第9話 朝の椅子
リルは、教会の長椅子の端に座っていた。
朝の光が、戸口から斜めに入っている。床板の古い傷に細い明るさが乗り、椅子の脚の影が長く伸びていた。
座り方は、まだ浅い。
背中を預けない。足も、床の上でそろっていない。膝の上には古い布があり、袖口には昨日の赤い跡が薄く残っている。けれど、椅子の端から落ちそうには見えなかった。
椅子の横には木椀が置かれていた。
水は減っている。
飲んだのか、こぼしたのか、ヘレナが支えたのか。戸口に立つフィンには分からない。
それでも、椀は倒れていなかった。
リルも、廃屋の床ではなく、椅子の上にいた。
ヘレナは、リルから少し離れたところに立っていた。近づきすぎず、放っているわけでもない距離だった。手には畳みかけの布巾がある。
「朝ですよ、リル」
声は大きくない。
でも、教会の中ではよく通った。
リルは動かなかった。椀を見る。布巾を見る。ヘレナの靴先を見る。遅れて、ヘレナの唇の動きへ目を上げる。
フィンは、持っていたパンの包みを握り直した。
ヘレナは急かさなかった。
「朝です」
今度は、少しだけ短く言った。
リルの口が、わずかに開いた。
「あ……」
声はそこでほどけた。
言葉にはならない。返事にもならない。ただ、ヘレナの口の形を追いかけるように、細い音がこぼれただけだった。
フィンは一歩入りかけて、敷居のところで止まった。
自分が呼べば、リルはたぶんこちらを見る。
でも、今リルが追っているのは、ヘレナの口の形だった。
ヘレナは驚いた顔をしなかった。けれど、布巾を畳む手を止めた。
「朝」
ゆっくりと、もう一度。
リルはヘレナの口を見た。
唇が少し丸まり、すぐ崩れる。喉の奥で、小さな音が引っかかった。
「あ……」
また止まりかける。
フィンの足が、床板をきしませた。
リルの目が動きかける。
その前に、ヘレナが同じ言葉を置いた。
「朝」
リルの指が、膝の上の布を握った。
口が、もう一度動く。
「あ……あ、さ」
教会の音が、一瞬だけ遠くなった。
外を通る人影も、奥で木椀を重ねる手も、老人の咳で揺れる肩も、その細い声の後ろへ下がった。
フィンは、パンの包みを持ったまま立っていた。
リルは、自分が何をしたのか分かっていない顔でヘレナを見ている。疲れたように口を閉じ、布の端を押さえ直した。
ヘレナが、短く息を整えた。
「言えましたね」
それだけだった。
手を叩かない。抱きしめもしない。大げさに褒めない。
けれど、その声はさっきよりやわらかかった。
奥で椀を運んでいた小さな子どもが足を止めた。
「いま、しゃべった?」
隣の子が、その子の袖を引く。
「しっ。ヘレナに怒られる」
「怒りません」
ヘレナは振り向かずに言った。
子どもたちは顔を見合わせ、椀を抱えたまま奥へ行った。けれど二人とも、何度もリルの方を見た。
フィンは長椅子の前まで歩いた。
「リル」
呼ぶと、リルは遅れて顔を上げた。
いつもの遅さだった。
それが、今はたまらなくよかった。
「今の」
言いかけて、続きが出なかった。
リルはフィンの口の動きを追っている。
たぶん、今の声が「朝」だったことも、何かができたことも、ちゃんとは分かっていない。
でも、言った。
フィンではなく、ヘレナの口の形へ返した。
そのことが、うれしかった。
それから、少しだけ痛かった。
フィンはパンの包みを開いた。中には欠片が三つある。固い皮が二つと、白いところが少し残った小さい塊。
白い方をリルの前へ置く。
いつもなら、ただ置く。
今日は違った。
フィンはその欠片を、少しだけ大きく割った。自分の分がさらに小さくなる。腹は減っている。けれど、今はそれが惜しくなかった。
「食え」
リルはパンを見る。
まだ手は出ない。
フィンは自分の口を指そうとして、途中でやめた。ヘレナが椀のそばへ寄り、口元へ手を運ぶ仕草をした。
リルの目が、ヘレナへ動く。
それからパンへ落ちる。
フィンは、指を下ろした。
リルの指が出た。
パンに触れる。つまむ。口へ持っていく途中で、いつものように迷う。
フィンは待った。
ヘレナも待った。
リルはパンを口に入れた。
噛むのは遅い。飲み込むのも遅い。けれど、落とさなかった。
フィンは焦げた皮を自分の口へ入れた。
固くて、苦い。
それでも、口の端が少しだけ上がりそうになった。
「すげえな」
小さく言う。
リルは意味を拾わない。ただ、フィンの口が動いたのを見ている。
「朝って言った」
フィンは、自分の口でゆっくり作った。
「あさ」
リルは見ていた。
口を少し開く。
声は出なかった。
それでよかった。
フィンはもう一度言わせようとはしなかった。
ヘレナも急かさない。ただ、木椀をリルの近くへ寄せた。
「今日は、一つで十分です」
その言い方は、リルにではなく、フィンに向いていた。
フィンは焦げた皮を噛みながら、ヘレナを見た。
「また言えば、覚えるのか」
「分かりません」
ヘレナは正直に言った。
「同じように言える日もあれば、言えない日もあると思います」
リルは木椀の縁に指を触れている。飲むかどうか迷っているように、ゆっくりなぞっていた。さっき「あさ」と動いた口は、もう閉じている。
それでも、フィンにはまだ、その細い声が耳に残っていた。
「でも、口を見て、真似ようとしました」
ヘレナは続けた。
「それは、今日できたことです」
フィンは包みの中に残った小さな皮を見た。
これでは足りない。
昼になれば、また食べ物がいる。日が傾けば、ここには置けない。夜になれば、廃屋へ行くしかない。
それでも、明日の朝もここへ来る道だけは、もう頭の中から消せなかった。
「それ」
フィンはヘレナを見た。
「明日も……朝って、言ってやってください」
ヘレナは、少しだけ目元をやわらげた。
「朝に来られたら」
「来る」
フィンはすぐに言った。
言ってから、自分で驚いた。
朝に来る。
それは、盗みに出る前に、リルをここへ座らせるということだった。廃屋に残さず、犬や子どもや檻の馬車が来る戸口に置かず、ここへ連れてくる。
自分の知らない言葉を、またリルが拾うかもしれない場所へ。
フィンは焦げた皮を噛み砕いた。
腹はふくれない。
でも、リルは今日、ここで声を出した。
ヘレナは木椀を持ち上げ、リルに見せた。自分の口元へ運ぶ仕草をしてから、もう一度リルの横へ置く。
リルは椀を見る。
さっきより早く、指が伸びた。
椀の縁を握る。力は弱い。傾きそうになったところで、フィンが底に手を添えた。
リルは少しだけ水を飲んだ。
こぼれた水が、顎を伝って布に落ちる。
「あ……」
小さな声が出る。
今度は言葉ではなかった。
フィンは笑った。
声に出したわけではない。口の端が、勝手に上がっただけだ。
リルはその顔を見ていた。
不思議そうに。
やがて、自分の口元に指を持っていく。さっきの音がどこから出たのか、確かめるみたいだった。
ヘレナが布巾を差し出した。
「水です」
フィンは受け取り、リルの顎を拭いた。布には触れないように、濡れたところだけを軽く押さえる。
リルは逃げなかった。
指も、布を強く握らなかった。
戸口の外から、風が入った。
薄い布が揺れ、朝の光が床の上で動く。通りの向こうから、湿った草の匂いが流れてきた。町の家並みの切れ目の方から来る風だった。
リルの顔が、そちらへ向いた。
椅子に座ったまま、戸口の外を見る。
光。
人の足。
遠くの荷車。
その向こうにある、まだ見えない道。
フィンも、同じ方を見た。
呼べば、リルはたぶんこちらを見る。
でも、今は呼ばなかった。
リルは風の方を見ていた。
膝の上で、古い布の端を握ったまま。
フィンはパンの包みを畳み、椅子の横に腰を下ろした。
リルの中に、自分の声ではないものが一つ残った。
それを取り返そうとは思わなかった。
ただ、少し痛いだけだった。
リルは風を見ている。
フィンは、その横顔を急かさなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




