バレンタインの贈り物 ―3―
「こんにちは、アトリエ花音です。お花のお届けに上がりました」
花音が声をかけると、ほどなく玄関の扉が開き、四〇代くらいの女性が顔を覗かせた。彼女が小峰夫人なのだろう。
「旦那さんからご注文頂いたお花のお届けに上がりました」と花音は抱えていた花束を差し出した。
「お花?」とつぶやいた小峰夫人の目が、花音の抱える花束に行き当たり、「綺麗っ」と頬を綻ばせる。彼女は嬉々として花束を受け取った。
「いい香り」
小峰夫人は満足げな笑みを浮かべた。風に乗ったバラの香りは咲の元まで届き、鼻先をくすぐる。
――本当に素敵な香りだ。
「お気に召して頂き、大変光栄です」
花音が妙に畏まった言い方をし、胸に手を当て、お辞儀をする。それにクスリと小峰夫人が微笑んだ。
「今回使用したその濃いピンク色のバラは『イブピアッチェ』という香りの強い品種なんです」
「イブピアッチェ?」
「はい。イブピアッチェの香りは、『ダスク・モダン』というタイプに分類されています」
「ダスク・モダン?」
小峰夫人は小首を傾げた。
「ええ。日本のバラの香りは化学分析によって、七つのタイプに分類されることがわかっているのです――その中の一つがダスク・モダンなんです」
へぇ、と花音の花に関する知識の豊富さに、咲は感心する。
「ダスク・モダンは甘くて、情熱的で、濃厚な香りと評されています。バレンタインの贈り物にはピッタリかと」
片目を瞑った花音に、「そうかもね」と小峰夫人は小さく笑い返した。
それから、でも、と困ったように眉尻を下げる。
「こんなに大きな花束を頂いても、家にはこれに見合うような花瓶はないわね」とため息を零した。
それなら、と花音は咲が持っていた花器を受け取った。
「こちらの花瓶をお使い下さい」と小峰夫人に差し出す。
「いいんですか?」
「ええ。お花も、私のほうで生けさせて頂きますよ」
花音の提案に、小峰夫人は「それは助かります」と安堵の表情を浮かべた。
「あまりに大きな花束だったので、少し戸惑ってしまって。お花屋さんが生けて下さるなら、安心です」と微笑む。
それから花束を上り框に置き、花音から花器を受け取った。そうして玄関のドアを大きく開き、「どうぞ」と二人を招き入れた。
「お邪魔します」
花音と二人、玄関を潜ると、かなり広めの空間が現れる。
向かって右側には開放的なシューズクロークが備えられ、靴のほかにガーデニング用品や自転車などが整然と収納されていた。
反対側には咲の肩くらいの高さの靴箱が据えられ、その上に可愛らしいフラワーアレンジメントが置かれていた。
薄いピンク色の陶器の器の上に、黄色い丸みを帯びたバラを主役に、コロコロとした同系色の花がこんもりと乗ったアレンジである。アイビーと小さな五片の花びらの青い花が引き立て役のようにチラリと顔を見せていた。
「素敵な空間ですね」
咲はつい感嘆の声を漏らしてしまった。
「そう言って頂けると嬉しいわ」と微笑んで、玄関のドアを閉めた小峰夫人は、「お水を汲んできますね」と花器と共に家の奥へと消えていった。
その背中を見送り、「配達って、花も生けるんですね」と花音を見上げた。
ううん、と花音は首を振る。
「普段は花生けまではやらないよ」
「そうなんですか?」
「うん。さっきも言ったけど、張り切りすぎて花束が大きくなっちゃったの。お花を習ってない人がこのボリュームの花束を貰ったら、処理に困るかなって思って」
たしかに、困るかも。咲はこの前の体験教室での花生けを思い出して、苦笑した。
「ちなみに花生けまで行うのは、『生け込み』っていうんだ」
「生け込み?」
「うん。場所の雰囲気に合わせて、その場で花を生けるの。ホテルやお店からの依頼が多いかな」
「そんなこともやってるんですね」
感心する咲に、まぁね、と花音は頷いた。
「教室だけじゃ、食べていけないから」
切ない事情を聞いてしまう。咲は曖昧な笑みを浮かべた。
「ちなみに花束ってラッピングを外したら、そのまま花器に入れるだけでいいように組んであるんだ」
「え、そうなんですか?」
「うん。だから、わざわざ生ける必要はないの。でも、小峰さん、戸惑っていたみたいだから」と家の奥に目を向ける。
ちょうど小峰夫人が花瓶を抱え、戻ってくるのが見えた。
「お待たせしました」
小峰夫人は水の入った花器を花音の前に置いた。
ありがとうございます、と花音は笑顔で礼を述べる。それからグルリと室内を見渡した。
「そちらの姿見の横に生けさせて頂いてもよろしいですか?」
靴箱の横に大きな姿見があり、その右隣りを花音は手のひらで指し示す。
はい、と小峰夫人は花器を姿見の横へと移動させた。
「では、少しお邪魔させて頂きますね」
「お願いします」
花音は靴を脱ぎ、上り框へと上がった。
花音は姿見の前で手際よく花束のラッピングを外した。次いで、花束を結えていたリボンを手で巻き取り、何かの形を作る。そして、腰にぶら下げたシザーバッグから細い針金を取り出し、それを結えた。
「これ、『フレンチボウ』っていうんです」
二人を振り返り、花音がそれを掲げる。プレゼントによくついている花の形をしたリボンに似ていた。
あれって、手作りできるんだ。
「旦那さんはよくお花を贈られる方なのですか?」
後片付けついでに花音は世間話を始める。
「以前は全然だったんですよ」
小峰夫人は顔の前で手を振り、ケラケラと笑った。
「――でも、アメリカに赴任してからは記念日にお花を贈ってくるようになりました」
「あちらでは記念日にお花を贈る習慣がありますからね」
「そうみたいですね。先月の誕生日には、お花とペンダントを贈ってくれました」
そう言って首元のペンダントを触る。丸い三つのダイヤモンドが縦に連なったデザインのものだ。
「そちらが誕生日プレゼントのペンダントですか?」
「ええ」
「とても素敵なデザインですね」
花音はニコリと笑った。
「でも、いつもは別のペンダントをお着けになられているのでは?」
「え?」
花音の問いに、小峰夫人の目が大きく見開いた。
「……どうして?」
驚きで声がかすかに掠れる。
「いえ、ペンダントに触れる動作が、少しぎこちなかったので」
「ぎこちない?」
ええ、と花音は人差し指を唇に当てた。
「いつも着けているペンダントは、そちらとチェーンの長さが違うのだと思います。だから、ペンダントトップを触ろうとしたとき、一度で触れることができなかった」
「それで……」と小峰夫人は目を大きく見開いた。
「お花屋さんのおっしゃるとおりです――いつもは結婚前に主人が贈ってくれたペンダントを着けているんですけど……」
小峰夫人の顔が僅かに曇る。
「そのペンダントトップをなくしてしまって」と眉根を寄せた。




