第15話 すぐ戻ると言えない
廃屋に戻ってからも、粥の匂いは消えなかった。
服にも、髪にも、古い布にもついていない。なのに、鼻の奥にだけ残っている。白い壁。高い窓。木の杯を両手で持つ子ども。灰色の上着の袖。
あそこは食える場所には見える。けど、リルを外へ出してもらえる場所には見えねえ
そう思って、フィンはすぐに奥歯を合わせた。
あそこに置くために、見に行ったわけじゃない。
リルは壁際に座っていた。
膝の上には古い布がある。病院の門の前で高い窓を見上げていた時と同じように、布の端を片手で押さえている。廃屋の床には、夜露の落ちた黒い染みが残っていた。屋根の穴から細い光が入り、木片の影が斜めに伸びている。
フィンは紙包みを開いた。
パンの欠片が三つあった。
ひとつは、白いところが少し残っている。残りの二つは、ほとんど皮だった。袋の底には粉がついている。指で集めても、ひと口にはならない。
フィンは白い方をリルの前へ置いた。
リルはパンを見た。
すぐには取らない。袖の先から細い指が出て、パンの端に触れる。つまむまでに時間がかかる。その間に、フィンは皮の欠片を一つ口へ入れた。
固かった。
噛むたび、口の中で乾いた音がする。飲み込んでも腹には落ちない。舌に粉だけが残った。
リルは、フィンの口元を見ていた。
「お前の分だ」
リルはパンへ目を戻した。
指でつまみ、口へ運ぶ。途中で一度止まった。いつものようにフィンの顔を見る。フィンはもう一つの皮を、包みの端へ寄せた。
リルの目が、その小さい欠片へ動いた。
「先に食べろ」
届いているか分からない言葉を置いて、フィンは水瓶を引き寄せた。中の水は底に少しだけある。昨日足したはずなのに、朝になると、どれも少なくなっている。
リルはパンを口に入れた。
噛むのは遅い。
けれど、落とさなかった。
フィンは水瓶を持ち上げ、自分で飲むふりをした。実際には、唇を湿らせただけだった。瓶をリルの近くへ置く。
リルは瓶を見ない。
自分の前のパンを見て、それから、フィンの包みの端を見る。
そこに残っているのは、皮の欠片ひとつだけだった。
フィンはそれを拾い、服の内側へ押し込もうとした。昼まで残すつもりだった。そうしなければ、次に何もなくなる。
リルの指が動いた。
自分の前のパンを、小さく割る。
白いところが、ほんの少しだけ残った欠片だった。リルはそれをつまんだ。口へ持っていくのかと思ったら、途中で止まる。
フィンの方へ、少しずらした。
転がったわけではない。
落としたのでもない。
ゆっくり、迷うように、けれど確かに、フィンの膝の近くへ寄せた。
フィンは、その欠片を見た。
「……それは、お前が食べるやつだろ」
リルはフィンの口元を見る。
意味が分かっている顔ではない。
それでも、パンを戻そうとはしなかった。指だけが、欠片のそばに残っている。離していいのか分からないように、爪の先が床に触れていた。
フィンは笑わなかった。
礼も言わなかった。
言ったら、何かが決まってしまう気がした。
リルが、自分の分を残している。
そう思った瞬間、腹の底が冷えた。
橋の下の古い布だった子が、パンを見て、フィンの手元を見て、自分の分を少し残す。昨日の病院なら、決まった時間に粥が出る。灰色の上着を着せられて、木の杯を持たされて、白い壁の下で食べる。
腹は満ちるかもしれない。
けれど、あの高い窓の下で、リルが誰の分を残すのか、フィンには想像できなかった。
フィンはパン片を拾った。
食べなかった。
包みに戻すこともしなかった。
服の内側へ、潰れないように押し込む。
リルはその動きを見ていた。
フィンは立ち上がった。
床板の隙間に隠していた小袋を出す。中には、銅貨が二枚と、欠けた硬貨が一つ。薄い銀の飾り板は、もうない。切れた鎖もない。買い戻す時に出したものは、戻ってこない。
ブラムの店へ行けば、端を分けてくれるかもしれない。
教会へ行けば、水は飲めるかもしれない。
でも、どちらも、明日の分までは出ない。
フィンは小袋を戻した。
その奥に、細い金具があった。
針より太く、鍵より頼りない。曲げた端が少し黒くなっている。昔、壊れた箱から抜いて、少しずつ削ったものだった。何度も使ったせいで、先だけが鈍く光っている。
フィンはそれを手に取った。
リルの袖を見る。
長すぎる袖は、何度折っても落ちてくる。床の木片に引っかかる。水を飲む時には濡れる。犬の鼻を追った時も、檻の中でも、病院の門の前でも、リルはその袖の奥から世界を見ていた。
「こっち向け」
リルはすぐには動かない。
フィンは自分の袖をつまんで見せた。それから、リルの袖の端を指した。
リルはフィンの口元を見て、少し遅れて、自分の袖を見る。
フィンは近づいた。
急に引っぱらない。袖の布だけを持ち上げる。リルの指に触れないように、端を折る。前にも折った。折っても、歩けば落ちる。だから、今日は古い糸のほつれを拾い、細い金具で布に通そうとした。
うまくいかなかった。
布が弱い。穴を広げれば破れる。糸は短い。結ぼうとすると、指から逃げる。
リルは、フィンの手元を見ている。
手つきがいつもと違うことは、分かるのかもしれない。パンを置く時より、瓶を支える時より、フィンの指は硬かった。
「動くなよ」
リルは動かない。
ただ、古い布を抱える指が少し強くなった。
フィンは金具の先を布へ通した。ほつれた糸を引っかけ、袖の端を折り込む。見た目は悪い。片方だけ短くなったように見える。長くもつはずがない。
それでも、床を引きずるよりはましだった。
もう片方も直そうとして、フィンはやめた。
片方だけで時間がかかりすぎている。
外の道では、人の声が増え始めていた。荷車の音もする。市場へ向かう軽い車輪ではない。もっと重い音だった。石を踏むたび、低く鳴る。
食べ物の匂いが、風に混じった。
麦か、豆か、袋に詰められた何か。どこへ運ばれていくのかは見えない。けれど、荷車の板が沈むほど積まれていることだけは、通り過ぎる影で分かった。
フィンは戸口の方を見た。
町には、食べ物がある。
病院には粥がある。店には棚がある。荷車には袋が積まれている。
なのに、リルは自分の欠片を削って、フィンの方へ寄せた。
フィンは細い金具を握った。
それから、床板の割れ目を見た。廃屋の奥、リルが座る場所のすぐ横。釘の出た板をどかした下に、細い隙間がある。前にも何度か、銅片や紙切れを押し込んだ場所だ。
フィンは金具をそこへ戻した。
持っていくつもりだった。
でも、戻した。
持っていけば、何かに使えるかもしれない。置いていけば、ただの細い鉄だ。けれど、リルのそばに何も残さず出るのが、急に嫌になった。
リルは、金具が隙間へ消えるのを見ていた。
何の道具かは分かっていない。
ただ、フィンが大事そうに持っていたものを、床の中へしまったことだけは見ている。
「触るなよ」
リルは答えない。
フィンは言い直さなかった。
触るなと言っても、分からないかもしれない。分かっても、必要な時にどうすればいいのかまでは伝わらない。
戸口の方で、風が鳴った。
フィンは残ったパンの皮を二つに割った。片方をリルの前へ置く。もう片方は、自分の服へ入れた。さっきリルが残した欠片とは別の場所へ。
リルはパンではなく、フィンを見ていた。
いつもなら、食べ物を置けばそちらへ目が落ちる。今日は違った。フィンの上着の内側。腰のあたり。床の隙間。折られた袖。順番に見て、最後にフィンの口元へ戻る。
フィンは戸口へ向かった。
一歩出る前に、振り返る。
リルは壁際に座っている。片方だけ短くなった袖を膝の上に置き、古い布を抱えていた。白い壁の中ではない。灰色の上着でもない。屋根の穴から落ちる光の中にいる。
ここが安全な場所だとは思わない。
犬は来る。子どもも来る。檻の馬車も、病院の話も、町の目も、全部外にある。
それでも、今はここしかなかった。
「リル」
呼ぶと、少し遅れて顔が上がる。
フィンは口を開いた。
すぐ――
そこまで、喉の奥で形になった。
続きが出なかった。
いつもの腰袋を取るのとは違う。荷車の影に紛れて、角を曲がれば終わる話ではない。あの重い車輪の音を聞いてから、フィンの中で何かがずれていた。
今日の欠片を盗るだけでは、明日は同じになる。
明日の欠片を盗っても、その次も同じになる。
リルは、フィンの口が止まったのを見ていた。
意味は分からなくても、止まったことは分かる。
フィンは別の言葉を探した。
見つからなかった。
言えることは、どれも嘘に近かった。
すぐ。
あとで。
ここにいろ。
平気だ。
どれも、リルの前に置けなかった。
外で、荷車の車輪が重く鳴った。
フィンは戸口に立ったまま、リルを見た。
リルは片方だけ折られた袖を少し見て、それから、床板の隙間へ目を落とした。細い金具が消えた場所だった。もう見えないはずなのに、そこを見ていた。
フィンは喉の奥を押さえるように、歯を合わせた。
「……俺の分まで残すなよ」
それだけ言った。
リルはパンを見なかった。
フィンの口元を見ていた。
フィンは戸板を押した。腐った木が小さく鳴る。外の光が細く入り、すぐ背中に当たった。
もう一度だけ、言おうとした。
すぐ戻る。
言えなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




