第二話 黒龍の住まう家
浴室から聞こえてきた電子音に、黒凪は思わず足を止めた。
廊下の奥では、何やら銀澪が慌てているらしい。続けて水の流れる音がしたかと思えば、それもすぐに止まってしまった。
「……銀澪?」
「あっ、黒凪さん。すみません、ちょっと聞きたいことが……」
脱衣所の扉越しに、申し訳なさそうな声が返ってきた。
「どうしたの?」
「お風呂を沸かそうとしたんですけど、操作を間違えたみたいで。知らない表示が出てしまって……」
「表示?」
「ええと……『浴室ミスト運転』って書いてあります」
黒凪は一瞬、目を閉じた。
それから、込み上げてきた笑いをどうにか堪える。
「……銀澪。それ、お湯を張るための操作じゃないわ」
「ですよね……」
「浴槽の方はもう準備してあるの。余計なところを触らなくても大丈夫よ」
「……そうだったんですか」
どこか情けなさそうな返事が聞こえた。
黒凪は壁際に設置された操作盤を確認し、誤って起動した機能を停止させた。
「これでよし。浴室の設備は少し特殊だから、分からなければ聞いてちょうだい」
「ありがとうございます。人間だった頃にも似たような設備はあったんですけど、これは初めて見ました」
「ふふっ。龍の力より、お風呂の方が難しいのかしら?」
「……返す言葉もありません」
今度こそ、黒凪は声を出して笑った。
つられて、扉の向こうからも小さな笑い声が聞こえてくる。
山奥の古い屋敷に、二人分の笑い声が響く。
黒凪にとって、それは久しぶりのことだった。
◇
湯気の立ち込める浴室で、銀澪は深く息を吐いた。
「……はぁ。生き返るなぁ」
肩まで湯に浸かると、身体の芯に残っていた冷えが少しずつ溶けていく。
壁には檜が使われ、浴槽の縁も滑らかな木で仕上げられていた。窓の向こうには竹林が広がり、雨に濡れた葉が風に揺れている。
見た目は昔ながらの和風浴室なのに、設備だけは驚くほど新しい。
銀澪は天井を見上げながら、先ほどの失敗を思い出した。
「……初日から何やってるんだろう、僕」
苦笑し、湯船の中で膝を抱える。
すると、視界の端で白いものが動いた。
自分の尻尾だった。
浴室へ入る前に、角と尻尾を再び出してみたのだが、どうやら長い尾を持ったまま入浴するには少し工夫が必要らしい。
試しに動かすと、水面が大きく揺れた。
「おっと……」
慌てて動きを止める。
尾の先端が湯船からはみ出し、床にぽたりと水滴を落とした。
銀澪はそれを見つめた。
まだ、自分の身体だという実感が薄い。
それでも、角に触れれば硬さが分かり、尾を動かせば筋肉が働く感覚がある。
決して夢ではなかった。
「……本当に、龍になったんだな」
誰もいない浴室で、静かに呟く。
人間だった頃、何度も想像した姿。
銀色の髪、龍の角、長い尻尾。そして、常識では考えられない力。
そのすべてが今、自分のものになっていた。
嬉しくないはずがない。
けれど、その喜びの奥には、まだ整理できない感情が残っている。
自分が元いた場所。
あの世界で出会った人々。
毎日のように見ていた景色。
それらは、今どうなっているのだろう。
こちらの世界で時間が進んでいる間、向こうでも同じように時間が流れているのだろうか。
そもそも、本当に別の世界なのか。
何も分からない。
銀澪は湯をすくい、顔を洗った。
温かな水が頬を伝って落ちていく。
「……まあ、考えても今すぐ答えは出ないか」
目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
人間だった頃から、困ったことがあっても、最後には何とかなると思って生きてきた。
それは、何もせずに幸運を待つという意味ではない。
できることから一つずつ片づければ、少なくとも先へ進むことはできる。
今なら、まずは黒凪の話を聞くことだろう。
この世界のこと。
龍人のこと。
そして、自分がこれからどう生きていくべきなのか。
銀澪はもう一度、湯の中で尾を動かした。
今度はゆっくりと、水を跳ねさせないように。
水面に広がった小さな波紋を眺めながら、少しだけ笑う。
「……それにしても、この尻尾、慣れるまで大変そうだな」
静かな浴室に、その独り言だけが響いていた。
◇
風呂を上がると、脱衣所には綺麗に畳まれた衣服が置かれていた。
墨色の長袖シャツと、ゆったりした黒のパンツ。それに、薄手の羽織が一枚。
どれも新品ではないようだったが、清潔に手入れされていた。
服の上には、小さな紙が置かれている。
『大きさが合うか分からないけれど、よかったら使って。黒凪』
銀澪は思わず頬を緩めた。
「……本当に、親切な人だな」
借りた服へ袖を通す。
多少ゆとりはあったものの、着心地は悪くなかった。
鏡の前に立ち、白銀の髪を軽く整える。
角は出したままだ。
しかし、尻尾については少し考えた末、再び隠すことにした。
衣服に穴が開いているわけではないし、無理に出していては動きにくい。
何より、借り物を傷めるのは申し訳なかった。
鏡の中には、白銀の髪と左右異なる瞳を持つ青年が映っている。
中性的な顔立ち。
どこか幼さを残しながらも、目元には落ち着いた雰囲気があった。
「……うん。服装だけなら、普通に街を歩けそうかな」
そう呟き、銀澪は脱衣所を出た。
廊下には、木の温かな香りが漂っていた。
壁には控えめな照明が設置され、夜を迎えつつある屋敷の内部を柔らかく照らしている。
外観からは想像できなかったが、この家には現代的な設備がかなり取り入れられているらしい。
古いものを残しながら、生活に必要なところだけ新しくしている。
その造りに、銀澪は不思議な居心地の良さを覚えた。
やがて、廊下の奥から何かを煮込む匂いが漂ってきた。
「……いい匂い」
思わず足が向く。
角を曲がると、広い居間と台所が一体になった部屋が現れた。
大きな木製の食卓。
壁際に置かれた食器棚。
庭へ面した掃き出し窓。
その向こうには縁側が続き、雨上がりの庭を眺められるようになっていた。
そして、台所には黒凪の姿があった。
先ほどまでのジャケットを脱ぎ、今は薄い灰色のシャツに黒いエプロンを身につけている。
漆黒のショートウルフが、首筋で軽く揺れた。
頭には、黒曜石のような龍角。
背後には、長くしなやかな黒い尾。
どうやら、この家では龍人としての姿が自然なのだろう。
「……あら、上がったの?」
銀澪に気づいた黒凪が振り返る。
「はい。お風呂、ありがとうございました」
「どういたしまして。服は大丈夫そう?」
「少し大きいですけど、問題ありません」
「そう。よかった」
黒凪は銀澪の姿を一通り眺め、小さく頷いた。
「……似合ってるわね」
「え?」
「その服。髪の色とも合っていると思うわ」
「あ、ありがとうございます」
少し照れくさくなって、銀澪は視線を外した。
黒凪はそれを見て、楽しそうに笑う。
「ふふっ。褒められるのには慣れていないの?」
「……あまり、ですね」
「そうなの。じゃあ、これから少しずつ慣れないとね」
からかうような口調だった。
けれど、その言葉には嫌味がない。
銀澪は何となく居心地の悪さを感じながらも、不思議と悪い気はしなかった。
「ところで、何か手伝えることはありますか?」
そう尋ねると、黒凪が目を丸くした。
「……お手伝い?」
「はい。料理でも、片づけでも。泊めてもらうだけじゃ申し訳ないので」
黒凪は少し考えた。
それから、食器棚の方へ視線を向ける。
「そうね。じゃあ、お皿を並べてもらえるかしら」
「分かりました」
「そこにある大皿を二枚。それから、お茶碗とお椀もお願い」
銀澪は言われたとおりに食器を取り出した。
棚には、普段使いの陶器が丁寧に並べられている。
白地に青い模様の入った皿。
木目の美しい汁椀。
そして、淡い水色の釉薬がかかった茶碗。
どれも派手ではないが、長く大切に使われてきたような落ち着きがあった。
「……綺麗な食器ですね」
「ありがとう。古いものも多いけれど、気に入っているの」
「こういうの、好きです」
「……そう」
黒凪は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
それから、鍋の火を弱める。
「銀澪。料理はするの?」
「ええ。人間だった頃は、自分で作ることも多かったので」
「へえ。得意料理は?」
「得意ってほどではないですけど、煮物とか炒め物とか……普通の家庭料理なら、それなりに」
「それは助かるわね」
「……助かる?」
銀澪が聞き返すと、黒凪は小さく咳払いをした。
「いえ。今夜は食器を並べてもらえるだけでも助かる、という意味よ」
「ああ、なるほど」
銀澪は素直に頷いた。
黒凪は再び鍋へ向き直る。
その黒い尻尾が、床の上でゆっくりと揺れた。
銀澪はその様子に気づき、少しだけ首を傾げる。
先ほどまで、彼女の尾はほとんど動いていなかった。
今は、先端が小さく左右に揺れている。
人間なら、機嫌が良いときに自然と表情が緩むようなものだろうか。
そう考えたものの、まだ龍人の習性について何も知らない。
下手なことを聞いて失礼になるのも困る。
銀澪は黙って食器を並べ終えた。
その間も、黒凪の尾は小さく揺れていた。
◇
夕食が食卓に並んだ頃には、窓の外がすっかり暗くなっていた。
今夜の献立は、炊きたての白米に、根菜と豆腐の味噌汁。山菜の煮物と、川魚の塩焼き。それに、色鮮やかな野菜の浅漬けだった。
決して豪華な料理ではない。
けれど、湯気の立ち上る食卓には、長い時間をかけて整えられた家庭の温かさがあった。
「あり合わせのものばかりでごめんなさいね。お客さんが来るなんて思っていなかったから」
「いえ、十分すぎるくらいです。本当にありがとうございます」
銀澪は椅子に腰を下ろし、食卓を見渡した。
どの料理も美味しそうだった。
それに、こうして誰かと食卓を囲むこと自体が、今は何よりありがたく感じられる。
「じゃあ、食べましょうか」
「はい。いただきます」
銀澪は自然と両手を合わせた。
いつもどおりの、何気ない仕草だった。
しかし、向かい側に座った黒凪が、その様子をじっと見つめていた。
「……銀澪」
「はい?」
「あなた、食事の前にはいつもそうしているの?」
「ああ、これですか?」
銀澪は合わせていた手を下ろした。
「はい。人間だった頃からの習慣ですね。食事ができることに感謝するというか……」
「……そう」
黒凪は小さく頷いた。
「いい習慣ね」
「ありがとうございます」
「私も、昔は祖母からよく教えられたわ。いただいた命を無駄にしないこと。食事を用意してくれた人への感謝を忘れないことって」
そう言いながら、黒凪も軽く手を合わせた。
「いただきます」
銀澪は思わず微笑んだ。
そして、味噌汁を一口飲む。
「……美味しい」
自然に言葉が出た。
出汁の香りが口の中に広がり、根菜の柔らかな甘みが後から追いかけてくる。
決して濃い味ではない。
それでも、ひと口飲んだだけで身体が温まるような、不思議な安心感があった。
「本当?」
「はい。すごく美味しいです」
「ふふっ。ありがとう」
黒凪は嬉しそうに笑った。
「その味噌、昔からこの家で作っているものなの。今は私が仕込んでいるけれど、元々は祖母の味なのよ」
「自家製なんですか?」
「ええ。手間はかかるけれど、やっぱり慣れた味が一番落ち着くの」
「分かる気がします」
銀澪はもう一口、味噌汁を飲んだ。
すると、黒凪が少しだけ身を乗り出す。
「そうだ。魚は骨が多いから気をつけてね」
「あ、はい」
「それと、煮物は少し甘めに作ってあるの。好みに合わなかったら言ってちょうだい」
「大丈夫ですよ。僕、甘めの味つけも好きなので」
「そう? よかった」
そこで銀澪は、ふと気づいた。
黒凪は先ほどから、自分の食事を気にかけてばかりいる。
初対面の相手を家に招き、食事まで用意してくれたのだから、警戒していてもおかしくないはずなのに。
もちろん、すべてを信用されているわけではないのだろう。
それでも、少なくとも今は、目の前の客に不自由をさせまいとしてくれている。
「……黒凪さん」
「何かしら?」
「本当に、ありがとうございます」
黒凪が箸を止めた。
「……急にどうしたの?」
「いえ。会ったばかりなのに、ここまでしてもらって。ちゃんとお礼を言っておきたくて」
銀澪は少しだけ頭を下げた。
「今は何もお返しできませんけど、落ち着いたら必ず」
黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。
やがて、少し困ったように微笑む。
「……律儀なのね」
「そうでしょうか」
「ええ。でも、今はそんなに気にしなくていいわ」
彼女は箸を置き、穏やかな声で続けた。
「困っている人を見かけたら、できる範囲で手を貸す。それだけのことよ。それに、あなたには私も聞きたいことがあるんだから、お互い様でしょう?」
「……そうですね」
「だから、今はちゃんと食べなさい。せっかく温かいうちに出したんだから」
その言い方が、どこか母親のようだった。
銀澪は思わず笑ってしまう。
「……はい」
「もう。どうして笑うの?」
「すみません。なんだか、懐かしい感じがして」
黒凪は一瞬、不思議そうな顔をした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
銀澪もまた、目の前の料理へ箸を伸ばした。
静かな屋敷の中に、食器の触れ合う小さな音が響く。
窓の外では、庭の池に雨粒が落ちていた。
その音を聞きながら、銀澪は久しぶりに、何も心配せず食事を楽しんでいる自分に気づいた。
◇
食事を終えると、二人は協力して食器を片づけた。
黒凪は最初、客に洗い物までさせるつもりはなかったらしい。しかし、銀澪が自分から手伝いを申し出ると、少し考えた末に布巾を渡してくれた。
銀澪が食器を拭き、黒凪が棚へ戻す。
その間にも、他愛のない会話が続いた。
この屋敷はいつ建てられたのか。
庭の滝は天然なのか、それとも人工のものなのか。
山の中にはどんな動物が暮らしているのか。
黒凪は一つひとつ、丁寧に答えてくれた。
ただ、家の歴史については、あまり詳しく話そうとしなかった。
「……ずいぶん昔から、この家に住んでいるんですね」
「ええ。少なくとも、あなたが想像しているよりはずっと長いわ」
「もしかして、百年以上とか?」
銀澪が何気なく尋ねると、黒凪は少しだけ口元を緩めた。
「……どうかしらね」
「えっ、そこは秘密なんですか?」
「女性に年齢を聞くものではないわよ?」
「……すみません」
銀澪は反射的に頭を下げた。
すると黒凪は、堪えきれなくなったように笑い出した。
「ふふっ……冗談よ。そんなに真剣に謝らなくてもいいのに」
「いや、でも……」
「本当に素直なのね、あなた」
黒凪は笑いながら、最後の皿を棚へ戻した。
銀澪は少しだけ肩を落とす。
どうやら、自分はこの女性にからかわれやすいらしい。
もっとも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
片づけが終わると、黒凪は急須に茶葉を入れ、湯を注いだ。
「さて。少し落ち着いたところで、話の続きをしましょうか」
「……はい」
「その前に、場所を変えましょう。縁側の方が静かだから」
銀澪は頷き、黒凪の後に続いた。
居間から続く障子を開けると、広い縁側が現れた。
庭には石灯籠が置かれ、その向こうに池が広がっている。
雨はすでに止んでいた。
雲の切れ間から月が顔を覗かせ、水面に淡い光を落としている。
黒凪は座布団を二枚用意し、小さな丸盆に湯呑みを並べた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
二人は少し距離を空けて腰を下ろした。
庭の奥から、水の流れる音が聞こえてくる。
銀澪は湯呑みを両手で包み、ゆっくりと息を吐いた。
昼間、神社で目を覚ましたときには、こんなふうに誰かとお茶を飲んでいる自分など想像もできなかった。
「……落ち着く場所ですね」
思わず口にすると、黒凪が庭へ目を向けた。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
「僕、こういう場所が本当に好きなんです。ずっといても飽きない気がします」
「……ずっと、ね」
黒凪はその言葉を小さく繰り返した。
そして、少しだけ遠くを見るような目をした。
「長く生きていると、景色の見え方も変わるものよ」
「……?」
「昔は、この山にももっと人がいたの。今とは道も違ったし、集落の形も違っていた。山を越えるのに何日もかかる時代だってあったわ」
銀澪は思わず黒凪を見た。
「……それって、実際に見てきたんですか?」
「ええ」
黒凪は静かに頷いた。
「私は、そういう時代を知っているから」
「……すごいですね」
「すごいことかしら」
彼女は少し考えた。
「長く生きていれば、誰だって多くのものを見ることになるわ。ただ、それが必ずしも幸せとは限らないけれど」
銀澪は口を閉じた。
黒凪の声には、先ほどまでの柔らかな調子とは違うものがあった。
悲しみというほど強くはない。
けれど、何かを思い出しているような静けさがあった。
「……龍人って、どれくらい生きるんですか?」
少し迷ってから尋ねる。
黒凪は湯呑みを置いた。
「個人差はあるけれど、千年以上生きる者は珍しくないわ。強い龍の血を持つ者なら、二千年、三千年と生きることもある」
「……そんなに」
「ただし、不死というわけじゃないの。病にかかることもあるし、大きな怪我をすれば命を落とすことだってあるわ」
黒凪は銀澪へ視線を向けた。
「寿命が長いからといって、何をしても大丈夫ということではないのよ」
「……なるほど」
「それに、長く生きるということは、周囲の変化を何度も見届けるということでもあるわ」
黒凪は庭の木々を眺めた。
「山に新しい道ができて、古い村がなくなって、人の暮らしが変わっていく。親しかった人たちが年を取り、やがていなくなることもある」
その言葉を聞いたとき、銀澪の胸の奥がわずかに痛んだ。
人間だった頃の記憶。
もし今の自分が、本当に何千年も生きられるのだとしたら。
かつて知っていた人たちとは、まったく違う時間を生きることになる。
「……それは、少し寂しいですね」
銀澪が呟くと、黒凪は静かに頷いた。
「ええ。寂しいこともあるわ」
彼女はそこで一度言葉を切った。
そして、銀澪を見つめる。
「でもね、悪いことばかりじゃないのよ」
「……?」
「長く生きているからこそ、何度でも新しい出会いがある。昔は想像もできなかった景色を見ることもできるし、知らなかった喜びに出会うことだってあるわ」
黒凪は少しだけ微笑んだ。
「だから私は、長生きすることを嫌いになったりはしていないの」
銀澪はその言葉を静かに受け止めた。
長く生きること。
それは単純に、自由な時間が増えるというだけではないのだろう。
喜びも、悲しみも、別れも。
普通の人間より、ずっと多く経験することになる。
それでも黒凪は、今こうして穏やかに笑っている。
「……黒凪さんって、強いんですね」
銀澪が言うと、彼女は少し驚いたように瞬きをした。
「……どうしてそう思うの?」
「いろいろなことを経験してきたのに、今もこうして穏やかに暮らしているからです」
「…………」
「僕だったら、同じようにできるか分からないので」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、湯呑みを口元へ運ぶ。
「……買いかぶりすぎよ」
静かな声だった。
「私だって、失敗することはあるわ。後悔していることも、一つや二つじゃないもの」
「……そうなんですか」
「ええ。でも、そういうものも全部含めて、今の私なのよ」
黒凪は銀澪へ視線を戻した。
「あなたも、これから少しずつ分かっていくと思うわ」
「……はい」
銀澪は小さく頷いた。
月明かりが、二人の間に置かれた湯呑みを照らしていた。
◇
「そういえば、銀澪」
しばらくして、黒凪が口を開いた。
「あなた、人間だった頃のことを覚えていると言っていたわね」
「はい」
「どのくらい覚えているの?」
銀澪は少し考えた。
「……かなり、はっきりと覚えています。住んでいた場所も、家族や知り合いのことも。仕事をしていたことも、普段の生活も」
「そう……」
「ただ、最後の部分だけが抜けているんです。気づいたら、あの神社にいて」
黒凪は真剣な表情になった。
「……記憶が途切れる直前のことは?」
「普通に生活していた記憶はあります。でも、その後どうなったのかが……」
銀澪は首を振った。
「思い出そうとしても、そこだけ何も浮かばないんです」
「……無理に思い出そうとしなくていいわ」
黒凪は穏やかに告げた。
「焦っても、すぐに答えが出るとは限らないもの」
「……はい」
銀澪は頷いたものの、胸の奥には引っかかるものがあった。
自分がここにいるということは、向こうの世界から消えてしまったということなのだろうか。
それとも、何か別の理由があるのか。
もし、元いた世界とこの世界が同じだったら。
自分の家族や知り合いは、今もどこかで暮らしているのかもしれない。
「……黒凪さん」
「何?」
「今の日本って、どういう状況なんでしょうか」
「……ずいぶん大きな質問ね」
黒凪は少し困ったように笑った。
「政治の話? それとも社会の仕組み?」
「あ、いえ……そうじゃなくて」
銀澪は言葉を探した。
「僕が知っている日本と、本当に同じなのかを確かめたくて」
黒凪は少し考えた後、懐からスマートフォンを取り出した。
「……なら、これを見てみる?」
差し出された画面には、見慣れた形式の日付と時刻が表示されていた。
銀澪は思わず目を見開く。
「……スマートフォン」
「ええ。知っているの?」
「もちろんです。僕も使っていましたから」
画面を操作する黒凪の手元を、銀澪はじっと見つめた。
表示される日本語。
ニュース記事。
地図。
どれも、人間だった頃に見ていたものとよく似ていた。
さらに、黒凪が地図を拡大すると、銀澪の知る地名がいくつも現れた。
「……本当に、日本なんですね」
「そう言ったでしょう?」
「はい。でも……」
銀澪は画面を見つめたまま、言葉を止めた。
同じ国。
似たような社会。
見覚えのある街。
それなら、自分が以前暮らしていた場所も存在するのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸が強く締めつけられた。
「……銀澪?」
黒凪が顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「……はい」
銀澪は答えたものの、声が少し震えていた。
「ただ……もし、本当に同じ日本なら」
そこで言葉を切る。
黒凪は黙って待っていた。
「……家族が、いるかもしれないと思って」
口にした途端、胸の奥に押し込めていた感情が溢れそうになった。
自分が今ここにいる理由も分からない。
人間としての身体がどうなったのかも分からない。
それでも、記憶の中には確かに家族がいる。
顔も、声も、何気ない会話も覚えている。
それらが、すべて過去のものになってしまったとは思いたくなかった。
「……そうね」
黒凪は静かに頷いた。
「確かめてみる価値はあると思うわ」
銀澪が顔を上げる。
「……いいんですか?」
「どうして私に許可を求めるの?」
黒凪は少し不思議そうに首を傾げた。
「あなたの家族でしょう? 会いたいと思うのは当然じゃない」
「……でも、僕は今、龍になっていて」
「だからこそ、慎重に調べる必要があるわね」
黒凪は落ち着いた声で続けた。
「今のあなたには、身分を証明するものがない。元の家族がこの世界にいるとしても、いきなり会いに行って説明できるとは限らないでしょう?」
「……そうですね」
「それに、記憶と現実が一致しているかも、まだ分からない」
黒凪はスマートフォンを机に置いた。
「でも、調べることはできるわ。地図を見たり、公に確認できる情報を探したりね。明日、少しずつやってみましょう」
銀澪はしばらく言葉を失っていた。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「もう。今日は何回お礼を言うつもりなの?」
黒凪は困ったように笑った。
「いいから、まずは自分のことを落ち着いて考えなさい。今後どうするかは、それからよ」
「……はい」
銀澪は小さく頷いた。
不安が消えたわけではない。
それでも、たった一人で考え込むしかなかった昼間とは違っていた。
今は、話を聞いてくれる人がいる。
それだけで、胸の重さが少し軽くなった気がした。
◇
夜が更けるにつれ、山の空気は冷たくなっていった。
黒凪は湯呑みを片づけ、銀澪を客間へ案内した。
長い廊下を進み、母屋の奥にある襖を開ける。
そこには八畳ほどの和室があった。
床の間には山水画が掛けられ、隅には小さな花瓶が置かれている。
庭に面した障子の向こうには、先ほどとは別の小さな石庭が広がっていた。
「今夜はここを使ってちょうだい」
黒凪は部屋の照明をつけた。
「布団は押し入れにあるわ。洗面所は廊下を戻って右側。何かあったら、私の部屋は反対側の奥だから」
「……本当に、泊まってもいいんですか?」
「今さら何を言っているの」
黒凪は少し呆れたように笑った。
「こんな時間に山の中へ追い出したりしないわよ」
「……ありがとうございます」
「ただし」
黒凪は人差し指を立てた。
「この家には、勝手に入らないでほしい部屋がいくつかあるの。特に、廊下の突き当たりにある古い書庫と、庭の奥の蔵には近づかないでね」
「分かりました」
「それから、外へ出るときは声をかけてちょうだい。山には危険な場所もあるから」
「はい」
黒凪は頷いた。
「今夜はゆっくり休んで。明日のことは、明日考えましょう」
そう言って、襖を閉めようとした。
けれど、その直前。
「……黒凪さん」
銀澪が声をかけた。
「何?」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
黒凪は襖に手をかけたまま振り返る。
「……どうぞ」
「どうして、僕を家に連れてきてくれたんですか?」
その問いに、黒凪は一瞬、言葉を止めた。
銀澪は続ける。
「僕は、今日会ったばかりの相手です。しかも、自分が何者なのかも分からないような状態で……」
少しだけ視線を落とす。
「普通なら、もっと警戒してもおかしくないと思うんです」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、静かに息を吐いた。
「……そうね。確かに、あなたの言うとおりだわ」
彼女は襖から手を離し、銀澪へ向き直った。
「私も、最初からあなたを信用したわけじゃないの」
「……はい」
「今だって、分からないことはたくさんある。どうしてあの神社に現れたのか、何の目的があるのか……本当に記憶のとおりなのかも、まだ確かめられていないわ」
黒凪はそこで言葉を切った。
そして、少しだけ微笑んだ。
「でもね」
金色の瞳が、銀澪をまっすぐに見つめる。
「困っている人を見て、何もしない理由にはならないでしょう?」
銀澪は目を見開いた。
「……それに」
黒凪は少しだけ視線を外した。
「あなた、あの神社で私の姿を見たとき、綺麗だと言ってくれたでしょう?」
「……はい」
「あれ、少し嬉しかったの」
黒凪は照れくさそうに笑った。
「龍の姿を見て、怖がる人はいても、あんなふうに目を輝かせる人は珍しいから」
「……そうなんですね」
「ええ。だから、もう少し話してみたいと思ったのかもしれないわ」
それは、飾らない言葉だった。
初対面の相手に対する、ほんの小さな興味。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど銀澪には、その言葉が妙に温かく感じられた。
「……ありがとうございます」
銀澪が微笑むと、黒凪は小さく首を振った。
「だから、お礼はもう十分よ」
「……すみません」
「謝らなくてもいいの」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
「……おやすみなさい、銀澪」
「おやすみなさい、黒凪さん」
黒凪は静かに襖を閉めた。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていく。
銀澪はしばらくその場に立っていた。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……不思議な人だな」
呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
◇
布団を敷き終えた銀澪は、窓辺に座っていた。
障子を少し開けると、夜の庭が見える。
月明かりに照らされた石庭。
静かに揺れる木々。
遠くから聞こえてくる、清流の音。
そのすべてが、どこか懐かしかった。
「……まさか、こんなことになるとはなぁ」
銀澪は小さく笑った。
朝、あの神社で目を覚ましたときには、何も分からなかった。
自分が誰なのか。
どこにいるのか。
これからどうすればいいのか。
それなのに、今はこうして温かい布団があり、食事を用意してくれる人がいる。
その人もまた、自分と同じ龍だった。
「……黒凪さん、か」
名前を口にしてみる。
静かで、落ち着いた響きだった。
漆黒の髪。
金色の瞳。
そして、枝分かれした黒い角と長い尻尾。
初めて見たときの姿が、今も鮮明に思い浮かぶ。
美しかった。
神秘的で、凛々しくて。
それでいて、笑うと驚くほど柔らかな表情になる。
銀澪はふと、昼間の自分を思い出した。
『……綺麗ですね』
何の迷いもなく、そう口にしてしまった。
「……今思うと、結構失礼だったかな」
初対面の女性を、あんなふうに見つめてしまったのだから。
けれど、黒凪は怒らなかった。
むしろ、少し嬉しそうにしてくれた。
そのことに、銀澪は安心していた。
布団に横になり、天井を見上げる。
古い木の梁が、淡い照明に照らされている。
人間だった頃の記憶は、今も鮮明だった。
けれど、もう一つの人生が始まってしまったことも、少しずつ理解し始めていた。
銀澪は胸の上で両手を組んだ。
そして、いつものように静かに目を閉じる。
今日も一日、無事に過ごせたこと。
見知らぬ世界で、親切な人に出会えたこと。
そして、明日もまた穏やかな朝を迎えられること。
そのすべてに、心の中で感謝を伝えた。
「……明日も、いい日になりますように」
小さく呟く。
やがて、ゆっくりと眠気が訪れた。
銀澪は目を閉じたまま、もう一度だけ思った。
自分が龍になった理由は、まだ分からない。
けれど、この姿で生きていくのなら。
誰かを傷つけるためではなく、大切なものを守れる龍でありたい。
そう願いながら、静かに眠りへ落ちていった。
◇
同じ頃。
黒凪は、屋敷の奥にある書庫にいた。
古い木製の扉を開け、棚に並ぶ書物を一冊ずつ確かめていく。
そのほとんどは、何百年も前から受け継がれてきたものだった。
龍の歴史。
一族の系譜。
各地に伝わる龍神の伝承。
そして、人間社会との関わりを記した記録。
黒凪はその中から、深い藍色の表紙を持つ一冊を取り出した。
「……確か、この辺りに」
机に置き、慎重にページを開く。
古い和紙に、細かな文字が並んでいた。
長い年月を経て、ところどころ色が薄くなっている。
黒凪は指先で文字を追った。
目的は、銀澪が話していた転生についての記録だった。
龍の一族には、まれに不可解な出生の記録が残されている。
両親の分からない龍。
ある日突然、龍の姿で現れた者。
そして、人間だった頃の記憶を持つ者。
そうした話の多くは、真偽が分からないまま伝承として残されていた。
だが、黒凪には一つだけ気になることがあった。
銀澪の力だ。
目覚めたばかりにもかかわらず、水を自在に操ったという。
しかも、黒凪が感じ取った気配は、普通の白龍とは少し違っていた。
水の流れが、あまりにも自然だったのだ。
龍が力を使うときには、普通、周囲の水や大気に何らかの揺らぎが生じる。
けれど銀澪の場合は、まるで最初から水の一部であったかのように、その気配が周囲へ溶け込んでいた。
「……何者なのかしら、あなたは」
黒凪は小さく呟いた。
そのとき、ページの端に書かれた一文が目に入った。
黒凪の指が止まる。
『人の生を終え、龍の身にて再び世に現る者あり』
「…………」
思わず、息を呑んだ。
古い記録の一節。
それは、確かに銀澪の話と似ていた。
黒凪はさらに読み進めようとした。
しかし、その先のページは大きく傷んでいた。
墨が滲み、文字の大半が読めなくなっている。
「……こんなところで途切れているなんて」
黒凪は眉を寄せた。
残されているのは、わずかな文章だけだった。
それだけで、銀澪がその記録にある存在と同じだとは判断できない。
そもそも、この文章が史実なのか、伝承なのかさえ定かではなかった。
黒凪はしばらく考え込んだ後、静かに本を閉じた。
「……もう少し調べる必要があるわね」
そう呟き、書物を机の端に置く。
窓の外では、雲の切れ間から月が覗いていた。
山の向こうには、薄い霧が漂っている。
黒凪は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
昼間、あの神社へ向かったのは、単なる偶然ではなかった。
数日前から、山の水脈に小さな変化が生じていたのだ。
長い年月をかけて見守ってきた水の流れ。
それが、まるで何かに引き寄せられるように、一時的に乱れた。
黒凪は原因を確かめるため、山へ入った。
そして、あの白龍に出会った。
「……偶然、なのかしら」
彼女は小さく呟いた。
確かなことは、まだ何も分からない。
ただ、あの青年が普通の龍ではない可能性はある。
それでも、黒凪の胸に浮かんでいたのは、警戒心だけではなかった。
夕食を美味しそうに食べていた姿。
不器用なくらい丁寧にお礼を言う様子。
そして、家族のことを思い出したときの、あの寂しそうな表情。
思い返すと、どれも妙に人間らしかった。
「……本当に、不思議な人ね」
黒凪は小さく笑った。
長い人生の中で、さまざまな龍と出会ってきた。
強大な力を誇る者。
人間を見下す者。
一族の繁栄だけを考える者。
その中で、銀澪のような龍は珍しかった。
自分の力を誇るどころか、目覚めたばかりの身体に戸惑い、見知らぬ相手に何度も感謝を伝える。
そして、何より。
『困っている人を見て、何もしない理由にはならないでしょう?』
そう伝えたとき、銀澪は心から安心したような表情を見せていた。
あの顔が、なぜか忘れられなかった。
「……まあ、いいわ」
黒凪は窓を閉めた。
「今夜くらいは、ゆっくり休ませてあげましょう」
明日になれば、また新しい問題が出てくるだろう。
銀澪の記憶。
龍としての能力。
人間社会での身分。
そして、彼がこれからどこで暮らすのか。
考えなければならないことは、いくらでもある。
けれど今は、静かな夜だった。
黒凪は書庫の灯りを消し、廊下へ出た。
客間の前を通りかかったとき、ふと足を止める。
襖の向こうからは、物音一つ聞こえなかった。
どうやら、銀澪はすでに眠っているらしい。
「……おやすみなさい、銀澪」
聞こえないほど小さな声で呟く。
そして、黒凪は自室へ向かった。
廊下の窓から差し込む月明かりが、漆黒の髪を淡く照らしている。
いつもなら、何も変わらない静かな夜。
けれど今夜は、屋敷のどこかに別の誰かが眠っている。
その事実が、思いのほか不思議だった。
黒凪は自室の扉に手をかける。
そして、もう一度だけ客間の方を振り返った。
「……明日は、何を話しましょうか」
その声には、わずかな楽しさが混じっていた。
本人は、まだ気づいていなかった。
ただの興味だったはずの感情が、少しずつ別の形へ変わっていく可能性に。
銀澪もまた、何も知らない。
自分の転生に関わる古い記録が、この屋敷に眠っていることを。
そして、これから過ごす何気ない日々が、二人の未来を静かに変えていくことを。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
その夜、白龍と黒龍は、同じ屋根の下で初めて眠りについた。
まだ互いを知らない二人の、長い長い物語が始まっていた。




