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第10話 丘の風

挿絵(By みてみん)

リルは、教会の長椅子の端で、出口の光ばかり見ていた。


昼に近づくころ、朝の冷たさが薄れ、戸口から土と草の匂いが入ってくる。外では人の影が行き来し、荷車の輪が石の上を揺れていた。


膝の上には古い布がある。袖口の赤い跡は薄くなっていたが、まだ消えていない。椀の水は減っている。フィンが手を添えずに飲めた分と、こぼした分が半分ずつだった。


ヘレナは奥で布巾を畳んでいた。


「外が気になりますか」


リルは答えない。


人影が横切るたびに肩を小さく固くし、それでも目はまた光の方へ戻る。怖がっているのか、出たいのか、フィンにはまだ分からなかった。


フィンは椅子の横で、残りのパンを包み直した。


固い皮が一つ。白いところの残った欠片が一つ。包んでも重さは増えない。


廃屋へ戻れば、また床と木片を見張るだけになる。けれど、市場へ出れば人が多い。リルは止まるし、自分たちも見られる。


「そろそろ行く」


ヘレナは布巾を棚へ置いた。


「今日は早いですね」


「人が増える前に通る」


「廃屋へ?」


フィンはすぐには答えなかった。


戸口の外を、大きな桶を抱えた女が通った。リルの視線が桶を追う。水が揺れ、光が跳ねる。女がこちらを見そうになったので、フィンは体をずらした。


「少し、遠回りするだけだ」


ヘレナはそれ以上聞かなかった。


ただ、リルの袖を見てから、フィンへ目を戻した。


「人の少ない道を選びなさい」


「言われなくても」


「なら、言われたことにしておきなさい」


フィンは返さなかった。返せば、余計に何か言われる。


リルの前にしゃがむ。


「リル」


間を置いて、リルの顔が上がった。


その遅さには、もう驚かない。


フィンは自分の胸を指し、戸口の外を指した。それから、リルの膝の上の布を軽く指す。


「行くぞ」


リルはフィンの唇の動きを追ったあと、戸口を見た。


すぐには立たない。


布の端を握り直し、長椅子の座面を見て、床を見て、フィンを見る。それからようやく、膝が動いた。


フィンは手を出しかけて、途中でやめた。


リルは浅く腰をかけていたせいで、立ち上がる時に前へ傾いた。布が膝から落ちかける。フィンは布ではなく、床へ落ちそうな端だけを持ち上げた。


リルは逃げなかった。


ヘレナが戸口の脇へ寄った。


「日が傾く前に」


「分かってる」


言ってから、フィンはヘレナを見た。


ヘレナは何も言わなかった。責める顔でも、笑う顔でもない。ただ、戸口をふさがない位置に立っている。


フィンはリルの横に並んだ。


リルは敷居の手前で止まった。木の段差を見る。外の石を見る。フィンの靴を見る。


今朝よりは、長く止まらなかった。


片足を上げ、敷居を越える。布の端が戸口の木をかすめた。


外の光が、リルの顔に当たった。


通りは、昼の支度でざわついていた。


市場の方から声が重なって流れてくる。魚の匂い、焼けた粉の匂い、濡れた桶の匂い。誰かが笑い、誰かが値を言い、荷車の馬が鼻を鳴らした。


リルはすぐ足を止めた。


動きが多すぎる。


フィンはいつもの細い道を見た。壊れた樽の裏を抜ける道だ。自分一人なら、肩をすぼめてすぐ通れる。追われた時も使った。


リルは通れない。


服が引っかかる。木片につまずく。知らない顔が近づけば止まる。


フィンはそちらへ行かなかった。


「こっち」


町の端へ向かう道を選ぶ。市場から外れ、教会の白い壁を回り込む。石畳は途中で途切れ、土の道になった。


人の動きがまばらになる。


リルの足も、いくらか進みやすくなった。


草の匂いが強くなる。家並みの切れ目から風が入り、リルの長すぎる袖を揺らした。布の端も、膝の前で小さく持ち上がる。


顔が、その方へ向いた。


道の先に、低い丘があった。


丘というほど立派ではない。町外れの土が盛り上がり、短い草が一面に生えているだけの斜面だ。荷車が通らないせいか、轍も少ない。石垣の欠けた場所から、草が道へこぼれていた。


フィンは足を止めた。


ここなら、人の目は少ない。


市場の人影は遠い。教会の白い壁も家並みに隠れる。風が草を倒し、また起こすだけだった。


パンは少ない。


昼までに、どこかで食べるものを探さなければならない。


フィンは包みの重さを指で確かめた。


それでも、その目は草に残っていた。


「少しだけだぞ。腹は減ってる。けど、お前がそれ見たいなら待つ」


誰に言ったのか、自分でも分からなかった。


草の穂が風で揺れる。一本が倒れ、隣の一本に触れ、また離れる。その動きを、目だけが追っていく。


袖の先から、細い指が出た。


草へ伸びる。


フィンは止めなかった。


指先が草の穂に触れる。細い茎は倒れ、離れるとゆっくり起きた。


リルの口が少し開いた。


「あ……」


声は風に混じって消えた。


フィンは下側を確かめた。石は少ない。短い緑も厚い。ぬかるんだところはない。


丘の端に、木の板が半分埋もれていた。


壊れた荷箱の底板だ。釘は抜かれている。片側は割れ、角は削れて丸くなっていた。誰かが捨てたのだろう。表面は日に焼けて白っぽい。


フィンは近づき、足で端を押した。


底板が短い緑の上を滑り、倒れた茎が左右へ割れた。


リルの顔が、その動きへ向いた。


フィンはもう一度、足で押した。


それは斜面を少し下り、草に引っかかって止まった。


リルの視線が、そこへ残った。


「ただの板だ」


リルは答えない。


止まった場所から目を離さない。さっき草を追っていた時とは違っていた。


フィンはそれを拾った。


軽くはないが、持てないほどではない。裏は思ったより滑る。昔、もっと小さい板で、トマたちと似たことをしたことがある。うまくいけば笑う。失敗すれば泥まみれになる。大人に見つかれば、板を取り上げられる。


今は、誰もいない。


「見るだけだぞ」


リルは木の表をじっと追っている。


「乗るなよ。転ぶ」


リルはフィンの口を見ない。


目は木の板から動かなかった。


フィンは舌打ちしかけて、やめた。


短い坂を選ぶ。下は草が厚く、石もない。そこへ置き、自分で軽く腰を下ろしてみた。草の上で少し沈んだが、割れはしない。


リルが、木の端へ手を伸ばした。


木目を指でなぞる。削れた角で止まる。指先に木の粉がついた。


フィンはその手を見た。


「一回だけだぞ」


リルは分かっていない。


でも、フィンがそれを坂の上へ運ぶと、リルの顔がついていった。


フィンは底板を置き、リルを前に座らせた。急に抱え込まない。布を膝に置かせ、長い袖が板の下へ入らないよう、端だけを持ち上げる。


リルは固まらなかった。


その上に座っていることが分かっているのかは怪しい。ただ、草と木目とフィンの手の動きを追っている。


フィンは後ろに座った。


リルの左右に腕を置く。囲うだけで、強くつかまない。


「動くぞ」


後ろをかかとで押した。


底板が、草の上を滑り出した。


最初は遅かった。草が引っかかり、木の端が小さく跳ねる。リルの体が前へ傾いたので、フィンは慌てて腕を寄せた。


「おい、前見るな。いや、見ろ」


自分でも何を言っているのか分からなかった。


風が顔に当たる。


草が膝をこする。


思ったより速くなり、斜面の下で横へ流れた。フィンは足を出して止めようとしたが、湿った緑に滑ってうまくいかない。


リルの喉から、声が出た。


「あ……っ」


泣き声ではなかった。


怖がっている声とも違った。


底板が草の厚いところへ突っ込み、がくんと止まった。フィンの体が前へ寄り、リルの布が跳ねた。


「……っぶねえ」


フィンはすぐリルの顔をのぞいた。


泣いてはいない。


リルは下ってきた跡をたどっていた。


倒れた草、膝の上の布、坂の上へと、視線がゆっくり戻る。


口が、少し開いている。


声を探しているようでもない。


ただ、目が明るかった。


フィンは板から降りた。


「終わり」


そう言った。


リルは底板へ目を戻した。


フィンがそれを草の上へ立てかけると、指がそちらへ伸びた。届かない距離で止まる。


もう一度とは言わない。


言えるはずもない。


けれど、その目はそこから離れない。


フィンは町の方を見た。


昼が近い。食べ物は少ない。教会へ長く置けない。廃屋に行けば、また屋根の穴と床の木片と、見張る場所が待っている。


こんなことをしても、腹はふくれない。


銭も増えない。


誰にも褒められない。


小さな指が、底板の端に触れた。


さっき滑った面を、指先がなぞる。


フィンは坂の上を確かめた。


今度は、もう少し短いところを選ぶ。下に緑が固まっている場所。転んでも、たぶん痛くない。


「……もう一回だけだ」


底板を持ち上げる。


リルの顔が上がった。


フィンはそれを見ないふりをして、坂を上った。草が靴に絡む。木の端が肩に当たる。たいした重さではないのに、やけに大事なものを運んでいる気がした。


リルを前に座らせる。


今度は、リルの体がさっきより早くそこへ収まった。布を膝に置き、指で端を押さえる。袖の先が緑に触れる。


フィンは後ろに座る。


「口、閉じてろ。草、入るぞ」


リルは分かっていない。


でも、フィンの口の動きに顔を向けた。


後ろから押す。


さっきより、よく滑った。


緑が左右へ流れる。風が耳の横を抜ける。木の角が地面を叩き、小さく跳ねる。リルの布が浮き、フィンは片方の腕でそれを押さえた。


リルの声が出た。


「あー……!」


前より大きかった。


言葉ではない。


返事でもない。


けれど、その声を聞いた瞬間、フィンの口元が勝手にゆるんだ。


「お前、今の顔」


言いかけて、やめた。


言ったところで、リルには分からない。


底板は斜面の下で草に突っ込み、今度は二人とも少し横へ倒れた。痛いほどではない。草が腕と頬に触れ、乾いた土の匂いが近くなった。


フィンは片肘をついて起きた。


「だから言っただろ」


何を言ったのか、自分でも覚えていない。


リルはその場に座っていた。


布は膝から半分落ちている。袖には草の種がついた。髪にも細い草が一本引っかかっている。


視線は坂の上にあった。


口元が、ほんの少しだけゆるんでいる。


笑っている、と言い切れるほどではない。


けれど、フィンには分かった。


リルは、怖がっていない。


痛がってもいない。


もう一度、底板の方へ戻っている。


フィンは草の種を、自分の袖で払った。リルの髪に引っかかった草へ手を伸ばし、途中で止める。


「取るぞ」


リルはフィンの口を見た。


意味が届いたかは分からない。だが逃げなかった。


フィンは草をそっと取った。布には触れないようにする。袖についた種も、指先で払う。


リルは、その手つきを追っていた。


それから、視線が底板へ戻った。


「三回はなしだ」


フィンはそれを拾った。


リルの目が追う。


「なし。これ、割れたら終わりだし、俺の尻も痛え」


言いながら、フィンはそれを草むらの端へ立てかけた。捨ててあった時より、見つけやすい場所にする。石の陰に半分隠し、風では倒れないようにした。


リルはその場所を見届けている。


フィンは丘の上へ目を向けた。


家並みの向こうに、町から外へ伸びる道が見えた。荷車の跡が細く続いている。遠くには低い木立があり、その先は霞んでいた。


今すぐ行ける場所ではない。


パンは少ない。水も足りない。夜になれば、廃屋の屋根の穴が待っている。日が傾けば、ヘレナの戸口にも長くはいられない。


それでも、フィンはしばらくその道から目を離せなかった。


町の中にいれば、人の目がある。檻の馬車も通る。盗みに出れば、リルを一人にする。教会の椅子はあるが、夜までは置けない。


丘の上から見える道には、まだ何もない。


何もないから、怖かった。


何もないから、胸の奥が落ち着かなかった。


風が草を倒し、また起こした。


リルが声を出した場所。


底板が短い緑を割って進んだ場所。


廃屋でも、檻でも、教会の椅子でもない場所。


フィンは石の陰へ一度目を落とした。


次に来た時、まだ残っているかは分からない。誰かが持っていくかもしれない。雨が降れば濡れて使えなくなるかもしれない。


それでも、捨てたままにはしなかった。


「行くぞ」


フィンは町の方を指した。


リルはすぐには動かなかった。


隠した場所、坂の上、自分の袖についた草の種。その順に確かめて、やがてフィンの方へ顔を向ける。


フィンは急かさなかった。


盗みの時なら、とっくに背中を向けている。相手の目が切れたら動く。荷車の影ができたら走る。待ちすぎれば、取れるものも逃げる。


でも今は、待っても誰も追ってこない。


やがて、リルは布を抱え直した。立つまでに時間がかかったが、フィンは手を出さなかった。袖が草に引っかかった時だけ、端を外してやる。


道へ出る前に、リルが一度振り返った。


石の陰に、壊れた荷箱の底板が立てかけてある。


フィンはそれを確かめて、口の端だけで笑った。


「また、見つかったらな」


リルは返事をしない。


ただ、隠した場所を見ていた。


町の方に、人の動きが戻ってくる。桶を運ぶ影。荷車の列。遠くで手を振る人影。


さっきまでまばらだった人の気配が、少しずつ厚くなる。


フィンは歩き出した。


リルは半歩遅れてついてくる。


来た時より、町へ向かう道が狭く見えた。


壊れた樽の裏を抜ける細い道は、やっぱり使えない。市場へ近づけば人が増える。誰かがリルを見るかもしれない。誰かがフィンの顔を覚えるかもしれない。


それでも、廃屋へまっすぐ帰るわけにはいかなかった。


フィンは包みの中のパンを思い出した。


固い皮が一つ。白いところの残った欠片が一つ。


足りない。


足りないまま、夜まで待てるほど、腹は言うことを聞かない。


少し進んだところで、袖が引かれた。


フィンは足を止めた。


リルの細い指が、フィンの袖の端をつまんでいた。強く握ってはいない。逃げないようにしがみつく手でもない。


リルは丘の方をもう一度振り返り、それからフィンの袖をつまみ直した。


フィンはその指を見た。


「……置いてかねえよ」


リルは意味を返さない。


ただ、袖を離さなかった。


フィンはほどかなかった。


町の動きが前から押してくる。


丘の風は背中から来て、二人の袖を少しだけ押した。


市場の方へ近づく手前で、フィンは足を止めた。


人の多い通りへ出れば、早い。


だが、リルは止まる。誰かが見る。フィンも見られる。


フィンは表通りを避け、酒樽の匂いが流れてくる細い道へ曲がった。


ブラムの店なら、昼前はまだ静かだ。


何か残っているかもしれない。


何もなくても、水くらいはあるかもしれない。


リルは曲がり角で一度止まり、フィンの袖をつまんだまま、白い壁の方を振り返った。


丘は、もう見えない。


フィンは前を向いた。


「先に、食えるものを探す」


リルはフィンの口を見た。


それでも、袖をつまむ指はそのままだった。


フィンはほどかずに歩いた。


薄い酒の匂いと、湿った木箱の匂いが、少しずつ近づいてきた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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