17.復讐
騒然とする魔導士軍の中で、ただ風の音だけが耳に残っていた。
魔族にとっては絶好の機会だった。陣は乱れていたし、追撃すれば大打撃を受けたに違いない。
それなのに、澪は短く「撤退」と告げ、魔族たちは影のようにかき消えた。
まるで、もともと存在しなかったかのように。
「采牙、伝令を飛ばせ。回復魔導士を総動員しろ、リーインを死なせるな!」
ダンザの声が救護室に響く。
腕の中のリーインは苦しげな呼吸をしている。
「すでに手配済みです」
采牙の声に焦りが滲んだ。
カラーズである彼女なら一瞬で治せる傷。
だが、並の回復魔導士には癒せるか分からないほどの深手だ。
《回復》は万能ではない。
体は死に向かって進み続ける。それに回復が間に合わなければ、救うことはできない。
回復速度は魔力の量に比例する。
リーインには複数の回復魔導士がつき、魔力が枯れれば次の者が入れ替わった。
昼夜を問わず回復魔法が施され、どうにか一命は取り止めた。
だが傷はかなり深く、内臓の損傷も大きい。
付きっきりで回復を施しても、治療を終えるまでに数日はかかるだろうと告げられた。
「茜さん、手が空いているならこちらにお願いします」
救護室の中央で、采牙が《植物》を操り薬草を生み出していた。
その手つきは静かで早く、どこにも迷いがない。
「回復魔導士がリーインさんにかかりきりです。救護が手不足なんです」
采牙は《植物》で薬草を生み出すと、慣れた手つきで次々と薬を調合していく。
麻酔、止血、毒抜き。
淡々とした作業の奥に、焦りの影だけが沈んでいるのが分かった。
茜は包帯を取り、負傷兵の腕に巻きつける。
それは剣士として慣れた動きのはずだった。
けれど戦争の傷は、剣術試合で見慣れたものとは違いすぎた。
泣き声と呻き声が響く。
直せるはずの傷が、ただ布で覆われていく。
茜の指に、誰かの視線が刺さる。
背後から刺すような怨嗟を感じる。
あのとき茜がとどめを刺していれば、リーインは倒れずにすんだ。回復魔導士は今ごろ彼らを癒していた。
その現実だけが、じりじりと胸を焼いた。
「……リーインさんの方は大丈夫です」
采牙の声は、落ち着いていた。
「もう命の危険はありません。後悔しても、状況は変わらないんです」
少しだけ茜の方に視線を向ける。
「だから今は、できることだけをしましょう。リーインさんより彼らの方が危険です」
茜は采牙の焦りは、魔導士へと向けられているものだと気づく。
回復魔導士のついているリーインは、数日で治ると言われている。
危険なのは、本人の回復力に頼るしかない魔導士の方だった。
茜は黙って頷き、包帯の端を結んだ。
数日後。
リーインが目を覚ましたと聞き、茜は病室を訪れた。
薄暗い部屋の中、リーインは上体を起こしていた。
常に付き添っていた回復魔導士たちの姿はもうない。
「もう平気よ」
リーインは穏やかに笑う。
「完全には治っていないけれど……私だけが治療を独占する訳にはいかないものね」
「……ごめんなさい」
茜の声が震えた。
「私がちゃんと倒していれば……あれほどの怪我を……」
「気にすることじゃないわ。私が勝手にしたことよ」
リーインは茜の言葉を遮る。
「でも……私のせいで」
「茜」
リーインが優しく微笑む。
「じゃあ、私に力を貸して。それで今回のことは貸し借りなしにしましょう」
「え……?」
リーインはゆっくりと視線を上げた。
彼女の声は静かで、いつも通りだった。
「家族の仇を取りたいの。それが、私が魔族と戦う理由よ」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
静かで、冷たくて、逃げ場がないほどまっすぐだった。
「……五年前のことよ」
リーインは孤児院で育った。
院長は気丈な女性で、悪事をすれば拳骨が飛ぶ。
けれど温かい手で頭を撫でてくれる、そんな人だった。
孤児たちは皆、彼女を「かあさん」と呼んだ。
リーインにとって、その小さな世界はすべてだった。
「私が用事で出ている間に、村が魔族に襲われたの。戻った時には、もう……孤児院は炎に包まれていた」
茜が息を飲む。
「炎の前に、魔族がいた。火を放ったのは、同じ孤児院で育ち……私が兄のように慕っていた人だったわ」
声は低く、揺れない。
「その時も茨雷が魔族の”回収”に来て、言ったのよ。彼を魔族に変えた組織か、家族を殺した彼か。どちらが憎いかって」
茜は何も言えず、ただ聞いている。
リーインは淡々と続ける。
「……茨雷が言っていたように、彼は組織によって、魔族に変えられただけ。それは事実だったわ。でも、それでも……」
リーインは一瞬だけ、言葉を切った。
「私の家族は、彼の手で死んだ。それだけは、変わらない事実よ」
銀色の瞳が、まっすぐに茜へと向けられた。その目に映るのは憎悪ではなく、無だった。
「あの人を許すということは、みんなを殺したことを許すということ。それだけは……できない」
淡々と話していたリーインの声が、ほんのわずかに揺れた。
「彼は私の手で殺す」
感情のない声で、ただ事実を告げるかのように、言葉を置く。
「……私に力を貸して。彼は魔王城にいるの。茨雷が言うには、魔王の側近をしているそうよ」
リーインは静かに目を伏せた。
「手を貸すと言っても、彼を殺して欲しい訳じゃないわ。魔王城に辿り着いた時、幹部も魔族もカラーズを狙うでしょう?……その時に少しだけ、私に時間をちょうだい。彼の元に行かせて欲しいのよ」
月光が彼女を照らす。まだ顔色は悪く、痛々しい包帯が服の隙間からのぞいていた。
茜は頷くしか出来なかった。
夜が深まった頃、気配ひとつなく病室の扉が開いた。
入ってきたのは千弦だった。
「庇って死ぬような性格かよ」
壁にもたれ、いつもと変わらない調子で笑う。
「いつからそんな殊勝な勇者になった?」
リーインは起き上がらず、そのまま視線だけを向ける。
「敵に回ったら面倒だからよ。自分のせいで誰かが大怪我したら……もう魔族に寝返るなんてできないでしょう?」
「自分は治せねぇくせに。馬鹿じゃねぇの?」
千弦は肩をすくめる。
どんな魔法にも制約がある。
《回復》は他人を癒やせるが、自分を癒やすことはできない。
「……死にかけたのはただのミスよ」
リーインは淡々と告げた。
「ここまで深手を負うつもりはなかった。あの子を魔王側につかせたくなかったから……まぁ、結果的には良かったわ」
千弦は喉の奥で低く笑った。
「カラーズと戦うのも、面白そうだったけどな?」
「珍しく意見が分かれたわね」
短いやり取り。しかし、どちらも声の奥に冷たい影を落としている。
「これで、あの子はもうここで勇者として戦うしかないでしょう?」
「いたところで、戦力になんねぇだろ。大体あいつの“声”、うるせぇんだよな」
千弦は笑っているが、その笑みはどこにも明るさがない。
「“殺したくない”ってさ。殺さないことが、正義だと思ってんのかな。……戦場だぜ?」
乾いた笑い。
場に沈黙が落ちる。
そして千弦は、ふと思いついたように言った。
「なぁ、黙らせていいか?こっちに置いとくつもりなら……どのみち、アレじゃ使えねぇだろ?」
リーインは静かに目を閉じた。
「……何をするつもりか分からないけど、私が治ってからにして。あと、壊さないでね」
千弦は薄く笑った。
「修理はお前の仕事だろ」
その会話は、どこか軽口めいていた。
けれど、ふたりの声の奥底には薄暗い企みが沈殿している。
夜の闇は、彼らの影を静かに飲み込んでいった。




