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第13話 罰の線

挿絵(By みてみん)

水車の白いしぶきは、通りを二つ曲がると見えなくなった。


それでもリルは、時々うしろを見た。古い布を抱えたまま、足を止めかけては、白いしぶきがあった方へ目を戻す。


「そっちじゃない」


フィンは立ち止まり、教会の白い壁が見える方を指した。


リルは指の先を見て、少し遅れて足を出す。


さっき、リルはフィンを呼ぼうとした。


フェン。


正しくはなかった。けれど、誰を呼ぼうとしたのかは分かった。水車でも、水でも、ヘレナでもない。リルはフィンを見て、声を出した。


その声が、まだ頭の奥に残っている。


直さなくてもいい。あとでいい。


そう思ったのに、市場が近づくにつれて、フィンは何度も周りを見た。市場の端には、人が多い。荷車。桶。犬。知らない大人の口元と腕の動き。リルはそのどれにも足を止める。


動けるようになった。


その分、止めるものも増えた。


教会へ戻るには、市場の脇を抜けるのが早い。遠回りすれば人は減るが、日が傾くまでに食べ物を探す時間も減る。フィンはリルの歩幅に合わせながら、市場の端の道へ入った。


干し肉を吊るした店の前で、人だかりができていた。


最初は客の文句かと思った。値が高いだの、肉が薄いだの、そういう声は珍しくない。だが、輪の真ん中にいるのは大人ではなかった。


フィンとそう変わらない背の少年が、腕をねじられていた。


店の男が片手で少年の襟をつかみ、もう片方の手に干し肉の端を握っている。干し肉は土に落ちたのか、端に砂がついていた。少年の足元には、小さな銅貨が二枚転がっている。


「肉だけじゃねえ。こいつ、袋にも手を入れてた」


店の男が言った。


少年は唇を曲げていた。泣いてはいない。謝りもしない。ただ、周りの大人を見ないように、地面の方をにらんでいる。


フィンはリルの前に出た。


リルは人だかりの前で足を止めていた。古い布を握る指が少し強くなる。怒鳴る口と、集まった足と、動く腕を見ているだけだった。


「こっちだ」


フィンはリルを店の壁際へ寄せた。


細い抜け道なら、すぐ横にある。壊れた木箱の裏を抜け、桶置き場の陰へ出る道だ。ひとりなら使える。リルを連れては通れない。


人だかりの向こうで、店の男が少年の肩を押した。


「返せって言ってんだろ」


「落ちてた」


「腹の中に落ちる前に捕まってよかったな」


周りから笑いが起きた。


少年は顔を上げた。


「腹に入ったら返せねえよ」


その言い方が悪かった。


店の男の腕が上がった。


フィンは、思わず一歩動きかけた。


止めに入るつもりはなかった。そんなことをすれば目立つ。目立てば、リルも見られる。アルドに見られたら終わる、とトマが言った声が頭の中をかすめる。


それでも、腕が振り下ろされる前の少年の顔が見えた。


目を閉じない。


殴られ慣れている顔だった。


その腕を、横から誰かがつかんだ。


「そこまでだ」


店の男の手が止まる。


人だかりの外側が割れた。


アルドがいた。


剣に手はかけていない。走ってきたわけでもない。ただ、いつの間にかそこに立っていた。黒っぽい外套の裾に、道の砂がついている。


店の男は腕をつかまれたまま、顔をしかめた。


「憲兵長。こいつ、うちの肉を」


「見ていた」


「だったら」


「お前が殴る役ではない」


アルドは男の腕を離した。


声は低い。怒鳴らない。だから、周りの笑い声が先に消えた。


店の男は唾を飲み、干し肉の端を握り直した。


「じゃあ、どうするんです」


アルドは少年を見た。


少年は逃げようとはしなかった。逃げられないと分かっているのか、足に力が入らないのか、どちらにも見えた。頬に泥がつき、袖口が擦り切れている。手の中には、まだ小さな肉の脂が光っていた。


「手を開け」


少年は動かない。


アルドが近づく。


少年は一瞬だけ肩をすくめた。殴られると思った動きだった。だが、アルドは手を上げなかった。ただ、少年の手首を取り、指を一本ずつ開かせる。


干し肉の小さな切れ端が出た。


続いて、銅貨が一枚落ちた。


地面に当たって跳ねる。


リルの目が、その銅貨を追った。


転がった銅貨は、石の隙間で止まった。リルは何が起きているかではなく、その丸いものの動きだけを見ている。


フィンはリルの前から動かなかった。


アルドは落ちた銅貨を拾わず、隣の憲兵に目を向けた。


「拾え」


若い憲兵が銅貨を拾う。


少年は口を開いた。


「返せばいいんだろ」


「返しても、盗んだことは消えない」


アルドは短く言った。


その声で、少年の目が初めて揺れた。


店の男が少し前へ出る。


「それなら、うちの裏で二、三発――」


「さっき言った」


アルドは男を見た。


それだけで、男は口を閉じた。


「罰は店の裏で決めない」


アルドは少年の襟をつかまなかった。縄も出さない。ただ、逃げ道になる方へ憲兵を一人立たせた。


それだけで、人だかりの中に線が引かれたみたいになった。


少年はその線を見た。


右には憲兵。左には店の男。後ろには人だかり。前にはアルド。


逃げる場所はなかった。


「名前は」


少年は答えない。


アルドは急かさなかった。


答えない時間が長くなるほど、周りの目が少年に刺さる。少年は地面を見ていた。砂のついた干し肉。拾われた銅貨。自分の靴先。


「詰所で聞く。ここで殴らせはしない。逃がしもしない」


アルドはそう言った。


少年の顔が上がった。


「肉は返した」


「銭も出た」


「拾っただけだ」


「なら、拾った場所も話せる」


少年は返さなかった。


若い憲兵が少年の腕を取る。今度は殴るためではなかった。けれど、連れていくための手だった。


少年は一度だけ身をよじった。


店の男の方ではない。


市場の奥を見た。


そこには誰もいなかった。母親も、兄弟も、仲間も。誰かが助けに来る気配はない。人だかりの大人たちは、もう次の荷車や値段の話へ戻りかけている。


アルドは少年を見ていた。


優しい顔ではない。


でも、殴らせて笑う顔でもない。


そのまま、少年は連れていかれた。


アルドの目が、人だかりの端をなぞった。


フィンはリルの前に半歩出た。


古い布の端が、リルの膝から落ちかけている。フィンはそれを拾うふりで、少し身を低くした。リルは布ではなく、フィンの肩を見ている。


アルドの視線が、壁際で一瞬止まった。


目が合ったのかどうかは分からない。


フィンは動かなかった。


アルドは何も言わなかった。追ってもこなかった。若い憲兵に短く何かを告げ、人だかりの向こうへ歩いていく。


店の男が、地面に残った砂つきの干し肉を拾った。


「汚れちまった」


誰かが笑った。


笑い声は、すぐ値段を呼ぶ声に混じった。


フィンは服の内側へ手を入れた。


包んだ硬い皮がある。リルに食わせるつもりで残しておいた分だ。その下に、銅貨が当たった。


さっき地面で鳴ったものと、同じ薄い感触だった。


フィンの指が止まる。


リルが、その手を見ていた。


フィンはパンを出そうとして、いったん引いた。指先には、革袋の内側についた黒い汚れが少し移っている。銅貨を触った跡か、昨日の袋の粉か、分からない。


リルは、フィンの手と服の内側を交互に見ている。ただ、フィンが止まったから見ている。


「行くぞ」


フィンの口元が硬くなった。


リルはすぐには歩かない。


フィンは手を伸ばしかけて、やめた。水車の前で、リルは濡れた石を避けた。フィンの足元を見て、自分で半歩ずれた。


今、強く引けば、さっきの憲兵と同じになる。


フィンは一歩だけ先へ出て、待った。


リルは人だかりの跡を見た。


砂のついた地面。誰かの靴に踏まれた銅貨の丸い跡。店の男の手に戻った干し肉。動かなくなったものばかりを、目でたどっている。


それから、フィンの方へ歩いた。


市場の端を抜けるまで、フィンはうしろを見なかった。


見なくても分かる。


アルドはもういない。


少年もいない。


けれど、さっき腕を止めた手も、逃げ道をふさいだ憲兵の立ち位置も、道の上に残っている気がした。


教会の白い壁が見えてきたころ、リルの足が遅くなった。


フィンは戸口の手前で止まり、服の内側からパンの包みを出した。包みを開くと、硬い皮が二つ。白いところは、ほとんど残っていない。


リルはパンを見る。


フィンは小さい方を取りかけて、やめた。


大きい方を、さらに半分に割る。固すぎて、指の腹が痛くなった。割れた端から、粉が少し落ちる。


その粉を、リルが見た。


フィンはパンを置こうとして、指を引いた。


手の汚れが、パンの白いところにつきそうだった。


服で拭けばいい。


そう思ったのに、拭けなかった。拭いたところで、さっき銅貨が跳ねた場面まで消えるわけではない。


リルは待っている。


パンではなく、フィンの手を見ている。


フィンは汚れた指を隠しかけた。


その手で、今まで何度もパンを割った。水瓶を支えた。古い布の端を持ち上げた。リルの袖についた木屑を払った。


同じ手で、革袋も抜いた。


フィンは指を隠さなかった。


白いところの残った方を、リルの手の近くへ置く。


「食え」


リルはすぐには取らない。


古い布を抱えたまま、パンとフィンの手を交互に見る。やがて、袖の先から細い指が出た。パンに触れる。つまむまでに少し時間がかかる。口へ運ぶ途中で、いつものように一度止まる。


フィンを見る。


フィンは自分の分を口に入れた。


固い皮が歯に当たる。


腹には足りない。


明日の分にもならない。


それでも、リルが飲み込むまで待った。


教会の戸口の奥から、ヘレナの声がした。


「フィン」


フィンは顔を上げた。


ヘレナは中からこちらを見ている。リルの古い布、フィンの指、二人の足元の距離を順に見た。


「入りますか」


フィンは一度、市場の方を振り返りかけた。


やめた。


リルはパンを口に入れたまま、フィンを見ている。


「入る」


フィンは短く言った。


そして、残った小さな皮を包み直した。


包みは、さっきより軽かった。


明日の分は、もうほとんどなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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