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第一章 漆黒の龍姫 第一話 雨に佇む黒龍

 山道の奥から、足音が近づいてくる。

 雨上がりの森は静かだった。濡れた枝葉から落ちる雫が、ところどころで土を叩き、その音に混じって、誰かが石段を踏む規則正しい足音が聞こえていた。

 銀澪は足を止めた。

 この山で目を覚ましてから、初めて出会う人間かもしれない。

 そう考えただけで、自然と背筋が伸びる。

 角と尻尾は隠した。服装にも目立った異常はないはずだ。もっとも、白銀の髪と左右で色の異なる瞳だけでも、初対面の相手には奇妙に映るかもしれない。

 軽く前髪を整え、石段の先へ目を向ける。

 木々の間から、一人の女性が姿を現した。

 最初に目を引いたのは、その髪だった。

 艶のある漆黒の髪は、襟足が肩に触れるほどのショートウルフ。雨に湿った毛先が首筋に沿って流れ、歩くたびに軽く揺れている。

 黒いジャケットに、動きやすそうな細身のパンツ。足元は焦げ茶色のショートブーツで、肩には小さな鞄を掛けていた。

 服装だけを見れば、山歩きに慣れた普通の女性に思える。

 しかし、その立ち姿には不思議な落ち着きがあった。

 濡れた石段を歩いているにもかかわらず、足取りに迷いがない。周囲の木々や道の状態を確かめながらも、視線は自然と前へ向いている。

 そして、彼女が顔を上げた瞬間。

 銀澪は、思わず息を止めた。

 金色の瞳。

 琥珀よりも深く、日の光を受けた黄金のような色だった。

 女性もまた、銀澪に気づいたらしい。

 足を止め、わずかに眉を動かした。

「……あら?」

 静かで、よく通る声だった。

 女性は銀澪の顔を見つめた後、白銀の髪へ視線を移した。

「こんなところに人がいるなんて、珍しいわね」

「あ……こんにちは」

 咄嗟に頭を下げる。

 女性は小さく会釈を返した。

「こんにちは。参拝に来たの?」

「ええと……まあ、そんなところです」

 曖昧な返事になってしまった。

 まさか、ここで目を覚ましたら龍人になっていた、などと説明できるはずもない。

 女性は少しだけ首を傾げた。

「そう。けど、この辺りは昨日から雨が続いているでしょう? 山道も滑りやすいし、あまり一人で歩かない方がいいわよ」

「そうなんですね。気をつけます」

「……ところで」

 女性の視線が、再び銀澪の顔へ向けられる。

「あなた、この辺りの人?」

「いえ……そういうわけでは」

「観光客?」

「それも、ちょっと違いますね」

 答えるたびに、自分でも情けなくなってくる。

 銀澪が言葉を探していると、女性はわずかに目を細めた。

「……なるほど」

 その反応が、妙に引っかかった。

「何か?」

「いいえ。少し気になっただけよ」

 そう言いながら、女性は銀澪の横を通り過ぎようとした。

 だが、すれ違う直前。

 彼女の足が止まった。

「…………」

 何かを確かめるように、銀澪の肩越しへ目を向ける。

 そこには何もない。

 少なくとも、銀澪にはそう見えた。

 しかし、女性の表情は先ほどとは明らかに違っていた。

「……あなた」

「はい?」

「少し、聞いてもいいかしら」

「何でしょう?」

 女性はすぐには答えなかった。

 一度周囲を見渡し、山道に誰もいないことを確かめる。

 それから、声を少し落とした。

「その姿、本当にあなたの本来の姿なの?」

 銀澪の心臓が、大きく跳ねた。

     ◇

「……どういう意味ですか?」

 どうにか平静を装って聞き返す。

 女性は銀澪をじっと見つめていた。

 金色の瞳に、警戒とも好奇心ともつかない光が浮かんでいる。

「言葉どおりの意味よ。あなた、何か隠しているでしょう?」

「……それは」

「責めているわけじゃないわ。ただ、こんな場所で会うとは思っていなかったから」

 女性はそこで一度言葉を切った。

 風が吹き、木々の葉が揺れる。

 遠くで鳥が鳴いた。

 銀澪は黙っていた。

 何をどこまで話していいのか分からない。

 もし彼女が普通の人間なら、下手なことを言えば大騒ぎになるかもしれなかった。

 そんな銀澪の戸惑いを察したのか、女性は小さく息を吐いた。

「……ここでは話しにくいわね」

 そう言って、彼女は石段の上を指差した。

「あそこに古い休憩所があるの。雨宿りくらいには使えるわ。少し話さない?」

「……僕と、ですか?」

「ええ。もちろん、嫌なら無理にとは言わないけれど」

 女性はあくまで落ち着いていた。

 強引に問い詰める様子もない。

 ただ、銀澪の返事を待っている。

 銀澪は少し考えた。

 この世界について、自分は何も知らない。

 せめて土地の名前だけでも聞いておきたいところだった。

「……分かりました。ただ、僕も少し聞きたいことがあるんですが」

「いいわよ。答えられることならね」

 そう言って、女性はようやく柔らかく微笑んだ。

「ついてきて」

 先に歩き始める女性を、銀澪は数歩遅れて追いかけた。

 雨に濡れた石段を上がり、社殿の横を抜ける。

 そこには、古い木造の休憩所があった。

 屋根は大きく張り出しており、三方が開けた造りになっている。内部には木製の長椅子が二つ置かれ、壁際には使い込まれた竹箒が立てかけてあった。

 女性は鞄を長椅子に置き、濡れた髪を軽く払った。

「座って。私は別に、あなたをどうこうするつもりはないから」

「……ありがとうございます」

 銀澪が腰を下ろすと、女性は向かい側に座った。

 しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

 先に口を開いたのは、女性だった。

「まず、名前を聞いてもいい?」

「銀澪、です」

「ぎんれい……?」

「はい。銀色の銀に、水の流れる道を意味する澪で、銀澪です」

 女性はその名を小さく繰り返した。

「銀澪……綺麗な名前ね」

「あ、ありがとうございます」

「ふふ。そんなに緊張しなくても大丈夫よ」

 少しだけ笑われてしまった。

 その笑顔を見て、銀澪の肩からわずかに力が抜ける。

「私は黒凪。黒いという字に、風が静まるときの凪で、黒凪よ」

「黒凪さん……」

「そう。よろしくね、銀澪」

 差し出された右手を見て、銀澪は一瞬迷った。

 しかし、すぐにその手を取る。

 細く、白い指だった。

 けれど、握り返された手には意外なほど確かな力があった。

「よろしくお願いします」

 手を離した後、黒凪は改めて銀澪を見つめた。

「それで……本題に入ってもいいかしら」

「……はい」

「あなた、龍でしょう?」

 あまりにも自然に言われたため、銀澪は一瞬、返事を忘れた。

「…………え?」

「龍。正確に言えば、人の姿を取っている龍の一族ね」

 心臓が早鐘を打つ。

 どうして分かったのだろう。

 角も尻尾も、確かに消していたはずなのに。

「……どうして、そう思うんですか?」

 黒凪は小さく首を傾げる。

「そうね……あなた自身は、まだ分からないのかもしれないけれど」

 彼女は片手を上げ、空中を漂う雨の匂いを確かめるように指先を動かした。

「龍には独特の気配があるの。人間とは違う、水の流れのようなものがね」

「水の流れ……」

「特にあなたの場合は強いわ。山の清流みたいに澄んでいるのに、奥行きがまるで分からない」

 黒凪の表情に、わずかな疑問が浮かぶ。

「不思議ね。これほどはっきり龍の気配がするのに、力の扱い方はまだ覚えたてみたい」

 銀澪は思わず俯いた。

 図星だった。

「……実は」

 言いかけて、口を閉じる。

 どこまで話していいのか、まだ判断できない。

 黒凪は急かさなかった。

 長椅子に座ったまま、静かに待っている。

 その態度に、銀澪は少しだけ安心した。

「……今日、目が覚めたんです」

「今日?」

「はい。この神社の中で。気づいたら、角と尻尾が生えていて……」

 言葉にしながら、自分でも信じられない話だと思った。

 黒凪の眉がわずかに動く。

「ここで目覚めたって……それ以前の記憶は?」

「あります。ただ……」

 銀澪は膝の上で両手を組んだ。

「僕は、元々人間だったんです」

 黒凪は何も言わなかった。

 ただ、その金色の瞳が少しだけ大きく開かれた。

「人間だった頃の記憶があるんです。でも、どうしてここにいるのか、何が起きたのか……そこだけが思い出せなくて」

「…………」

「信じられませんよね」

 銀澪は苦笑した。

「僕だって、まだ信じられないくらいですから」

 黒凪はしばらく考え込んでいた。

 やがて、ゆっくりと口を開く。

「……驚いたわ」

「ですよね」

「ええ。でも、嘘をついているようには見えない」

 銀澪は顔を上げた。

「信じてくれるんですか?」

「全部をすぐに信じたわけじゃないわよ」

 黒凪は少し困ったように微笑んだ。

「ただ、あなたの話を頭から否定する理由もないでしょう?」

 そう言って、彼女は視線を外へ向けた。

 休憩所の向こうでは、木々の隙間から淡い日差しが差し込み始めている。

「龍の世界には、人間が知らないことも多いもの。私だって、すべてを理解しているわけじゃない」

「……龍の世界」

「そう。私たちの一族が、長い年月をかけて守ってきたものよ」

 黒凪はそこで銀澪へ向き直った。

「だからこそ、あなたには少し注意してほしいの」

「注意、ですか?」

「人間社会では、龍の存在は伝説として扱われている。実際に私たちがいるなんて、ほとんどの人は知らないわ」

 その言葉に、銀澪は静かに頷く。

 予想していたとおりだった。

「もし正体が知られれば、何が起こるか分からない。興味本位で近づく人もいれば、利用しようとする人間も現れるでしょうね」

「……なるほど」

「だから、むやみに力を見せないこと。特に人前での変身は避けた方がいいわ」

 黒凪の声には、冗談めいた響きがなかった。

 銀澪も真剣に頷いた。

「分かりました。気をつけます」

「……素直なのね」

「え?」

「普通、もっと疑ったり、反発したりするものだと思っていたから」

 黒凪は小さく笑った。

「少し意外だっただけよ」

 銀澪は頬を掻いた。

「……正直、僕一人じゃ何も分からないので。教えてもらえるなら、ありがたいです」

「そう」

 黒凪は短く答えた。

 けれど、その表情は先ほどより少し柔らかくなっていた。

     ◇

 休憩所の外で、再び雨が降り始めた。

 最初は数えるほどだった雨粒が、やがて木の屋根を細かく叩くようになる。

 黒凪は空を見上げ、軽く息を吐いた。

「……また降ってきたわね」

「山の天気って、変わりやすいですね」

「ええ。この季節は特にね。さっきまで晴れそうだったのに」

 黒凪は鞄から折り畳み傘を取り出した。

 しかし、すぐには開かず、銀澪の方を見る。

「ところで、あなたはこれからどうするつもり?」

「……それが、まだ決まっていなくて」

「泊まる場所は?」

「ありません」

「お金は?」

「……ありません」

「連絡できる人は?」

「……多分、いません」

 答えるたびに、黒凪の表情が変わっていく。

 最後には、片手で額を押さえてしまった。

「……あなたねぇ」

「す、すみません」

「謝ることじゃないけれど……思っていた以上に大変な状況なのね」

 黒凪は困ったように笑った。

「その様子じゃ、ここがどこかも分かっていないでしょう?」

「……はい」

「やっぱり」

 彼女は少し考え込んだ。

 その間、銀澪は何も言わずに待っていた。

 やがて黒凪は立ち上がり、休憩所の外に目を向ける。

「……ひとまず、山を下りましょうか」

「え?」

「このままここにいても仕方ないでしょう。近くに私の家があるから、そこまでは案内するわ」

「い、いいんですか?」

「勘違いしないでね。まだあなたのことを信用しきったわけじゃないわよ」

 黒凪はそう言って、人差し指を軽く立てた。

「まずは事情を整理するの。あなたがどうしてここに現れたのか、私にも気になることがあるし」

「……それでも、助かります」

「お礼はまだ早いわ。私も知りたいことがたくさんあるんだから」

 黒凪は鞄を肩に掛け直した。

 銀澪も立ち上がろうとして、ふと足を止める。

「あの、黒凪さん」

「何?」

「一つ、聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

 銀澪は少しだけ迷った。

 それでも、どうしても確かめたかった。

「黒凪さんも……龍なんですよね?」

 黒凪は数秒間、銀澪を見つめていた。

 やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。

「……ええ、そうよ」

 その瞬間。

 彼女の頭上に、漆黒の角が現れた。

 滑らかな曲線を描き、先端に向かって緩やかに枝分かれした角。

 黒曜石を思わせる艶があり、雨上がりの淡い光を受けて、わずかに青紫色を帯びている。

 同時に、彼女の背後から長い尻尾が伸びた。

 細かな黒い鱗に覆われた尾は、しなやかな曲線を描きながら、休憩所の床の上を静かに滑る。

 銀澪は言葉を失った。

 金色の瞳。

 漆黒の角。

 長く、美しい龍の尻尾。

 夢にまで見た、龍人の姿だった。

「……すごい」

 思わず声が漏れた。

 黒凪は少し意外そうに瞬きをする。

「……怖くないの?」

「え?」

「この姿よ。人間だったのなら、驚くでしょう?」

 銀澪はしばらく黒凪を見つめていた。

 確かに驚いた。

 けれど、恐怖はなかった。

 むしろ、胸の奥から湧き上がってきたのは、懐かしさにも似た憧れだった。

「……綺麗ですね」

「…………え?」

 今度は黒凪が固まった。

「いや、その……角も尻尾も、すごく綺麗だなって」

 銀澪は慌てて言葉を付け足した。

「僕、昔から龍が好きだったんです。だから、こうして本物の龍人に会えるなんて……なんだか、夢みたいで」

「…………」

 黒凪は何も言わなかった。

 ただ、金色の瞳を何度か瞬かせる。

 やがて、少しだけ顔を横へ向けた。

「……変わった人ね、あなた」

「そ、そうですか?」

「ええ。こんなことを言われたのは、久しぶりだわ」

 黒凪は小さく息を吐いた。

 その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。

「……ありがとう」

 そう言って、彼女は角と尻尾を消した。

「さて、そろそろ行きましょう。ここで長話をしていたら、また雨が強くなってしまうわ」

「あ、はい」

 銀澪は頷き、黒凪の後に続いた。

     ◇

 山を下りる道は、思っていたよりも整備されていた。

 石段を抜けると、細い舗装路が続いている。ところどころにガードレールが設置され、道沿いには電柱も立っていた。

 遠くには民家の屋根が見え、そのさらに向こうには、緩やかな山並みが広がっている。

 銀澪は周囲を見渡しながら歩いていた。

 黒凪は少し先を歩き、ときどき振り返って足元を確かめてくれる。

「滑りやすいから、そこは気をつけて」

「ありがとうございます」

「……それにしても」

 黒凪がふと口を開いた。

「あなた、随分と落ち着いているのね」

「そうですか?」

「ええ。自分が龍になって、知らない場所で目を覚ましたんでしょう? もっと取り乱していてもおかしくないと思うけれど」

 銀澪は少し考えた。

 確かに、普通ならもっと慌てるのかもしれない。

 実際、頭の中では分からないことばかりだった。

 それでも、なぜか絶望するような気持ちにはなっていなかった。

「……なんとかなるかな、って」

 そう答えると、黒凪が振り返った。

「なんとかなる?」

「はい。もちろん、何も考えていないわけじゃないんですけど……」

 銀澪は苦笑した。

「昔から、何かあってもなんとかなるって思うことが多くて。今回も、焦ってばかりいても仕方ないですし」

 黒凪は少し不思議そうに彼を見つめた。

「……随分と前向きなのね」

「そうでしょうか」

「ええ。でも、嫌いじゃないわよ。そういう考え方」

 その言葉に、銀澪は少しだけ笑った。

「ありがとうございます」

「ただし、無茶は駄目よ」

「え?」

「なんとかなると思うことと、何も考えずに行動することは違うでしょう?」

 黒凪は真面目な顔で続けた。

「あなたはまだ、自分の身体のことも、龍の世界のことも分かっていない。だからこそ、慎重にならないと」

「……はい」

「分かればよろしい」

 少しだけ得意げに言う黒凪を見て、銀澪は思わず笑ってしまった。

「……何かおかしい?」

「いえ。なんだか、先生みたいだなって」

「先生?」

「はい。叱られているみたいで」

 黒凪は一瞬きょとんとした。

 それから、くすりと笑う。

「……そうね。あなた、放っておいたら危なっかしそうだもの」

「そんなにですか?」

「少なくとも、初対面の相手に『泊まる場所もお金もありません』って素直に答えるくらいにはね」

「……うっ」

 返す言葉がなかった。

 黒凪は楽しそうに笑った。

 その笑顔を見て、銀澪は少しだけ安心する。

 最初に出会ったときの、近寄りがたい雰囲気。

 その奥には、こんな柔らかな一面もあるのだ。

 そう思うと、不思議と会話がしやすくなった。

 もっとも、相手がどんな人物なのか、まだほとんど知らない。

 だからこそ、銀澪は改めて周囲を見渡した。

「あの、黒凪さん」

「今度は何?」

「この世界って……日本、なんですか?」

 黒凪は足を止めた。

「……日本?」

「はい。僕の知っている日本と、景色がよく似ているので」

 銀澪は少し言葉を選んだ。

「電柱も、車も、道路もありますし……」

 黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。

 やがて、小さく頷く。

「ええ。ここは日本よ」

「……そうなんですね」

 銀澪は安堵しかけた。

 だが、その直後。

「ただし、あなたが知っている日本と、まったく同じかどうかは分からないわ」

 黒凪の言葉に、胸が少し冷えた。

「……どういうことですか?」

「あなたが人間として生きていた場所が、本当にこの世界だったのか。それを確かめる方法が、今はないでしょう?」

「……確かに」

「だから、焦って結論を出さない方がいいわ。知っているものがあるからといって、すべてが同じとは限らないもの」

 黒凪は穏やかに告げた。

「まずは、あなたの記憶を一つずつ整理していきましょう」

 銀澪は黙って頷いた。

 不安はある。

 それでも、ようやく少しだけ道筋が見えてきた気がした。

     ◇

 山道を下り始めて、しばらく経った頃だった。

 木々の間から、開けた土地が見えてきた。

 そこには、古い和風の建物が一軒建っていた。

 黒い瓦屋根。

 木製の門。

 白い漆喰の壁と、長い塀。

 門の向こうには庭木が並び、その奥には広い母屋が見える。

 周囲は森に囲まれていたが、建物そのものは丁寧に手入れされているようだった。

「……立派な家ですね」

 銀澪が思わず呟く。

 黒凪は小さく微笑んだ。

「ありがとう。古い家だけれどね」

「え……まさか」

「そう。私の家よ」

 黒凪は門の前で足を止めた。

 門柱には、見慣れない紋様が彫られている。

 二匹の龍が、水面に浮かぶ月を囲むような意匠だった。

 銀澪はその紋様を見つめた。

「……龍の家紋?」

「気づいた?」

 黒凪は少し嬉しそうに笑った。

「昔からこの家に伝わっている紋様なの。今では、意味を知っている人も少ないけれど」

「……綺麗ですね」

「ふふ。あなた、本当に龍が好きなのね」

「はい。昔からずっと」

 銀澪が答えると、黒凪は静かに門を開けた。

 庭には苔むした石灯籠があり、奥には小さな池が見えた。

 池の水面には雨粒が落ち、丸い波紋を広げている。

 さらにその向こうには、自然の岩を組み合わせた小さな滝があった。

 水が石を伝って流れ落ち、澄んだ音を響かせている。

 銀澪は思わず足を止めた。

「……すごい」

 自然と声が漏れた。

 山。

 森。

 水。

 そして、静かな和風の屋敷。

 自分が昔から好んでいたものが、ここには揃っていた。

 黒凪はそんな銀澪を振り返る。

「……どうしたの?」

「いえ……」

 銀澪は少し照れくさそうに笑った。

「こういう場所、昔から好きだったんです」

「そうなの?」

「はい。山とか、渓流とか、滝とか……そういうところにいると、すごく落ち着くので」

 黒凪はしばらく黙っていた。

 やがて、庭の池へ視線を向ける。

「……そう」

 その声は、どこか柔らかかった。

「なら、ここは気に入ってもらえるかもしれないわね」

 銀澪は小さく頷いた。

 黒凪は玄関へ向かって歩き始めたが、数歩進んだところで振り返った。

「銀澪」

「はい?」

「一つだけ、約束してほしいことがあるの」

 その表情は、先ほどまでとは違っていた。

 穏やかでありながら、どこか真剣だった。

「この家で見聞きしたことを、むやみに外で話さないこと。いい?」

「……分かりました」

「それと、もし何か分からないことがあったら、勝手に試す前に聞いてちょうだい。特に龍の力についてはね」

 銀澪は少し苦笑した。

「……水を操るくらいなら、さっき試しちゃいましたけど」

「…………え?」

 黒凪の動きが止まった。

「水を操った?」

「はい。神社の排水路が詰まっていたので、水を動かして……」

「……ちょっと待って」

 黒凪は銀澪へ歩み寄った。

 その金色の瞳が、驚いたように見開かれている。

「あなた、目覚めたばかりなのよね?」

「はい」

「なのに、もう水を操れたの?」

「……そうなりますね」

 黒凪は額に手を当てた。

「……信じられない」

「そんなに変ですか?」

「変というより……普通は、もっと練習が必要なのよ」

 彼女は改めて銀澪を見つめた。

 その眼差しに、先ほどまでとは違う慎重さが宿っている。

「銀澪。あなた、本当に何者なの?」

 問いかけられても、銀澪には答えられなかった。

「……僕にも、まだ分かりません」

 黒凪はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐く。

「……そうだったわね」

 そして、少しだけ笑った。

「ごめんなさい。つい、驚いてしまって」

「いえ……」

「とにかく、続きは中で話しましょう。身体も冷えているでしょうし」

 黒凪は玄関の扉を開けた。

 木の香りが、ふわりと漂ってくる。

「……ようこそ、銀澪」

 振り返った彼女は、穏やかに微笑んだ。

「ひとまず、ゆっくりしていって」

 銀澪はその言葉に、深く頭を下げた。

「ありがとうございます。黒凪さん」

 そして、玄関の敷居をまたぐ。

 それが、この家で過ごす最初の一歩だった。

     ◇

 銀澪が浴室へ案内された後。

 黒凪は一人、居間に戻っていた。

 窓の外では、再び雨が降り始めている。

 庭の池に浮かぶ波紋を眺めながら、彼女は静かに息を吐いた。

「……白龍、か」

 その声には、わずかな緊張が混じっていた。

 白龍そのものが珍しいわけではない。

 だが、あの青年は違う。

 気配の質が、これまで出会ってきた龍たちとは明らかに異なっていた。

 澄みきった水のように静かなのに、その奥にどれほどの力が眠っているのか、まったく見通せない。

 しかも、本人はそのことに気づいていないようだった。

「……人間だった記憶を持つ龍、ね」

 黒凪は腕を組んだ。

 長く生きてきた中で、転生に関する話を耳にしたことはある。

 しかし、それらの大半は古い伝承や、真偽の定かでない記録に過ぎなかった。

 実際に、そのような存在と出会ったことはない。

 ましてや、何の前触れもなく山奥の神社に現れるなど。

 普通に考えれば、警戒するべき相手だ。

 だからこそ、最初は疑っていた。

 何か目的があって、この土地へ入り込んだのではないか。

 無知を装い、一族の情報を探ろうとしているのではないか。

 そうした可能性も、当然考えた。

 けれど――。

『……綺麗ですね』

 ふと、先ほどの言葉が蘇る。

 角と尻尾を見せたときの、あの表情。

 恐怖でも、警戒でも、欲望でもなかった。

 純粋な憧れ。

 本当に好きなものを目の前にした子どものような、まっすぐな眼差しだった。

「……あんな顔をされるとは思わなかったわ」

 黒凪は小さく笑った。

 それでも、すべてを信用したわけではない。

 まだ分からないことが多すぎる。

 彼の正体も、ここに現れた理由も。

 何より、あれほどの力を秘めた龍が、なぜ今になって姿を現したのか。

 確かめなければならないことは、山ほどあった。

 黒凪は窓辺から離れ、棚の奥に置かれた古い木箱へ目を向けた。

 そこには、代々受け継がれてきた龍の記録が収められている。

 普段なら、めったに開くことのないものだった。

「……久しぶりに、調べてみる必要がありそうね」

 そう呟いたとき。

 廊下の奥から、小さな物音が聞こえた。

 黒凪は顔を上げる。

 どうやら銀澪が、浴室の使い方で困っているらしい。

「……あらあら」

 思わず笑みがこぼれた。

「本当に、目が離せない人ね」

 黒凪は木箱から手を離し、廊下へ向かった。

 まだ何も知らない。

 彼のことも、自分たちのこれからのことも。

 ただ、この奇妙な出会いが、長く静かだった日々に何かをもたらす予感だけはあった。

 それが良い変化なのか、悪い変化なのか。

 今はまだ、分からない。

 それでも。

「銀澪? どうかしたの?」

 廊下の向こうへ声をかける。

 少し遅れて、困ったような返事が聞こえてきた。

「……すみません。お風呂の操作が、よく分からなくて」

「……ふふっ」

 黒凪は口元を押さえた。

 思わず笑ってしまったのだ。

 あれほど不思議な力を持つ白龍が、現代の浴室設備を前に困っている。

 その落差が、妙におかしかった。

「今行くわ。勝手に変なところを触らないでね」

「はい……」

 素直な返事に、黒凪はまた小さく笑った。

 山の奥に建つ古い和風屋敷。

 その静かな廊下に、久しく聞かなかった他人の声が響いている。

 黒凪はそのことを、ほんの少しだけ不思議に感じていた。

 そして、まだ気づいていなかった。

 やがてこの屋敷が、二人の笑い声だけでなく、四人の小さな龍たちの足音で満たされる日が来ることを。

 今はまだ、その未来へ続く扉が開いたばかりだった。

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