元カノ ―2―
華村ビルの外観は相変わらず廃れていた。ただその一階にある『喫茶カノン』のドアだけは比較的新しい。
オレンジ色の木のドアを開けると、チリンと可愛らしいベルの音が鳴った。
「こんにちは」と咲は入り口から声をかける。
「いらっしゃいませ」
それに店の主である悠太が呑気な声で応じ、厨房から顔を覗かせた。
「あ、こんにちは、咲さん」
咲の顔を認めた悠太が人懐っこい笑みを浮かべる。それから咲と一緒にいる女性に気づいて「そちらの方は?」と首を傾げた。
「すぐそこの道で貧血を起こしていて。少し休ませて頂いてもいいですか?」
「それは大変ですね」
悠太は気遣わしげな表情を浮かべ、どうぞどうぞ、と入口から入って右側の四人掛けの席を勧めた。壁側がソファ席になっているので、横になるには丁度いい。
椅子とテーブルを移動させて、人が通れるスペースを作った悠太は、咲の代わりに女性に肩を貸し、ソファへと座らせた。
「どうぞ横になってください」
女性にブランケットを手渡す。
いつもはなんとなく頼りない悠太だが、いざというときは手際がよく、頼もしい。
「ありがとうございます」
女性はペコリとお辞儀をし、ソファへと横たわった。顔色はまだ青ざめていて、少し身体が震えていた。
「お身体冷えたでしょ。今、温かい飲み物を淹れてきますね」
悠太は小走りで厨房に戻る。
「悠太さん」
咲はそのあとを追いかけ、厨房に入りかけた悠太に、「彼女、妊娠されているので、飲み物はカフェインレスのものでお願いします」
咲の耳打ちに、「わかりました」と悠太は小さく頷き、厨房へと消えていく。
「……暇だな」
ふいに背中から嘲るような声が聞こえ、咲は振り返る。真後ろの席に座る男が刺すような視線でこちらを見据えていた。
先ほどエレベーターで遭遇した瀧川凛太郎である。
「どういう意味ですか?」
咲は眉を顰めた。
「別に。見知らぬ人間の世話を焼いてる暇があって羨ましいな、と思っただけだ」
嫌味ったらしい言葉を吐く。それがさっきからの言動と合わさり、咲の堪忍袋の緒が切れる。
「何を言ってるんですか」
咲にしては珍しく語気を荒げる。
「人助けは暇だからするんじゃありません。困っている人がいるから手助けするんです」
凛太郎のテーブルに詰め寄りながら、糾弾する。
「大体、顔を見れば嫌味しか言わない凛太郎さんのほうがよっぽど暇です。悪口を言う暇があって羨ましいですね」
咲の剣幕に、凛太郎は苦虫を噛み潰したような顔で黙りこくった。
――勝った。
今まで言われっぱなしだったけど、ようやく言い返すことができた。咲は心の中でガッツポーズを決めた。
「ずいぶん賑やかだなと思ったら、咲ちゃんだったの」
フフッと穏やかな笑い声とともに、厨房の奥から花音がひょっこりと姿を現した。
「花音さん……」
突然の登場に、咲は驚いて花音を見つめた。
「こんにちは、咲ちゃん」
花音はニコリと微笑む。
こんにちは、と咲は頭を下げた。
「……居たんですか?」
変なところを見られてしまった、とバツが悪くなり咲は上目遣いで花音を窺った。
「うん。奥のほうで、お花の後片付けをしていたの」
そう言って厨房の奥を振り返る。厨房の奥は悠太の居室スペースだから、花音がいるとは思わなかった。
「お花、ですか?」
「うん。テーブルフラワーを生けてたんだ」とテーブルの上を指さす。
そこには桜とミモザを使った春らしいアレンジメントが置かれていた。
わぁ、と咲は感嘆の声を上げた。
「すごく素敵です。春が待ち遠しくなりますね」
ささくれていた心が和らぐ。咲は頬を緩め、花音を見上げた。
ありがとう、と花音は笑顔を返す。
「生け終わって、向こうで後片付けしていたら、咲ちゃんと凛太郎の声が聞こえてきてね」
――あ、聞こえていましたか。
咲はハハッと照れ笑いを浮かべた。
「咲ちゃん、凛太郎相手によく言ってくれたね」
花音は感心しきりに咲の頭に手を乗せ、ポンポンと撫でる。
「あいつの減らず口には僕も困ってたとこなんだ」と肩を竦め、凛太郎を一瞥した。
減らず口じゃねーし、と凛太郎が悪態をつく。
「ほんと、子供なんだから」
花音は大袈裟にため息をつき、ところで、と咲を見つめた。
「咲ちゃんはこれからお出かけ? いつもよりおめかししているみたいだけど……」
「はい。その予定だったんですけど……ちょっと色々ありまして」と女性のいる席へと目を向ける。
つられて花音が咲の視線を追う。その目が大きく見開かれた。




