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第12話 水車の音

挿絵(By みてみん)

ブラムの店の裏口は、表より狭かった。


酒樽の匂いと、湿った木箱の匂いが外まで漏れている。戸を閉める時、フィンは最後だけ手で押さえ、板が跳ねないようにした。


胸の内側には、黒ずんだ鍵がある。


革袋や銭を隠す場所とは別の、布の折り目に押し込んだ。歩くたび、金属の角が薄く当たる。軽いはずなのに、そこだけ服が重くなったみたいだった。


リルは、戸口の前で少し止まった。


古い布を抱え、店の裏口を見ている。


「閉まったぞ」


リルはフィンの口元を見た。それから、また戸を見る。


リルは鍵ではなく、さっき出てきた場所を見ていた。ただ通り過ぎるものとしては見ていなかった。


フィンは声を足さなかった。


リルが歩き出すのを待つ。


少し遅れて、リルの足が動いた。


表通りには出ない。


アルドがどこまで見ているか分からない。店の前をうろついているとは思わないが、あの男は、腰袋の切り方も、荷車の影の使い方も知っていた。顔を知られていなくても、動きは覚えられている。


フィンは壁沿いを選んだ。


ただし、こそこそしすぎない。急に曲がらない。走らない。大人の影が近づけば、荷の影へ寄るだけにする。


リルは遅い。


石の段差を見るたびに止まりかける。水桶を抱えた女が横を通ると、桶の揺れを追う。フィンが先に行きすぎると、古い布を握ったまま足が止まる。


「こっち」


フィンは曲がり角の手前で待った。


リルはフィンの口元を見て、少し遅れて角を曲がる。


いつもの細い抜け道なら、もっと早い。壊れた樽の後ろを抜け、壁の割れ目を通れば、教会の裏手まで短く出られる。


リルは通れない。


袖が引っかかる。見慣れない顔が近づけば止まる。急に人影が出れば、そこから足が進まなくなる。


フィンは広い方の道へ出た。


道の端に、細い水路が走っていた。昨日の雨を受けたのか、水はいつもより濁っている。木の板が渡され、その先に粉挽き場の低い屋根が見えた。


水が白く落ちた。


リルの足が止まった。


フィンは先に人影を探した。


憲兵はいない。荷運びの男が二人、水路の向こうで袋を積み直している。粉挽き場の戸口には、腰を曲げた女が立っていた。こちらを見てはいない。


また、水が白く跳ねた。


リルの口が、少し開いた。


「あ……」


声は小さかった。


けれど、今までのように、ただ漏れただけには見えなかった。水の白い跳ねに合わせるように、リルの喉が動く。


白い水しぶき。


「あ……あ……」


フィンは水路の方を見た。


水車が回っていた。


濡れた木の羽が水を受け、重そうに下がる。下がった分だけ、次の羽が上がる。軸のあたりがきしむように揺れ、水しぶきが石に散った。


「水だ」


何となく言っただけだった。


リルは水車ではなく、フィンの口元を見た。


「み……」


フィンは足を止めた。


リルの目は、フィンの口と落ちる水のあいだを行き来した。


「水」


フィンは、もう一度だけ言った。


リルの唇が遅れて動く。


「みう……」


水車が、また大きく回る。


リルは水を見た。落ちる水を目で追い、それから、もう一度フィンの口元を見る。


「み、ず……」


小さく、切れた声だった。


水を欲しがる声ではなかった。


それでも、フィンの背中が固まった。


教会の朝とは違う。


ヘレナの口元ではない。祈りの中でもない。リルは、目の前で落ちる水を見て、フィンの口を見て、自分の喉から声を出した。


水車がまた回る。


木の羽が下がる。


白い水が跳ねる。


リルの顔が、水車へ戻った。


長い袖の先から、細い指が出る。水しぶきの方へ伸びる。


「近づくなよ」


口にしてから、強すぎたかと思った。


リルの肩が小さく固まる。


フィンは舌の奥を噛んだ。引っぱれば早い。抱えればもっと早い。けれど、それをやれば、リルは水車ではなく、フィンの力だけを見る。


リルは、水車を見ていた。


怖がっている顔ではなかった。


もう一度、木の羽が下がる。


「回ってるだけだ」


フィンは水車を指した。


「まわる」


リルは水車の輪を見た。


唇が少し遅れて動く。


「ま……」


水が落ちる。


「ま、わ……」


そこで止まった。


フィンは返す言葉を見つけられなかった。


リルは声を出している。


ただ声を出しているだけではない。水を見て、回るものを見て、フィンの口を見て、形にしようとしている。


その間にも、リルの足は前へ出ていた。


水車の下には、黒く濡れた石が並んでいる。乾いた場所と濡れた場所の境目が分かりにくい。リルの靴先が、その黒い石の手前に乗りかけた。


フィンは先に自分の足を出した。


靴底が滑る。


少しだけ、体が横へ流れた。水路の縁に指をかけ、すぐ戻す。指先に冷たい水がついた。


「そこは濡れてる。滑る。落ちたら、俺じゃ引き上げられない」


リルはフィンを見上げた。


水車が、フィンの背中で半分隠れている。


リルの眉が、わずかに寄った。目が、フィンの肩越しに水車の端を探す。


フィンは場所を変えなかった。


ここをどけば、リルの足が濡れた石へ入る。


止めれば固まる。


止めなければ危ない。


水車は止まらない。


誰が見ていようが、見ていまいが、同じ動きで回っている。


「危ないよ、その子」


横から声がした。


粉挽き場の戸口にいた女だった。怒鳴ってはいない。むしろ、親切のつもりの声だった。


「石、滑るから。小さい子は足元見ないだろ」


フィンは女を見なかった。


見れば、何か返してしまう。


小さい子。


足元を見ない子。


危ない子。


どれも間違ってはいない。


だから余計に、腹の奥へ沈んだ。


「見てる」


短く返す。


女はそれ以上言わなかった。粉のついた手を前掛けで拭き、戸の中へ戻っていく。


リルは女ではなく、フィンを見ていた。女が立つ場所と、フィンがそこをどかないことだけを目で追っている。


水がまた落ちた。


リルの口が開く。


「あー……」


さっきより長い声だった。


泣いている声ではない。怖がっている声でもない。水車に向かって、声が伸びていくようだった。


フィンは濡れた石の上から足を外さなかった。


「見るだけだ」


リルは水車を見ている。


「ここから」


フィンは自分の靴先で乾いた石を軽く叩いた。その動きは、水しぶきの前でもはっきり見えた。リルの目は靴先を追った。


古い布を抱えたまま、リルは半歩だけ横へずれた。


黒い石ではなく、乾いた方へ。


ゆっくりだった。


それでも、フィンが足を置いた場所を避けた。


フィンは喉の奥が変に熱くなるのをこらえた。


水車が回る。


水が跳ねる。


リルの唇が動く。


「み……ず」


今度は、さっきより少し近かった。


フィンは笑いそうになって、やめた。


笑えば、からかったみたいになる。大げさに褒めれば、またその声を出させようとしているみたいになる。


リルは水を見ている。


フィンは、自分の胸を指した。


「フィン」


言ってから、指先が少し強く胸を押した。


水でも、回るでもない。今、教えるようなものではない。


それでも、口から出ていた。


リルの目が、フィンの指へ落ちる。


それから、フィンの口元へ上がった。


「フィン」


もう一度だけ、ゆっくり言う。


リルの口が開いた。


「フ……」


フィンの背中が、今度こそ動かなくなった。


水車が大きく回っている。


荷運びの男たちが、向こうで袋を置き直している。誰かが笑う。粉挽き場の中で、戸が軋む。


リルは、水車でも、落ちる水でもなく、フィンを見ていた。


「フェ……」


声はそこで一度消えた。


リルの指が、古い布を握り直す。口の形が崩れ、また作り直される。


「フェ……ン」


水が落ちた。


フィンは、しばらく何も言えなかった。


見間違いではない。


正しくもない。


けれど、誰を呼ぼうとしたのかは分かった。


「……フィンだ」


声が少し低くなった。


リルはフィンの口元を見る。


もう一度言うかと思った。けれど、リルの目はすぐ水車へ戻った。木の輪が回り、水が跳ねるたびに、口元がほんの少し動く。


フィンは肩の力を抜いた。


「直すのは、あとでいい」


リルは乾いた石の上にいた。


濡れた石には入らない。


フィンの前を抜けようともしない。


水車を見て、時々、小さく声を出す。


「あ……」


水が落ちる。


「み……」


木の羽が下がる。


「ま……」


それだけで、長くはいられなかった。


人が増えれば目立つ。粉挽き場の女が、またこちらを見るかもしれない。「水車のそばに少女を連れた少年がいた」と、アルドのところへ届くことだってある。


フィンは水路の縁から離れた。


「行くぞ」


リルは水車を見ている。


「リル」


少し遅れて、顔が上がる。


フィンは自分の胸を指し、道の先を指す。それから、リルの古い布を指した。


「こっち」


リルはすぐには動かない。


水車を見る。フィンを見る。乾いた石を見る。自分の靴先を見る。


それから、足を出した。


帰り道、リルは水車の輪が建物の陰に隠れるまで、何度も振り返った。白いしぶきが見えるたびに、口が少し開く。声になる時もあれば、ならない時もある。


フィンは急かさなかった。


ただ、人の目が少ない道を選んだ。軋みそうな板は踏まない。濡れた石は避ける。荷車の影に紛れて歩く。


リルは途中で、ブラムの店の方角ではなく、水車のある方を見た。


「み……」


小さな声。


フィンは胸の内側に触れた。


鍵はそこにある。


裏口は開けられる。表通りを避けることもできる。リルを少しの間、店の奥に座らせることもできるかもしれない。


けれど、戸を閉めても、水車の輪は外にある。


リルの足は、見えたものを追う。


声も、その形を追いかける。


フィンは足を止めた。


リルがこちらを見る。


フィンは自分の胸を指した。


「フィン」


リルは、少し遅れて口を開いた。


「フェン」


今度は、前より短かった。


間違っている。


でも、間違いだと言って直す気にはなれなかった。


フィンは歩き出した。


鍵で閉められる戸はある。


でも、リルの口から出たものまで閉める場所は、どこにもなかった。


フィンは胸の内側の鍵を、服の上から押さえた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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