18.死なない地獄
午後の訓練場。
陽光を遮るほどの魔力が、張り詰めた空気の中に渦巻いていた。
茜はまだ戦場で一人も殺していない。
そのせいで味方の犠牲ばかりが増えていく。
ダンザの訓練は容赦なく茜を追い詰めていた。
幾度となく地面に叩きつけられ、怒号が浴びせられる。周りの魔導士はもう茜に見向きもしない。
その時だった。
「よう」
軽く片手を上げて、千弦が現れた。
その何気ない声に、訓練場の空気が一瞬で変わる。
茜は反射的に背筋を伸ばし、ダンザが険しい目で睨みつけた。
「お前の訓練は生ぬるいんだよ。代われ」
ダンザが返す前に、千弦が勝手に言い放つ。
「戦場で役立つ駒を作りたいなら、生きるか死ぬかの特訓じゃなきゃ意味ねぇよ」
その声には、淡々とした殺気が滲んでいた。
「殺しはしねーよ。てめーらがうるさいからな。命だけは保証してやる。——おい、お前。紋章の位置はどこだ?」
茜は言葉に詰まった。
魔導士にとって生命線でもある。
紋章は魔法攻撃を受けて面積の半分以上を損傷すると、消失する。
その位置を決して人に知られてはならないと、魔導士は教わっている。
「壊すためじゃなくて、守るためだよ。そこだけは攻撃しないでやる。素直に言わなきゃ、勝手に確かめるけど?」
軽く笑いながら千弦が問い詰める。
「……紋章の、場所は……」
「もういい、分かった」
声に出す必要はない。頭に浮かべた言葉なら《同調》の能力で聞こえるからだ。
だが、茜はそんなことを知らない。
千弦もわざわざ説明はしない。
戸惑う茜にお構いなしに、
「じゃ、始めるか」
あっさり言うと、音もなく千弦が動いた。
風が裂ける音がして、茜の身体が吹き飛ぶ。
無数の刃が茜の皮膚を切り裂いた。
倒れた瞬間に白い光が茜を包み、瞬く間に傷が癒えていく。
いつの間にか背後にリーインが立っていた。
「リーイン……?」
「早く立たないと、次が来るわよ」
「え?」
そこからは、一方的だった。
茜の攻撃は全て読まれ、かわされ、逆に千弦の魔法が確実に肉を裂く。
痛みと恐怖、回復と再びの痛み。
それが何度も繰り返された。
「あれのどこが訓練だ。吐き気がするな」
ダンザが顔をしかめる。
千弦の魔法が発動するたびに、茜の体を刃が貫く。
悲鳴を上げて倒れるたびに、リーインが回復魔法を施す。
痛みは消え、肉体は元通り。
だが恐怖は確実に茜に刻まれていく。
「立てよ。体は無傷なんだろ」
その足元から、氷が走った。
声にならない悲鳴を上げながら、茜の体が瞬く間に首まで凍りついた。
「……嫌、やめて……!」
「死ぬ前には、出してやるって」
頭の先まで氷が包み込む。
指先の動きひとつで、氷が砕け散った。
茜が咳き込み、床に膝をついた。
「反撃してこいよ。面白くねぇな」
千弦が隣にしゃがみ込み、笑う。
「今で何回死んだ? 五回?十回?……次はどう死にたい?」
「もうやめて……」
「これ、全部お前がいつも戦場でやってることだけどな」
その声は、冷たく、静かだった。
「回復されずに死ぬのを待つって地獄だろ?下手に生かしても、回復されてまた戦場に送られるだけだ」
ただ、淡々と事実を告げる声。
「なんでお前、敵を殺してやらねぇの?何度も切り刻まれて苦しむより、ひと思いに殺す方が親切だろ」
青色の目が探るように細められる。
「お前の『殺したくない理由』って、何?」
茜は震える声で答えた。
「……死んだら終わりだから。この先の楽しいことも嬉しいことも、全部なくなっちゃう。どうしても考えちゃうの。他に戦わずに済む方法はないのかって……」
千弦は鼻で笑った。
「あなたはどうして戦うの?使命感や魔族への憎しみではないでしょ?」
「あぁ、違ぇよ。——うるさいから」
「うるさい?」
「あぁ。『助けて』だの『怖い』だの、全部うるせぇんだよな。その声が消える瞬間が、好きなんだよ」
あまりにも軽い声で。
あまりにも、本音だった。
茜が息を飲む。
「……あなた、それでも人間なの?」
声が震えた。
「さぁ?色々呼ばれてきたな。救世主なのか、化け物なのか、もう分かんねぇよ。《再生》がなければ、とっくに魔族にされてただろうしな」
軽い口調だった。
「立てよ、茜。次はてめぇが殺す番だ」
「え?」
「俺は《再生》能力者だっつったろ。再生の紋章さえ壊さなきゃ、何しても生き返る。俺を殺してみろよ」
「……そんなことをして、あなたに何の得があるの?」
「別に?“殺したくない、死にたくない、戦いたくない”
お前の声が一番戦場でうるさいんだよ。——その声を消したら、面白いだろうなって」
おもちゃを見つけた子供のような顔で、千弦が笑う。
「まぁ、ためらう気持ちはわかる。誰だって最初はそうだ。慣れだよ、こんなん」
彼は茜の剣を拾うと、地面に突き刺した。
「一度でも俺を殺せたら、訓練は終わりにしてやる。嫌なら、さっきの訓練を続けるか?」
茜は震えながらも立ち上がり、剣を握った。
このままにすれば、また死ぬ目に遭わされる。
死にたくない。
その恐怖が、体を動かした。
「あなたの紋章の……場所は?」
「言わねぇよ」
即答だった。
攻撃を受けない自信があるのかと思った。
その心を読んだのだろう。
「《同調》と《氷》は、紋章が壊れても《再生》で直る。……《再生》の場所だけは、死んでも人に教えたくねぇだけだ」
茜を侮っているわけではない。
《再生》の紋章を破壊されれば、生き返らない。だから他人に明かす気がないだけだ。
「一度でも倒したら……本当に終わりにしてくれる?」
「あぁ」
(この人は、生き返る。だから——)
茜の剣が、千弦を貫いた。
血の匂い。重い音。
一瞬、千弦の顔が苦痛に歪む。
「……どこ狙ってんだよ、下手くそが」
血の滴る刃を引き抜きながら、千弦が笑った。
「心臓はもっと上だ。やり直せ」
血が止まり、瞬く間に傷が癒えていく。
「嫌……」
「じゃあまた、戦場で魔導士を犠牲にすんのか?てめぇが迷えば、そうなるぜ」
剣を放り投げる。
「庇ったのがリーインじゃなかったら、お前のせいで誰かが死んでた」
「……っ」
血溜まりに倒れるリーインの姿が浮かぶ。
茜が叫びとともに剣を振り抜いた。
刃が肉を裂き、血が再び地面を染める。
温かい血が手に伝わり、指が震えた。
「……だから、そこじゃねぇっつってんだろ。目を閉じるな。やり直せ」
何度剣を振るっても同じだった。
こんな訓練を一刻も早く終わらせないのに、切り裂いた傷は瞬く間に癒えていく。
「もう一回」
同じ言葉を千弦が淡々と言った。
一瞬の静寂。
茜の手が震える。視界が滲んだ。
「ただ斬るだけで殺さないってのはな。……相手にとっては、命で遊ばれてんのと一緒なんだよ」
千弦の声に静かな怒りが滲んでいた。
「もう一回だ。斬るならちゃんと殺せ」
その声は、氷の上を引きずった靴音のように冷たかった。
「もう、やめて」
震える喉から、ようやく言葉が漏れる。
千弦は、頷くでも怒るでもなく、ただ薄く笑った。
「お前が俺を殺すまで、同じことをやらせるぞ。俺を何度刺すつもりだ?一回で終わらせてくれよ」
自分が刺される側でありながら、飽きたような口ぶりだった。
ほんの遊戯の延長のように、氷の刃が千弦の指先に生まれる。
「やらねぇなら、俺の番な」
次の瞬間、氷が青白い光を引きながら飛ぶ。
茜の肩を貫き、鋭い痛みが身体を裂いた。
息が止まり、悲鳴が遅れて喉を突き破る。
その刹那。
空中に、巨大な氷刃が出現した。
千弦の攻撃とは比にならない大きさと魔力密度。
それは茜ではなく、千弦へ向けて一直線に落下する。
千弦は口元に笑みが浮かべたまま動かない。
轟音。
千弦の身体を貫き、そのまま地面へ叩きつけた。
おびただしい量の血が飛び散り、茜の視界を赤く染める。
仰向けに倒れ、宙を見つめる青の瞳から、光が消えた。




