20.光
砦の近くに魔族が現れたと報告が入った。
魔族の幹部が“魔物”と呼ぶものではない。
揃いの軍服を身に纏い、自ら魔王の配下を名乗る者たちだった。
戦場に立つ魔導士たちの間に緊張が走る。
空気が、ひりつくように冷える。
茨雷と澪が先陣を切って現れ、その背後に魔王軍が整然と並んだ。
灰色の空の下、魔族と魔導士、ふたつの軍勢が静かに向かい合う。
茜もその列の中にいた。
あの訓練の日。
何度も死の恐怖を叩き込まれ、“殺すこと”を選ばされた日。
あの瞬間から、茜の中の何かは止まったままだ。
澪はその変化に気づいていた。
かつての茜にあった、揺らぎながらも消えなかった光が、どこにも見えない。
「……ボロボロじゃないか」
責めるのではなく、ただ痛ましそうに。
茜は自分の体を見下ろす。
千弦との訓練での怪我は、リーインが全て癒している。
今ある傷はダンザとの訓練によるものだ。
怒号だけが響く訓練場で、敵を殺せと責め立てられながら、技を磨いた時のもの。
「ボロボロ?」
自分では分からない。
怪我は大したことはない。“普通”に身につく程度のものだ。
「……普通でしょ?」
だが澪は、静かに首を振る。
「オルディアでは……仲間に、ここまでするのか?お前はカラーズだろう?」
その問いに、わずかな怒りが滲む。
「このくらい当然のことでしょ?敵を殺せない勇者は、許されないから」
茜の声は乾いていた。
突き刺すような視線と、訓練でできた傷やあざ。
それは、まともな戦えない自分への当然の罰だと、受け入れられるようになっていた。
「……茜」
澪が一歩、歩み寄る。
その足音だけがやけに鮮明に響いた。
「魔王軍に来い」
命令ではない。
手を差し伸べるような響きだった。
「私たちは、仲間を傷つけることはしない」
茜は笑って首を振る。
「戦う相手が、魔導士になるだけでしょう? どうせ私には殺せないわ」
「戦わなくていい」
澪の返答は即座で、迷いがない。
「魔王様は、何も強要はしない。人に戻した魔物たちの中には非戦闘員を選ぶ者も多い。軍を抜けるのも、自由だ。魔王様が私に戦えと命じたことは一度もない。……ここに立つと決めていいのは、己の意思だけだ」
「魔王が……?」
思わず聞き返す。
それは、あまりにも想像とかけ離れていた。
化け物。怪物。世界を滅ぼす存在。
そう教えられてきたはずなのに。
「魔王様は、お優しい方なんだ」
澪の声は静かだった。
崇拝ではなく、ただ事実を述べるように。
「今は人間の姿をしている。人として生きていくことを願ってる。世界を滅ぼす気なんてない」
茜の眼が、かすかに揺れる。
「……優しい?」
理解が追いつかないことへの戸惑いだ。
「そう」
頷いたのは茨雷だ。
「一緒に食べるし、一緒に働くし、よく笑う」
その口元に、柔らかさが浮かぶ。
「……本当に、優しい方だよ」
信じられない言葉だった。
だが、二人の金の瞳は、揺らいでいない。
打算も焦りもない。
嘘をついている目ではなかった。
「裏切ったカラーズを、魔王は信用するというの?」
嘲笑うように茜が呟く。
「する。私が、信じたものなら」
澪の迷いのない即答。
「私はお前を信じる。来い、茜」
これが、敵の“甘言”。
茜は嫌と言うほどダンザから聞かされた。
彼らは心の隙間に容易く入り込み、惑わせ、手下に取り込むのだと。
分かっている。それでも——。
「誰も殺さなくていい」
澪が、迷いなく言う。
茜の胸が強く締め付けられた。
一番、聞きたかった言葉だった。
「——世界は、どう思うだろうな」
黙って見ていたダンザが口を開いた。
「世界を救う救世主である王女が、人々を裏切り、魔王についたなどと知ったら……」
その声は驚くほど冷たい。
「トウラ王国は厳しい立場に立たされるだろう」
それにリーインが続いた。
「仮に、トウラを魔族が襲撃したとして……組織を裏切った国を組織が守ってくれるといいわね」
茜が息を飲む。
故郷の風景が脳裏に浮かぶ。
唇を噛み、剣を抜いた。
「……私ね。ずっと考えていて、気づいたことがあるの」
ぽつりと呟く。
「心から魔族と仲良くできると思っていた訳じゃなかった。私はただ……戦いから目を背けたかっただけだって」
組織のやり方をひどいと思ったのは事実だ。
だけど本当は、自分が戦いたくなかっただけ。
自分の手を汚すのが嫌だっただけだ。
だから、戦わなくていい理由を探していた。
「殺したくない理由も、ただ……自分が傷つきたくなかったから。戦場で殺さないことが、どういう意味なのか……“死なない地獄“で思い知ったわ。やっと分かったの」
言葉を区切り、澪を見つめる。
「魔族と手を組むよりも、魔王を倒す方が、安心してみんなが暮らせる……って」
そう答える茜の瞳は、迷いに満ちている。
声は震えていた。
「誰も殺したくない。……でも、あなたたちと行くことはできない」
「そっか。それが君の答えなんだね」
茨雷の目に、哀れみと寂しさが浮かぶ。
「分かった」
澪もゆっくりと頷く。
「ならばこちらも、全力で相手をする。全軍、かか——」
その時だった。
「その戦い、ちょっと待ったぁ——!!!」
澪も、茜も、そして両軍の誰もが同時に顔を上げた。
空から、何かが降ってきた。
「落ちる落ちるっっっ!誰か助けてええええ——!!!」
叫び声とともに、空を舞う人影。
茨雷がカラーズに視線を向けるが、誰も状況を理解していない。
敵ではなさそうだと判断し、彼は手をかざした。
金色の風が渦を巻き、落下する影をやわらかく受け止める。
ふわり、と地面に着地したのは、まだ幼い少年だった。
年齢は、十歳くらい。
乱れた髪で満面の笑みを浮かべたまま、少年は勢いよく茨雷の手を掴んで振った。
「ありがとっ!!めちゃくちゃ助かったっ!!!」
「……君は誰だ?」
茨雷の問いに、少年はぱっと振り向く。
魔族も魔導士も関係なく、その場にいる全員を見渡して満面の笑みを浮かべた。
「はいっ!おれの名前は京!予言者・朱嶺の友達で、伝言を預かってきました!」
「……朱嶺?」
ざわめきが広がる。
その名を知らぬ者はいない。
だが、彼が存在した時代ははるか昔だった。
魔王の襲撃、魔導士の出現、飛躍と救世主の誕生を予言した——古代に生きた予言者、朱嶺。
「まさかカラーズの誕生を予言した予言者のことじゃないだろうな?」
とダンザが低く問う。
「うんっ!そうそう」
京がパッと嬉しそうな顔で頷く。
「わぁ、本物のカラーズだ!!すごい綺麗な色だね!」
そしてダンザを見上げて、目を輝かせた。
「よかったぁ、ちゃんと来れたんだ。おれ、朱嶺にいちゃんのいた時代から、ここまで飛んできたんだよ!あ、朱嶺にいちゃんは、予言者の朱嶺のことね」
「飛んできた?」
千弦が眉をひそめる。
「うん、なんかこう……びゅんって」
手で放物線を描く京。まったく説明になっていない。
「……意味がわからないが、彼の言っている内容が事実だ」
澪が息を吐く。
「は?どういう理屈だ。古代から来たってのか?」
千弦も眉をひそめる。
「時空を超える魔法なんて、聞いたことないよ。自称・朱嶺の生まれ変わりがいるんじゃない?」
茨雷が首を傾げた。
《同調》能力を持つ三人が、互いに視線を交わす。
嘘ではない。
理屈はわからないが、少年の言葉はすべて“事実”だ。
「にいちゃんから、『予言書の続きを伝えてくれ』って頼まれたんだ。あの予言書って、この時代にはまだ半分しか見つかってないでしょ?から、予言書の内容をちゃんと伝えてほしいって」
それは事実だった。
遺跡から発見された朱嶺の予言書は完全な形ではなく、その後半がまだ見つかっていない。
「あと、伝言も伝えて欲しいって言われたんだ」
魔王軍と魔導士軍。
その両方に囲まれているというのに、京の表情も口調も、無邪気そのものである。
「……で、その予言書の続きというのは?」
采牙が続きを促す。
「うん、じゃあ先に朱嶺にいちゃんの伝言から伝えるね」
京は胸を張り、ふんぞり返るように立つ。
そして、どこか芝居がかった口調で声を張り上げた。
「“お前ら、いい加減に仲良くしろ!“」
あまりにも唐突な言葉に、誰も反応できない。
風の音だけが、戦場を抜けていく。
そんな彼らを見渡して、京がにこっと笑った。
「だ、そうです!」
戦いの予感で張り詰めていた空気がほどけた。
怒ることも、疑うことも、呆れることも、
その一瞬、誰もが忘れていた。
あの少年の無邪気さが、あまりにも真っすぐで、あまりにも現実離れしていて——
だからこそ、本当に“希望”のように思えたのだ。
澪が静かに息を吐く。
「……まったく意味が分からん」
少年が落ちてきた空を仰ぐ。
雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。




