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第16話 戻らない足音

挿絵(By みてみん)

戸板の音が背中で消えたあとも、フィンはしばらく足を速めなかった。


走れば、廃屋から逃げたみたいになる。急げば、リルの前で言えなかった言葉が追ってくる気がした。


川沿いの道は、夕方の湿りを含んでいた。荷車の轍に水が残り、踏むと泥が靴の横へはねる。市場の方からは、店じまいの声と、縄で荷を締める音が流れてきた。


服の内側は軽い。


いつもの細い金具は、もうない。


床板の隙間に戻した。リルが見ていた。意味は分からないはずなのに、金具が消えた場所を、ずっと見ていた。


フィンは服の折り目を指で探り、何もないことを確かめてから、すぐ手を離した。


今日は、あれでは開かない。


壊れた塀の角に、トマがいた。


壁にもたれて、道の先を見ている。偶然そこにいる顔ではなかった。フィンが足を止める前に、トマの方が顎を上げた。


「行くのか」


「どこへ」


「その顔で、教会じゃないだろ」


フィンは答えなかった。


トマは笑わない。いつもの軽さもなかった。片方の袖口が裂けていて、赤く荒れた手首が見えている。そこを隠す気もないまま、トマはフィンの後ろを見た。


「リルは」


フィンは道の泥を見た。


言わなければいい。言わなければ、トマは知らないままでいられる。知らなければ、巻き込まれない。


けれど、廃屋にはリルがいる。


「……廃屋」


「ひとりか」


フィンは顔を上げた。


「廃屋にいる。一人だ。俺が戻らなかったら、あいつはそこに残る」


「言われても行かねえよ」


トマはすぐに返した。


その早さが、かえって本当だった。


「俺は行かない。倉の方も、詰所の方も。見つかったら終わりだ」


フィンは返さなかった。


トマは舌打ちした。


「そういう顔で黙るな。廃屋って言った時点で、知らねえふりできなくなるだろ」


遠くで馬が鼻を鳴らす。荷の縄が締まり、誰かが短く悪態をついた。


「廃屋だな」


トマが言った。


フィンは返事をしなかった。


トマも、それ以上聞かなかった。止めもしない。一緒にも来ない。ただ、フィンの横をすり抜けるように道を空けた。


フィンは歩き出した。


背中に、トマの声が落ちた。


「捕まんなよ」


軽く言うには遅すぎる声だった。


フィンは振り返らなかった。


水路沿いの古い石段に、子どもが四人集まっていた。


誰も大きな声は出していない。昼の市場で見ればただの腹を空かせた子どもだが、夕方の国の倉へ続く道で固まっていれば、それだけで目立つ。


「遅い」


いちばん背の高い少年が言った。


「まだ荷車が残ってる」


フィンが返すと、少年は舌打ちした。


「だから今なんだろ。中に詰まってる間に入るんだよ」


「見張りも増える」


「古い裏扉だ。見張りは表にいる」


別の少年が、ぼろ布に包んだものを出した。


粗い古鍵だった。


鍵というより、曲がった鉄片に歯を削りつけたものに近い。きれいな店の鍵穴には入らない。だが、古い倉の金具なら、引っかかるかもしれない。


「これで開く」


少年は言った。


言い方だけは簡単だった。


フィンは古鍵を受け取った。


重い。手になじまない。先が少し曲がっていて、歯の一本は削りすぎている。こんなものを差して折れたら、扉は開かないどころか、逃げる時間もなくなる。


「誰が試した」


「開くって聞いた」


「誰から」


「知ってるやつからだよ」


少年は目をそらした。


フィンは古鍵を布で包み直した。


石段の下にいた小柄な子が、やけに道の奥を気にしていた。さっきから何度も、同じ曲がり角を見る。腹が減って落ち着かないだけかもしれない。怖くなって逃げたいだけかもしれない。


フィンはその子を見た。


向こうは目を合わせなかった。


「行くぞ」


背の高い少年が先に立った。


国の物資貯蔵施設は、町の端にあった。


高い壁に囲まれ、表には荷車が二台残っている。袋を積んだ荷車だった。麻袋の口から白い粉がこぼれ、車輪の跡に薄く散っている。


粉の匂いがした。


パンの匂いではない。焼けた匂いでもない。乾いた麦の、まだ腹には入らない匂いだった。


フィンの腹が、小さく鳴りかけた。


奥歯を合わせて止める。


腹を満たすだけなら、麦でいい。


でも、町を出るなら、それだけでは足りない。途中で替えられるものも、銭も要る。リルを連れて、明日の朝も、その次の夜も越えるなら、廃屋の床に残した欠片だけではどうにもならない。


考えすぎると、足が戻りそうになった。


フィンは壁の裏へ回った。


表の荷を数える声、馬をなだめる声、木箱を置く音が、壁越しに少し遅れて届く。裏の扉は低く、黒ずんだ金具がついていた。


古い。


だが、古いから開くとは限らない。


「早く」


背の高い少年がささやいた。


フィンは膝をつき、古鍵を布から出した。


金具に差す。


入らない。


古鍵の先が入口で止まり、鉄が小さく鳴った。


その音だけで、全員が動きを止めた。


「合わねえんじゃ」


「うるさい」


フィンは古鍵を抜かなかった。


力で押せば折れる。引けば音が出る。鍵穴の奥ではなく、手前の欠けたところに歯が当たっている。


少しだけ傾ける。


古鍵の曲がりが、金具の縁をこすった。


ぎ、と短く鳴る。


フィンは唇の内側を噛んだ。


もう少し下。


押す。


奥で、鈍い引っかかりが外れた。


扉がわずかに動いた。


誰かが息を飲む。


背の高い少年が先に隙間へ体を入れた。続いて二人が入る。フィンは古鍵を抜こうとして、少し遅れた。金具から抜けた鉄は、指に冷たかった。


中は暗かった。


けれど、何もない暗さではなかった。積まれた玄麦袋が、壁のように並んでいる。袋の間には粉が落ち、踏むと靴底に白くついた。


食べ物が、そこにあった。


廃屋の紙包みより、ブラムの皿の欠片より、病院の門の内側からした粥の匂いより、ずっと多く。


多すぎて、すぐには腹につながらなかった。


「小さい袋に移せ」


背の高い少年が言った。


別の子が持ってきた布袋を広げる。玄麦袋の口に指をかけようとして、ほどけないと分かると、歯で噛もうとした。


「破るな。音が出る」


「じゃあどうすんだよ」


フィンは玄麦袋の縫い目を見た。


細い金具があれば、糸をすくえたかもしれない。


床板の隙間に置いてきた金具が、指の中にない。


代わりにあるのは、粗い古鍵だけだった。


その時、外で足音がした。


遠くではない。


表の見張りが回ってきた足音でもない。


最初から裏扉へ向かってくる足音だった。迷いがない。数も一人ではない。


背の高い少年が、玄麦袋から手を離した。


「なんで」


誰かが扉の方へ走った。


開いた扉の先で、灯りが揺れた。


「そこまで」


声は大きくなかった。


だから、余計に逃げ場をふさいだ。


若い憲兵が二人、裏扉の外にいた。少し遅れて、黒い外套の男が壁の影から出てくる。


アルドだった。


剣に手はかけていない。走ってきた顔でもない。ただ、そこに来ることを最初から知っていたように立っていた。


背の高い少年が横へ飛んだ。


袋の山と壁の隙間。子どもなら一人通れる。フィンも見た瞬間に分かった。そこから奥の小窓へ行ける。窓板が腐っていれば、外へ抜けられるかもしれない。


ひとりなら。


フィンは足を出しかけた。


足は逃げ道を知っていた。


けれど、手の中の古鍵だけが、そこへ行かせなかった。


扉は開いている。金具にはこすれた跡がある。床には粉が落ちている。玄麦袋の前にいる。古鍵を持っている。


ここで捕まれば、腹を減らした子どもの盗みでは済まない。


背の高い少年が隙間へ入ろうとして、憲兵に襟をつかまれた。別の子は袋の陰へ伏せたが、すぐ腕を引き上げられた。


「俺じゃない」


小柄な子が、口を開いた。


さっきから曲がり角ばかり見ていた子だった。


「鍵は、そいつが持ってた」


フィンはその子を見なかった。


見れば、殴りたくなる。


殴れば、もっと悪くなる。


アルドの目が、フィンの指へ落ちた。


「出せ」


フィンは動かなかった。


若い憲兵が近づき、フィンの指から古鍵を取った。抵抗すれば、そこで終わる。抵抗しなくても、終わりに近い。


古鍵は、憲兵の手の中で粗末に見えた。


でも、証拠としては十分だった。


「これは、お前のか」


アルドが聞いた。


フィンは答えなかった。


「誰から受け取った」


答えない。


「中に何人いる」


答えない。


アルドは怒鳴らなかった。


その代わり、フィンの顔を長く見た。市場で見た時と同じ目だった。殴る目ではない。見逃す目でもない。線を引く目だった。


「まだ言っていないことがあるな」


フィンの舌が動きかけた。


ない、と言えば、嘘になる。


ある、と言えば、廃屋へつながる。


リルの名が、喉の奥まで来て止まった。


言わない。


言えない。


言えば、大人が廃屋へ行く。病院か、別の場所か、どこかの帳面に入る。リルは返事もできないまま、フィンの知らないところへ運ばれる。


フィンは口を閉じた。


アルドはそれを見ていた。


「連れていけ」


若い憲兵がフィンの腕を取った。


強くはない。だが、外れない力だった。


扉の外へ出される時、フィンは一度だけ廃屋の方角を見ようとした。壁が邪魔で、何も見えない。水路も、壊れた塀も、リルが座っている床も見えない。


見えたのは、玄麦袋からこぼれた粉だけだった。


靴跡の中で、白くつぶれていた。


廃屋では、戸口の光が少しずつ細くなっていた。


リルは壁際に座っている。


膝の上には古い布があり、片方だけ短くなった袖が、もう片方より少し上で止まっていた。床板の隙間には、細い金具がある。見えない。けれど、リルは時々そこへ目を落とした。


パンの欠片は、まだ床にあった。


フィンが言った言葉の意味は、分からない。


残すなよ。


その言葉の形だけが、フィンの口の動きだけが、リルの中に残っているようだった。


外で、荷車の影が道の奥へ消えた。


犬の影もない。


リルは戸口を見た。


暗くなっても、フィンの影は来なかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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