第三話 白龍の初めての朝
障子の向こうから、鳥の声が聞こえていた。
朝の光はまだ弱く、部屋の中には夜の冷たさがわずかに残っている。庭を流れる水の音に混じって、風が竹の葉を揺らす音が聞こえた。
銀澪は布団の中で寝返りを打った。
昨夜は思っていた以上に深く眠れたらしい。見知らぬ場所で目を覚ました初日だったというのに、疲れが溜まっていたのか、夢を見た記憶すらなかった。
「……ん……朝か」
ぼんやりと呟き、目を閉じたまま腕を伸ばす。
身体の節々に痛みはない。むしろ、人間だった頃よりも随分と軽く感じられた。
昨日、あれほど山道を歩いたというのに、筋肉痛らしいものもなかった。
どうやら、この身体は見た目だけでなく、身体能力そのものが人間とは違っているらしい。
「……便利だなぁ」
そう呟いて、もう一度寝返りを打った。
その瞬間だった。
背後で何かが伸びる感覚がした。
続いて、木製の物が倒れる乾いた音が響く。
がたんっ。
「……ん?」
銀澪が目を開ける。
次の瞬間、ぱしゃん、と水の跳ねる音が聞こえた。
「……え?」
身体を起こして振り返ると、部屋の隅に置かれていた小さな水差しが倒れていた。
昨夜、黒凪が用意してくれたものだ。
そして、その隣には――。
「……あ」
白銀の尻尾があった。
長い尾が布団の端から伸び、倒れた水差しの傍らでゆっくりと揺れている。
銀澪は数秒間、その光景を見つめた。
「……やってしまった」
どうやら、眠っている間に無意識で尻尾を出してしまったらしい。
慌てて布団から抜け出すと、今度はその尾が畳の上を滑り、脇に置かれていた座布団を押しのけた。
「ちょっ……待って、待って!」
思わず自分の尻尾に話しかける。
もちろん、返事などない。
何とか動きを止めると、床にこぼれた水へ目を向けた。
水差しは幸い割れていなかったが、中身はほとんど畳の上へ流れ出していた。
銀澪は水差しを起こし、周囲を見回す。
「雑巾……どこかにないかな」
そこで、ふと思い出した。
自分は水を操れる。
昨日、神社では水を空中へ浮かべることもできた。
銀澪は少し迷った末、畳にこぼれた水へ手を伸ばしてみた。
「……戻れ」
小さく呟く。
すると、畳の表面に残っていた水滴が、ふわりと浮かび上がった。
「おお……!」
思わず声が漏れる。
水滴は一つ、また一つと集まり、掌の上で小さな球体になった。
銀澪は慎重に水差しを持ち、その中へ水を戻していく。
しかし、最後の水滴を集めようと意識を向けたところで、思わぬことが起きた。
水差しの中の水まで、勢いよく浮かび上がってしまったのだ。
「うわっ!?」
慌てて手を引く。
だが、水球は銀澪の動きに合わせて横へ滑り、開けかけていた障子の方へ飛んでいった。
「まずい!」
銀澪は反射的に腕を伸ばした。
水球がぴたりと止まる。
障子との距離は、指一本分もなかった。
「…………」
心臓が早鐘を打っていた。
ゆっくりと、慎重に。
銀澪は水球を元の水差しへ戻した。
最後の一滴が落ちたところで、ようやく大きく息を吐く。
「……危なかった」
その直後。
廊下から声が聞こえた。
「銀澪? 起きているの?」
「……あっ」
黒凪だった。
襖の向こうから、控えめに足音が近づいてくる。
「今、何か大きな音がしたけれど……大丈夫?」
「あ、はい! 大丈夫です!」
銀澪は反射的に答えた。
しかし、畳に残った水染みと、床に転がる座布団を見て、すぐに考え直した。
「……いえ、すみません。ちょっと大丈夫じゃないかもしれません」
「……どういうこと?」
少しの沈黙。
そして、黒凪の困惑した声が続いた。
「開けてもいいかしら?」
「はい……」
襖が静かに開いた。
そこに立っていた黒凪は、昨夜とは違う装いだった。
柔らかな生成り色のシャツに、ゆったりした濃紺のパンツ。漆黒のショートウルフは少しだけ寝癖が残っていて、普段の凛々しい雰囲気がいくらか和らいで見えた。
頭には黒い龍角があり、腰から伸びた尻尾が、廊下でゆっくりと揺れている。
どうやら、朝から本来の姿で過ごしているらしい。
黒凪は室内を見渡した。
乱れた布団。
ずれた座布団。
倒れかけた木製の盆。
そして、申し訳なさそうな顔で座っている銀澪と、背後で揺れる白銀の尻尾。
「…………」
黒凪の金色の瞳が、銀澪の尻尾へ向けられた。
「……なるほど」
「……すみません」
「寝ている間に出ちゃったのね?」
「はい。起きたらこんなことになっていて……」
黒凪は口元に手を当てた。
肩がわずかに震えている。
「……ふふっ」
「……黒凪さん?」
「ご、ごめんなさい。笑うつもりはなかったんだけれど……」
そう言いながらも、黒凪はとうとう笑い出してしまった。
「ふふふっ……初めての朝から、ずいぶん賑やかなことになったわね」
「……面目ないです」
銀澪が肩を落とすと、黒凪はようやく笑いを収めた。
「でも、怪我がなくてよかったわ。水差しも割れていないみたいだし」
「畳は少し濡らしてしまいました」
「それくらいなら大丈夫。あとで拭いて乾かしましょう」
黒凪は部屋の隅へ歩み寄り、畳の状態を確かめた。
銀澪が水を集めたおかげで、表面に溜まっていた水はほとんど残っていない。しかし、染み込んでしまった分までは取り除けなかったようだった。
「……水を動かして片づけようとしたの?」
「はい。でも、ちょっと失敗してしまって」
「そう……」
黒凪は少し考えた後、銀澪へ振り返った。
「銀澪。覚えておいてほしいんだけれど、龍の力って、便利だからといって何にでも使えばいいわけじゃないのよ」
「……はい」
「力を使うことに慣れないうちは、普通に片づけた方が早いこともあるわ。特に、家の中ではね」
黒凪は少しだけ口元を緩めた。
「私も昔、似たようなことをしたから」
「……黒凪さんも?」
「ええ。詳しくは聞かないでちょうだい」
そう言いながら、黒凪は自分の尻尾を見下ろした。
「……祖母に、ずいぶん叱られたものよ」
銀澪は思わず笑ってしまった。
「黒凪さんにも、そんな時期があったんですね」
「もちろんよ。最初から何でもできたわけじゃないもの」
黒凪は穏やかに笑った。
「だから、焦らず覚えていけばいいわ」
その言葉を聞いて、銀澪は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。それじゃあ、まずは片づけましょうか」
「はい!」
銀澪は立ち上がり、座布団を元の位置へ戻した。
しかし、後ろを向いた途端、白銀の尻尾が再び動く。
黒凪の足元に置かれていた木製の盆へ、ゆっくりと近づいていった。
「……銀澪」
「はい?」
「尻尾」
「……あっ!」
慌てて動きを止める。
黒凪は小さくため息をついた。
「……これは、しばらく目が離せそうにないわね」
その声には呆れたような響きがあったが、表情はどこか楽しそうだった。
銀澪は自分の尻尾を見つめたまま、もう一度深く頭を下げる。
「……本当にすみません」
「ふふっ。いいから、まずは朝ごはんにしましょう」
黒凪はそう言って、部屋を出ていった。
廊下へ消える直前、彼女の黒い尻尾が軽く左右へ揺れた。
銀澪はそれを見送りながら、ふと思った。
龍として生きるということは、思っていた以上に覚えることが多いらしい。
そして、昨日から何度も感じていることだが――。
「……黒凪さん、結構笑う人なんだな」
独り言が、静かな客間に落ちた。
朝の光は、すでに障子いっぱいに広がっていた。
◇
朝食の支度は、ほとんど終わっていた。
炊きたてのご飯に、豆腐とわかめの味噌汁。小皿には厚焼き卵と青菜のおひたしが並び、中央の皿には焼き鮭が二切れ置かれている。
居間へ入った銀澪は、その光景を見て思わず目を細めた。
「……いい匂いですね」
「あら、来たのね。ちょうどできたところよ」
台所から顔を出した黒凪が微笑む。
「昨日は疲れていたでしょう? よく眠れた?」
「はい。久しぶりにぐっすり眠れました。……朝はちょっと失敗しましたけど」
「ふふっ。そうね」
黒凪は笑いながら食器を運び、銀澪へ盆を渡した。
「そっちのお茶碗、並べてもらえる?」
「はい」
二人で食卓を整える。
銀澪は昨日と同じ席に腰を下ろそうとしたが、そこで黒凪の尻尾に気づいた。
黒い尾が椅子の横から自然に伸び、床の上で緩やかな曲線を描いている。
「……黒凪さん」
「何?」
「その……尻尾って、普段から出しているんですか?」
黒凪は自分の尾を見下ろした。
「家にいるときは、ほとんどそうね。わざわざ隠す必要もないもの」
「やっぱり、出している方が自然なんですね」
「ええ。あなたも慣れれば分かると思うわ」
黒凪は椅子に座り、少しだけ身をずらした。
「ほら、こうすれば邪魔にならないでしょう?」
長い尾が、椅子の脚を避けるように静かに動いた。
銀澪は感心したように見つめる。
「……なるほど」
「別に難しいことじゃないわ。歩くときも、座るときも、身体の一部として動かせばいいの」
「それが、まだ難しくて……」
「でしょうね。昨日までなかったものが、急に増えたような感覚なんでしょう?」
「はい。まさにそんな感じです」
黒凪は小さく頷いた。
「だったら、しばらくは意識して動かす練習をしましょう。無理に隠しているだけじゃ、いつまで経っても慣れないもの」
「……分かりました」
「ただし、家の中で暴れないこと」
黒凪が真面目な顔で付け加える。
銀澪は思わず苦笑した。
「……気をつけます」
「ふふっ。なら、いいわ」
二人は手を合わせ、朝食を食べ始めた。
銀澪は味噌汁を一口飲み、ほっと息をついた。
昨日も感じたことだが、黒凪の作る料理はどこか懐かしい味がする。
派手な調味料を使っているわけではない。けれど、出汁の取り方や火の通し方が丁寧で、素材の味がよく分かった。
「……黒凪さん、料理が上手ですね」
「そう? ありがとう」
「本当に美味しいです。昨日の夕飯もそうでしたけど」
黒凪は箸を止め、少しだけ笑った。
「長く生きていれば、嫌でも覚えるわよ。それに、一人分の料理ばかり作っていると、どうしても似たようなものになってしまうから」
「……普段は、お一人なんですか?」
「ええ。今はね」
黒凪は何気ない調子で答えた。
しかし、銀澪にはその最後の言葉が少し気になった。
今は。
ということは、以前は誰かと暮らしていたのだろうか。
そう思ったものの、詳しく聞くのはためらわれた。
まだ出会って二日目だ。
長い年月を生きてきた黒凪には、きっと多くの思い出がある。初対面に近い自分が、無遠慮に踏み込んでいいものではないだろう。
銀澪が黙って箸を進めていると、黒凪がふと口を開いた。
「……ところで、銀澪」
「はい?」
「昨日、家族のことを調べたいと言っていたでしょう?」
銀澪は箸を止めた。
「……はい」
「朝食が終わったら、少し整理してみましょうか。あなたが覚えている地名や、生活していた時代のことを」
「……いいんですか?」
「もちろん。私も気になっているもの」
黒凪は穏やかに続けた。
「ただ、最初に言っておくわね。記憶の中にある場所が実在したとしても、そこにあなたの知っている人がいるとは限らないわ」
「……分かっています」
「そう。なら、焦らず確かめていきましょう」
銀澪は静かに頷いた。
そして、もう一度箸を取る。
黒凪の言うとおりだ。
今の自分には、まだ分からないことが多すぎる。
けれど、少なくとも調べる手段はある。
そのことが、今はありがたかった。
◇
朝食を終え、食器を片づけた後。
黒凪は居間の大きな机に、ノートと筆記用具、それにスマートフォンを置いた。
「さて。まずは、あなたの記憶を整理しましょうか」
「はい」
銀澪は向かい側の椅子へ腰を下ろした。
黒凪はノートを開き、最初のページに日付を書き込む。
「あなたの知っている日本と、今の日本がどのくらい一致しているのか。それを調べるのが先ね」
「……なるほど」
「まず、あなたが覚えている最後の年月は?」
銀澪は記憶をたどった。
人間だった頃の暮らし。
使っていたスマートフォン。
街中の風景。
ニュースで見た出来事。
そして、日々の生活。
思い出せるものを、一つずつ黒凪へ伝えていく。
黒凪はその内容を丁寧に書き留めた。
ときどき質問を挟みながら、銀澪の話を聞いている。
「……そうすると、あなたの記憶は、比較的最近まで続いているのね」
「はい。少なくとも、何十年も前という感覚ではありません」
「分かったわ」
黒凪はスマートフォンを操作し、いくつかの情報を確かめた。
画面に表示された年月日。
日本各地の地図。
銀澪が覚えていた地名。
それらを比較していくうちに、二人は一つのことに気づいた。
この世界には、銀澪の知っている日本と共通するものが数多く存在していた。
けれど、すべてが一致しているわけではない。
銀澪が覚えている出来事の一部は、こちらの記録では少し違う形で伝えられていた。
「……やっぱり、同じ世界ではないんでしょうか」
銀澪が呟く。
黒凪は画面を見つめたまま、すぐには答えなかった。
「……まだ分からないわ」
「でも、違うところがあるんですよね?」
「ええ。ただ、それだけで別の世界だと断定するのは早いと思うの」
黒凪はノートを閉じた。
「あなたの記憶に間違いがある可能性もあるし、そもそも私たちが見ている情報がすべて正しいとも限らない。もっと確かな手がかりが必要ね」
「……そうですね」
銀澪は小さく頷いた。
期待していた答えは、まだ得られなかった。
それでも、何も分からなかった昨日とは違う。
少なくとも、自分の記憶を確かめる方法があると分かった。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、焦っているんでしょうか」
黒凪が顔を上げた。
「……どうしてそう思うの?」
「何となくです。早く答えを知りたい気持ちがあって……でも、どうすればいいか分からなくて」
銀澪は膝の上で手を組んだ。
「龍になれたことは嬉しいんです。本当に、ずっと憧れていましたから。でも、人間だった頃のことも……簡単には忘れられなくて」
黒凪は黙って聞いていた。
銀澪は少しだけ苦笑した。
「……贅沢な悩みですよね」
「いいえ」
黒凪は、すぐに否定した。
「そんなことないわ」
その声は静かだったが、はっきりとしていた。
「望んでいたものを手に入れたからといって、それまで大切にしていたものを失って平気でいられるとは限らないでしょう?」
「…………」
「嬉しいことと、寂しいことは、同時にあってもいいのよ」
銀澪は顔を上げた。
黒凪は穏やかな表情で続ける。
「長く生きているとね、そういうことは何度もあるの。新しいものを得る喜びと、古いものを手放す寂しさが、同じ日に訪れることだってある」
「……黒凪さんも?」
「ええ。私もよ」
黒凪は小さく笑った。
「だから、無理にどちらかの気持ちを消そうとしなくていいわ」
その言葉が、銀澪の胸に静かに染み込んでいった。
何かが解決したわけではない。
それでも、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。またお礼?」
「……すみません」
「謝るのも禁止にしようかしら」
黒凪が冗談めかして言う。
銀澪は思わず笑ってしまった。
「それは、ちょっと難しいかもしれません」
「でしょうね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
窓の外では、朝の光が庭の木々を照らしていた。
◇
昼前になると、黒凪は銀澪を庭へ誘った。
「少し、龍の力を確かめてみましょうか」
「……僕の力を、ですか?」
「ええ。昨日、神社で水を操ったと言っていたでしょう? 今のあなたに何ができるのか、私も知っておきたいの」
銀澪は庭を見渡した。
広い池と、その奥にある小さな滝。
周囲には石灯籠や庭木が並び、苔むした岩が自然な曲線を描いている。
「……ここで大丈夫なんですか?」
「池の水を少し使うだけなら問題ないわ。もちろん、無茶はしないこと」
「……はい」
「それと、最初に一つ約束して」
黒凪は真剣な表情になった。
「自分で制御できないと感じたら、すぐに力を止めること。無理に続けないで」
銀澪は頷いた。
「分かりました」
「よろしい。じゃあ、始めましょう」
黒凪は池のほとりに立ち、右手を静かに伸ばした。
すると、水面に小さな波紋が広がった。
その中心から、細い水の筋がゆっくりと立ち上がる。
水はまるで生き物のように空中を進み、黒凪の指先を取り巻いた。
「……すごい」
銀澪が思わず呟く。
黒凪は小さく微笑んだ。
「まだ序の口よ」
彼女が指を動かすと、水は細い輪を描き、空中に小さな円を作った。
さらに、その輪が幾重にも重なり、美しい螺旋を形作っていく。
水滴一つ落ちることなく、すべてが黒凪の意思に従っていた。
やがて彼女が手を下ろすと、水は静かに池へ戻っていった。
「……こんな感じね」
「……すごいですね」
「ふふっ。さっきも聞いたわ」
「だって、本当にすごいので」
黒凪は少し照れくさそうに笑った。
「ありがとう。でも、大切なのは力の強さじゃないの」
「……といいますと?」
「どれだけ細かく制御できるかよ」
黒凪は池の水面を指差した。
「大量の水を動かすこと自体は、力の強い龍ならできるわ。でも、それを正確に動かすのは別の話なの」
彼女は銀澪へ向き直った。
「例えば、川を丸ごと動かせる龍でも、茶碗一杯の水をこぼさず運ぶことが苦手な場合もあるのよ」
「……なるほど」
銀澪は思わず頷いた。
今朝の失敗を思い出す。
確かに、水を浮かべることはできた。
しかし、思った以上に水が集まってしまい、危うく障子を濡らすところだった。
「……僕、まさにそれですね」
「そういうこと」
黒凪は楽しそうに笑った。
「だから、まずは少量の水を動かすところから始めましょう」
銀澪は池の前に立った。
黒凪は少し離れたところで見守っている。
「慌てなくていいわ。水の動きをよく感じて」
「……はい」
銀澪は目を閉じた。
池の水音。
滝から流れ落ちる水。
庭木の葉から滴る雫。
それぞれの音が、妙にはっきりと聞こえる。
昨日、神社でも感じた感覚だった。
水がどこから来て、どこへ流れていくのか。
それが、目を閉じていても分かるような気がした。
銀澪はゆっくりと右手を伸ばす。
池の水面に、小さな波紋が広がった。
その中心から、一滴の水が浮かび上がる。
「……できた」
銀澪は目を開けた。
水滴は、指先の前で静かに浮かんでいる。
黒凪が小さく頷いた。
「上手よ。そのまま、少しだけ動かしてみて」
「……はい」
銀澪は慎重に指を動かした。
水滴が、ゆっくりと横へ移動する。
右へ。
左へ。
そして、元の位置へ。
今度は、ほとんど揺れることなく動かせた。
「……おお」
銀澪の顔に笑みが浮かぶ。
黒凪も嬉しそうに頷いた。
「いい感じね。じゃあ、次は少しだけ量を増やしてみましょうか」
「分かりました」
銀澪は再び意識を集中させた。
水滴が二つ、三つと増えていく。
やがて、それらは一つにまとまり、小さな水球になった。
黒凪は黙って見守っていた。
水球は銀澪の掌の上で、静かに浮かんでいる。
「……できました」
「ええ。思っていたより、ずっと上手ね」
黒凪が微笑む。
しかし、その直後だった。
池の水面が、不意に大きく揺れた。
「……え?」
銀澪が目を見開く。
自分が動かしている水球とは別に、池の中央から幾つもの波紋が広がっていた。
風は吹いていない。
魚が跳ねた様子もなかった。
それなのに、水面がゆっくりと盛り上がり始める。
「……銀澪、待って」
黒凪の声が変わった。
「そのまま、力を止めて」
「……はい!」
銀澪はすぐに意識を解いた。
掌の上の水球が崩れ、池へ戻っていく。
しかし。
水面の揺れは収まらなかった。
「……?」
黒凪の表情が険しくなる。
彼女は池へ近づき、右手をかざした。
すると、黒凪の周囲に淡い水の輪が現れた。
池全体に広がっていた波紋が、少しずつ小さくなっていく。
だが、その間にも、池の底から何かが脈打つような感覚が伝わっていた。
銀澪は思わず胸元へ手を当てた。
「……何だ、これ」
不思議な感覚だった。
水が動いている。
けれど、自分が動かしているわけではない。
むしろ、水の方から何かを伝えようとしているような――。
「……銀澪!」
黒凪の声に、意識が引き戻された。
「はい!?」
「こっちへ来て。池から少し離れましょう」
銀澪は慌てて後退した。
黒凪は水面に向けていた手をゆっくりと下ろす。
それと同時に、池の揺れも静まっていった。
再び、庭に静けさが戻る。
銀澪は息を吐いた。
「……すみません。僕、何かしてしまったんでしょうか」
「……いいえ」
黒凪は首を振った。
「あなたが悪いわけじゃないわ」
「でも……」
「少なくとも、今のあなたが意識して起こしたことではないはずよ」
黒凪は池を見つめていた。
その金色の瞳には、明らかな警戒が浮かんでいる。
「……ただ、少し気になることがあるの」
「……何でしょう?」
黒凪は答える前に、庭の奥にある滝へ目を向けた。
「この池の水は、山の地下水脈につながっているの」
「地下水脈……」
「ええ。長い年月をかけて、この山の水を集めている場所よ」
黒凪は静かに続けた。
「普通、龍が水を操るときは、自分の力で水の流れに干渉するの。けれど、今のあなたは……」
そこで言葉を切る。
銀澪は黒凪の続きを待った。
「……水脈の方が、あなたに反応したように見えたわ」
銀澪は目を見開いた。
「……僕に?」
「ええ。ただ、まだ確かなことは言えないけれど」
黒凪は小さく息を吐いた。
「昨日、あの神社で感じた水の乱れも、もしかしたら同じ現象だったのかもしれない」
「……昨日の神社?」
「そう。実は、私があそこへ行ったのには理由があったの」
黒凪は銀澪へ向き直った。
「数日前から、あの山の水脈に妙な変化が起きていたの。普段なら静かに流れているはずの水が、時々、何かに引き寄せられるように動いていた」
「……それで、調べに来たんですか?」
「ええ。そして、あなたに出会った」
銀澪は黙り込んだ。
偶然だと思っていた出会い。
しかし、黒凪は最初から何らかの異変を追って、あの神社へ向かっていたらしい。
「……僕が原因なんでしょうか」
銀澪が尋ねる。
黒凪はすぐには答えなかった。
しばらく考えた後、静かに首を振る。
「……分からないわ。あなたが現れたから水脈が乱れたのか、それとも水脈の異変があなたを呼び寄せたのか」
彼女は池へ視線を戻した。
「あるいは、まったく別の原因があるのかもしれない」
銀澪はゆっくりと頷いた。
「……そうですね」
「だから、今は無理に力を試さない方がいいわね」
「……はい」
銀澪は自分の手を見つめた。
昨日まで、人間だった自分。
今は、龍の力を持つ存在になっている。
しかし、その力が何なのか、自分でも分からない。
もし、制御できないまま周囲へ影響を与えてしまったら。
そんな不安が、胸の奥に浮かんだ。
そのときだった。
「……銀澪」
黒凪が静かに声をかけた。
「……はい」
「そんな顔をしないの」
「……え?」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「力があることと、危険な存在であることは同じじゃないわ」
「…………」
「大切なのは、その力をどう扱うかよ」
黒凪は銀澪の手元へ視線を向けた。
「今のあなたは、何も知らないだけ。だったら、これから覚えればいいの」
「……黒凪さん」
「それに、私もいるでしょう?」
その言葉に、銀澪は顔を上げた。
黒凪は穏やかな表情で続ける。
「一人で全部できるようになる必要はないわ。分からないことがあったら聞いてちょうだい」
銀澪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。またお礼?」
「……これは、言わせてください」
黒凪は一瞬、驚いたように目を丸くした。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……そう。なら、受け取っておくわ」
庭には再び、穏やかな水音が戻っていた。
◇
昼食の後、銀澪は黒凪に申し出て、庭の掃除を手伝うことにした。
今朝の失敗もあったし、泊めてもらっている以上、何かできることをしたかったのだ。
黒凪は最初こそ遠慮していたものの、銀澪が何度か頼むと、竹箒を一本渡してくれた。
「じゃあ、私は向こうの植木を見てくるから、ここの落ち葉をお願いできる?」
「分かりました」
「それと……」
黒凪が銀澪の腰元を見た。
「尻尾、気をつけてね」
「……はい」
銀澪は苦笑した。
今は練習のため、角と尻尾を出したままにしている。
黒凪によれば、龍人の身体に慣れるには、普段から本来の姿で過ごすのが一番らしい。
確かに、いつまでも隠しているだけでは、自然な動かし方を覚えられないだろう。
銀澪は竹箒を持ち、庭の落ち葉を集め始めた。
しかし、これが意外と難しかった。
身体を大きく動かすたびに、尻尾が遅れてついてくる。
足元の落ち葉を掃こうとすると、背後の尾が別の落ち葉を散らしてしまう。
「……あれ?」
集めた落ち葉が、また広がった。
銀澪はしばらく黙っていた。
それから、もう一度箒を動かす。
今度は尻尾を意識して、ゆっくりと。
しかし、尾の先端が地面を滑り、またしても落ち葉を散らした。
「…………」
銀澪は箒を止めた。
「……これ、意外と難しいぞ」
思わず呟く。
すると、背後から声が聞こえた。
「……何をしているの?」
振り返ると、黒凪が立っていた。
手には小さな剪定鋏を持ち、庭木の手入れをしていたらしい。
銀澪は少し気まずそうに笑った。
「……落ち葉を集めているんですけど」
「……けど?」
「尻尾が、邪魔をしてきます」
黒凪は銀澪の足元を見た。
綺麗に集められた落ち葉。
その周囲に、散らばった別の落ち葉。
そして、申し訳なさそうに動く白銀の尻尾。
「…………」
黒凪はしばらく黙っていた。
次の瞬間。
「……ふふっ」
口元を押さえた。
「……黒凪さん」
「ご、ごめんなさい……」
黒凪は笑いを堪えようとしていた。
しかし、銀澪の尻尾が再び落ち葉を散らした瞬間、とうとう声を出して笑ってしまった。
「ふふふっ……もう、あなたってば!」
「……笑いすぎじゃないですか?」
「だって……ふふっ……そんなに真剣な顔で、尻尾と戦っているんだもの」
「いや、僕だって真剣なんですよ?」
「分かっているわ。だから余計に……」
黒凪はお腹を押さえて笑っていた。
銀澪は少しだけ頬を膨らませる。
もっとも、黒凪がここまで楽しそうに笑っている姿を見ていると、怒る気にはなれなかった。
「……黒凪さんだって、最初は苦労したんでしょう?」
銀澪が言うと、黒凪はようやく笑いを収めた。
「ええ、したわよ」
「だったら、もう少し優しくしてくれても……」
「ふふっ。ごめんなさい」
黒凪は銀澪の隣へ歩み寄った。
「じゃあ、少しだけ教えてあげる」
そう言って、彼女は自分の黒い尻尾を動かした。
長い尾が地面の上を滑り、落ち葉を一か所へ集めていく。
まるで、もう一本の腕を使っているような動きだった。
「……え?」
銀澪は目を見開いた。
黒凪は涼しい顔で続ける。
「尻尾を邪魔者だと思わないこと。ちゃんと使えば、こんなこともできるのよ」
黒い尾が、最後の落ち葉を小さな山へ押し寄せた。
銀澪は感心したように息を吐く。
「……なるほど」
「ね? 便利でしょう?」
「……はい。すごく」
黒凪は少し得意げに微笑んだ。
「じゃあ、やってみて」
「……分かりました」
銀澪は竹箒を置いた。
そして、自分の尻尾へ意識を向ける。
まずは、ゆっくりと動かす。
白銀の尾が地面を滑った。
落ち葉に触れ、そのまま少しずつ押し寄せていく。
「……おお」
銀澪の顔に笑みが浮かぶ。
今度は、さっきよりずっと自然に動かせた。
「できました!」
「ええ、上手よ」
黒凪は嬉しそうに頷いた。
銀澪はもう一度、尻尾を動かしてみる。
少しずつ。
慎重に。
そして、落ち葉を一か所へ集め終えた。
「……よし!」
思わず声を上げる。
黒凪はその様子を見て、柔らかく笑った。
「ふふっ。そんなに嬉しい?」
「はい。こういうの、何だか楽しくて」
「……そう」
黒凪は少しだけ目を細めた。
「それなら、よかったわ」
銀澪は白銀の尻尾を見つめた。
昨日まで、自分にはなかったもの。
今朝は失敗の原因になったもの。
それでも、こうして少しずつ扱い方を覚えていけば、いつか自然に動かせるようになるのだろう。
そのことが、何より嬉しかった。
黒凪はそんな銀澪を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……本当に、楽しそうね」
「え?」
「いいえ。何でもないわ」
黒凪は小さく首を振った。
それから、再び剪定鋏を手に取る。
「さて。私も続きをしないと」
「僕も、もう少し掃除をします」
「ええ。お願いね」
二人はそれぞれの作業へ戻った。
庭には、竹箒が落ち葉を集める音と、剪定鋏の小さな音が響いていた。
ときどき、銀澪の尻尾が落ち葉を散らしてしまう。
そのたびに黒凪が笑い、銀澪が少し困った顔をする。
そんなやり取りを繰り返しながら、庭は少しずつ綺麗になっていった。
◇
午後の作業を終えた頃には、空がすっかり晴れていた。
銀澪は縁側に腰を下ろし、黒凪が用意してくれた冷たい麦茶を飲んでいた。
庭の木々から、時折鳥の声が聞こえてくる。
遠くでは、山を下る風が森を揺らしていた。
「……はぁ。気持ちいいですね」
銀澪が呟くと、隣に座った黒凪が頷いた。
「ええ。雨上がりの空気って、好きなの」
「僕もです」
二人はしばらく、庭を眺めていた。
午前中の水の異変は、今のところ再び起きていない。
池の水も穏やかで、いつもどおり小さな滝が流れ落ちている。
銀澪はその光景を見つめながら、静かに口を開いた。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕、しばらくここにいてもいいんでしょうか」
黒凪が銀澪へ顔を向けた。
銀澪は続ける。
「もちろん、ずっとというわけじゃありません。自分のことも調べないといけませんし、生活のことも考えないと……」
銀澪は湯呑みを置いた。
「でも、正直に言うと、今はまだ一人で暮らしていける自信がなくて」
黒凪は黙って聞いていた。
「何も知らないまま外へ出て、誰かに迷惑をかけるのも嫌なんです。だから、少しだけ……ここで龍としての生活を教えてもらえたらって」
銀澪は少しだけ頭を下げた。
「家事とか、庭の手入れとか、僕にできることは手伝います」
黒凪はしばらく考えていた。
それから、静かに口を開く。
「……銀澪」
「はい」
「一つだけ、確認させて」
「……何でしょう?」
「あなた、本当にここにいたいの?」
銀澪は顔を上げた。
黒凪の金色の瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
「困っているから仕方なく、というだけなら、別の方法を探すこともできるわ。でも、あなた自身がここにいたいと思っているのなら……」
そこで、少しだけ言葉を切った。
「……私は、構わないわよ」
銀澪は目を見開いた。
「……本当ですか?」
「ええ。ただし、今すぐ何もかも決めるわけじゃないわ。まずは数日、一緒に過ごしてみましょう。生活のことも、あなたの記憶のことも、少しずつ整理してから考えればいいもの」
黒凪は穏やかに微笑んだ。
「それに、あなたがいると……」
そこで言葉を止める。
銀澪は首を傾げた。
「……僕がいると?」
黒凪は少しだけ視線を外した。
「……いえ。何でもないわ」
「……?」
「ただ、久しぶりに誰かと一緒に食事をするのも、悪くないと思っただけ」
そう言って、黒凪は麦茶を一口飲んだ。
銀澪はその横顔を見つめた。
金色の瞳。
漆黒のショートウルフ。
そして、ゆっくりと動く黒い龍の尾。
長い年月を生きてきた彼女は、これまでどんな日々を過ごしてきたのだろう。
どんな人と出会い、どんな別れを経験してきたのだろう。
まだ、何も知らない。
けれど、いつか聞いてみたいと思った。
「……黒凪さん」
「何?」
「僕も、黒凪さんと一緒に食事をするの、楽しいです」
黒凪が動きを止めた。
「……え?」
「昨日も今日も、すごく楽しかったので」
銀澪は少しだけ笑った。
「だから……もう少し、ここで過ごせたら嬉しいです」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと微笑む。
「……そう」
その声は、先ほどより少し柔らかかった。
「なら、しばらくよろしくね。銀澪」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そのとき、黒凪の黒い尻尾がゆっくりと動いた。
縁側の上を滑り、銀澪の白い尻尾のすぐ近くで止まる。
銀澪はその様子に気づいたものの、特に何も言わなかった。
黒凪もまた、気づいているのかいないのか、庭を眺めたままだった。
ただ、二人の尾は、触れそうで触れない距離に並んでいた。
山から吹く風が、庭の木々を揺らす。
その音を聞きながら、銀澪はゆっくりと息を吐いた。
昨日まで、自分には居場所がなかった。
けれど今は、こうして座っていられる場所がある。
そして、隣には話を聞いてくれる人がいる。
それだけで、少しだけ前へ進めた気がした。
◇
その夜。
黒凪は再び、屋敷の奥にある書庫へ足を運んでいた。
机の上には、昨夜見つけた古い書物が置かれている。
人の生を終え、龍として現れた者。
その記録について、もう少し調べるつもりだった。
しかし、彼女が気にしていたのは、それだけではない。
昼間、庭の池で起きた異変。
銀澪が力を使った直後、水脈そのものが反応したように見えた現象。
あれは、普通の水の操作とは明らかに違っていた。
黒凪は古い書物を開き、何度も目を通した。
その中には、龍と水脈の関係について記された章があった。
龍は水を操る。
そして、水の流れを通じて周囲の自然を感じ取ることができる。
それ自体は、珍しいことではない。
けれど、銀澪の場合は少し違う。
水を動かすというより、水が彼へ近づこうとしていた。
あの感覚を、黒凪は知っているような気がした。
「……どこかで」
小さく呟く。
遠い昔。
まだ自分が幼かった頃、祖母から聞いた話。
山に眠る水脈と、龍の力についての古い伝承。
その一節が、記憶の奥でかすかに揺れていた。
黒凪は目を閉じた。
思い出そうとする。
しかし、どうしても言葉のすべてが浮かんでこない。
「……駄目ね。随分昔のことだから」
小さく息を吐き、書物を閉じる。
黒凪は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
数日前まで、この屋敷には自分一人しかいなかった。
朝起きて、庭の手入れをして、食事を作り、必要があれば人里へ買い物に出かける。
夜になれば書物を読み、静かに眠る。
長い年月をかけて繰り返してきた、変わらない日常だった。
けれど、昨日からは違う。
朝には水差しを倒す音がして、昼には庭で尻尾と格闘する白龍がいる。
食事をすれば、美味しいと笑ってくれる。
何かを教えれば、素直に感心する。
そして、何度も何度も感謝を伝えてくる。
「……本当に、変わった人」
黒凪は思わず笑った。
銀澪は、自分がどれほど不思議な存在なのか、まだ分かっていない。
それなのに、本人は今日も尻尾の扱い方に苦労し、落ち葉を集めるだけで嬉しそうにしていた。
黒凪はその様子を思い出し、また小さく笑う。
「……まあ、悪くないわね」
静かな書庫に、その声が落ちた。
黒凪は立ち上がり、窓を開けた。
夜の山から、涼しい風が流れ込んでくる。
庭の池には月が映り、その水面が静かに揺れていた。
「……銀澪」
小さく名前を呟く。
彼が何者なのか。
なぜ、あの神社に現れたのか。
そして、あの水脈の異変が何を意味しているのか。
まだ、分からないことばかりだった。
それでも。
黒凪は窓の外を眺めながら、静かに微笑んだ。
「……明日も、少し賑やかになりそうね」
その声には、どこか楽しげな響きがあった。
月明かりが、漆黒の髪を淡く照らす。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
そこに、白龍と黒龍の新しい日常が生まれ始めていた。
それはまだ、恋と呼べるようなものではない。
ただ、互いの存在が少しずつ、当たり前の日常に溶け込んでいく。
長い年月を生きる二人にとって、その変化がどれほど大きな意味を持つことになるのか。
今はまだ、誰も知らなかった。




