26.忘れろ
空気が一瞬で張りつめ、緊張の糸が“戦場”のそれへと変わった。
「ひどい…! 何も殺すことなかったじゃない!!」
茜が真っ先にダンザへ詰め寄る。
その声は震えていたが、芝居としては完璧だった。
ダンザは冷徹そのものの表情で茜を一瞥し、吐き捨てるように言う。
「危険思想の妄言だった。生かす価値はない」
リーインが小さく鼻で笑う。
「朱嶺の友達っていうから何事かと思えば、自称生まれ変わり?笑わせるわね」
一切の情を感じさせない、氷のような声。
澪もまた死体に視線を落とし、眉をひそめた。
「……貴様らの和平交渉に応じる気などさらさらないが……」
悲惨な子どもの″死体″に、言葉を飲み込む。あまりにも酷い、とその顔が語っていた。
「こんな子どもにも容赦なしか。吐き気がするよ、君らが“救世主”を名乗ってることにね」
茨雷の瞳に、静かで深い怒りが灯る。
一瞬、戦場に沈黙が下りる。そして
「邪魔が入ったが、仕切り直しだ」
その沈黙を裂くように、ダンザの怒号が響き渡った。
「貴様らとの和平などありえん。魔王は倒す。平和はその先にしかない!!」
荒々しい手で指を振り下ろす。
「かかれ!!!!」
号令と同時に、地面が爆ぜた。
魔導士部隊が一斉に魔法を展開し、魔族側もそれに応じる。一瞬にして敵と味方が入り乱れた。
千弦は氷刃を何本も生み出して茨雷へ放つ。
茨雷はすべてを紙一重で避けながら、金の光を纏って応じる。
行く筋もの雷撃が空を切り裂き、千弦に向かって降り注ぐ。
迫真の殺意の応酬。
しかし両者どちらも致命のラインは越えない。
澪は土煙の中から跳躍し、ダンザと正面から突撃する。
互いの魔力がぶつかり、地面が大きく抉れた。
だが被害は最小限、衝撃波の方向すら計算され尽くしていた。
リーインは後方から魔族たちに向けて鋭い風刃を放つ。
だが着弾の寸前、風刃は茨雷が横から放つ風とぶつかりあい地面へ逸れる。
そして茜は——
未来の発狂を逆手に取った迫真の演技を見せていた。
「っ嫌……これ以上、誰も……!!」
震え、耳を塞ぎ、決して誰も殺さない。
「茜!!戦え!!」
「無理よ!!もうやめて……っ」
ダンザの怒号に、周囲の魔導士たちが『本当に心を壊しかけているのでは』と思うほど、真に迫っている。
誰も気づかない。
どちらの陣営も本気の殺し合いをしていると思っている。
しかし戦場の中心にいる彼らだけは、その全てが嘘であることを知っていた。
魔族側が撤収の合図を上げる。
その瞬間、戦場に張り詰めていた凄まじい緊張が、ぱたりと途絶えた。
張りつめた糸が切れるように、カラーズの体から一気に力が抜けていく。
一人も殺さずに戦う振りをすることは、ただ戦うよりもよほど気力も体力も奪った。
「……おい。お前ら、先に戻ってろ」
千弦がその場にしゃがみ込む。
頬には汗、肩は激しく上下している。
しかし目は、別の“誰か”を見ていた。
「どうした?」
リーインが問いかける。
「……寝てんだよ」
「え?」
誰がとは言わずとも、すぐに察しがつく。
「この状況で?」
茜がぽかんと目を瞬かせる。
「さっきまでは起きてた。戦闘が終わって緊張の糸が切れたんだろ」
千弦の声は呆れ七割、諦め三割だった。
リーインがくすりと笑う。
「なかなかの大物ね」
采牙が付け加える。
「伝承の件、ジェレンさんに伝えておきます。零時までには帰ってきてくださいね」
そうしてカラーズは魔導士たちと共に引き上げていった。
一人残された千弦は大きく息を吐き、夜空を仰いだ。
聞こえるのは風の音だけだ。
(ほんとに寝てやがんのか)
千弦は眉を寄せた。
あれほど騒がしかった京の声が、今はぴたりと途絶えている。
だが、消えたわけではない。
ごく微かな部分に気配だけが、かすかに残っていた。
千弦は、さっきまで響いていた京の心の声を思い返す。
最初は『どうしよう』『怖い』だった。
自分の死体を作る話が出た時の、子どもらしい悲鳴。
それが千弦には意外だった。
京は現れてからずっと、明るい子どもだった。
朱嶺が語っていたのは絶望的な未来。
そこから来たはずなのに、悲壮感などまるでなかった。
戦場に突然落とされて、魔族とカラーズに囲まれても笑っている。
心の声すら軽やかで、取り繕っている気配は一度もない。
恐怖の感覚が麻痺した子どもなのだと。
千弦はそう思っていた。
だが現実は違った。
京は“怖がる”。
ごく普通の、子どもらしい反応で。
「……お前……」
千弦は小さくつぶやく。
京の心の声は途中から変質した。
自分の“死体”を見た瞬間。
戦争が目の前で展開した瞬間。
(忘れろ)
(大丈夫、怖くない)
(平気、平気だ)
(忘れろ、忘れろ——)
必死に自分を守ろうとする声。
恐怖を“無かったこと”にしようとする声。
千弦は思わず目を伏せた。
「……どんな地獄を見てきたんだよ」
返事はない。
気配だけは、確かにそこにある。
眠りに落ちた京は、もう何も言わない。
京は明るく振る舞っているのではない。
恐怖と絶望を無かったことにすることで生きてきた。
経験したから分かる。
生きるために“忘れる”という選択をしてきた子どもが、どれほど追い詰められた世界で育ったのか。
京の歩いてきた道には、本当に救いがひとつもなかったのだろう。
夜空は、まるでそんな現実を知らないかのように静かだった。
ただ美しく、残酷なほどに澄んでいた。




