人はいさ…… ―2―
「……この辺りに、桜の名所ってありますか?」
「桜の名所?」
「テレビで天気予報のお姉さんが言ってたんです。『来週には桜の開花宣言が聞けそうですね』って。だから、咲く場所を知っておきたくて」
そうなんだ、と花音は少し思案し、「この辺りだったら、日向川沿いの遊歩道かな」と答えた。
「遊歩道ですか?」
「うん。日向川に沿って桜並木が百メートルくらい続くの。結構、圧巻なんだよね」と感慨深げに言う。
「素敵ですね」
咲はその光景を想像し、胸を躍らせた。
「だけど、まだ咲いていないと思うよ。川沿いってこともあって、毎年、開花予報より遅く咲くんだ」
そんな咲の期待を懸念した花音が釘を刺す。
「でも、せっかくだから行ってみたいです」
咲はキッパリと告げる。それに花音がフフッと笑い声を漏らした。
「私、可笑しなこと言いました?」
不思議に思い尋ねる。ううん、と花音は首を振った。
「ただ、咲ちゃんも成長したな、って嬉しくて」
「成長?」
咲はパチクリと目を見開き、花音を見つめた。
――一体、何のことを言っているのだろう?
「自分の意見をハッキリ言えるようになったなって」
まるで子供の成長を喜ぶ親戚のおじさんのように嬉しそうに言う。
「そうですか?」
だからつい照れ臭くなって、咲はふいっと視線を逸らした。
「そうだよ。初対面の咲ちゃんは、本当に何も言ってくれなくてさ。助けてあげたいのに、手を差し伸べさせてくれないんだもの。それに比べたら、すごい進歩だよ」
あの時、そんなふうに思われていたんだ、と初対面の花音を思い返す。初めて会った自分にそんな気遣いをしてくれていたなんて、花音さんってすごく大人だな、と感心する。
「さっきだって」と花音は意地悪な表情を浮かべた。
「凛太郎に食ってかかってたじゃない」と揶揄うように言った。
――でも、たまに意地悪言ってくるところが子供っぽいんだよね。
咲はプクッと頬を膨らませた。
「別に、食ってかかってたわけでは……」と反論しかけた咲を愉快そうに笑い飛ばす。
「あ、ここだよ」
ふいに、花音がチラリと咲を見て、告げた。
窓の外に目を向けると川沿いに植えられた木々が目についた。まだどの木も枯れ木だが、枝の先端にはつぼみの丸みが見えた。
「少し歩いてみようか」
花音はそう言って、車を近くの駐車場に止めた。駐車場前の横断歩道を渡り、遊歩道へと辿り着く。
「ここね、小さい頃、よく祖母が連れてきてくれたんだ」
桜の木を眺め、花音が言った。その顔には懐かしさが滲みでている。
「もしかしたら、胴咲きくらいは綻んでいるかも」と近くの桜の幹を探し始める。
どうでしょうね、と咲も花音に倣い、桜の幹を見る。
風は冷たいが、傾きかけた日の光が優しく背中を温める。心地よい時間に、二人は夢中になって桜の樹を観察した。
どれくらいそうしていたのだろう。日差しが弱まり、肌寒さが増した頃、「あった」と花音が嬉しそうに声を上げた。
「えっ、どこですか?」
その声に花音へと目を向ける。彼は桜の樹の根元を見つめていた。咲は近づき、その目線を辿る。
ボッコリと地面から盛り上がった根の分かれ目に、一輪の可憐な花が綻んでいた。
「本当だぁ」
つい興奮して、咲は大きな声を上げてしまう。慌てて口を抑え、キョロキョロと辺りを見渡したが、幸い、人気は見当たらなかった。
花音がクスクスと笑う。
「……すみません。つい初桜に興奮してしまって」と咲は赤面した。
でも、とその桜を見つめ、しゃがみ込む。
「桜って、たくさん咲いていると綺麗ですけど、一輪だけだと可愛らしく感じますね」と花音を見上げた。
「――その観点はなかった」
花音が意外そうに眉を上げた。
「たしかに、そうだね……まるで、咲ちゃんみたい」と冗談めかす。
「もう、揶揄わないでください」
咲はますます赤面し、頬を膨らました。
「ほら、可愛い」と花音は声を上げて笑った。その笑いを滲ませたまま、花音もその場にしゃがみ込む。それから、ゆっくりと桜の花へと手を伸ばした。
「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」
柔らかな声で、花音が短歌を諳んじる。その瞳はどこか寂しげで。
なんとなく話しかけづらい雰囲気に、咲は花音から桜の花へと視線を移した。夕風が優しく花びらを揺らしている。
「……なんだか少し寂しい感じの歌ですね」
ぽつりと呟く。
短歌にも古文にも詳しくない咲には、その歌の意味するところは分からないが、言葉の奏でる雰囲気からそう感じた。
「そう?」
花音が聞き返す。
「僕も初めて聞いたときは、咲ちゃんみたいに思ったんだけど。……本当のところは、そんな感傷的な歌じゃないんだ」
悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうなんですか?」
意外そうに眉を上げた咲に、そうなの、と花音は肩を竦める。
「この歌、紀貫之って人が詠んだものなんだけど……」
「あっ、聞いたことあります。たしか、『古今和歌集』の選者だった人ですよね。あと、『土佐日記』とか」
咲は学校で習った国語の知識を捻り出す。
「うん、そうだね」と花音がクスリと笑った。
「でね、その人が昔馴染みの宿を訪れたときに、宿の主人に言われた皮肉に対する贈答歌なの」
「贈答歌?」
「お互いに気持ちを伝え合う、お手紙のやりとりみたいな歌」
「お手紙……」
「そう。昔の人はそうやって、お手紙の代わりに歌でやりとりしたの」
「お洒落ですね」と咲は感心する。
そしてその労力を思い、「私には、とてもできなそうにありません」と首を振った。
僕も、と花音も同調して笑う。
「で、この歌はね、宿屋の主人が紀貫之に、『あなたは心変わりしたのか、なかなか宿を訪れなくなりましたね』って言ったのに対して、『あなただってどうだったんですか? ずっと私のことを待っていたわけではないでしょう? 人の心はわからないけれど、昔馴染みのこの里では、花だけが昔と変わらない良い香りを漂わせていますね』って返したものなんだ」
「なんか狸の化かし合いみたいな会話ですね」と咲は呆れた。
そうだね、と花音は頷く。
「だから咲ちゃんみたいな捉え方のほうが良いよね──どこか郷愁が感じられてさ」
そう言って、花音は咲の顔を覗き込んだ。その瞳にはさっきまでの寂しさはない。代わりに晴れ晴れとした笑顔があった。
花音は、うーんと伸びを一つし、立ち上がる。咲もそれに合わせて立ち上がった。
そうだ、とふと思いついたように花音が咲を見た。
「咲ちゃん、お花見しようか?」
「お花見?」
「うん、今日の夜七時、アトリエで」
「今日、ですか?」
咲は首を傾げた。
「まだ桜は咲いてないのでは……」と不審がる咲に、花音は「大丈夫」と自信満々に微笑んだ。




