第11話 見ている目
ブラムの店は、昼前がいちばん静かだった。
朝の客はもう出ていき、酒を飲む大人が来るにはまだ早い。棚には乾いたパンと豆の袋、塩のついた肉の端が少し並び、奥の樽からは薄い酒の匂いがしていた。
フィンは表には出ていなかった。
裏口に近い壁際で、リルの前にパンの端を置いている。硬いところをそのまま渡すと、リルは口の中で長く迷う。だから、指で小さく割ってから、袖の先から出た細い指の近くへ置いた。
リルはパンを見ている。
すぐには取らない。
古い布を膝に置き、袖の赤い跡が薄く残った方の手で、欠片の端にそっと触れた。
「それなら食えるだろ」
リルはフィンの口元を見た。
意味が届いたかは分からない。けれど、パンから目を離さず、少し遅れて指でつまむ。
その時、表の扉が開いた。
店の空気が変わった。
ブラムは店先で木椀を拭いていた。大きな体を少しだけ斜めにし、扉の方を見た。いつもなら客に値を言う。今日は言わなかった。
「ブラム」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だから余計に、店の中の音が小さくなった。
フィンはパンを持つ手を止めた。
逃げれば床板が鳴る。裏口の木もきしむ。リルを抱えて走れば、荷袋に足を取られる。ひとりなら抜けられる隙間も、リルを連れては通れない。
フィンは動く代わりに、リルの前に置いたパンを一度引いた。
リルの目がパンを追う。
フィンは欠片をさらに二つに割った。音が出ないよう、指の腹で押し割る。白い粉が床に落ちた。リルはその粉を見る。
フィンは床板の鳴るところを避け、荷袋の影に肩を寄せた。
リルは壁際に座ったまま、ブラムの体が向いた方へ顔を向けた。
見ようと思えば、表からも見える。
完全には隠れていない。
それが、フィンの腹の奥を冷たくした。
表では、ブラムが木椀を拭き続けていた。
「憲兵長が、昼前から酒か」
「飲みに来たわけではない」
アルドは店の中へ一歩入った。
黒っぽい外套の裾に、道の土が少しついている。剣の柄に手は置いていない。だが、客でもなかった。
アルドの目が、棚、樽、カウンターの下、壁際の荷へ順に動いた。
その途中で、リルを見た。
ほんの短い間だった。
リルはアルドを見返さない。声の主ではなく、動いた外套の裾を見ている。膝の上の古い布を抱え直し、パンを持つ指が少し止まった。
アルドの目が、店先へ戻る。
ブラムはまだ木椀を拭いている。
「最近、腰袋が消える話が増えた」
「この町で、腰袋が残ったまま歩ける大人の方が珍しい」
「冗談で済む数ではない」
ブラムは木椀の縁を拭いた。
「なら、盗ったやつを探せ」
「盗った品は、そのままでは腹に入らない」
アルドの声は変わらない。
「どこかで銭になる。食い物になる。誰かが受ける。受ける場所がなければ、同じ手は続かない」
ブラムの手が、ほんの少しだけ遅くなった。
フィンは荷の影で、奥歯を合わせた。
アルドはブラムを見ている。けれど、その言葉の端は、店の奥まで届いていた。
「うちは、豆とパンと安酒の店だ」
ブラムは言った。
「役所じゃない。持ってきた銭がどこの誰の物か、いちいち聞いていたら商いにならん」
「聞かないから、来る」
「腹を空かせたやつは来る」
「盗ったものを替えたい者も来る」
木椀を拭く布巾が、同じ場所を二度通った。
ブラムは顔を上げない。
「見たのか」
「見ていないなら、今日ここには来ない」
アルドはそこで、もう一度リルの方を見た。
今度は、さっきより少し長かった。
リルはパンを持ったまま、フィンのいる方へ目を戻そうとしている。フィンは息を詰めた。動けば、アルドの目がそこへ来る。
「あの子は」
アルドが言った。
ブラムはリルを見なかった。
「腹を空かせて座ってるだけだ」
「誰と来た」
「客の連れを、いちいち帳面に書く店じゃない」
アルドは少しだけ間を置いた。
その間に、リルの指からパンの粉が一つ落ちた。
床に当たる音はしなかった。
「痩せた少年だ」
アルドは言った。
ブラムの手が止まらない。
「大人の腰袋を狙う。荷車の影を使う。走る前に道を見る」
フィンの喉が乾いた。
顔を見られた覚えはない。
名を呼ばれたこともない。
それでも、手の動きは見られている。道の選び方も、盗った後にどこへ消えるかも、町のどこかで誰かが見ていた。
「最近は、小さな少女を連れているという話もある」
フィンは、リルの方を見られなかった。
アルドは分かっているのかもしれない。
リルがここにいる。
なら、その少年も近くにいるかもしれない。
確かめに来たわけではない。けれど、聞こえる場所にいるなら聞け、という声だった。
「少年なら、なおさら珍しくない」
ブラムは言った。
「この町に、腹の減った子どもが何人いると思ってる」
「腰袋を切れる子どもは、そう多くない」
「なら、腰袋を切ったところを見たやつに聞け」
「聞いている」
アルドの声は、そこで少しだけ低くなった。
ブラムの布巾が、木椀の中で止まった。
「知らないならいい」
少しも、よさそうには聞こえなかった。
「知っていて隠すなら、隠し方を間違えるな」
ブラムは布巾をたたみ直した。
「俺は商いをしてるだけだ」
「商いで済むうちに言っている」
アルドは棚の端に置かれた小さな銅貨を見た。誰かが朝に置いたものだ。汚れて、縁が欠けている。
「子どもだから見逃される、と思わせるな。受ける大人がいるから盗れる、と思わせるな」
「説教なら、教会でやれ」
「教会には別の仕事がある」
アルドはそこで言葉を切った。
怒りはなかった。憐れみもなかった。あるのは、道に線を引くような固さだけだった。
「次に品が出たら、持ち主を聞け」
「聞いたら答えるとでも?」
「答えないなら受けるな」
「腹を減らしててもか」
アルドはすぐには返さなかった。
「腹を減らしていれば、盗みが消えるわけではない」
アルドは言った。
「殴って済ませるつもりもない。見逃して済ませるつもりもない」
フィンは、握っていたパンを見た。
硬い端が、指の中で少し割れていた。
リルはパンを食べないまま、フィンの方を見ている。何を言われているのかは分かっていない。けれど、フィンが動かないこと、ブラムの口元と手が硬くなったことだけは、目で追っていた。
アルドは扉の方へ向かった。
出る前に、振り返らずに言った。
「少女を連れた少年を見たら、知らせろ」
ブラムは答えなかった。
「ブラム」
呼ばれて、ブラムは布巾を木椀の上へ置いた。
「店の裏は、表よりよく物がなくなる。そこも見ておけ」
それだけ言って、アルドは出ていった。
扉が閉まったあとも、ブラムはすぐには動かなかった。
フィンも荷の影から出なかった。
外の足音が遠ざかる。すぐ角を曲がったのか、それとも店先で立っているのか、分からない。こういう時、確かめようとして覗いたやつから見つかる。
ブラムは水差しを持ち上げ、木椀に水を少し注いだ。
何でもない動きだった。
それから、ようやく裏へ来た。
「出てこいとは言ってない」
ブラムは言った。
フィンは黙っていた。
リルは、ブラムが持ってきた水の椀を見ている。パンはまだ指の中にあった。
ブラムは椀をリルの近くへ置いた。リルの正面ではなく、少し横。手を伸ばせば届くところだった。
「飲めるなら飲め」
リルはブラムの口元を見た。
それから、椀を見た。
すぐには動かない。
ブラムは待たず、棚の下へ戻った。皿を一枚取り、乾いたパンくずを払う。払ったくずが床に落ちる。リルの目がそれを追った。
皿の横に、小さな鍵が置かれた。
金色ではない。
黒ずんだ、古い鍵だった。持ち手のところが少し曲がり、歯の一つが欠けている。
フィンはそれを見た。
「いらない」
「まだ何も言ってない」
「持ってたら、あんたが困る」
ブラムは片眉だけを動かした。
「困るかどうかは、俺が決める」
「見つかったら」
「だから落とすな」
ブラムは鍵を押しつけなかった。
ただ、皿の横に置いたままにした。
「表から来るな」
フィンは鍵を見ている。
「客がいる時は奥に入るな。夜は閉める。ここは寝る場所じゃない」
言い方は冷たかった。
でも、鍵はそこにあった。
フィンは手を伸ばさなかった。
リルは鍵ではなく、フィンの手を見ている。パンを持っていた指が、少し開いた。欠片が膝の古い布へ落ちる。
ブラムはそれを拾わない。
「その鍵が俺の戸のものだと分かれば、さっきの男はもう一度来る」
「なら、やっぱりいらない」
「表から来るなと言った」
「聞こえてる」
「なら取れ」
フィンはブラムをにらんだ。
ブラムはにらみ返さない。情けをかけた顔もしない。ただ、店の表へ戻る道を半分ふさぐように立っている。
「俺はお前を知らない」
ブラムは言った。
「そういうことにしておけ」
フィンは唇を曲げた。
「都合いいな」
「都合が悪いから、鍵を置いてる」
その言葉だけ、少し低かった。
フィンはもう一度、表の扉を見た。
アルドは今すぐ踏み込まなかった。フィンを引きずり出しもしなかった。リルを見て、フィンに届くように言葉を置いて、それで去った。
見逃されたわけではない。
まだ、手を伸ばされていないだけだ。
フィンは鍵を取った。
思ったより冷たかった。
握ると、金属の角が指の腹に当たる。軽い。けれど、ただの金具より重かった。
リルが、その手を見ていた。
フィンは鍵を上着の内側へ入れた。革袋や銭を隠す場所とは別の、布の折り目に押し込む。盗った物と一緒にはしたくなかった。
ブラムはそれを見て、何も言わなかった。
「行け」
短い声だった。
フィンはリルの前にしゃがんだ。
「リル」
少し遅れて、リルの顔が上がる。
フィンは自分の胸を指し、裏口を指した。それから、リルの膝の上の古い布を指す。
「こっちから出る」
リルはフィンの口元を見る。
次に、裏口を見る。
フィンが先に立つ。床板の鳴らない場所を選んで足を置いた。リルはすぐには動かない。椀の水を見て、パンを見て、フィンを見る。
フィンは先に一歩だけ出て、床板の鳴らない場所で止まった。
やがて、リルの膝が少し動いた。古い布を抱え直し、壁に手をついて立つ。長すぎる袖が木箱に触れたので、フィンは端だけを持ち上げる。
リルは逃げなかった。
裏口の木は、表の扉より薄かった。ブラムが内側からかんぬきを外す。外には狭い路地がある。桶と空の樽が並び、昼の光が細く落ちている。
「鍵は外からだけだ」
ブラムが言った。
「中に人がいる時は叩け。勝手に入るな」
「分かった」
「なくしたら、次は開けない」
フィンは返事をしなかった。
リルが敷居を越える。
足元を見て、戸の木目を見て、ブラムの靴を見て、それから裏口の外を見た。
路地へ出てから、リルは一度だけ振り返った。
鍵の意味は、たぶん分かっていない。
けれど、裏口の場所を見ていた。
ブラムはもうこちらを見ていなかった。木椀を取り、表へ戻る。扉が閉まる前、布巾がまた木椀の縁を拭くのが見えた。
フィンは上着の内側に手を当てた。
鍵はそこにある。
表から入らなくていい。リルを通りに長く立たせなくてもいい。少しだけ、ましになった。
でも、店は寝床ではない。
ブラムは知らないふりをしただけだ。
アルドは、リルを見た。
フィンが近くにいるかもしれないと分かって、あの話をした。
フィンは狭い路地の先を見た。
アルドは今、手を伸ばさなかった。
フィンは上着の内側に手を当てた。
鍵の角だけが、布越しに冷たかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




