序章 白銀の目覚め
雨の音が聞こえた。
木々の葉を叩く柔らかな雨音。その奥には、岩肌を滑り落ちる水の音が重なっている。
湿った土の匂いが鼻をくすぐり、頬を撫でる風には、街中では感じられない冷たさがあった。
意識が浮かび上がるにつれ、周囲の音が少しずつ輪郭を持ち始める。
「……ん……」
まぶたを開くと、最初に目に入ったのは、薄暗い木造の天井だった。
古びた梁が幾本も渡され、その隙間には長い年月を経た蜘蛛の巣が残っている。
身体の下に感じるのは畳でも布団でもない。ひんやりとした木の床だった。
「……ここ、どこだ?」
思わず口にした声が、妙に澄んで聞こえた。
身体を起こそうとして、違和感を覚える。
何かが腰の辺りに引っかかっていた。
「……?」
振り返る。
そこには、見覚えのない白銀の物体が横たわっていた。
細かな鱗に覆われ、先へ向かうほど緩やかに細くなる。先端には白く柔らかな毛が生えており、まるで生き物のようにゆっくりと動いている。
いや。
実際、生き物の一部なのだ。
「……尻尾?」
呟いた瞬間、その白銀の尾がぴくりと跳ねた。
「うわっ!?」
驚いて身体を引く。
すると尻尾まで一緒に動き、床に置かれていた小さな木片を弾き飛ばしてしまった。
乾いた音が社殿の中に響く。
しばらく動けなかった。
視線を尻尾へ向けたまま、恐る恐る腰に手を伸ばす。
確かに、つながっている。
付け根に触れれば感覚があり、意識を向ければ思った方向へ動かすこともできた。
「……嘘だろ」
そのとき、額に妙な重さを感じた。
反射的に頭へ手を伸ばす。
指先が触れたのは、髪ではなかった。
硬く、滑らかで、わずかに枝分かれした何か。
「まさか……」
ゆっくりと立ち上がる。
身体を動かすたびに、背後の尻尾が自然と揺れた。最初こそ足元を取られそうになったものの、不思議なことに、数歩歩いただけで扱い方が分かってきた。
まるで、ずっと以前からそこにあったかのようだった。
外へ出ると、そこは山深い場所に建てられた小さな神社だった。
苔むした石段。
雨に濡れた鳥居。
幾百年もの時を重ねたような巨木。
境内の脇には清流が流れており、その先には小さな滝が見えた。
見知らぬ場所だった。
それなのに、胸の奥が不思議と落ち着いている。
「……綺麗だな」
言葉が自然にこぼれた。
雨に煙る山々を見つめながら、ふと思い出す。
自分は昔から、こういう場所が好きだった。
人の多い街よりも、静かな山の中。人工的な音よりも、川のせせらぎや風に揺れる木々の音。
神社を訪れると、理由もなく心が安らいだ。
そして何より――。
龍が好きだった。
東洋の龍も、西洋のドラゴンも、神話に語られる神聖な龍も。
幼い頃から、何度も考えたことがある。
もし自分が龍になれたら。
人間の姿を保ったまま、角と尻尾を持つ龍人になれたら。
どんな景色が見えるのだろう、と。
その願いを思い出した途端、再び腰の尻尾が動いた。
「……そういう、ことなのか?」
誰に向けるでもなく問いかける。
答えは返ってこなかった。
ただ、川の流れる音だけが、変わらず響いていた。
◇
境内を抜け、清流のほとりへ降りる。
川幅はそれほど広くない。水は驚くほど澄んでいて、川底に転がる小石の一つひとつまで見通せた。
身をかがめ、水面を覗き込む。
そこに映っていたのは、見知らぬ青年だった。
「…………」
白銀の髪。
肩を少し越えるほどの長さがあり、毛先には淡い灰色が混じっている。
顔立ちは中性的で、どこか女性にも見えるほど整っていた。
そして、瞳。
右目は透き通るような蒼。
左目は深い紅。
左右で異なる色を持つ瞳が、水面の向こうからこちらを見返している。
額からは白銀の角が二本伸びていた。
鹿の角を思わせる緩やかな枝分かれがありながら、全体の形は鋭く、龍らしい威厳を感じさせる。
頬の下や首筋には、小さな白い鱗が浮かんでいた。
「……本当に、龍人になってる」
そう呟いた直後、胸の奥に熱いものが込み上げた。
ずっと憧れていた姿だ。
何度も想像してきた、理想そのものといっていい。
けれど、喜びだけがあるわけではなかった。
自分には記憶がある。
人間として生まれ、人間として育ち、日々を過ごしてきた記憶。
家族の顔も、暮らしていた街も、好きだったものも覚えている。
朝、神仏に感謝を伝え、一日の無事を願っていたことまで、はっきりと思い出せた。
それなのに。
「……どうして、ここにいるんだ?」
最後に何があったのか。
そこだけが、どうしても思い出せなかった。
昨日まで当たり前だったはずの日常が、途中で途切れている。
眠ったのか。
事故に遭ったのか。
それとも、すでに人間としての生を終えてしまったのか。
考えても答えは出ない。
川面に映る自分の顔を見つめているうちに、ようやく小さな恐怖が湧いてきた。
憧れが叶ったかもしれない。
けれど、その代わりに何を失ったのだろう。
家族や友人は、どうしているのだろう。
自分がいなくなったことを、誰かが知っているのだろうか。
「……参ったな」
濡れた石の上に腰を下ろす。
尻尾が自然に身体の横へ回り込み、その先端が足元の草を揺らした。
しばらく、ただ川を眺めていた。
やがて深く息を吐き、両手で顔を覆う。
「嬉しいはずなのに……簡単には喜べないな」
夢にまで見た姿だった。
それでも、人間として過ごした時間が消えるわけではない。
大切だった思い出を、都合よく忘れることもできなかった。
雨が少し強くなった。
木々の葉から落ちた雫が、白銀の髪を濡らしていく。
青年はゆっくりと顔を上げた。
「……でも、ここで座っていても仕方ないか」
何が起きたのか、今は分からない。
ならば、まずは知ることから始めるしかない。
そう考えたときだった。
胸の奥に、ふと一つの名前が浮かんだ。
――銀澪。
「……ぎん、れい?」
声に出した瞬間、奇妙な感覚が走った。
その名を誰かに教えられた記憶はない。
人間だった頃の自分の名前とも違う。
それなのに、まるで以前から知っていた名前のように、不思議と口になじんだ。
「銀澪……」
もう一度、ゆっくりと繰り返す。
川の水面が小さく揺れた。
気のせいかもしれない。
ただ、今の自分を呼ぶ名前として、その二文字は妙にしっくりきた。
「……とりあえず、今は銀澪ってことにしておくか」
誰もいない山の中で、少しだけ笑った。
◇
山の天気は変わりやすい。
先ほどまで静かだった雨は、いつの間にか本降りになっていた。
銀澪は川辺を離れ、社殿へ戻ろうとしていた。
その途中、石段の脇から妙な水音が聞こえてきた。
「……ん?」
足を止める。
見ると、倒れた枝が細い排水路を塞いでいた。
行き場を失った雨水が石段へ溢れ、社殿の土台に向かって流れ込んでいる。
古い木造建築だ。
このまま水が溜まり続ければ、傷みが進むかもしれない。
「枝をどかせば何とかなるかな」
そう思って近づいたものの、枝は予想以上に大きかった。
しかも、斜面の上から次々と水が流れ込んでくる。
銀澪は袖をまくり、枝に手をかけた。
そのときだった。
不意に、周囲の水音が変わった。
「……?」
川の流れ。
地面を伝う雨水。
葉先から落ちる雫。
それらが、それぞれ違う音を立てていることに気づいた。
いや、聞こえているというよりも、どこをどう流れているのかが分かる。
目を閉じても、水の動きが頭の中に浮かんでくるのだ。
銀澪は思わず手を離した。
「……何だ、これ」
試しに、足元を流れる水へ意識を向ける。
石段へ向かっていた雨水が、わずかに方向を変えた。
偶然かと思った。
けれど、もう一度、今度は明確に別の方向へ流れるよう意識すると、細い水の筋が石を避けるように曲がった。
「……動いた?」
目を見開く。
手のひらをかざすと、水はその動きを追うように揺れた。
まるで身体の一部のようだった。
恐る恐る、溢れている水全体へ意識を広げてみる。
途端に、水面が盛り上がった。
「うわっ、ちょっと待て!」
慌てて手を引く。
しかし、すでに水は宙へ浮かび上がり、銀澪の目の前で大きな球体を作っていた。
大人が両腕で抱えるほどの水球。
その表面を、雨粒が次々と叩いている。
「…………」
数秒間、銀澪はそれを見つめていた。
「……すごいな」
小さな声が漏れる。
驚きよりも先に、純粋な感動があった。
水が、自分の意思に応えている。
試しに水球を少し動かすと、何の抵抗もなく移動した。
そのまま排水路の先へ運び、ゆっくりと水を戻していく。
水球は形を失い、元の流れへと合流した。
再び枝に手をかけると、今度は水圧に邪魔されず、容易に引き上げることができた。
塞がれていた排水路から、一気に水が流れ出す。
「……よし」
額にかかった髪を払い、ひと息つく。
先ほどまで溢れていた雨水は、元の流路へ戻っていた。
水を操る力。
龍の角と尻尾。
そして、身に覚えのない名前。
理解できないことばかりだった。
それでも、一つだけ確かなことがある。
今の自分には、人間だった頃にはなかった力がある。
ならば、それをどう使うのか。
その答えだけは、自分で決められるはずだった。
「……壊すより、守る方に使いたいな」
誰に聞かせるでもなく呟くと、銀澪は社殿を振り返った。
古い建物は、変わらず静かにそこに佇んでいた。
◇
雨が弱まり始めた頃、山の下からエンジン音が聞こえてきた。
銀澪は顔を上げた。
木々の隙間を、一台の軽トラックがゆっくりと走っていく。
どうやら近くに林道があるらしい。
荷台には農作業用と思われる道具が積まれていた。
「……車?」
思わず呟く。
改めて周囲を見渡せば、遠くの斜面には電柱が立ち、山の向こうには住宅の屋根らしきものも見えた。
少なくとも、何もかもが異なる異世界というわけではなさそうだ。
しかし、そこで別の問題に気づく。
「……この姿、まずいよな」
自分の角に触れる。
白銀の尾が背後で揺れた。
こんな姿で人前に出れば、間違いなく騒ぎになる。
人間だった頃の常識が、そのまま通用する場所ならなおさらだ。
「せめて、角と尻尾だけでも隠せれば……」
そう考えた瞬間だった。
背中を冷たいものが走り抜けるような感覚があった。
尻尾の重みが、ふっと消える。
「……え?」
振り返る。
そこには何もなかった。
驚いて額に触れると、先ほどまであった角も消えていた。
何度触っても、指先に感じるのは髪と額だけだった。
「……変身、できるのか?」
自分の身体を見下ろす。
服装は変わっていない。
白銀の髪も、蒼と紅の瞳も、そのままだった。
けれど、龍の特徴だけが綺麗に消えている。
もう一度、尻尾を思い浮かべてみた。
すると、腰の奥から何かが伸びるような感覚が生じ、長い白銀の尾が現れた。
「おお……!」
今度は角。
意識を向けた途端、額の両側に硬質な感覚が戻る。
銀澪は思わず笑った。
「……これ、思ったより便利だな」
再び人間の姿に戻る。
今度は最初から何の抵抗もなかった。
まるで、生まれつき備わっている機能を使っているようだった。
その事実に胸が躍る。
自由に姿を変えられる。
だったら、いつか完全な龍の姿にもなれるのだろうか。
巨大な白龍になって、雲の上を飛ぶことだって。
そんな想像が浮かびかけて、銀澪は小さく首を振った。
「……いや、まずは生活できる場所を探さないと」
現実的な問題は山積みだ。
財布もない。
携帯電話もない。
今いる場所の名前すら分からない。
それどころか、この世界に自分の戸籍や住民票があるのかさえ不明だった。
何千年も生きられる身体を手に入れていたとしても、今日の寝床がなければ困ってしまう。
「龍になって最初の悩みが、住む場所か……」
思わず苦笑する。
なんとも締まらない話だ。
けれど、どんな姿になろうと、暮らしていくためには必要なことがある。
人間だった頃の常識は、まだ役に立ちそうだった。
◇
神社を離れる前に、銀澪は社殿の正面へ戻った。
雨に濡れた石畳の上で足を止める。
古い注連縄が風に揺れ、その向こうには、静かに閉ざされた木の扉があった。
ここがどこの神社なのかは分からない。
祀られている神様の名前も、由緒も知らない。
それでも、何となく手を合わせたくなった。
人間だった頃、毎朝続けていた習慣。
感謝を伝え、一日の無事を願う。
自分がなぜここにいるのか分からない今も、その気持ちは変わらなかった。
銀澪は静かに目を閉じる。
何か特別な言葉を唱えたわけではない。
ただ、目覚めることができたこと。
目の前に新しい一日があること。
そして、これから先も、できる限り穏やかに生きていきたいという願い。
それらを、心の中でそっと伝えた。
しばらくして目を開く。
雨は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から淡い光が差し込み、境内の苔を柔らかく照らしている。
「……さて、行こうか」
銀澪は小さく頷いた。
石段を下り、山道へ向かう。
背後には静かな社殿。
前方には、まだ何も知らない世界が広がっている。
恐ろしくないといえば嘘になる。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
新しい名前。
新しい身体。
そして、人間だった頃から変わらず胸に残る記憶。
そのすべてを抱えて、生きていくしかない。
山道を歩き始めた銀澪は、ふと足を止めた。
風が吹いた。
雨上がりの森の匂いに混じって、どこか懐かしい水の香りが漂ってくる。
その奥に、かすかな気配があった。
誰かがいる。
姿は見えない。
ただ、道の先から水の跳ねる音が聞こえてきた。
銀澪は耳を澄ませる。
石段を踏む足音。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
どうやら、この山には自分以外にも誰かがいるらしい。
「……人、かな?」
そう呟き、再び歩き始める。
銀澪はまだ知らなかった。
その山道の先で、一人の女性と出会うことを。
漆黒の髪に、金色の瞳。
静かな夜の水面を思わせる、美しい黒龍。
彼女との出会いが、これから幾千年にも及ぶ人生を大きく変えることを。
そして、遠い未来。
二人が築いた家に、四人の子どもたちの笑い声が響くようになることも。
今の銀澪には、知る由もなかった。
ただ、新しい人生の最初の一歩を踏み出したばかりだった。




