げて、先端を丸める。


 それから、床に触れないように静かに下ろした。


「……よし」


 以前なら、ここで尻尾が勢い余って床を叩いていただろう。


 しかし、今朝は違った。


 尾の先端が縁側の板に触れる寸前で止まり、そのまま滑らかな曲線を描いて身体の横へ収まった。


 銀澪は満足そうに頷いた。


「だいぶ慣れてきたかな」


「何に?」


「うわっ!?」


 突然背後から聞こえた声に、銀澪の尻尾が跳ね上がった。


 振り返ると、盆を持った黒凪が立っていた。


 漆黒のショートウルフは朝の光を受けて柔らかく艶めき、黒曜石のような角が髪の間から伸びている。


 服装は薄い灰色のシャツに、黒のワイドパンツ。家の中では肩の力を抜いた格好を好むらしく、初めて出会ったときの凛とした印象とは少し違って見えた。


「……驚かせないでくださいよ」


「あら、ごめんなさい。そんなに集中しているとは思わなかったの」


 黒凪は悪びれた様子もなく微笑み、盆を縁側へ置いた。


 その上には、湯気の立つ緑茶が二つと、小さな羊羹が並んでいる。


「それで、何が上達したの?」


「尻尾の扱いです。昨日よりは自然に動かせるようになった気がして」


「そうなの? じゃあ、見せてもらおうかしら」


 銀澪は少し考え、自分の尻尾へ意識を向けた。


 白銀の尾がゆっくりと持ち上がり、黒凪の前で緩やかな弧を描く。


 そのまま一度、先端を丸めてみせた。


「……こんな感じです」


「へえ。随分上達したじゃない」


 黒凪は素直に感心した様子で頷いた。


「まだ少し動きが硬いけれど、最初の頃とは全然違うわね」


「ありがとうございます。黒凪さんに教えてもらったおかげです」


「私は基本を教えただけよ。ちゃんと練習したのはあなたでしょう?」


 そう言って、黒凪は銀澪の隣へ腰を下ろした。


 その際、長い黒龍の尻尾が、まるで意思を持つかのように自然と身体の横へ収まる。


 銀澪はその動きを眺め、思わず感心した。


「……やっぱり、黒凪さんの動きは綺麗ですね」


「尻尾のこと?」


「はい。無駄がないというか、身体の一部として扱えている感じがします」


「実際、身体の一部だもの」


 黒凪は少し笑った。


「あなたも、あと何十年かすれば意識しなくても動かせるようになるわよ」


「……何十年」


 銀澪は思わず繰り返した。


 黒凪が首を傾げる。


「どうしたの?」


「いや……人間だった頃の感覚だと、何十年って結構長いので」


「ああ、そういうこと」


 黒凪は納得したように頷き、湯呑みを手に取った。


「ごめんなさいね。つい、いつもの感覚で話してしまったわ」


「いえ。龍にとっては、それくらい普通なんですよね」


「そうね。でも、尻尾の扱いに何十年も必要というわけじゃないわよ。今の調子なら、日常生活で困らない程度にはすぐ慣れると思う」


「……それを聞いて安心しました」


 銀澪は苦笑した。


 何千年も生きる龍にとっては、十年や二十年など短い時間なのかもしれない。


 けれど、人間として生きてきた自分には、まだその感覚が理解できなかった。


 黒凪はそんな銀澪を横目に見ながら、静かにお茶を飲んだ。


 しばらく二人の間に会話はなかった。


 庭の奥では、小さな滝が絶え間なく水を落としている。


 木々の間を抜ける風が、濡れた土の匂いを運んできた。


 銀澪にとって、その静けさは心地よいものだった。


 やがて黒凪が、湯呑みを盆へ戻した。


「ところで、銀澪。今日は少し出かけようと思うのだけれど」


「お出かけですか?」


「ええ。麓の街まで」


 銀澪が顔を上げる。


「……街へ?」


「そろそろ食材も買い足したいし、あなたの生活についても調べたいことがあるでしょう?」


 黒凪はそう言って、銀澪の顔を覗き込んだ。


「いつまでも屋敷の中だけで過ごすわけにはいかないもの。人間社会の様子も、少しずつ知っておいた方がいいと思うの」


 銀澪は湯呑みを両手で包んだ。


 確かに、そのとおりだった。


 ここ数日、黒凪のおかげで穏やかな時間を過ごせている。


 だが、自分の立場が何も変わっていないことも事実だった。


 身分を証明するものはなく、所持金もない。


 今着ている服さえ、黒凪から借りたものだ。


 何より、人間だった頃の自分がこの世界でどう扱われているのか、まだ確かめられていなかった。


「……そうですね。僕も一度、街を見てみたいです」


「決まりね」


 黒凪は立ち上がり、軽く衣服を整えた。


「朝食を済ませたら出発しましょう。車を出すから、それほど時間はかからないわ」


「黒凪さん、車を持っているんですね」


「持っているわよ。山の中で暮らしているんだもの。ないと困るでしょう?」


 当然のように答えられ、銀澪は少し笑った。


「……確かに」


「何かおかしい?」


「いえ。龍神様が車を運転しているところを想像したら、何だか面白くて」


 黒凪は一瞬、きょとんとした。


 それから、呆れたように腰へ手を当てる。


「……銀澪。龍だからって、いつでも空を飛んで移動するわけじゃないのよ?」


「ですよね」


「人前で龍の姿になったら、それこそ大騒ぎでしょう?」


「……おっしゃるとおりです」


 黒凪は小さく笑った。


「それに、車なら買い物した荷物も運べるもの。現代の道具は便利なのよ」


 その言い方に、銀澪は思わず微笑んだ。


 長い年月を生きる黒龍神。


 それなのに、生活の感覚は驚くほど現代的だった。


     ◇


 出発の準備を終えた銀澪は、玄関の姿見の前に立っていた。


 今日は黒凪から借りた黒のジャケットに、灰色のシャツ、細身のパンツを合わせている。


 白銀の髪は軽く整え、角と尻尾は完全に隠していた。


 鏡に映る姿は、少し珍しい髪色をした青年そのものだった。


 もっとも、右が蒼、左が紅という瞳だけは変わらない。


「……やっぱり、目立ちますかね」


 銀澪が呟くと、背後から黒凪が声をかけた。


「何が?」


「この目の色です。人間の中だと、やっぱり珍しいですよね」


 黒凪は銀澪の隣へ並び、鏡を覗き込んだ。


 彼女も角と尻尾を隠している。


 漆黒のショートウルフに、黒いジャケット。白いインナーと落ち着いた色のパンツを合わせた姿は、街中でも違和感のない装いだった。


「そうね。でも、最近はカラーコンタクトも珍しくないでしょう? 髪色だって自由に染める人が多いし」


「……確かに」


「むしろ、あなたの場合は妙に堂々としている方が自然かもしれないわ」


「堂々と、ですか?」


「ええ。何か隠しているように振る舞うと、かえって目立つことがあるもの」


 黒凪は銀澪の肩に付いていた小さな糸くずを取り払った。


「それに、見た目だけなら十分普通の青年よ。少し綺麗すぎるくらいだけれど」


「……え?」


「ふふっ。冗談よ」


 黒凪は笑いながら玄関へ向かった。


 銀澪は鏡の前に取り残される。


「……今の、冗談だったのかな」


 思わず自分の顔を見直す。


 整った中性的な顔立ち。


 肩を少し越える白銀の髪。


 そして、左右で色の異なる瞳。


 人間だった頃の自分とは、随分違う姿だった。


 けれど、以前ほど違和感は覚えなかった。


 少しずつ、この身体が自分のものになり始めているのだろう。


「銀澪ー? 行くわよー」


「あっ、はい!」


 黒凪の声に返事をし、銀澪は慌てて玄関へ向かった。


 その足取りは、数日前よりずっと軽かった。


     ◇


 屋敷の裏手には、木造の小さな車庫があった。


 黒凪が引き戸を開けると、中から濃紺の乗用車が姿を現した。


 派手な装飾はなく、落ち着いた色合いの車だった。


「……意外と普通ですね」


 銀澪が何気なく呟く。


 黒凪は運転席の扉を開けかけたところで振り返った。


「……銀澪?」


「はい?」


「あなた、私がどんな車に乗っていると思っていたの?」


「ええと……もっと高級車とか?」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 やがて、口元を押さえる。


「……ふふっ」


「あれ?」


「もう。何千年も生きている龍だからって、何でも豪華にするわけじゃないのよ」


「……すみません」


「それに、山道を走るなら使いやすい車が一番でしょう?」


 黒凪は運転席へ乗り込み、エンジンをかけた。


 銀澪も助手席へ座り、シートベルトを締める。


 車は静かに動き出した。


 車庫を出ると、細い林道が山の斜面に沿って続いていた。


 片側には杉林。


 反対側には、小さな沢が流れている。


 ところどころに苔むした石垣があり、その隙間から野草が伸びていた。


 黒凪は慣れた手つきでハンドルを操作し、ゆっくりと坂道を下っていく。


 銀澪は窓の外を眺めていた。


 朝日が木々の隙間から差し込み、沢の水面をきらきらと輝かせている。


「……綺麗ですね」


「この辺りの景色?」


「はい。ずっと見ていられそうです」


 黒凪はちらりと銀澪を見た。


「あなた、本当に山が好きなのね」


「昔からですね。特に川とか滝がある場所は、何となく落ち着くんです」


「そう……」


 黒凪は前方へ視線を戻した。


「この山には、古い水脈がいくつも通っているの。人間には見えないけれど、龍ならその流れを感じ取れるわ」


「……黒凪さんも?」


「ええ。私は長い間、この山の水を見守ってきたから」


 銀澪は少し考えた。


「それって、山の守り神みたいなものですか?」


「守り神、ね」


 黒凪は小さく笑った。


「人間からそう呼ばれたこともあるわ。でも、私は別に、この山のすべてを支配しているわけじゃないのよ」


「……そうなんですか」


「水も森も、そこに暮らす生き物たちも、それぞれの営みを持っているもの。私は必要なときに少し手を貸すだけ」


 黒凪は静かに続けた。


「何も起きない日が続くなら、それが一番いいの」


 銀澪は窓の外を流れる沢へ目を向けた。


 澄んだ水が岩の間を縫うように流れ、下流へ向かっている。


 黒凪は、こんな風景を何百年も見守ってきたのだろうか。


 そう思うと、彼女の存在が少しだけ違って見えた。


 凛々しく、美しい龍神。


 けれど、その力は誰かに見せびらかすためのものではない。


 穏やかな日常を守るために、静かに使われている。


「……僕も、そういう龍になりたいです」


 銀澪が呟く。


 黒凪は少し驚いたように目を向けた。


「……そういう龍?」


「はい。強い力を持っていても、普段は普通に暮らしていて。誰かが困っているときには、できる範囲で助けられるような」


 銀澪は少し笑った。


「せっかく龍になれたんですから、格好いい龍でいたいじゃないですか」


 黒凪は一瞬、黙った。


 それから、前を向いたまま微笑んだ。


「……そうね」


 その声は、どこか嬉しそうだった。


「でも、格好いい龍になるなら、まずは尻尾で物を倒さないようにならないとね」


「……そこは忘れてください」


「ふふっ。残念だけれど、しばらく忘れられそうにないわ」


 銀澪は肩を落とした。


 黒凪は楽しそうに笑いながら、車を走らせた。


 やがて木々の数が減り、視界が開けていく。


 山の斜面には畑が広がり、その向こうに小さな住宅地が見え始めた。


 銀澪が初めて訪れる、この世界の街だった。


     ◇


 山道を抜けると、景色はゆっくりと変わっていった。


 道路の両側には民家が並び、田畑の向こうには小さな商店街が見える。遠くには低い山並みが続いており、街そのものが自然に包まれているようだった。


 銀澪は窓から流れる景色を眺めた。


 コンビニエンスストア。


 郵便局。


 自動販売機。


 信号機のある交差点。


 どれも見慣れたものばかりだった。


 異世界に転生したと聞けば、剣と魔法の世界を想像する人もいるだろう。けれど、実際に目の前に広がっているのは、人間だった頃の日本とほとんど変わらない風景だった。


 そのことに安堵する一方で、銀澪は奇妙な不安も覚えていた。


 ここまで似ているのなら、なぜ自分だけが変わってしまったのだろう。


「……銀澪?」


 黒凪の声が聞こえた。


「何か気になるものでもあった?」


「あ、いえ……」


 銀澪は少し迷ってから答えた。


「思っていた以上に、普通の街だなって」


「普通?」


「はい。もっと違う世界なのかと思っていたので」


 黒凪は前方の信号を確認し、ゆっくりと車を停止させた。


「龍が暮らしているからといって、人間の街まで特別な姿をしているわけじゃないもの」


「……ですよね」


「それに、私たちだって人間社会の便利なものを使うわ。電気も水道も、通信機器もね」


 黒凪はハンドルに手を添えたまま続けた。


「ただ、私たちの存在を知っている人は少ない。それだけの違いよ」


「……なるほど」


 銀澪は小さく頷いた。


 そのとき、歩道を歩く親子が目に入った。


 小さな男の子が、母親の手を引きながら何かを話している。母親は笑いながら頷き、子どもの頭を軽く撫でていた。


 何でもない光景だった。


 それなのに、銀澪は思わず目で追ってしまった。


 人間だった頃にも、こうした光景を何度も見てきたはずだ。


 ただ、今の自分には、その当たり前が少し遠く感じられた。


「……家族って、いいですね」


 無意識に言葉が漏れる。


 黒凪が横目で銀澪を見た。


「……そうね」


 短い返事だった。


 銀澪は少し慌てた。


「あ、すみません。変なことを言いました」


「どうして?」


「いえ、何となく……」


「別に変じゃないわよ」


 黒凪は静かに微笑んだ。


「私も、家族と過ごす時間は大切だと思うもの」


 信号が青に変わる。


 車がゆっくりと動き始めた。


 銀澪はもう一度、窓の外へ目を向ける。


 先ほどの親子は、すでに遠ざかっていた。


     ◇


 最初に向かったのは、街の中心部にある小さな行政施設だった。


 駐車場には数台の車が停まり、建物の入口には地域の行事を知らせる掲示板が設置されている。


 銀澪は車を降り、周囲を見渡した。


「……ここで、身分のことを相談するんですか?」


「ええ。まずは、どんな手続きが必要なのかを聞いてみましょう」


 黒凪は車の鍵を鞄にしまった。


「ただし、今日すべて解決するとは思わないでね」


「……分かっています」


「それと、分からないことを無理に答える必要はないわ。何が分かっていて、何が分からないのか、正直に伝えればいいの」


 銀澪は頷いた。


 二人は建物へ入った。


 内部には受付カウンターと待合用の椅子が並び、壁には地域の案内図が掲示されている。


 空調の効いた室内には、書類をめくる音と、窓口で交わされる小さな会話が響いていた。


 銀澪はその光景に、妙な懐かしさを覚えた。


 役所のような場所には、人間だった頃にも何度か来たことがある。


 けれど、自分自身の存在を確かめるために訪れたことなど、一度もなかった。


 黒凪は総合案内で事情を簡単に説明し、生活上の相談を受け付ける窓口を教えてもらった。


 しばらくして番号が呼ばれ、二人は担当者の前へ座る。


 落ち着いた雰囲気の中年男性だった。


「本日は、どのようなご相談でしょうか」


 銀澪は一瞬、言葉に詰まった。


 自分が龍であることは話せない。


 しかし、身分を証明するものが何もないという問題は、隠しようがなかった。


「……実は、手元に本人確認ができるものがなくて」


 銀澪が切り出すと、担当者は頷いた。


「紛失されたということでしょうか?」


「それが……今の自分に、どんな記録が残っているのかも分からない状態なんです」


 担当者は少し驚いた様子だったが、すぐに表情を整えた。


「なるほど。少し事情が複雑なようですね」


 それから、いくつかの質問が続いた。


 以前住んでいた場所。


 連絡可能な親族の有無。


 身元を確認できる書類や記録の有無。


 銀澪は答えられる範囲で説明した。


 人間だった頃の記憶はある。


 けれど、その記憶がこの世界の記録と一致しているか分からない。


 そして、今の自分には何の書類もない。


 担当者は話を聞きながら、メモを取っていた。


「……そうしますと、まずは以前の記録や、ご本人を確認できる資料を調べる必要がありますね」


「……はい」


「こちらでお話を伺うことはできますが、今のお話だけですぐに身分に関する手続きを完了することは難しいと思います」


 銀澪は静かに頷いた。


 予想していた答えだった。


 それでも、実際に言葉にされると、胸の奥が少し重くなった。


 人間だった頃には、特に意識していなかった。


 名前があり、住所があり、必要な書類があれば手続きを進められる。


 それが当たり前だと思っていた。


 しかし今は、その当たり前を一つも証明できない。


「……つまり、今の僕は、自分が誰なのかを証明できないんですね」


 銀澪が尋ねる。


 担当者は慎重に言葉を選んだ。


「現時点では、確認できる資料が不足しているということです。存在しないという意味ではありませんよ」


 その言葉に、銀澪は顔を上げた。


「……そうですか」


「はい。まずは、お話しいただいた内容を整理して、必要な確認先を考えていきましょう。ご事情によっては別の機関への相談も必要になりますが、順番に進めることが大切です」


 黒凪も隣で頷いていた。


 担当者は相談可能な窓口をいくつか案内し、再度相談する際に整理しておくとよい情報を説明してくれた。


 結局、その場で問題が解決することはなかった。


 それでも、銀澪は最後まで説明を聞き、丁寧に頭を下げて席を立った。


     ◇


 建物を出ると、外は昼前の明るい日差しに包まれていた。


 駐車場の端では、植え込みの手入れをしている作業員の姿が見える。


 銀澪は入口から少し離れたところで足を止めた。


「……思っていたより、大変そうですね」


 黒凪が隣へ並ぶ。


「そうね」


「人間だった頃は、身分証明書なんて持っていて当たり前でしたから」


 銀澪は苦笑した。


「なくなって初めて、どれだけ大切なものだったのか分かりました」


 黒凪はすぐには答えなかった。


 しばらくして、落ち着いた声で言った。


「人間社会は、記録によって成り立っている部分が大きいもの。名前や住所だけでなく、そこに至るまでの経緯も必要になることがあるわ」


「……黒凪さんも、そういうことで苦労したんですか?」


 何気なく尋ねた質問だった。


 しかし、黒凪は一瞬だけ視線を伏せた。


「……ええ」


 その返事は、思っていたより重かった。


「長く生きていると、いろいろあるのよ。時代が変われば、社会の仕組みも変わる。昔は必要なかったものが、いつの間にか当たり前になっていることもあるわ」


「……確かに」


「私たち龍人が人間社会で暮らすには、人間の決まりも理解しなければならない。力が強いからといって、何でも解決できるわけじゃないもの」


 黒凪は建物を振り返った。


「だから、焦らないこと。変に取り繕ったり、誰かになりすましたりするのは駄目よ。余計に難しくなるだけだから」


 銀澪は頷いた。


「……はい」


「今すぐ仕事を探すのは難しいかもしれないけれど、できることはあるわ。記憶を整理して、必要な情報を集めること。まずはそこから始めましょう」


 黒凪は少しだけ微笑んだ。


「それに、今日一日で全部解決しなくてもいいでしょう?」


 銀澪は彼女を見た。


 金色の瞳が、穏やかにこちらを見つめている。


「……そうですね」


 小さく笑う。


「まだ、始まったばかりですし」


「ええ」


 黒凪は満足そうに頷いた。


「それじゃあ、次は買い物に行きましょうか。家の食材も、そろそろ補充しないとね」


「はい。荷物持ちなら任せてください」


「あら、頼もしいわね」


 黒凪は笑いながら、車へ向かった。


 銀澪もその後に続いた。


 問題は何一つ解決していない。


 それでも、何から手をつけるべきかは少し見えてきた。


 そのことが、今は何よりありがたかった。


     ◇


 昼過ぎ。


 二人は街の商店街を歩いていた。


 大きな商業施設も近くにあったが、黒凪は昔ながらの個人商店を好んで利用しているらしい。


 八百屋、精肉店、豆腐屋。


 通りには小さな店が並び、店先には季節の野菜や手書きの値札が並んでいた。


 銀澪はその風景を興味深そうに眺めていた。


「……こういう商店街、いいですね」


「そう? 私は好きよ。顔なじみのお店もあるし」


「昔から利用しているんですか?」


「ええ。もっとも、お店の人は何度も代替わりしているけれどね」


 黒凪は何気なく答えた。


 銀澪は一瞬、言葉を失う。


「……そうか。黒凪さんにとっては、お店の方が変わっていくんですね」


「そういうこと」


 黒凪は少し笑った。


「昔は別の場所にあったお店もあるし、建物自体が新しくなったところもあるわ。変わらないものを探す方が難しいくらいね」


 二人は八百屋の前で足を止めた。


 店頭には新鮮な大根や人参、葉物野菜が並んでいる。


 黒凪が品物を眺めていると、店の奥から声がかかった。


「おや、黒凪さんじゃないか」


 出てきたのは、白髪交じりの男性だった。


 エプロンを身につけ、手には野菜の入った籠を持っている。


「こんにちは。今日は大根を見に来たの」


「そりゃちょうどいい。今朝入ったばかりのがあるよ」


 男性は笑いながら、並べられた大根を一本持ち上げた。


 それから、銀澪へ視線を移す。


「……おや? 今日はお連れさんがいるのかい?」


 黒凪は小さく頷いた。


「ええ。知り合いなの。今、少し事情があって、うちに来てもらっているのよ」


「ほう。随分と綺麗な兄ちゃんだねぇ」


「……えっ?」


 銀澪は思わず声を漏らした。


 男性は楽しそうに笑う。


「いやいや、悪い意味じゃないよ。髪も綺麗だし、目の色も珍しいからさ」


「あ、ありがとうございます」


 銀澪は少し照れくさそうに頭を下げた。


 すると、黒凪が横で小さく笑った。


「ふふっ。よかったわね、銀澪」


「……黒凪さん、楽しんでませんか?」


「あら、そんなことないわよ?」


 明らかに楽しんでいる顔だった。


 男性は二人のやり取りを見て、さらに笑った。


「仲がいいんだねぇ」


 その言葉に、銀澪と黒凪が同時に顔を向けた。


「……いえ、まだ知り合ったばかりで」


「そうなの。いろいろ教えているところなのよ」


 二人の返事が重なった。


 男性は一瞬きょとんとした後、大きな声で笑った。


「はははっ! 息が合ってるじゃないか!」


 銀澪は困ったように黒凪を見る。


 黒凪もまた、少しだけ頬を緩めていた。


「……もう。余計なことを言わないでくださいな」


「はいはい。悪かったよ」


 男性は笑いながら、大根を袋へ入れた。


 黒凪は他にもいくつか野菜を選び、会計を済ませる。


 銀澪はその荷物を受け取った。


「持ちますよ」


「あら、ありがとう」


「今日は荷物持ちとして来たようなものですから」


「ふふっ。じゃあ、遠慮なくお願いするわ」


 二人が店を離れようとしたとき、男性が声をかけた。


「黒凪さん!」


「はい?」


「また寄ってくれよ。今度はその兄ちゃんも一緒にな!」


 黒凪は振り返り、軽く手を振った。


「ええ。また来ます」


 銀澪も小さく頭を下げる。


 店を離れてから、しばらく二人は黙って歩いた。


 やがて、黒凪がぽつりと言った。


「……あのおじさん、昔からああなのよ」


「そうなんですか?」


「ええ。人のことをからかうのが好きでね」


 黒凪は少し困ったように笑った。


「悪い人じゃないのだけれど」


 銀澪は先ほどのやり取りを思い出した。


「……でも、いい人そうでしたね」


「そうね」


「黒凪さんが、ああいうお店を好きな理由が少し分かった気がします」


 黒凪が顔を向ける。


「……どうして?」


「買い物するだけじゃなくて、人とのつながりがあるからです」


 銀澪は通りを見渡した。


「誰が来たとか、最近どうしてるとか。そういう何気ない会話ができる場所って、いいなと思って」


 黒凪は少しだけ目を細めた。


「……あなた、そういうところまで見ているのね」


「え?」


「いいえ。何でもないわ」


 彼女は穏やかに微笑んだ。


「でも、そうね。私も、そういうところが好きなのかもしれないわ」


 銀澪は頷いた。


 そして、二人は次の店へ向かった。


     ◇


 最後の買い物を終えた頃には、銀澪の両手は袋でいっぱいになっていた。


 野菜、魚、豆腐、調味料。


 ほとんどは夕食や翌日以降の食材だったが、中には銀澪用の衣服や日用品も含まれている。


 もちろん、代金はすべて黒凪が支払っていた。


 そのことが、銀澪には少し申し訳なかった。


「……黒凪さん」


「何?」


「服まで買ってもらって、すみません」


「必要なものなんだから、気にしなくていいわ」


「でも……」


 銀澪が言いかけると、黒凪は足を止めた。


「……銀澪」


「はい?」


「あなたが気にしているのは、私に負担をかけていること?」


 銀澪は少し迷ってから頷いた。


「……はい」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 それから、ゆっくりと口を開く。


「だったら、一つ覚えておいてほしいことがあるわ」


「……何でしょう?」


「助けてもらうことと、相手に甘えきってしまうことは違うのよ」


 銀澪は顔を上げた。


「今のあなたには、できないことがたくさんあるでしょう? でも、それはあなたが怠けているからじゃない」


 黒凪は落ち着いた声で続けた。


「何も知らない場所で、いきなり一人で生きていけと言われても困るでしょう。だから、必要なときには誰かの助けを借りていいの」


「……でも、いつまでも頼るわけには」


「もちろん。それは私も同じ考えよ」


 黒凪は銀澪の言葉を遮ることなく受け止めた。


「だからこそ、今は少しずつ覚えていけばいいの。あなたが自分で生活できるようになるために、できることを増やしていく。それで十分よ」


 銀澪はしばらく黙っていた。


 黒凪の言葉は、決して甘やかすようなものではなかった。


 むしろ、自分で歩いていけるようになることを、当然のように考えてくれている。


 そのことが、嬉しかった。


「……分かりました」


 銀澪は小さく頷く。


「じゃあ、まずは家事をもっと手伝わせてください」


 黒凪は一瞬、驚いたように目を丸くした。


「……家事?」


「はい。料理も掃除も、僕にできることはありますから」


 少しだけ笑って続ける。


「せめて、黒凪さんの負担を減らせるくらいにはなりたいです」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 やがて、ふっと表情を和らげる。


「……そう」


 その声には、どこか温かさがあった。


「だったら、明日の朝ごはんはお願いしようかしら」


「……え?」


「料理、できるんでしょう?」


「ええ、まあ……」


「じゃあ、楽しみにしているわね」


 黒凪はいたずらっぽく笑った。


 銀澪は少しだけ肩を落とす。


「……急に責任重大ですね」


「あら。自分から言ったんでしょう?」


「……そうでした」


 黒凪は声を出して笑った。


 銀澪もつられて笑う。


 そのときだった。


 すぐ近くで、何かが落ちる音がした。


 がさっ。


 二人が振り返る。


 歩道の端で、年配の女性が買い物袋を落としていた。


 袋の持ち手が切れたらしく、中から野菜や小さな日用品が転がり出している。


「あらあら……困ったねぇ」


 女性はしゃがみ込み、散らばった品物を拾おうとしていた。


 銀澪は手に持っていた荷物を黒凪へ預けた。


「黒凪さん、ちょっとお願いします」


「ええ」


 それだけ言うと、すぐに女性のもとへ歩み寄った。


「大丈夫ですか?」


「ああ、ごめんなさいね。袋が破けちゃって」


「拾いますよ。無理に屈まないでください」


 銀澪は転がった野菜を拾い集め、近くに落ちていた小さな箱も手に取った。


 車道へ出そうになった品物は、車が来ていないことを確認してから拾い上げる。


 女性は申し訳なさそうにしていた。


「いやぁ、悪いねぇ。こんなことまでしてもらって」


「いえ。困ったときはお互い様ですから」


 銀澪は笑って答えた。


 黒凪も近づき、鞄から折り畳んだ予備の買い物袋を取り出す。


「よかったら、これを使ってください」


「あら、いいのかい?」


「ええ。家にまだありますから」


 二人で品物を袋へ入れ直し、破損がないことを確かめる。


 女性は何度も頭を下げていた。


「本当に助かったよ。ありがとうねぇ」


「お気をつけて」


 銀澪がそう言うと、女性は穏やかに笑った。


「優しいお兄さんだねぇ。お二人とも、ありがとう」


 女性を見送ってから、銀澪は黒凪のもとへ戻った。


「……すみません。荷物、持ってもらっちゃって」


「いいのよ」


 黒凪は小さく首を振った。


 それから、少しだけ銀澪を見つめる。


「……あなた、迷わなかったわね」


「え?」


「さっきのことよ。困っている人を見たら、すぐに動いていたでしょう?」


 銀澪は少し考えた。


「……そんなに大したことじゃないですよ」


「そうかしら」


「はい。僕にできることだったので」


 黒凪は何も言わなかった。


 そのまま数歩、銀澪と並んで歩く。


 やがて、小さく呟いた。


「……そういうところ、いいと思うわ」


 銀澪が顔を向ける。


「……え?」


「何でもないわ。ほら、そろそろ車に戻りましょう」


 黒凪は少し早足になった。


 銀澪は首を傾げながら、その後を追う。


 ただ、その横顔がいつもより柔らかく見えたことだけは、何となく覚えていた。


     ◇


 帰り道。


 車内には買い物袋が積まれ、後部座席からは野菜の入った袋が擦れる小さな音が聞こえていた。


 銀澪は助手席で、窓の外を眺めている。


 麓の街を離れ、再び田畑が広がる道へ入ったところだった。


 黒凪はハンドルを握りながら、時折銀澪の様子を確かめていた。


「……疲れた?」


「少しだけ。でも、楽しかったです」


「それならよかった」


 黒凪は穏やかに答えた。


「役所のことは、あまり気にしすぎないでね。今日で終わりじゃないんだから」


「……はい」


 銀澪は頷いた。


 それから、少しだけ視線を落とした。


「……でも、やっぱり不思議ですね」


「何が?」


「自分には、人間だった頃の記憶がちゃんとあるんです。名前も、暮らしていた場所も、家族のことも」


 銀澪は膝の上で手を組んだ。


「それなのに、今の自分が誰なのかを証明できない」


 黒凪は黙って聞いていた。


「龍になれたことは嬉しいです。今でも、夢みたいだと思っています。でも……」


 そこで、一度言葉が途切れた。


 銀澪は窓の外へ目を向ける。


 遠くの畑では、一人の男性が農作業をしていた。


 その姿を見つめながら、静かに続ける。


「……人間だった僕は、どこへ行ったんでしょうね」


 黒凪は何も言わなかった。


 車はゆっくりと山道へ入り、木々の影がフロントガラスを横切っていく。


 しばらくして、黒凪が口を開いた。


「……銀澪」


「はい」


「あなたは、今の自分と昔の自分を、別々のものだと思っている?」


 銀澪は少し考えた。


「……どうでしょう。身体は完全に別物ですけど、考え方とか、好きなものは変わっていない気がします」


「そう」


 黒凪は小さく頷いた。


「だったら、無理に切り離さなくてもいいんじゃないかしら」


「……?」


「人間だった頃のあなたも、今の白龍であるあなたも、どちらもあなた自身なんでしょう?」


 銀澪は顔を上げた。


 黒凪は前を向いたまま続ける。


「姿が変わったからといって、積み重ねてきた時間まで消えるわけじゃないわ」


「…………」


「もちろん、以前の生活に戻れるかどうかは、まだ分からない。でも、少なくともあなたが覚えている思い出は、今もあなたの中にある」


 その声は、静かだった。


 けれど、言葉の一つひとつが、銀澪の胸に届いていた。


「……だから、今すぐ答えを出さなくてもいいと思うの」


 黒凪は少しだけ微笑んだ。


「まずは、今の自分を大切にしてあげなさい」


 銀澪はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと息を吐く。


「……黒凪さんって」


「何?」


「本当に、いろいろなことを知っていますね」


 黒凪は少し驚いたように瞬きをした。


 それから、小さく笑う。


「……長生きしているだけよ」


「それでも、すごいと思います」


「そう言ってもらえると、悪い気はしないわね」


 黒凪は穏やかに微笑んだ。


 銀澪も、小さく笑った。


 先ほどまで胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなった気がした。


     ◇


 屋敷へ戻った頃には、午後の日差しが柔らかく傾き始めていた。


 銀澪は買い物袋を台所へ運び、黒凪と一緒に食材を片づけた。


 冷蔵庫へ野菜を入れ、魚を保存し、調味料を棚へ並べる。


 人間だった頃には当たり前だった作業だ。


 しかし、今はその一つひとつが、自分の新しい生活を形作っているように感じられた。


「……黒凪さん」


「何?」


「明日の朝ごはん、何か希望はありますか?」


 黒凪は振り返った。


「……本当に作ってくれるの?」


「もちろんです。約束しましたから」


 銀澪は少し笑った。


「和食でよければ、卵焼きと味噌汁くらいなら作れますよ」


「……そうね」


 黒凪は少し考えた。


「だったら、あなたの好きなものを作ってちょうだい」


「僕の好きなもの、ですか?」


「ええ。人間だった頃に、よく食べていたものでもいいわ」


 黒凪は柔らかく微笑んだ。


「あなたがどんな料理を作るのか、少し興味があるもの」


 銀澪は嬉しそうに頷いた。


「分かりました。じゃあ、明日は僕に任せてください」


「楽しみにしているわね」


 黒凪はそう言いながら、最後の野菜を冷蔵庫へしまった。


 そして、ふと手を止める。


「……銀澪」


「はい?」


「今日は、どうだった?」


「……今日、ですか?」


「ええ。初めて街へ行って、いろいろなものを見たでしょう?」


 銀澪は少し考えた。


 街の景色。


 役所での相談。


 商店街で出会った人々。


 黒凪と交わした会話。


 思い返せば、決して楽しいことばかりではなかった。


 自分の置かれた立場を、改めて思い知らされた一日でもあった。


 それでも――。


「……行ってよかったと思います」


 銀澪は静かに答えた。


「まだ分からないことは多いですけど、この世界でも、ちゃんと生きていけるようになりたいって思いました」


 黒凪は黙って聞いていた。


「せっかく、憧れていた龍になれたんですから」


 銀澪は少しだけ笑った。


「この世界でも、自分なりに頑張ってみたいです」


 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと頷く。


「……そう」


 その表情は、どこか安心したようだった。


「なら、よかったわ」


 銀澪も頷いた。


 窓の外では、庭の池が夕日に照らされていた。


 遠くから、山鳥の声が聞こえてくる。


 その穏やかな風景を眺めながら、銀澪は静かに思った。


 自分はまだ、この世界について何も知らない。


 それでも、ここで生きていこうとする気持ちは、少しずつ確かなものになっていた。


     ◇


 夜。


 夕食を終えた黒凪は、いつものように書庫へ向かっていた。


 机の上には、数日前から調べている古い書物が積まれている。


 銀澪の転生に関する記録。


 そして、山の水脈に起きた異変。


 その二つを結びつける手がかりを探していた。


 黒凪は棚から古い地図を取り出し、机の上へ広げた。


 今の山とは、随分と違う地形が描かれている。


 かつて存在した集落。


 今では使われなくなった山道。


 そして、山の奥深くに記された、小さな社の印。


 黒凪の視線が、その印で止まった。


「……ここは」


 指先で、地図の一角をなぞる。


 銀澪が目覚めた神社だった。


 古い記録によれば、その神社はもともと、山の水脈を鎮めるために建てられたものだという。


 しかし、詳しい由緒については、ほとんど残されていなかった。


 黒凪は別の書物を開いた。


 龍の系譜を記した、厚い和綴じの本だった。


 そこには、いくつもの龍族の名前と、その特徴が記されている。


 黒龍。


 青龍。


 白龍。


 そして、古い時代に姿を消したとされる一族。


 黒凪はページをめくりながら、銀澪の姿を思い浮かべた。


 白銀の髪。


 蒼と紅の瞳。


 枝分かれした白龍の角。


 そして、水脈そのものが反応したかのような、あの不思議な力。


「……やっぱり、普通の白龍とは少し違う」


 小さく呟く。


 しかし、黒凪はそこで首を振った。


 まだ、確かなことは何も分からない。


 珍しい特徴を持っているからといって、特別な血筋だとは限らない。


 そもそも、銀澪自身が自分の出生を知らないのだ。


 今の段階で結論を出すのは早すぎる。


 黒凪は書物を閉じ、椅子の背にもたれた。


 そのとき、廊下から小さな足音が聞こえてきた。


「……黒凪さん?」


 銀澪の声だった。


 黒凪は顔を上げた。


「どうしたの?」


「すみません。まだ起きていたので、何か温かいものでもと思って」


 扉の向こうから、控えめな声が返ってくる。


 黒凪は少し驚いた。


「……お茶?」


「はい。台所を借りて、ほうじ茶を淹れてみたんですけど」


 しばらく考えた後、黒凪は立ち上がった。


「……ありがとう。ちょうど休憩しようと思っていたところよ」


 扉を開けると、銀澪が盆を持って立っていた。


 湯呑みが二つ。


 それに、小さな菓子皿が一枚。


 銀澪は少し照れくさそうに笑った。


「……黒凪さん、いつも夜遅くまで調べ物をしているみたいだったので」


 黒凪はその言葉に、少しだけ目を細めた。


「……よく見ているのね」


「いえ。何となく、です」


 銀澪は盆を差し出した。


「よかったら、どうぞ」


 黒凪は湯呑みを受け取った。


 温かな茶の香りが、静かな書庫に広がる。


「……いい香り」


「よかったです」


 銀澪は嬉しそうに微笑んだ。


 黒凪は湯呑みを両手で包み、一口飲む。


 香ばしい風味が口の中に広がり、身体の奥まで温まるようだった。


「……美味しいわ」


「ありがとうございます」


 黒凪は小さく笑った。


「ふふっ。今度は私がお礼を言う番ね」


 銀澪も笑った。


 それから、少しだけ書庫の中へ目を向ける。


「……何か、分かりましたか?」


 黒凪は一瞬、迷った。


 銀澪自身に関する記録を調べていることは、すでに話してある。


 しかし、まだ不確かな内容を伝えて、不安にさせるのも避けたかった。


「……少しだけ、ね」


 黒凪は静かに答えた。


「ただ、まだ確かなことは言えないわ。もう少し調べてから、きちんと話すつもりよ」


 銀澪は頷いた。


「……分かりました」


 それ以上は聞かなかった。


 黒凪はそんな銀澪を見つめ、少しだけ微笑んだ。


「……あなた、本当に急かさないのね」


「え?」


「自分に関することなのに、もっと知りたがるかと思っていたから」


 銀澪は少し考えた。


「……知りたいですよ。もちろん」


 そう答えてから、静かに続けた。


「でも、黒凪さんがちゃんと調べてくれているのは分かっていますから」


 黒凪は目を見開いた。


 銀澪は少し笑った。


「だったら、信じて待つことも必要かなって」


「…………」


 黒凪は何も言わなかった。


 ただ、湯呑みを持つ手に、わずかに力がこもった。


 長い年月を生きてきた。


 数えきれないほどの人間や龍と出会い、別れを経験してきた。


 その中には、力を求めて近づいてくる者もいた。


 助けを当然だと思う者もいた。


 そして、何かを隠していると分かれば、すぐに疑いの目を向ける者もいた。


 けれど、目の前の青年は違った。


 自分自身のことさえ分からないというのに、相手の事情を考え、信じようとしている。


 その姿が、黒凪には少し眩しく感じられた。


「……銀澪」


「はい?」


「あなたは、変わった龍ね」


 銀澪は少し困ったように笑った。


「……それ、昨日も言われた気がします」


「あら、そうだった?」


「はい。もう何回目か分からないくらいです」


 黒凪は小さく笑った。


「なら、何度でも言うわ」


 そして、湯呑みを机へ置いた。


「……でも、私は嫌いじゃないわよ。そういうところ」


 銀澪は一瞬、目を丸くした。


 それから、少しだけ照れたように微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 黒凪も微笑んだ。


 書庫の外では、夜の風が木々を揺らしている。


 遠くから、水の流れる音が聞こえていた。


 長い年月を生きる黒龍と、人間としての記憶を持つ白龍。


 二人の間には、まだ互いに知らないことが数多くあった。


 それでも、こうして言葉を交わし、同じ時間を過ごすことが、少しずつ自然になり始めていた。


 黒凪は湯呑みを手に取り、もう一口飲んだ。


 銀澪は静かに頭を下げ、書庫を出ようとする。


 その背中へ、黒凪が声をかけた。


「……銀澪」


「はい?」


「明日の朝ごはん、楽しみにしているわね」


 銀澪は振り返った。


 そして、少しだけ笑った。


「……任せてください」


 黒凪は穏やかに頷いた。


 扉が閉まり、銀澪の足音が遠ざかっていく。


 黒凪はしばらく、その扉を見つめていた。


 やがて、机に置かれた古い書物へ視線を戻す。


 白龍の転生。


 水脈の異変。


 そして、古い記録に残された謎。


 調べなければならないことは、まだ山ほどある。


 けれど今夜は、少しだけ違う気持ちがあった。


「……明日の朝、か」


 黒凪は小さく呟く。


 朝食を誰かに作ってもらう。


 ただ、それだけのこと。


 それなのに、明日が来るのを少し楽しみにしている自分がいた。


 長い年月の中で、忘れかけていた感覚だった。


「……不思議ね」


 黒凪は湯呑みを両手で包み、静かに微笑んだ。


 山の奥に建つ古い和風屋敷。


 そこに、新しい日常が少しずつ根を下ろし始めていた。


 まだ恋と呼べるものではない。


 けれど、誰かと過ごす明日を楽しみに思うこと。


 それが、二人にとって小さな変化であることだけは、確かだった。

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