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第17話 細い金具

挿絵(By みてみん)

倉の方から、人の声が流れてきた。


夕方の町は、店じまいの音でいつもよりざわついている。荷車の縄を締める音。水桶を片づける音。売れ残りを包む紙の音。けれど、その中に混じった声だけは、トマの耳に妙にはっきり残った。


「裏から入ったらしい」


「子どもだろ」


「鍵を持ってたってさ」


トマは、壊れた塀の陰で足を止めた。


話しているのは、荷を引いてきた男たちだった。誰もトマを見ていない。男の一人が肩の縄を外し、地面に唾を吐く。


「何人かいたらしいが、逃げたのもいるってよ」


「捕まったのは?」


「細いのが一人。アルドが連れてった」


その名で、トマの喉の奥が乾いた。


フィンだ。


名前は出ていない。顔の話もない。けれど、トマには分かった。夕方、壊れた塀の角で見た顔。教会ではない方へ行く目。廃屋、と小さく言った声。


リルは、廃屋。


ひとり。


トマは詰所の方を見た。


通りの先に、明かりが見える。昼間とは違う固い光だった。出入りする大人の影が伸び、戸口の前で槍を持った憲兵が立っている。あそこへ行けば、フィンがいるかもしれない。


行ったところで、何ができる。


トマは壁に背をつけた。


フィンを助ける力なんてない。詰所の戸を叩いて、何を言う。あいつは腹が減ってただけだとでも言うのか。リルのためだったと話すのか。そんなことを言えば、廃屋までつながる。


自分も捕まる。


フィンの話まで、余計に広がる。


リルも見つかる。


トマは詰所へ向かう道から目を外した。


「知るかよ」


口に出すと、思ったより弱い声になった。


フィンが勝手に行った。自分は止めた。倉にも行かないと言った。詰所にも行かないと言った。そう言ったのに、フィンは行った。


だから、知らない。


そう決めて、トマは反対の道へ一歩出た。


そこで、足が止まった。


廃屋。


フィンは、言った。


リルは、廃屋。


トマは舌打ちした。壁を拳で軽く叩く。痛くもない。音もろくに出ない。余計に腹が立った。


「何で言うんだよ」


知らなければ、通り過ぎられた。


トマは詰所ではなく、川沿いの道へ向かった。


倉へ続く表の道は避けた。大人の足音が近づくたび、荷の陰へ寄る。誰かが倉の話をしていれば、少し前で曲がる。走らない。走れば、逃げているように見える。


廃屋までの道は知っている。


前に来た時と同じ、壊れた塀の奥。釘の出た板。戸板の半分割れた入口。フィンが拾った子を隠していた場所。


あの時、トマは言った。


抱えて逃げられると思ってんのか。


フィンは置いていかないと言った。


そのフィンが、今はいない。


廃屋の前に着くころには、空の色が落ちていた。戸口の中は薄暗い。風が壁の隙間を抜け、乾いた藁がかすかに鳴る。


トマは戸口で立ち止まった。


中から声はしない。


犬の姿もない。


トマは板を避けて、中へ入った。


リルは壁際に座っていた。


膝の上には古い布がある。片方だけ短く直された袖が、もう片方より少し上で止まっている。床にはパンの欠片が落ちていた。食べたのか、置いたままなのか分からない。戸口の光が届く場所に、細い粉が散っていた。


リルはトマを見た。


すぐに顔を上げたわけではない。戸口の影が動いたのを見て、そのあと、少し遅れてトマの口元へ目を移した。


「……おい」


リルは返事をしない。


フィンではないから。


そのことが、トマにも分かった。


「フィンは」


言いかけて、止まる。


捕まった。


詰所にいる。


今夜は来ない。


どれも、リルに届く言葉ではなかった。届いたところで、リルはどうすればいい。立って詰所へ行けるわけでもない。大人に説明できるわけでもない。


リルは戸口を見た。


トマが入ってきた場所。


そこから、フィンがいつも入ってきたのかもしれない。パンを持って。水を持って。怒った顔で。何も言えない顔で。


リルの喉が、小さく動いた。


「フェン……」


トマは息を止めた。


正しくはない。


けれど、誰を呼んだのかは分かった。


リルは古い布を抱え直した。戸口を見る。トマを見る。また戸口を見る。その名を口にすれば戻ると思っている顔ではなかった。


ただ、いないものを探している。


トマは口の中を噛んだ。


「フィンは今夜、戻ってこねえ。ここに残ったら、お前だけになる。だから置いとけねえ」


きつい言い方になった。


リルは意味を理解した顔をしない。ただ、トマの口元と肩が硬くなったことだけは見えたように、古い布を握る指が強くなった。


トマは目をそらした。


床板の隙間が見えた。


リルの目も、そこへ落ちていた。


何かある。


トマはしゃがんだ。床板の割れ目に指を入れる。埃が爪の間に入り、古い木のささくれが指先に刺さりかけた。奥に、冷たいものが触れる。


引き出すと、細い金具だった。


針より太く、鍵より頼りない。端が少し曲がり、使い古された先だけが鈍く光っている。


トマはそれを見た。


フィンのものだ。


何度も見たことがある。腰袋の紐を探る時、箱の隙間をいじる時、店の裏で小さな金具を外す時。フィンはこういうものを服の内側に隠していた。


それが、ここにある。


トマは倉の噂を思い出した。


鍵を持ってたってさ。


捕まった子どもが持っていたのは、これではない。


これを置いて、別の鍵で行った。


リルは金具を見ていた。


「これ、あいつのだろ」


リルは答えない。


でも、目は金具から離れなかった。


トマは金具を握った。軽い。こんなもの一つで、リルが動くとは思えない。けれど、言葉だけよりはましだった。


外で、男たちの声が近づいた。


「倉の子ども、明日には決まるだろうな」


「国の物に手を出したんだ。腰袋とは違う」


「アルドも今回は見逃さないだろ」


声は廃屋の前を通るわけではなかった。通りの向こうから流れてきただけだ。それでも、トマの背中は冷えた。


明日。


決まる。


見逃さない。


トマは詰所の方を思った。


行けない。


足が動かない。


フィンを助けには行けない。


その事実が、腹の中で石のように重くなった。


トマはリルを見た。


リルはまだ戸口を見ている。古い布を抱え、片方だけ短くなった袖を膝の上に置いている。床のパンには手を伸ばさない。水もない。夜になれば、廃屋はもっと暗くなる。


ここに一人で置くのか。


フィンがいない場所で。


トマは金具を握り直した。


「俺は、あいつのとこには行かない」


リルはトマの口元を見た。


意味が届いているかは分からない。


それでも、トマは続けた。


「行けねえ」


言った瞬間、胸の奥がきしんだ。


情けない声だった。誰かに聞かれたら笑われる。フィンが聞いたら、たぶん何も言わない。その方がもっと嫌だった。


トマは金具をリルの前へ出した。


「でも、お前をここには置かない」


リルは金具を見る。


戸口を見る。


また金具を見る。


喉が動いた。


「フェン……」


二度目の声は、さっきより細かった。


フィンを呼んだのか。金具を見て思い出したのか。トマには分からない。ただ、その声を聞いたら、もう背を向けられなかった。


「教会へ行く」


トマは自分の胸を指した。次に、戸口を指す。金具を床に置き、その向こうへ指を伸ばす。


「白い壁で、戸口に長椅子がある。子どもが飯をもらうとこだ」


リルはトマの指を見る。


すぐには動かない。


トマは、フィンがリルをどう動かしていたかを思い出した。言葉だけでは足りない。急かせば止まる。強く引けば、もっと動かなくなる。


面倒なやつだと思った。


でも、フィンは毎日これをやっていた。


トマは金具をリルの手元へ置いた。握らせない。押しつけない。床の上、袖の先から届くところに置くだけにした。


リルの指が、古い布の端から少し出る。


金具に触れた。


冷たかったのか、指が一度引っ込む。


それから、もう一度触れる。


トマは待った。


外のざわめきが遠ざかる。廃屋の中には、壁の隙間を抜ける風と、木の乾いた匂いだけが残った。


リルは戸口を見た。


フィンが入ってくるはずだった場所。


そこを長く見た。


「フェン……」


三度目は、ほとんど吐いた音に近かった。


呼んだというより、そこにない姿を確かめる声だった。


トマは床を見た。


「今は、俺で我慢しろ」


それがリルに届いたかは分からない。


リルは金具から指を離し、古い布を抱え直した。床に手をつく。体が前へ傾く。膝が少し動く。


立つまでが遅い。


トマは手を出しかけて、止めた。


リルは浅く腰を上げ、片方だけ短い袖を揺らしながら立った。足元のパンの欠片を見て、少し止まる。拾うのかと思ったが、指は出なかった。


トマはパンを見た。


置いていけば、鼠が食う。持っていけば、少しは腹に入るかもしれない。


トマは欠片を拾った。埃を軽く払う。自分で食べる気にはなれず、紙もないので、服の端に包む。


「行くぞ」


リルはトマの口元を見る。


フィンを待つ時とは違う。よく分からない相手についていくかどうか、迷っているようにも見えた。


トマは金具を持ち上げた。


「これも持ってく」


リルの目が、金具を追う。


それで十分だった。


廃屋を出ると、道はもう暗くなりかけていた。


市場の方にはまだ人がいる。灯りがいくつか揺れ、笑い声も聞こえる。倉で子どもが捕まった話をしている大人たちも、今ごろ酒を飲みながら同じ話を繰り返しているのかもしれない。


トマは人の少ない道を選んだ。


リルは遅い。


石の段差を見る。水桶を抱えた女が通ると、その揺れを目で追う。遠くの犬が路地を横切れば、足が止まりかける。トマが先へ行きすぎると、古い布を握ったまま戸惑ったように立つ。


「こっち」


曲がり角の手前で待つ。


リルは少し遅れて来る。


トマは舌打ちしそうになって、やめた。急に動けば、リルが止まる気がした。


「よくやってたな、あいつ」


小さく言った。


リルはトマの口元を見たが、意味は拾わなかった。ただ、口元や肩が荒く動いていないことだけは見えたのか、次の段差では少し早く足を出した。


教会の白い壁が見えた時、トマはようやく息を吐いた。


立派な建物ではない。雨の跡が残り、戸口の前の古い長椅子は片脚が少し歪んでいる。それでも、廃屋よりは明るかった。戸の隙間から、薄い灯りが漏れている。


リルはその灯りを見て、足を止めた。


覚えているのかもしれない。椅子。水の椀。ヘレナの口元。朝、と動いた口の形。


トマは戸口を叩いた。


一度。


返事を待つ。


中で人の気配が動いた。


戸が開く。


シスター・ヘレナが立っていた。黒い衣の袖はきちんと折られている。手には布巾があり、たぶん奥で片づけをしていたのだろう。


ヘレナはトマを見た。


次に、リルを見た。


古い布。片方だけ短い袖。トマの手にある細い金具。


そして、フィンがいないこと。


「フィンは?」


トマはすぐには答えられなかった。


リルは戸口の中を見ている。長椅子のある方へ視線が動く。けれど、敷居の外で止まったままだった。


ヘレナは戸口をふさがない位置へ半歩引いた。


「リル」


ヘレナの口元が動いて、リルの顔が少し遅れて上がる。


ヘレナは急かさない。手も伸ばさない。


トマは細い金具を握った。掌に角が当たる。痛いほどではない。けれど、そこにあることだけは分かる。


「倉で、捕まった」


ヘレナの手が、布巾を持ったまま止まった。


驚きの声は出なかった。


ただ、目だけがトマへ戻る。


「フィンが?」


トマは頷かなかった。


頷けば、それで決まる気がした。


「止めた。倉にも詰所にも行かねえって言った。でも、あいつが行った」


ヘレナは責めなかった。


それが、少しだけ痛かった。


トマは金具を差し出した。


「これ、廃屋にあった。リルが見てた」


ヘレナは細い金具を受け取らず、まずリルを見た。


「中へ」


リルは敷居を見る。ヘレナの靴先を見る。トマの手にある金具を見る。


それから、片足を上げた。


ゆっくり、敷居を越える。


古い布の端が、戸口の木をかすめた。


トマはその後ろで立っていた。


中へ入っていいのか分からなかった。入れば、フィンの話をしなければならない。入らなければ、逃げたことになる。


ヘレナは戸口を開けたまま、トマを見た。


「聞かせてください」


トマは詰所の方を一度だけ振り返った。


見えるはずもない。壁と屋根の向こうにあるだけだ。


それでも、あちらから何かが近づいてくる気がした。


トマは教会の中へ足を入れた。


「明日、決まるって」


声がかすれた。


「大人が、そう言ってた」


ヘレナの顔は、まだ崩れなかった。


戸の隙間から、夜の風が冷たく入った。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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