第一章 漆黒の龍姫 第一話 雨に佇む黒龍
山道の奥から、足音が近づいてくる。
雨上がりの森は静かだった。濡れた枝葉から落ちる雫が、ところどころで土を叩き、その音に混じって、誰かが石段を踏む規則正しい足音が聞こえていた。
銀澪は足を止めた。
この山で目を覚ましてから、初めて出会う人間かもしれない。
そう考えただけで、自然と背筋が伸びる。
角と尻尾は隠した。服装にも目立った異常はないはずだ。もっとも、白銀の髪と左右で色の異なる瞳だけでも、初対面の相手には奇妙に映るかもしれない。
軽く前髪を整え、石段の先へ目を向ける。
木々の間から、一人の女性が姿を現した。
最初に目を引いたのは、その髪だった。
艶のある漆黒の髪は、襟足が肩に触れるほどのショートウルフ。雨に湿った毛先が首筋に沿って流れ、歩くたびに軽く揺れている。
黒いジャケットに、動きやすそうな細身のパンツ。足元は焦げ茶色のショートブーツで、肩には小さな鞄を掛けていた。
服装だけを見れば、山歩きに慣れた普通の女性に思える。
しかし、その立ち姿には不思議な落ち着きがあった。
濡れた石段を歩いているにもかかわらず、足取りに迷いがない。周囲の木々や道の状態を確かめながらも、視線は自然と前へ向いている。
そして、彼女が顔を上げた瞬間。
銀澪は、思わず息を止めた。
金色の瞳。
琥珀よりも深く、日の光を受けた黄金のような色だった。
女性もまた、銀澪に気づいたらしい。
足を止め、わずかに眉を動かした。
「……あら?」
静かで、よく通る声だった。
女性は銀澪の顔を見つめた後、白銀の髪へ視線を移した。
「こんなところに人がいるなんて、珍しいわね」
「あ……こんにちは」
咄嗟に頭を下げる。
女性は小さく会釈を返した。
「こんにちは。参拝に来たの?」
「ええと……まあ、そんなところです」
曖昧な返事になってしまった。
まさか、ここで目を覚ましたら龍人になっていた、などと説明できるはずもない。
女性は少しだけ首を傾げた。
「そう。けど、この辺りは昨日から雨が続いているでしょう? 山道も滑りやすいし、あまり一人で歩かない方がいいわよ」
「そうなんですね。気をつけます」
「……ところで」
女性の視線が、再び銀澪の顔へ向けられる。
「あなた、この辺りの人?」
「いえ……そういうわけでは」
「観光客?」
「それも、ちょっと違いますね」
答えるたびに、自分でも情けなくなってくる。
銀澪が言葉を探していると、女性はわずかに目を細めた。
「……なるほど」
その反応が、妙に引っかかった。
「何か?」
「いいえ。少し気になっただけよ」
そう言いながら、女性は銀澪の横を通り過ぎようとした。
だが、すれ違う直前。
彼女の足が止まった。
「…………」
何かを確かめるように、銀澪の肩越しへ目を向ける。
そこには何もない。
少なくとも、銀澪にはそう見えた。
しかし、女性の表情は先ほどとは明らかに違っていた。
「……あなた」
「はい?」
「少し、聞いてもいいかしら」
「何でしょう?」
女性はすぐには答えなかった。
一度周囲を見渡し、山道に誰もいないことを確かめる。
それから、声を少し落とした。
「その姿、本当にあなたの本来の姿なの?」
銀澪の心臓が、大きく跳ねた。
◇
「……どういう意味ですか?」
どうにか平静を装って聞き返す。
女性は銀澪をじっと見つめていた。
金色の瞳に、警戒とも好奇心ともつかない光が浮かんでいる。
「言葉どおりの意味よ。あなた、何か隠しているでしょう?」
「……それは」
「責めているわけじゃないわ。ただ、こんな場所で会うとは思っていなかったから」
女性はそこで一度言葉を切った。
風が吹き、木々の葉が揺れる。
遠くで鳥が鳴いた。
銀澪は黙っていた。
何をどこまで話していいのか分からない。
もし彼女が普通の人間なら、下手なことを言えば大騒ぎになるかもしれなかった。
そんな銀澪の戸惑いを察したのか、女性は小さく息を吐いた。
「……ここでは話しにくいわね」
そう言って、彼女は石段の上を指差した。
「あそこに古い休憩所があるの。雨宿りくらいには使えるわ。少し話さない?」
「……僕と、ですか?」
「ええ。もちろん、嫌なら無理にとは言わないけれど」
女性はあくまで落ち着いていた。
強引に問い詰める様子もない。
ただ、銀澪の返事を待っている。
銀澪は少し考えた。
この世界について、自分は何も知らない。
せめて土地の名前だけでも聞いておきたいところだった。
「……分かりました。ただ、僕も少し聞きたいことがあるんですが」
「いいわよ。答えられることならね」
そう言って、女性はようやく柔らかく微笑んだ。
「ついてきて」
先に歩き始める女性を、銀澪は数歩遅れて追いかけた。
雨に濡れた石段を上がり、社殿の横を抜ける。
そこには、古い木造の休憩所があった。
屋根は大きく張り出しており、三方が開けた造りになっている。内部には木製の長椅子が二つ置かれ、壁際には使い込まれた竹箒が立てかけてあった。
女性は鞄を長椅子に置き、濡れた髪を軽く払った。
「座って。私は別に、あなたをどうこうするつもりはないから」
「……ありがとうございます」
銀澪が腰を下ろすと、女性は向かい側に座った。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
先に口を開いたのは、女性だった。
「まず、名前を聞いてもいい?」
「銀澪、です」
「ぎんれい……?」
「はい。銀色の銀に、水の流れる道を意味する澪で、銀澪です」
女性はその名を小さく繰り返した。
「銀澪……綺麗な名前ね」
「あ、ありがとうございます」
「ふふ。そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
少しだけ笑われてしまった。
その笑顔を見て、銀澪の肩からわずかに力が抜ける。
「私は黒凪。黒いという字に、風が静まるときの凪で、黒凪よ」
「黒凪さん……」
「そう。よろしくね、銀澪」
差し出された右手を見て、銀澪は一瞬迷った。
しかし、すぐにその手を取る。
細く、白い指だった。
けれど、握り返された手には意外なほど確かな力があった。
「よろしくお願いします」
手を離した後、黒凪は改めて銀澪を見つめた。
「それで……本題に入ってもいいかしら」
「……はい」
「あなた、龍でしょう?」
あまりにも自然に言われたため、銀澪は一瞬、返事を忘れた。
「…………え?」
「龍。正確に言えば、人の姿を取っている龍の一族ね」
心臓が早鐘を打つ。
どうして分かったのだろう。
角も尻尾も、確かに消していたはずなのに。
「……どうして、そう思うんですか?」
黒凪は小さく首を傾げる。
「そうね……あなた自身は、まだ分からないのかもしれないけれど」
彼女は片手を上げ、空中を漂う雨の匂いを確かめるように指先を動かした。
「龍には独特の気配があるの。人間とは違う、水の流れのようなものがね」
「水の流れ……」
「特にあなたの場合は強いわ。山の清流みたいに澄んでいるのに、奥行きがまるで分からない」
黒凪の表情に、わずかな疑問が浮かぶ。
「不思議ね。これほどはっきり龍の気配がするのに、力の扱い方はまだ覚えたてみたい」
銀澪は思わず俯いた。
図星だった。
「……実は」
言いかけて、口を閉じる。
どこまで話していいのか、まだ判断できない。
黒凪は急かさなかった。
長椅子に座ったまま、静かに待っている。
その態度に、銀澪は少しだけ安心した。
「……今日、目が覚めたんです」
「今日?」
「はい。この神社の中で。気づいたら、角と尻尾が生えていて……」
言葉にしながら、自分でも信じられない話だと思った。
黒凪の眉がわずかに動く。
「ここで目覚めたって……それ以前の記憶は?」
「あります。ただ……」
銀澪は膝の上で両手を組んだ。
「僕は、元々人間だったんです」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、その金色の瞳が少しだけ大きく開かれた。
「人間だった頃の記憶があるんです。でも、どうしてここにいるのか、何が起きたのか……そこだけが思い出せなくて」
「…………」
「信じられませんよね」
銀澪は苦笑した。
「僕だって、まだ信じられないくらいですから」
黒凪はしばらく考え込んでいた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……驚いたわ」
「ですよね」
「ええ。でも、嘘をついているようには見えない」
銀澪は顔を上げた。
「信じてくれるんですか?」
「全部をすぐに信じたわけじゃないわよ」
黒凪は少し困ったように微笑んだ。
「ただ、あなたの話を頭から否定する理由もないでしょう?」
そう言って、彼女は視線を外へ向けた。
休憩所の向こうでは、木々の隙間から淡い日差しが差し込み始めている。
「龍の世界には、人間が知らないことも多いもの。私だって、すべてを理解しているわけじゃない」
「……龍の世界」
「そう。私たちの一族が、長い年月をかけて守ってきたものよ」
黒凪はそこで銀澪へ向き直った。
「だからこそ、あなたには少し注意してほしいの」
「注意、ですか?」
「人間社会では、龍の存在は伝説として扱われている。実際に私たちがいるなんて、ほとんどの人は知らないわ」
その言葉に、銀澪は静かに頷く。
予想していたとおりだった。
「もし正体が知られれば、何が起こるか分からない。興味本位で近づく人もいれば、利用しようとする人間も現れるでしょうね」
「……なるほど」
「だから、むやみに力を見せないこと。特に人前での変身は避けた方がいいわ」
黒凪の声には、冗談めいた響きがなかった。
銀澪も真剣に頷いた。
「分かりました。気をつけます」
「……素直なのね」
「え?」
「普通、もっと疑ったり、反発したりするものだと思っていたから」
黒凪は小さく笑った。
「少し意外だっただけよ」
銀澪は頬を掻いた。
「……正直、僕一人じゃ何も分からないので。教えてもらえるなら、ありがたいです」
「そう」
黒凪は短く答えた。
けれど、その表情は先ほどより少し柔らかくなっていた。
◇
休憩所の外で、再び雨が降り始めた。
最初は数えるほどだった雨粒が、やがて木の屋根を細かく叩くようになる。
黒凪は空を見上げ、軽く息を吐いた。
「……また降ってきたわね」
「山の天気って、変わりやすいですね」
「ええ。この季節は特にね。さっきまで晴れそうだったのに」
黒凪は鞄から折り畳み傘を取り出した。
しかし、すぐには開かず、銀澪の方を見る。
「ところで、あなたはこれからどうするつもり?」
「……それが、まだ決まっていなくて」
「泊まる場所は?」
「ありません」
「お金は?」
「……ありません」
「連絡できる人は?」
「……多分、いません」
答えるたびに、黒凪の表情が変わっていく。
最後には、片手で額を押さえてしまった。
「……あなたねぇ」
「す、すみません」
「謝ることじゃないけれど……思っていた以上に大変な状況なのね」
黒凪は困ったように笑った。
「その様子じゃ、ここがどこかも分かっていないでしょう?」
「……はい」
「やっぱり」
彼女は少し考え込んだ。
その間、銀澪は何も言わずに待っていた。
やがて黒凪は立ち上がり、休憩所の外に目を向ける。
「……ひとまず、山を下りましょうか」
「え?」
「このままここにいても仕方ないでしょう。近くに私の家があるから、そこまでは案内するわ」
「い、いいんですか?」
「勘違いしないでね。まだあなたのことを信用しきったわけじゃないわよ」
黒凪はそう言って、人差し指を軽く立てた。
「まずは事情を整理するの。あなたがどうしてここに現れたのか、私にも気になることがあるし」
「……それでも、助かります」
「お礼はまだ早いわ。私も知りたいことがたくさんあるんだから」
黒凪は鞄を肩に掛け直した。
銀澪も立ち上がろうとして、ふと足を止める。
「あの、黒凪さん」
「何?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
銀澪は少しだけ迷った。
それでも、どうしても確かめたかった。
「黒凪さんも……龍なんですよね?」
黒凪は数秒間、銀澪を見つめていた。
やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……ええ、そうよ」
その瞬間。
彼女の頭上に、漆黒の角が現れた。
滑らかな曲線を描き、先端に向かって緩やかに枝分かれした角。
黒曜石を思わせる艶があり、雨上がりの淡い光を受けて、わずかに青紫色を帯びている。
同時に、彼女の背後から長い尻尾が伸びた。
細かな黒い鱗に覆われた尾は、しなやかな曲線を描きながら、休憩所の床の上を静かに滑る。
銀澪は言葉を失った。
金色の瞳。
漆黒の角。
長く、美しい龍の尻尾。
夢にまで見た、龍人の姿だった。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
黒凪は少し意外そうに瞬きをする。
「……怖くないの?」
「え?」
「この姿よ。人間だったのなら、驚くでしょう?」
銀澪はしばらく黒凪を見つめていた。
確かに驚いた。
けれど、恐怖はなかった。
むしろ、胸の奥から湧き上がってきたのは、懐かしさにも似た憧れだった。
「……綺麗ですね」
「…………え?」
今度は黒凪が固まった。
「いや、その……角も尻尾も、すごく綺麗だなって」
銀澪は慌てて言葉を付け足した。
「僕、昔から龍が好きだったんです。だから、こうして本物の龍人に会えるなんて……なんだか、夢みたいで」
「…………」
黒凪は何も言わなかった。
ただ、金色の瞳を何度か瞬かせる。
やがて、少しだけ顔を横へ向けた。
「……変わった人ね、あなた」
「そ、そうですか?」
「ええ。こんなことを言われたのは、久しぶりだわ」
黒凪は小さく息を吐いた。
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいる。
「……ありがとう」
そう言って、彼女は角と尻尾を消した。
「さて、そろそろ行きましょう。ここで長話をしていたら、また雨が強くなってしまうわ」
「あ、はい」
銀澪は頷き、黒凪の後に続いた。
◇
山を下りる道は、思っていたよりも整備されていた。
石段を抜けると、細い舗装路が続いている。ところどころにガードレールが設置され、道沿いには電柱も立っていた。
遠くには民家の屋根が見え、そのさらに向こうには、緩やかな山並みが広がっている。
銀澪は周囲を見渡しながら歩いていた。
黒凪は少し先を歩き、ときどき振り返って足元を確かめてくれる。
「滑りやすいから、そこは気をつけて」
「ありがとうございます」
「……それにしても」
黒凪がふと口を開いた。
「あなた、随分と落ち着いているのね」
「そうですか?」
「ええ。自分が龍になって、知らない場所で目を覚ましたんでしょう? もっと取り乱していてもおかしくないと思うけれど」
銀澪は少し考えた。
確かに、普通ならもっと慌てるのかもしれない。
実際、頭の中では分からないことばかりだった。
それでも、なぜか絶望するような気持ちにはなっていなかった。
「……なんとかなるかな、って」
そう答えると、黒凪が振り返った。
「なんとかなる?」
「はい。もちろん、何も考えていないわけじゃないんですけど……」
銀澪は苦笑した。
「昔から、何かあってもなんとかなるって思うことが多くて。今回も、焦ってばかりいても仕方ないですし」
黒凪は少し不思議そうに彼を見つめた。
「……随分と前向きなのね」
「そうでしょうか」
「ええ。でも、嫌いじゃないわよ。そういう考え方」
その言葉に、銀澪は少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「ただし、無茶は駄目よ」
「え?」
「なんとかなると思うことと、何も考えずに行動することは違うでしょう?」
黒凪は真面目な顔で続けた。
「あなたはまだ、自分の身体のことも、龍の世界のことも分かっていない。だからこそ、慎重にならないと」
「……はい」
「分かればよろしい」
少しだけ得意げに言う黒凪を見て、銀澪は思わず笑ってしまった。
「……何かおかしい?」
「いえ。なんだか、先生みたいだなって」
「先生?」
「はい。叱られているみたいで」
黒凪は一瞬きょとんとした。
それから、くすりと笑う。
「……そうね。あなた、放っておいたら危なっかしそうだもの」
「そんなにですか?」
「少なくとも、初対面の相手に『泊まる場所もお金もありません』って素直に答えるくらいにはね」
「……うっ」
返す言葉がなかった。
黒凪は楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、銀澪は少しだけ安心する。
最初に出会ったときの、近寄りがたい雰囲気。
その奥には、こんな柔らかな一面もあるのだ。
そう思うと、不思議と会話がしやすくなった。
もっとも、相手がどんな人物なのか、まだほとんど知らない。
だからこそ、銀澪は改めて周囲を見渡した。
「あの、黒凪さん」
「今度は何?」
「この世界って……日本、なんですか?」
黒凪は足を止めた。
「……日本?」
「はい。僕の知っている日本と、景色がよく似ているので」
銀澪は少し言葉を選んだ。
「電柱も、車も、道路もありますし……」
黒凪はしばらく銀澪を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「ええ。ここは日本よ」
「……そうなんですね」
銀澪は安堵しかけた。
だが、その直後。
「ただし、あなたが知っている日本と、まったく同じかどうかは分からないわ」
黒凪の言葉に、胸が少し冷えた。
「……どういうことですか?」
「あなたが人間として生きていた場所が、本当にこの世界だったのか。それを確かめる方法が、今はないでしょう?」
「……確かに」
「だから、焦って結論を出さない方がいいわ。知っているものがあるからといって、すべてが同じとは限らないもの」
黒凪は穏やかに告げた。
「まずは、あなたの記憶を一つずつ整理していきましょう」
銀澪は黙って頷いた。
不安はある。
それでも、ようやく少しだけ道筋が見えてきた気がした。
◇
山道を下り始めて、しばらく経った頃だった。
木々の間から、開けた土地が見えてきた。
そこには、古い和風の建物が一軒建っていた。
黒い瓦屋根。
木製の門。
白い漆喰の壁と、長い塀。
門の向こうには庭木が並び、その奥には広い母屋が見える。
周囲は森に囲まれていたが、建物そのものは丁寧に手入れされているようだった。
「……立派な家ですね」
銀澪が思わず呟く。
黒凪は小さく微笑んだ。
「ありがとう。古い家だけれどね」
「え……まさか」
「そう。私の家よ」
黒凪は門の前で足を止めた。
門柱には、見慣れない紋様が彫られている。
二匹の龍が、水面に浮かぶ月を囲むような意匠だった。
銀澪はその紋様を見つめた。
「……龍の家紋?」
「気づいた?」
黒凪は少し嬉しそうに笑った。
「昔からこの家に伝わっている紋様なの。今では、意味を知っている人も少ないけれど」
「……綺麗ですね」
「ふふ。あなた、本当に龍が好きなのね」
「はい。昔からずっと」
銀澪が答えると、黒凪は静かに門を開けた。
庭には苔むした石灯籠があり、奥には小さな池が見えた。
池の水面には雨粒が落ち、丸い波紋を広げている。
さらにその向こうには、自然の岩を組み合わせた小さな滝があった。
水が石を伝って流れ落ち、澄んだ音を響かせている。
銀澪は思わず足を止めた。
「……すごい」
自然と声が漏れた。
山。
森。
水。
そして、静かな和風の屋敷。
自分が昔から好んでいたものが、ここには揃っていた。
黒凪はそんな銀澪を振り返る。
「……どうしたの?」
「いえ……」
銀澪は少し照れくさそうに笑った。
「こういう場所、昔から好きだったんです」
「そうなの?」
「はい。山とか、渓流とか、滝とか……そういうところにいると、すごく落ち着くので」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、庭の池へ視線を向ける。
「……そう」
その声は、どこか柔らかかった。
「なら、ここは気に入ってもらえるかもしれないわね」
銀澪は小さく頷いた。
黒凪は玄関へ向かって歩き始めたが、数歩進んだところで振り返った。
「銀澪」
「はい?」
「一つだけ、約束してほしいことがあるの」
その表情は、先ほどまでとは違っていた。
穏やかでありながら、どこか真剣だった。
「この家で見聞きしたことを、むやみに外で話さないこと。いい?」
「……分かりました」
「それと、もし何か分からないことがあったら、勝手に試す前に聞いてちょうだい。特に龍の力についてはね」
銀澪は少し苦笑した。
「……水を操るくらいなら、さっき試しちゃいましたけど」
「…………え?」
黒凪の動きが止まった。
「水を操った?」
「はい。神社の排水路が詰まっていたので、水を動かして……」
「……ちょっと待って」
黒凪は銀澪へ歩み寄った。
その金色の瞳が、驚いたように見開かれている。
「あなた、目覚めたばかりなのよね?」
「はい」
「なのに、もう水を操れたの?」
「……そうなりますね」
黒凪は額に手を当てた。
「……信じられない」
「そんなに変ですか?」
「変というより……普通は、もっと練習が必要なのよ」
彼女は改めて銀澪を見つめた。
その眼差しに、先ほどまでとは違う慎重さが宿っている。
「銀澪。あなた、本当に何者なの?」
問いかけられても、銀澪には答えられなかった。
「……僕にも、まだ分かりません」
黒凪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうだったわね」
そして、少しだけ笑った。
「ごめんなさい。つい、驚いてしまって」
「いえ……」
「とにかく、続きは中で話しましょう。身体も冷えているでしょうし」
黒凪は玄関の扉を開けた。
木の香りが、ふわりと漂ってくる。
「……ようこそ、銀澪」
振り返った彼女は、穏やかに微笑んだ。
「ひとまず、ゆっくりしていって」
銀澪はその言葉に、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。黒凪さん」
そして、玄関の敷居をまたぐ。
それが、この家で過ごす最初の一歩だった。
◇
銀澪が浴室へ案内された後。
黒凪は一人、居間に戻っていた。
窓の外では、再び雨が降り始めている。
庭の池に浮かぶ波紋を眺めながら、彼女は静かに息を吐いた。
「……白龍、か」
その声には、わずかな緊張が混じっていた。
白龍そのものが珍しいわけではない。
だが、あの青年は違う。
気配の質が、これまで出会ってきた龍たちとは明らかに異なっていた。
澄みきった水のように静かなのに、その奥にどれほどの力が眠っているのか、まったく見通せない。
しかも、本人はそのことに気づいていないようだった。
「……人間だった記憶を持つ龍、ね」
黒凪は腕を組んだ。
長く生きてきた中で、転生に関する話を耳にしたことはある。
しかし、それらの大半は古い伝承や、真偽の定かでない記録に過ぎなかった。
実際に、そのような存在と出会ったことはない。
ましてや、何の前触れもなく山奥の神社に現れるなど。
普通に考えれば、警戒するべき相手だ。
だからこそ、最初は疑っていた。
何か目的があって、この土地へ入り込んだのではないか。
無知を装い、一族の情報を探ろうとしているのではないか。
そうした可能性も、当然考えた。
けれど――。
『……綺麗ですね』
ふと、先ほどの言葉が蘇る。
角と尻尾を見せたときの、あの表情。
恐怖でも、警戒でも、欲望でもなかった。
純粋な憧れ。
本当に好きなものを目の前にした子どものような、まっすぐな眼差しだった。
「……あんな顔をされるとは思わなかったわ」
黒凪は小さく笑った。
それでも、すべてを信用したわけではない。
まだ分からないことが多すぎる。
彼の正体も、ここに現れた理由も。
何より、あれほどの力を秘めた龍が、なぜ今になって姿を現したのか。
確かめなければならないことは、山ほどあった。
黒凪は窓辺から離れ、棚の奥に置かれた古い木箱へ目を向けた。
そこには、代々受け継がれてきた龍の記録が収められている。
普段なら、めったに開くことのないものだった。
「……久しぶりに、調べてみる必要がありそうね」
そう呟いたとき。
廊下の奥から、小さな物音が聞こえた。
黒凪は顔を上げる。
どうやら銀澪が、浴室の使い方で困っているらしい。
「……あらあら」
思わず笑みがこぼれた。
「本当に、目が離せない人ね」
黒凪は木箱から手を離し、廊下へ向かった。
まだ何も知らない。
彼のことも、自分たちのこれからのことも。
ただ、この奇妙な出会いが、長く静かだった日々に何かをもたらす予感だけはあった。
それが良い変化なのか、悪い変化なのか。
今はまだ、分からない。
それでも。
「銀澪? どうかしたの?」
廊下の向こうへ声をかける。
少し遅れて、困ったような返事が聞こえてきた。
「……すみません。お風呂の操作が、よく分からなくて」
「……ふふっ」
黒凪は口元を押さえた。
思わず笑ってしまったのだ。
あれほど不思議な力を持つ白龍が、現代の浴室設備を前に困っている。
その落差が、妙におかしかった。
「今行くわ。勝手に変なところを触らないでね」
「はい……」
素直な返事に、黒凪はまた小さく笑った。
山の奥に建つ古い和風屋敷。
その静かな廊下に、久しく聞かなかった他人の声が響いている。
黒凪はそのことを、ほんの少しだけ不思議に感じていた。
そして、まだ気づいていなかった。
やがてこの屋敷が、二人の笑い声だけでなく、四人の小さな龍たちの足音で満たされる日が来ることを。
今はまだ、その未来へ続く扉が開いたばかりだった。




