第18話 縄の前夜
教会の戸が閉まっても、夜の冷たさは床の上に残っていた。
リルは長椅子の端に座っている。
膝の上には古い布があり、片方だけ短く直された袖が、もう片方より少し上で止まっていた。椅子の横には、トマが廃屋から持ってきた細い金具が置かれている。
リルはそれを見ていた。
握らない。声も出さない。ただ、見ている。
ヘレナは戸口の脇で、トマの話を聞いた。
「倉の方で、捕まったって」
トマの声は、いつもより細かった。
「名前は出てない。でも、細いのが一人、アルドに連れていかれたって。鍵を持ってたって、大人が言ってた」
「見たのですか」
「見てねえよ」
すぐに返したあと、トマは床を見た。
「でも、フィンだ。あいつ、そっちへ行った。俺に、リルは廃屋だって言って」
リルの目が、トマの口元へ動いた。
意味を追っている顔ではない。トマの口元と肩が硬くなったから、そちらを見ただけだった。
トマは気づいて、言葉を止めた。
ヘレナはリルの前に木椀を置いた。水が少し入っている。正面ではなく、少し横。見えるが、急かされているようにはならない場所だった。
「リル」
少し遅れて、リルの顔が上がる。
「ここにいなさい」
リルはヘレナの口元を見る。
それから、戸口を見た。
トマはその目を見ないように、細い金具へ視線を落とした。
「俺、詰所には行かねえ」
「今行っても、会わせてもらえるとは限りません」
「そうじゃない」
トマは唇を曲げた。
行けない。
言葉にすれば、それだけだった。
ヘレナは責めなかった。
「帰るなら、明るい道を通りなさい」
「ここにいろとは言わねえのかよ」
「座っていられるなら、椅子はあります」
トマは長椅子を見た。
リルの横には、まだ少し場所がある。
けれど、そこへ座れば、戸口を見続けるリルから逃げられなくなる。
「……いい」
トマは背を向けた。
戸を開ける時、一度だけ振り返る。
リルはトマではなく、細い金具と戸口を交互に見ていた。どちらにもフィンがいないことだけを、まだ分からないまま確かめているようだった。
トマは何も言えず、外へ出た。
戸が閉まる。
戸の隙間の光が細く消えていくのを見て、リルの肩が小さく動いた。
ヘレナは奥から薄い布を持ってきて、長椅子の背に置いた。リルの肩にはかけない。
「寒ければ、ここにあります」
リルは布を見なかった。
口が、少し開く。
「フェ……」
音はそこでほどけた。
ヘレナは返事をしなかった。
ただ、木椀を倒れにくい場所へ少し寄せた。
詰所の奥には、麦の粉の匂いがした。
食べ物の匂いではない。袋からこぼれ、靴底に踏まれ、湿った床に薄く広がった匂いだった。
フィンの上着にも、白い粉がついている。
払っても落ちなかった。指でこすると、かえって布の目に入る。
机の上には、粗い古鍵が置かれていた。
鍵と呼ぶにはひどい。歯は不揃いで、先は少し曲がっている。倉の裏扉に差した時、金具に引っかかって、ぎ、と短く鳴った。
その音のあと、足音が来た。
早すぎた。
まるで、来る前から待たれていたみたいだった。
フィンは机を見ないようにした。
部屋の隅では、一緒に入った少年が震えていた。背の高い方ではない。夕方、水路沿いで何度も曲がり角を見ていた小柄な子だ。頬に粉がつき、片方の靴紐がほどけている。
「俺は奥まで入ってない」
少年はさっきから同じことを言っていた。
「袋も持ってない。扉を開けたのは、あいつだ」
若い憲兵が、フィンを見た。
フィンは何も返さなかった。
古鍵を受け取ったのは自分だ。裏扉に差したのも自分だ。玄麦袋の縫い目を見て、どう開けるか考えたのも自分だ。
盗みに入った。
そこだけは、どんな言い方をしても変わらない。
戸が開いた。
アルドが入ってきた。
部屋の空気が少し固くなる。若い憲兵は背を伸ばし、小柄な少年は顔を伏せた。
アルドは机の上を一度見た。
古鍵。粉のついた布片。半分ほど麦の入った小袋。
若い憲兵は何も聞かずに場所を空けた。アルドがここへ入ってくることに、誰も驚いていない顔だった。
倉の鍵も、門を通る荷も、町の何軒かの店も、どこかでこの男の帳面につながっている。そういう話を、フィンは路地の端で何度も聞いたことがあった。子どもの盗みはすぐ捕まるのに、大人の帳面はなかなか開かれない。
それから、フィンを見た。
「名は」
フィンは答えなかった。
アルドは急かさない。
「前にも聞いた。痩せた少年。腰袋を切る。荷車の影を使う。最近は、小さな少女を連れている」
リルのことだ。
縛られたフィンの指が、わずかに動いた。
アルドの目はそこを見逃さなかった。
「その子はどこにいる」
フィンは床を見た。
白い粉が落ちている。
倉の床と同じ粉だった。
「お前が黙れば、その子が消えるわけではない」
アルドの声は荒くなかった。
だから、逃げ道がなかった。
「国の倉を破った。古鍵を持っていた。中に入っていた。仲間は、お前が開けたと言っている」
小柄な少年が、びくりと肩を揺らした。
フィンはそちらを見なかった。
「なぜ入った」
答えはあった。
パンが薄くなったから。
リルが自分の分を少し残したから。
病院の高い窓を見たから。
町にいれば、リルの行く場所が自分の手から離れると思ったから。
でも、それを言えば、リルが出る。
リルがどこにいるか、フィンは知らない。まだ廃屋の床に座っていると思っている。片方だけ直した袖で、古い布を抱え、戸口を見ていると思っている。
そこへ、大人の目を向けるわけにはいかなかった。
「腹が減ってた」
フィンは言った。
アルドは動かなかった。
「何を盗るつもりだった」
「麦」
「麦だけか」
フィンは少し間を置いた。
「売れるものがあれば、それも」
若い憲兵の顔が険しくなる。
アルドは憲兵を見ずに、フィンへ言った。
「誰に売る」
「決めてない」
「少女のためか」
部屋の音が、そこで薄くなった。
小柄な少年の震える音。外を通る靴音。机の角に爪が当たる小さな音。
フィンは、アルドの顔を見た。
助けを差し出す顔ではない。誘い出そうとしている顔でもない。ただ、線の前に立っている人間の顔だった。
言えば、どうなる。
あの子に食わせるためだと言えば。
病院へ回されたくなかったと言えば。
町を出る金が要ったと言えば。
たぶん、罪は消えない。
リルの名だけが、ここに置かれる。
フィンは奥歯を合わせた。
「俺の腹の話だ」
若い憲兵が短く息を吐いた。
小柄な少年が、ちらりとフィンを見た。
アルドだけは、顔を変えなかった。
「それで国の倉を破ったのか」
「そうだよ」
「ほかに理由はないか」
「ない。あの子は関係ねえ」
嘘だった。
全部ではない。
腹は減っていた。麦を見て、自分も食えると思った。袋の壁を見た時、廃屋の紙包みより先に、自分の腹が鳴りそうになった。
だから、完全な嘘ではない。
でも、いちばん言わなかったものが、いちばん大きかった。
アルドはしばらくフィンを見ていた。
やがて、机の上の古鍵を布で包ませた。
「明日の朝まで、奥へ」
若い憲兵がフィンの腕を取った。
フィンは逆らわなかった。
今暴れれば、ただ悪くなる。走れる道もない。壁。戸。槍を持つ大人。粉のついた服。机に置かれた粗い古鍵。震えた仲間の声。
全部が、フィンを倉の中へ戻していく。
奥の狭い部屋へ押し込まれる前、廊下の向こうで誰かの声がした。
「シスターが来ている」
フィンの足が止まりかけた。
若い憲兵が腕を引く。
「会わせる話じゃない」
「水だけでもと」
「上に聞け」
声は遠ざかった。
上、という言葉だけが廊下に残った。
誰の上なのか、フィンには分からない。憲兵の上か、倉の上か、アルドの上か。けれど、水一杯にも、誰かの許しが要る場所なのだということだけは分かった。
ヘレナだ。
フィンは振り返らなかった。
振り返れば、聞いてしまいそうだった。
リルはどこだ、と。
聞けば、ヘレナは答えるかもしれない。答えれば、リルがここにつながる。
フィンは奥の部屋へ入った。
戸が閉まる。
木と古い藁の匂いがした。床は硬く、壁の下の方には、誰かが爪でつけたような浅い傷がいくつもあった。
フィンは縛られたまま、壁にもたれた。
廃屋の床板の隙間を思い出す。
細い金具を戻した場所。
リルは気づいただろうか。
いや、リルは見ていた。フィンの手元を見ていた。金具が消えた床板の隙間を、ずっと見ていた。
倉になんか入らなければよかった。
あのパン片を食べてしまえばよかった。
病院の門の前で、あそこなら食えると思った自分を、そのままにしておけばよかった。
けれど、どれを選んでも、リルはどこかに残される。
橋の下。
檻の中。
高い窓の奥。
誰も来ない廃屋。
フィンは、そういう場所ばかり知っていた。
盗って、逃げて、腹を減らして、大人の足音がすれば隠れる。朝になればまた外へ出る。誰かの腰袋を見て、荷車の影を探して、捕まらなければそれで一日が終わる。
そんな明日しか、自分にはなかった。
リルまで、そこへ落としたくなかった。
あの子には、せめて、自分よりましな朝があってほしかった。
盗らなくても食える朝。
大人の影におびえなくていい朝。
戸口を見たまま、誰かを待ち続けなくていい朝。
半分に割ったパンを、盗んだ手で渡さなくてもいい朝。
長すぎる袖を、急いで隠すように直さなくてもいい朝。
誰かの口元を見て、遅れて拾った声を、そのまま置いておける朝。
それが欲しくて、倉へ入った。
麦の袋を見た時、腹は鳴りそうになった。売れるものがあれば、自分も食えると思った。町を出る銭にもなると思った。
嘘じゃない。
でも、リルを橋の下に戻したくなかった。檻の中にも、高い窓の奥にも、誰も来ない廃屋にも、渡したくなかった。
あの子のためだ、と言えば、リルの名がここに置かれる。机の上の古鍵や粉のついた服と一緒に並べられる。あの子まで、罪の理由にされる。
フィンは縛られた指を少し動かした。
袖を直した時の感触が、まだ指に残っている気がした。片方だけ短くなった袖。うまく結べなかったほつれ。リルがじっと見ていた、あの頼りない金具。今朝、残したパンの小ささ。
今夜、落ちていないだろうか。
水はあるだろうか。
パンは残っているだろうか。
犬が近くを通ったら、動いていないだろうか。
リルは、まだ戸口を見ているだろうか。
フィンは額を壁に寄せた。
置いたのは自分だった。
廃屋に。
あの子を。
自分よりましな朝へ押し出したかったのに、いちばん暗い場所へ残したのは、自分だった。
外で戸が閉まる音がした。詰所の表か、裏の荷置き場か、分からない。
フィンは顔を上げなかった。
夜が来る。
朝も来る。
けれど、その朝に、リルのところへ行ける足はもうなかった。
教会では、ヘレナがリルの前に薄い粥を置いていた。
鍋の底を水でのばしたものだった。米粒よりも水の方が多い。椀の縁は少し欠けている。
リルは椀を見ない。
戸口を見ている。
ヘレナは近づけすぎない場所に椀を置いた。急かせば、リルは止まる。遠ければ、届かない。
「少しだけ」
リルはヘレナの口元を見る。
それから、また戸口を見る。
細い金具は、古い布の上に置かれていた。リルの指が時々そこへ触れる。冷たさを確かめるように、すぐ離れる。
戸口の下を、人影がよぎった。
リルの顔が上がった。
フィンではなかった。
詰所へ行かせた教会の子どもが、戸口で息を整えている。ヘレナの顔を見てから、小さく首を振った。
「会わせてもらえませんでした」
「水は」
「受け取ってもらえませんでした。上の人に聞くって」
ヘレナは頷いた。
「ありがとう。奥へ」
子どもはリルを一度見て、すぐに目をそらした。
戸が閉まる。
風が止まる。
リルの口が、ゆっくり動いた。
「フェ……」
今度も、続かなかった。
ヘレナは長椅子の横に座った。近すぎない場所だった。触れようと思えば届くが、触れない距離。
しばらく、何も言わなかった。
詰所の奥で、フィンは目を閉じていた。
眠れたわけではない。
壁の向こうを歩く足音が近づくたび、体が硬くなる。誰かが咳をする。低い声が戸の向こうで交わされる。そのたびに、明日の朝という言葉が少しずつ近づいてくる。
トマは、廃屋の場所を知っている。
けれど、行くとは限らない。行けないと言った顔を、フィンは見ている。怖い時のトマは逃げる。そういうやつだ。責められない。自分だって、何度も逃げてきた。
フィンは縛られた指を少し動かした。
爪の間に、粉がまだ残っていた。
白い粉。
パンになる前の粉。
腹に入る前のもの。
廊下の向こうで、誰かが言った。
「朝、一番で運ぶ」
別の声が低く返す。
「アルドが立ち会う」
フィンは目を開けた。
何を運ぶのか、聞かなくても分かった。
けれど、誰も説明しに来なかった。
説明されなくても、朝は来る。
フィンは天井の黒い染みを見た。
廃屋の屋根の穴から落ちる夜露の染みとは違う。ここは雨が入らない。風もほとんど入らない。
なのに、廃屋よりずっと息がしづらかった。
リル。
声には出さなかった。
口の中でも、形にしなかった。
呼べば、その名をここに置いてしまう気がした。
教会の長椅子の上で、リルはまだ起きていた。
椀の粥は少しだけ減っている。自分で飲んだのか、ヘレナが支えたのか、誰にもはっきり分からないくらいの減り方だった。
細い金具は、古い布の上にある。
リルの指が、それに触れている。
戸口の外で、木の板が風に揺れ、灯りの端が動いた。
リルは顔を上げた。
ヘレナも戸口を見た。
そこには誰もいなかった。
灯りの届かない道だけが、暗く伸びていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




