31.未知の術式
紅茶の表面が、ふいに淡く光った。
琥珀色の液面に小さな光が浮かび上がり、星屑のような粒がゆっくりと立ちのぼっていく。
湯気とは違う、魔力の光だった。
「今回伝える内容は、魔王を封印する方法だ」
京が口を開いた。
だが、その声は京のものなのに、どこか違っていた。抑揚がなく、淡々としている。
まるで感情のない記録装置が言葉を再生しているようだった。
「……始まったな」
ダンザが低く呟く。
ジェレンはゆっくりと周囲を見渡した。
ついさっきまで騒いでいたカラーズが、全員黙った。
誰一人驚いた様子もなく、真剣な表情で京の言葉を待っている。
不思議そうにしているのは、ジェレンだけだった。
(これが……未来の魔導士からの伝言?)
京は構わず続けた。
「ジェレンが魔王を封じた方法は、研究員時代にジェレン自身が作った試験薬を用いるやり方だった」
その一言で、ジェレンの肩がわずかに跳ねた。
京はテーブルの一点を見つめたまま、感情のない声で続ける。
「試験薬の名前は、VX-3187。ジェレン、覚えているだろう。一時的に魔力を爆発的に高める代わりに、肉体と魔力回路を破壊する。失敗作ゆえに研究が中断された薬だ」
VX-3187。
全ての薬品名と内容が、一瞬で結びつく訳ではない。
だが、爆発的に魔力を高める薬といえば、一つしかない。
被験体の悲惨な末路が脳を掠めた。
“回路崩壊” ”魔力損失” ”臓器損傷”——
その欠点を解決するために、何人もの被験体を犠牲にした。
しかし、一つを改善すれば別の不具合が生まれる。結果、研究は中断になった。
「あれを、使う……?僕が?」
ジェレンの声は呆然と揺れた。
いつもの冷ややかな皮肉はない。
ただ、過去を突然抉られた人間の声だった。
息が止まるような静けさが落ちた。
「ジェレンは、采牙から魔王復活の知らせを受けて研究室にその薬を取りに行き、魔王城に向かった。その試験薬に頼る他に、生き延びる術がないと判断したからだ」
京の声は機械のように続く。
「封印をするなら、カラーズが魔王の魔力を削った直後がもっとも成功率が高い」
一拍の間が開く。
「逃げてもいずれ魔王に滅ぼされると考えた。それなら魔王の回復を待つより、今封印した方がいいと判断したんだろう」
確信に満ちた言葉を、ジェレンは呆然と聞いていた。
実験棟の闇。
研究員しか知らないはずの、失敗作の薬。
それは、決して外に漏れているはずがない情報だった。
「ジェレンは魔王封印には成功する。だが、その代償に魔力を永遠に失う。かろうじて繋いだ命すら、狂った魔導士に奪われて死んだ。魔力を失ったジェレンに身を守るすべはなかった」
さっきまで余裕を浮かべていた彼の表情が、完全に凍り付いている。
京の声は止まらない。
「ジェレンの命を削らずに魔王を封印する方法を伝える」
淡々と、次の言葉が落ちる。
「一つ。結界の魔法自体を強化する。そのための新たな術式を考案した。お前の《鎖》と《結界》を掛け合わせる方法だ」
部屋の空気がわずかに軋んだ。
「未来に《鎖》と《結界》を同時に持つ魔導士がいないため仮説でしかない。だがこちらの魔導士で十分な議論は重ねた。試す価値はある。術式はこうだ」
京の言葉を聞きながら、采牙が静かに手を前に出した。
淡い緑の光が指先から広がる。
その光に呼応するように、空中に一枚の魔法紙が生まれた。
カラーズはこの光景を何度も見ている。
采牙の《伝令》の魔法。彼は思い浮かべた言葉を、そのまま紙に書き込むことができる。
采牙は京の言葉を一言一句、そのまま書き写していく。
要約もしない。図にも直さない。
ただ、言われた言葉をそのまま残す。
紙の上に、文字が静かに増えていく。
茜には、内容がまったく理解できない。
だがジェレンは違った。
顎に手を当て、鋭い目で紙面を追う。
もう片方の手で空中に文字を書く。
断片的な術式を並べ、理論を組み立てていく。
研究者の思考だった。
そして、途中で指が止まった。
目が見開かれる。
呼吸がわずかに乱れる。
最後まで聞き終えたとき、ジェレンはゆっくり呟いた。
「……こんな方法、聞いたことがない」
沈黙。
「だけど……理論上は——成立する」
その声は、はっきりと揺れていた。
研究が漏れた可能性。
魔族にされた研究員が、魔王軍で人に戻ってから証言した可能性。
さっきまでのジェレンは、まだそういう可能性を考えていた。
だが、今は違う。
術式そのものが未知で、しかも理論上成立している。
室内の空気が変わった。
何か決定的な一線を越えた感覚があった。
ジェレンは黙り込む。目を伏せ、喉が上下する。
声が出ない。否定できない。
その沈黙の意味に、全員が気づいていた。
すぐに言葉を返すだろうジェレンが、完全に言葉を失っている。
未知の術式が怖いわけではない。
——あの薬を使うしかない未来。
それが、現実として目の前に現れたからだ。
あの薬を使った被験体の末路をジェレンは知っている。
それでも、未来の自分は手を伸ばした。
否定したいのに、京の言葉が逃げ道を塞ぐ。
「……ありえない」
かすれた声で、ジェレンが呟いた。
その声は、小さく震えていた。




