11.危険思想
あの日から一週間。
戦場の残響は、まだ胸の奥で消えなかった。
目を閉じても、眠気は来ない。
専用棟を抜け出した茜は、訓練場で足を止めて腰を下ろした。
ゆっくりと息を吐き、炎の揺らめくランプを見つめる。
あの時。「殺して」と言った魔族の瞳が、脳裏から離れない。
「……魔族のことを考えるのは、やめた方がいいですよ」
不意に背後から声がして、茜は肩を跳ねさせた。
振り向くと、采牙が壁にもたれかかっていた。
淡い金のランプの光が、緑の瞳を照らしている。
「采牙……」
「眠れないんですか」
「……少しだけ。あなたも?」
「窓からあなたが歩いている姿が見えたので」
采牙は静かに歩み寄り、茜の隣に腰を下ろした。
火の粉が弾け、影が壁を揺らす。
「真実を探しているみたいですね」
采牙の言葉に、茜がはっと顔をあげる。
「図書館で文献を探したり、魔導士にそれとなく実験棟について聞き出そうとしているそうですね。ダンザさんには、訓練に身が入っていないと叱られたと」
責める口調ではなかった。
「……」
「知らない方がいいこともありますよ」
采牙の声は淡々としていたが、その奥に心配そうな響きが隠れていた。
茜は唇を噛みしめた。
「真実を知りたいと思うのは、罪なの?」
短い沈黙。采牙は目を伏せ、壁に映る自分の影を見ているようだった。
炎のような光が窓に残っていて、それが彼の横顔をわずかに赤く染める。
「はい」
静かに、采牙が肯定した。
「……そう答えたら、あなたは止まってくれますか?」
「止まりたくない」
茜は即答する。
「私はただ本当のことを知りたいの。彼らが言ってることが本当なのか……」
声は揺れていた。
まるで心の中の迷いを写しているかのように。
「朱嶺の予言書を読んだわ」
少しだけ間が空いた。
「確かに全てが予言書の通りだった。でも、もしかしたら”進んでいる”んじゃなくて、“進めている“のかもしれないし……」
「……茜さん」
「魔王が本当に人を襲う気がないなら、魔王と仲良くすることだって、」
「茜さん!」
采牙が初めて声を荒げた。
そこに浮かぶのは怒りではなく、焦りだった。
周囲を確認し、誰もいないことを確かめて小さく息を吐いた。
「僕は、あなたの知りたい答えを知りません」
静かに采牙が言う。
「“存在しない”か、“知ってはいけない”か。そのどちらかであることは、確かです」
そこで区切り、少しだけ間を置いて言う。
「……知らないままでいた方がいいですよ。ここは、そんなに優しいところじゃないから」
風が吹き抜け、窓の外で鐘の音が遠くに響いた。
茜は拳を握る。
「真実を知ろうとしたら、どうなるの?」
「知るだけなら、あなたは殺されません。でも、もしあなたが他の魔導士に『魔族と仲良くしたい』と話したら……その魔導士は殺されるかもしれない」
茜は目を見開いた。
采牙の声は穏やかなままだが、その静けさが、むしろ怖かった。
「“危険思想”という言葉があるんです。『魔族と仲良くなりたい』『組織が隠す真実を知りたい』——その思いは、危険思想と見なされます。その会話の相手も粛清対象になり得ます」
「そんな……」
声が震えた。ランプの明かりが、彼女の横顔を照らす。
「それなら私はどうして罪に問われないの?」
「カラーズは組織の手に負えないほど、強いからですよ。カラーズに罰を与えるためには、カラーズをぶつけるしかない。それはリスクが大きすぎる」
だから、カラーズなら見逃される。
「あなたが魔族に寝返らない限りは、組織は容認するでしょう」
だけどカラーズの側にいる魔導士は、その対象にはならない。
「……ただの、憶測です。僕が勝手にそう思っているだけですけど」
采牙の横顔はいつもの落ち着きを保っているが、その目の奥には何かを隠している影がある。
茜はその影を見て、胸の中の“正義”という言葉が小さく、確実に崩れていくのを感じた。
「ねぇ、采牙。殺し合いを避けて、和平の道を探すことは悪なの?……組織は本当に、正義なの?」
采牙は細く息を吐き、炎を見つめたまま答えた。
「和平は、対等な関係で成り立つものです。世界を滅ぼせる相手との間には成り立ちません。魔王の気が変わったら、終わりですから」
そして。
「魔王は、悪です」
静かに采牙は言った。
「前にも言いましたが、魔導士が善であるためには、秩序と大義が必要なんです」
その言葉は、まるで彼自身を説得しているようだった。
茜は何かを言おうとしたが、喉が詰まって声にならなかった。
ランプに照らされる横顔は、とても十七歳の少年のものには見えなかった。
「何も知ろうとせず、何も考えずに、ただ目の前の敵を殺す。それがたぶん僕たちには一番、楽で、平和な生き方なんですよ」
そう言って、采牙は目を伏せた。
「……それでも真実を知りたいのなら、ジェレンさんに聞いてください」
紫の勇者、ジェレン。
采牙が顔も見たことがないというカラーズだ。
「ジェレンさんは、カラーズになる前に実験棟の研究員でした。魔族についても、詳しいはずです。……答えてくれるかは、分かりませんが」
采牙がゆっくり立ち上がる。
「あの人なら、あなたが何を聞いても殺されることはありませんから」
他の誰かを巻き込むな、という警告に聞こえた。
「おやすみなさい」
その声は穏やかで優しい。
いつもの采牙のものだった。
火が小さく弾ける音だけが残る。
「危険思想……」
立てた膝に額をつけ、茜が呟いた。
頭の中で澪の声が蘇る。
『魔王は人間が大好きだ。私たちも、できれば戦いなんてしたくない』
組織の悪を暴きたいわけじゃない。
甘いことを言っている自覚はある。
「誰も死なない未来を、望んではいけないの……?」
それでも、胸が痛かった。




