第14話 高い窓の病院
次の朝、包みは昨日より軽くなっていた。
フィンは廃屋の隅で、固いパンの端を手のひらに乗せた。夜の間に増えるはずもないのに、何度確かめても同じ大きさだった。袋の底には粉が少し残っている。指でならすと、爪の間に白くついた。
握れるほどはない。
リルは壁際に座っている。
古い布を膝に置き、長すぎる袖の端を片手で押さえていた。昨日、市場で人だかりを見てから、大人たちが大きく口を動かすたびに、古い布を抱える指が少し強くなる。
パンを割る。
大きい方をリルの前へ置こうとして、フィンは指を止めた。
大きいと言っても、指二本分しかない。小さい方は、ほとんど皮だけだった。昨日なら、もう少し迷わず置けた。今日は、割った瞬間に、明日の分まで見えてしまう。
フィンは大きい方をさらに少しだけ割った。
白いところが残った欠片を、リルの手の近くへ置く。皮ばかりの方を自分の手元に残した。
リルの指が、置かれたパンのそばで止まる。
それから、フィンの手の中の小さい欠片へ、ゆっくり動いた。
「食え」
リルはフィンの口元を追った。
すぐには動かない。袖の先から出た指が、パンの端に触れる。つまむまでに間がある。口へ運ぶ途中で、一度フィンの顔へ上がった。
フィンは自分の分を先に口へ入れた。
固い皮が歯に当たり、細かい粉が舌に残る。飲み込んでも、腹に落ちた感じはしなかった。
リルはその動きを追ってから、パンを口に入れた。
噛むのは遅い。
けれど、落とさなかった。
フィンは袋の底の粉を払った。払っても、袋は軽いままだった。
昼までに何か探さなければならない。
でも、昨日の市場には近づきたくなかった。干し肉の店の前で、少年が連れていかれた。アルドは殴らせなかった。だが、逃がしもしなかった。
あの線は、まだ道の上に残っている。
フィンは立ち上がり、リルの前にしゃがんだ。
「ブラムのとこへ行く」
リルの口が、声にはならない形で少し開いた。
フィンは自分の胸を指し、戸口を指した。それから、リルの膝の布を指す。
「一緒だ」
リルは布を抱え直した。
少し遅れて立つ。
床に落ちていた細い木片をまたぎそこね、袖の端が引っかかりかけた。フィンは手を出しかけて、袖ではなく木片の方を蹴ってどかした。
リルの足が、どけられた木片の前で止まる。
それから、フィンの靴先に合わせるように半歩進んだ。
「行くぞ」
廃屋を出ると、朝の道はもう人が多かった。
市場の方から、値を呼ぶ声が流れてくる。昨日と同じ声も混じっているのかもしれない。フィンはそちらを避け、酒場の裏へ回った。
ブラムの店の裏口は、まだ半分しか開いていなかった。
中で樽が動き、湿った木と薄い酒の匂いが流れてきた。フィンが戸口の影に立つと、奥からブラムが顔を出した。
ブラムはまずフィンを見て、次にリルを見た。
「市場の方を通ったか」
「通ってない」
「ならいい。今朝も憲兵が歩いてた」
それだけ言って、ブラムは戸を少し広げた。
「入れ。そこで並んで立たれる方が目立つ」
リルは敷居の手前で止まる。店の奥の暗さに、布を抱える指が強くなった。
フィンは先に一歩入った。
リルはフィンの足元を追う。敷居の木の前で爪先が止まり、少し遅れて、片足が上がった。
ブラムはそれを待っていたが、急かさなかった。
店の奥には、昨日より少ないパンが並んでいた。豆の袋も、口を縛られて棚の奥へ寄せられている。干し肉の端は、塩の白い粒がついた細いものだけだった。
「今日は、これだけだ」
ブラムは紙に包むほどでもないパンの欠片を二つ、皿の上に置いた。
フィンは皿を見た。
少ない。
口に出す前に、腹の方が先に分かっていた。
「俺の棚も、腹と同じでな。空けば勝手に埋まるわけじゃない」
ブラムの声に棘はなかった。
だから、余計に返しづらかった。
フィンは皿の上のパンを取る。リルの前に一つ置き、自分の分を服の内側へしまった。今食べれば、それで終わる。
リルはパンへ手を伸ばしかけたが、ブラムが棚の下から木椀を出すと、その動きで指を止めた。
木椀には、水が少し入っている。
ブラムはリルの正面ではなく、少し横に置いた。
「飲めるなら飲め」
リルはブラムの口元を追ったあと、木椀へ指を伸ばした。
飲むまではいかない。
縁に触れた指が、そこで止まる。水面だけが小さく揺れた。
フィンはその横で、服の内側の銅貨を指で探った。小さいのが一枚。欠けたのが一枚。昨日の少年の足元で跳ねた銅貨が、指の中に戻ってくる。
ブラムが、フィンの服の内側へ目をやった。
「市場の端まで憲兵が回ってる。昨日の子どもの件でな」
フィンは銅貨を探っていた指を止めた。
「飯はいる」
「だから、深追いするなと言ってる」
ブラムは皿の上の欠片を顎で示した。
「それで昼まではつなげ。足りない分を、朝のうちに取り返そうとするな」
フィンは答えなかった。
答えたところで、パンは増えない。
リルの指が、木椀の縁をゆっくりなぞる。さっきより大きく水が揺れた。けれど、木椀を持ち上げるところまではいかなかった。
表の方で、女の声がした。
「教会の長椅子にいた子、昨日も見たよ」
フィンの指が止まった。
ブラムも皿を拭く手を少しだけ遅くした。
「古い布を抱えた子かい」
「そう。返事もしないんだよ。ああいう子は、病院に回した方がいいんじゃないかね」
別の女が、少し声を落とした。
「教会だって、いつまでも椅子を空けられないだろ」
「道に置いておくよりはましだよ。あそこなら寝る場所もあるし、粥も出る」
返す言葉はなかった。
店の前を通りすぎる影だけが残る。
リルは店の表には振り向かなかった。けれど、フィンの手が止まると、木椀に触れていた指も止まった。
フィンはブラムを見た。
「病院って、どこだ」
ブラムの手が止まった。
皿の上には、まだ細かいパンの粉が残っている。ブラムはそれを布巾で払わず、しばらくフィンを見ていた。
「北の水路を越えた先だ。白い壁で、窓が高い」
フィンは頷かなかった。
「見に行く。どんな場所か、知らないままにしたくない」
ブラムは店の表へ目を向けた。さっき女たちが通った方だった。
「門の前で長く立つな。あの子を連れてそこにいると、預けに来たように見える」
フィンはリルの前のパンを、もう少し小さく割った。
リルは、フィンの指がパンを割る途中で止まると、欠片に伸ばしかけた指も止めた。
ブラムは棚の奥から、薄い紙を一枚出した。そこへパンの粉を払うような欠片を少し乗せ、乱暴に折った。
「持ってけ。外で広げるな」
フィンは受け取った。
礼は言わなかった。
言えば、病院へ行くことまで誰かに決められたような気がした。
店を出る時、リルは裏口のところで一度だけ足を止めた。
酒樽の匂いが残る戸口。半分だけ開いていた暗い入口。そこから出たことを確かめるように、布の端を握り直す。
フィンが一歩先で待つと、リルも遅れて歩き出した。
北の水路へ向かう道は、市場より静かだった。
家並みが少しずつ低くなる。石畳の隙間に草が生え、壁に干された布が風で揺れている。白い布、灰色の布、子どもの上着ほどの小さな布。その一つが大きく揺れるたび、リルの足は少し遅くなった。
フィンは急かさなかった。
水路を越えると、白い壁が見えた。
教会の白とは違う。雨の跡が少なく、塗り直したばかりのように均一だった。壁の上には細長い窓が並んでいる。どれも高い。フィンが背伸びしても、指先は届かない。
病院の前には、木の門があった。
開いている。
中庭の奥から、粥の匂いがした。薄いが、温かい匂いだった。廃屋にはない匂い。ブラムの店で分けてもらう端切れとも違う。朝から鍋が火にかかっている場所の匂い。
フィンの腹が鳴りそうになった。
門の内側では、同じ灰色の上着を着た子どもが二人、長椅子に座っていた。片方は膝を揃えて、指を袖の中に入れている。もう片方は、木の杯を両手で持ち、こぼさないように口を近づけていた。
話す大人は少ない。
静かだった。
静かすぎるほどではない。大人は歩き、食器は動き、奥では誰かが水を運んでいる。
でも、笑っている子どもはいなかった。
リルは門の前で止まった。
高い窓へ顔を上げる。
空を見る時とは違う。窓の向こうに何があるのか探すように、明るい四角を追っている。
「用ですか」
門の横から、白い前掛けをした女が出てきた。
若くはない。怖い顔でもない。疲れた目をしているが、怒ってはいなかった。フィンとリルを見て、リルの袖と布で視線を止める。
「見てただけだ」
フィンは言った。
「預かりの相談なら、中で聞きますよ」
女の声は平らだった。
慣れているのだろう。
困った子どもを連れてくる大人にも、迷った親にも、連れてこられた子にも。
「親御さんは?」
「いない」
「では、教会から?」
フィンは答えなかった。
女はそれ以上すぐに聞かなかった。代わりに、リルの前にしゃがみこまず、少し離れたところで立ち止まった。手も伸ばさない。
「名前は言えますか」
リルは女の口元を追った。
女がゆっくり言い直す前に、フィンが口を開いた。
「リル」
リルの目がフィンへ動く。
遅れて、口が少し開いた。
「あ……」
名にはならない。
女は驚かなかった。
「言葉が難しい子もいます」
それは慰めではなかった。
ただの説明だった。
「寝る場所はあります。食事も、決まった時間に出ます。ただ、付き添いは置けません。入ったあとは、こちらの時間で見ます」
付き添い。
フィンの指が、服の内側で止まった。
廃屋の床。犬の鼻。子どもの肩。檻の馬車。市場の人だかり。全部が、その言葉の後ろに並んだ。
フィンは門の内側を見た。
屋根がある。
長椅子がある。
奥には寝台らしい白い布が少し見えた。鍋の匂いもする。リルと同じように、すぐに返事をしない子が座っている。
ここなら、夜に戸口を見張らなくていい。
雨が降っても、屋根がある。
粥も出る。
リルは高い窓に顔を向けたままだった。
その窓は、子どもの背では届かない。開いているのか閉じているのかも、下からでは分からない。中庭の長椅子に座る灰色の上着の子どもたちは、誰も門の外へ出ようとしていなかった。
奥の戸が、風で少し動いた。
戸の隙間から、丸められた白布が一枚だけ見えた。誰かが置き忘れたのか、洗いに出す前なのかは分からない。布は床の端にあり、誰も拾わない。
リルの布が、フィンの目に入った。
泥の落ちた端。ほつれた糸。そこに残っていた短い名。
リル。
女が言った。
「入って、少し見ますか」
リルは女の方へは動かなかった。
フィンの口元だけを待つように、布を抱え直す。
フィンは門の内側へ足を入れかけた。
靴先が、白い石の上に乗る。
中は乾いていた。
廃屋の床よりずっとましだった。教会の椅子より、長くいられる場所に見えた。ブラムの裏口より、大人の手がある場所に見えた。
それでも、リルがそこに座るところを想像した瞬間、フィンの足が動かなくなった。
灰色の上着。
高い窓。
少ない口数。
あの布を洗い場へ持っていかれる手。
同じ白さの戸が並ぶ廊下。
リルはフィンを見ていた。
フィンは靴先を引いた。
「見るだけでいい」
女は眉を寄せなかった。
「早い方が馴染みやすい子もいます」
フィンはリルの前に立った。
女が何か言いかけたが、最後までは聞かなかった。
「行くぞ」
リルは高い窓をもう一度見た。
それから、白い石から土の道へ引いたフィンの足を見る。少し遅れて、自分も土の方へ足を戻す。
門の内側で、灰色の上着の子どもが木の杯を口に近づけた。
薄い粥の匂いが、風に混じって追ってきた。
フィンは振り返らなかった。
水路を越えるまで、リルは何度かうしろを向いた。高い窓、風に揺れた白い布、門の内側の杯。そのたびに、布を抱える指が少し強くなった。
道の端で、フィンはブラムの包みを開いた。
パンの欠片は、朝より少なく見えた。
リルの前へ一つ置く。自分の分は、包みの端に残った皮だけだった。
リルの指は、パンと、フィンの手元の皮の間で、ゆっくり迷う。
「食え」
リルは動かない。
フィンは自分の分を口に入れた。噛むと、苦い焦げの味がした。腹はふくらまない。喉を通る時だけ、食べたことが分かる。
リルの指が、ようやくパンへ伸びた。
つまむ。
口へ運ぶ途中で、また止まる。
フィンは病院の方を見なかった。
リルはパンを口に入れた。
高い窓の白い壁は、道を曲がると見えなくなった。
けれど、粥の匂いだけがしばらく残った。
フィンは空になりかけた包みを折り、服の内側へ押し込んだ。
紙が服の中でかすかにこすれる。
粥の匂いは、道を曲がるまで消えなかった。
フィンはリルの遅い足に合わせ、白い壁が見えなくなる道を選んだ。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




