28.地獄
ダンザが去ったあと、采牙の部屋を訪れたのは千弦だった。
采牙から
〈寮に戻ったら、僕の部屋に連れて来てください〉
と伝令を受け取っていたからだ。
軽くノックして入ると、采牙は机の上に資料を広げたまま座っていた。
薄い灯火が、彼の表情をやわらかく照らす。
「ジェレンは?」
「返事がありません。彼は伝承を聞いていませんし、切羽詰まった状況でもない限り動かないでしょう」
「どーすんだよ、こいつ」
「僕の部屋で預かります。もし寮に近づく人がいたら、伝令を送ってください」
采牙の声は淡々としているのに、その態度がかえって計算高さを感じさせる。
千弦は彼の性格をよく知っていた。
「ジェレンさんの部屋が一番安全なんですが……。お茶会は一応ローブを着せて、魔導士として連れていきます」
幹部たちは、京についてまったく関心を示していない。
あれほど警戒心の強い連中が、少年の存在を取るに足らないものとして扱った。
“時を超える魔法など存在しない”——それが彼らの前提だ。
探られる可能性は恐らく低い。
「分かった」
そこで話は終わったはずなのに、千弦は立ち去らず、しばらく押し黙っていた。
采牙が眉を上げる。
「まだ何か?」
「……なんか食うもの出してやれ。多分朝からこいつ、なんも食ってねぇんだよ。さっき氷だけやったけど」
采牙は一瞬、本気で驚いた。
千弦の口から“気遣い”に属する言葉が出ることが珍しかった。
珍しいどころか、初めて聞いた。
空中の一点を睨むように見つめ、千弦はため息をついた。
そこに京がいると知っているのは、千弦だけだ。
「いーんだよ。采牙は無限に食いもん出せるから」
京が千弦に何か必死に訴えているのだろう。
言葉ではなく、千弦の胸にだけ響く声で。
采牙の目が、すこしだけ揺れた。
「……意外ですね。『一日二日食べなくても死にゃしない。ほっとけ』とあなたなら言いそうなのに」
「お前さ、飢え死にしかけたことある?」
相変わらずの軽さで言うのに、そこに潜む温度はまったく軽くなかった。
「……いえ」
千弦は氷のように冷たく笑った。
「俺もギャーギャー騒ぐ奴ならそうしてたよ。でも京は……無意識に『お腹すいた』って思った後で、俺が聞いてることに気づいて……」
そして笑みが消える。
「『全然平気だよ。一日二日食べなくても慣れてるから大丈夫』……っつったんだよ」
采牙は言葉を失った。
京の明るさが、演技ではないことが伝わる。
「こいつは、食糧を分けてもらうことに、罪悪感を持ってる。ずっと食いもん探してたってのは、多分本当だ。……本当の飢えを知ってる」
「……あなたも?」
「餓死したことならある。あの頃は魔力が少なくて、怪我と飢えを同時に再生出来なかったからな」
あっさりした声なのに、その裏にある過去は重く、暗い。
采牙は黙って立ち上がり、簡単に食べられる野菜や果物を机に並べた。
色鮮やかな果実の匂いが、ほのかに部屋に満ちる。
「……こういうものは、食べられますか?おかゆやうどんの方がいいですか?」
「大丈夫だそうだ。こんだけ元気に動ける奴なら食えるだろ」
「では、お好きなだけどうぞ」
テーブルから次々と果物が消えていく。
その一つがぽいっと千弦の方へ飛んできた。
「いらねぇよ。自分で調達できる」
投げ返しながら、千弦はほんの一瞬だけ頬を緩めた。
最も人間らしい心を持たないカラーズだと、采牙は千弦を評価していた。
なのにその表情と口調には優しさが滲んでおり、采牙は思わず目をそらす。
千弦は立ち上がり、ドアに手をかけた。
振り向かないまま言う。
「『采牙にいちゃん、おいしい。ありがとう』……だ、そうだ」
「……どういたしまして」
扉が静かに閉まる。
その余韻の中で、采牙は深く息を吐いた。
零時を過ぎた瞬間、京を包んでいた結界が溶けるように音もなく消えた。
そこには、下着姿に大きな上着を羽織って立つ京がいた。
さっきまでいた千弦が、上着を着ていなかったことを思い出す。
京は死体の偽装のために服を脱いでいた。
結界を纏った後に脱いだため、姿が見えなかったから皆そのことを忘れていた。
千弦が気づいて貸してやったらしい。
そして、采牙は気づいてしまう。
上着から覗く幼い体は、無数の傷跡が散らばり、あまりにも痩せ細っていた。
その傷は最近できたものではなかった。
半年以上前についたと思われる古傷が、身体中至るところにある。
空から落ちてきたとき、ぶかぶかの服に隠れていた真実。
京は、部屋の外に声が漏れないよう、采牙にそっと顔を寄せる。
「采牙にいちゃん、ごはんありがとう」
小さな声で囁き、にっこりと笑う。
痛ましいほど、普通の子どもの笑顔。
泣き叫ばれるよりも、助けを乞われるよりも。
その笑顔は采牙にひとつの事実を突きつけてきた。
京が生きてきた未来は、地獄だ。
そしてその地獄をもたらすのは——
(……魔王様)
あたたかな笑顔が脳裏をよぎる。
采牙は思わず拳を握りしめた。




