表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/20

第19話 声にならない声

挿絵(By みてみん)

朝は、教会の扉の隙間から先に来た。


細く開いた隙間から、冷たい光が床に落ちている。夜のあいだ長椅子に残っていた湿り気が、白く薄く見えた。


リルは椅子の端に座っていた。


膝の上には古い布がある。片方だけ短く直された袖は、もう片方より少し上で止まっていた。椅子の横には、細い金具が置かれている。トマが廃屋から持ってきて、ヘレナがそこへ置いたものだった。


リルはそれに目を落とす。


それから、外へ目を戻す。


水の入った椀は、まだ少しも減っていない。


「リル」


ヘレナが声をかけた。


少し遅れて、リルの顔が上がる。口元を確かめ、また外へ目を戻す。


「今日は、外へ出ません」


リルは答えない。


言葉が届いた顔ではなかった。ただ、ヘレナの口元がいつもより硬く動いたことだけは見えたように、肩が小さく固まった。


教会の奥で、誰かが咳をした。


ヘレナは一度振り向いた。布を取りに行く。その短い間に、石段の向こうを行く人影が増えた。祈りのあとに散る足ではない。朝市へ向かう足でもない。大人たちは同じ方へ顔を向け、斜めの光を横切っていく。


リルの指が、細い金具に触れた。


冷たい先を押す。すぐ離す。


外の光の中を、何人かの影が通った。桶を抱えた女。荷車を押す男。子どもを抱え、急いで通り過ぎる男。


行き先はそろっていた。


リルは立った。


膝の布がずれかけ、短い方の袖が揺れる。金具は椅子の横に残ったままだった。


奥から戻ってきたヘレナが、出口の前で足を止める。


「リル」


ヘレナの口元は荒く動いていなかった。けれど、出口に立つ体が、道をふさいでいた。


それで、リルの足は一度止まった。


ヘレナは近づきすぎなかった。急に手を伸ばせば、リルはそこで固まる。そう分かっている距離だった。


「ここに」


リルはヘレナの口元を見る。


その目が、外へ動く。


通りの影が、また広場の方へ流れた。


リルは細い金具へ目を落とした。次に、外の光を見た。どちらにもフィンはいなかった。


声が漏れた。


「フェ……」


音は途中でほどけた。


ヘレナの足が動いた。


リルはその前に、敷居を越えた。走ったわけではない。ただ、外へ出た。光に顔をしかめ、布を胸に寄せる。


「リル、待ちなさい」


ヘレナは追おうとした。


けれど、リルの腕を取ることはできなかった。急に引けば、リルはその場で動けなくなる。通りには人がいる。広場へ向かう足がある。ヘレナは奥へ手で知らせ、戻るまでの短い間、リルから目を離してしまった。


その一瞬で、リルは通りの端へ出ていた。


大人の体が横を通る。リルは立ち止まり、その背中が離れるのを待った。それから、人の流れと同じ方へ、ゆっくり歩いた。


教会の前にも、石段の下にも、いつもの影はなかった。


いつもなら、先に立つか、曲がり角で待つか、少し離れた場所からこちらを確かめる。今日は、どこにもいなかった。


リルは道の端を歩いた。


桶を抱えた女が横を通る。揺れる水に目が行き、足が止まる。けれど、すぐに教会の方へ顔を向けた。違う。そこにもいない。


ブラムの店の裏手へ続く細い道に出た。


酒樽の匂いが薄く残っている。濡れた木箱の影。黒ずんだ板戸。フィンがいつも最後に手で押さえて閉めたもの。


リルはその前で立った。


布を抱えたまま、見上げる。


開かない。


板戸の隙間から、奥で人の口が動いているのが見えた。けれど、その中にフィンの顔はない。リルは戸に触れようとして、指を途中で下ろした。


また歩く。


市場の端に出る。朝の支度をする大人たちは、手を止めがちだった。台に野菜を並べる男が、通りの向こうへ顔を向ける。魚を入れた桶を運ぶ女も、同じ先を気にしている。


「広場だってよ」


「倉を破った子どもだろ」


「アルドが出るなら、本当なんだろうな」


言葉の意味は、リルの中で形にならない。


ただ、話す大人たちの顔が、一つの先へ向いていた。


広場。


人がそちらへ行く。


リルは、その背中を追った。


途中で、水路の角が見えた。


角の向こうで、水が白く落ちている。


水しぶきが石の上で細かく跳ねていた。以前、フィンが待ってくれた場所だった。濡れた石を踏まないように、前に立って止めた場所。フィンが自分の胸を指して、ゆっくり口を動かした場所。


リルの足が止まる。


口が開いた。


「フェ……」


水車は回っている。


けれど、そこにもフィンはいない。


リルは、水車の方へ曲がらなかった。


人の流れは途切れない。振り返る大人も、立ち止まる大人も、みんな同じ先を見ていた。


石の広い場所が近づくほど、人の足が増えた。


大人の背中が前をふさぐ。荷車の車輪が石の隙間で揺れる。誰かの外套が視界を遮る。知らない口の動きが頭の上を行き交う。


それでも、リルは進んだ。


押しのける力はない。すり抜ける速さもない。人と人の隙間が空くのを待って、半歩ずつ入る。布を抱え直し、短い袖の先から出た指を、布の中へ引っ込める。


広場の裏手では、ブラムが低い小屋の前に立っていた。


死体を運ぶ下働きの男が、小屋の戸に寄りかかっている。


ブラムの店に時々、余り物のパンを買いに来る男だった。


ブラムは昼食の包みを一つ渡した。


「粗末にするな」


男は包みを見て、眉をひそめる。


「何の話だ」


「今日の子どもだ」


「俺たちは死体を運ぶだけだ」


「分かってる」


ブラムはそれ以上言わなかった。


止められない。逃がせない。アルドが何をするかも知らない。できることは、死んだ後の扱いを少しでも荒くさせないことだけだった。


男は包みを懐へ押し込み、気まずそうに小屋の中を見た。


「見張りがいる。余計なことはできねえぞ」


「逃がせって話じゃねえ。払わされるのは、いつも弱い奴だ」


ブラムはそう言って、人の集まる方へ向かった。


その時、人垣の隙間に、小さな頭が見えた。


古い布。


片方だけ短い袖。


ブラムの足が止まった。


「……リル」


声は、ほとんど自分にだけ聞こえた。


リルは人垣の隙間から、台のある方へ出ようとしていた。


台が見えた。


木の台。


柱。


縄。


憲兵の靴。


アルドの黒い外套。


リルは、それらを順番には追わなかった。


台の上にいるフィンだけを捉えた。


フィンは高いところに立っていた。


両手が自由ではない。首のそばに、太い縄がある。いつものように、服の内側からパンを出さない。道の先を指さない。リルの歩く速さを確かめない。


こちらへ顔も向けない。


リルは人垣から出た。


石の上に足が入る。


見物人の一人が気づいて、眉を寄せた。


「おい、あの子」


リルは振り向かない。


フィンの方へ行こうとした。


足は速くならない。走る形にもならない。ただ、体だけが台へ向かっている。抱えた布が腕から滑り、片方だけ短い袖がさらに上へずれる。


ブラムが人垣を割った。


「リル!」


リルの足の前に膝を入れ、布ごと受け止めるようにして止めた。リルの体がぶつかり、布の端がブラムの肩にかかる。


「行くな」


リルはブラムを見ない。


ブラムの腕の向こうに、フィンがいる。


「そこは駄目だ」


リルは前へ出ようとした。


ブラムの腕に体が当たる。力は弱い。けれど、何度止めても、また前へ傾く。布が落ちかけ、ブラムが慌てて押さえた。


台の上で、フィンの指が動いた。


縛られているから、何もつかめない。


フィンは、リルへ顔を向けなかった。


見てはいけなかった。


ここで見れば、呼んでしまう。呼べば、リルの名が広場に置かれる。リルの名が、縄や古鍵や倉の粉と同じ場所に並ぶ。


だから見なかった。


リルの喉が震えた。


「う……」


それは泣き声の始まりに似ていた。


でも、泣き声ではなかった。


フィンはまだこちらを向かない。


「うー……あ……」


広場のざわめきが少し乱れた。


リルはブラムの腕を押した。押したというより、体ごとフィンの方へ行こうとしていた。足は止められている。腕も止められている。声だけが、ブラムの肩を越えていく。


「フェ……ン」


小さくはなかった。


けれど、名前としてきれいでもなかった。声の端が割れ、途中で別の音が混じる。


見物人が振り返った。


憲兵の一人がこちらへ足を向ける。


ブラムがリルを抱え込んだ。


「見るな、リル」


リルは止まらない。


「ああー……フェン……」


台の上で、フィンの顔がわずかに動いた。


リルは、もう一度声を出した。


「フェン……フェン……う、あ……フェン」


その声は、広場の上へ散らばった。


誰を呼んでいるのか、分からない者はいなかった。


フィンが顔を上げた。


見てしまった。


リルと目が合った。


リルはブラムの腕の中で動きを止めた。体だけはまだ前へ行こうとしているのに、目だけがフィンに縫い止められる。


フィンの口が動いた。


遠すぎて、口の形は読み取れない。


来るな、と言ったのか。


見るな、と言ったのか。


リルには分からない。


ただ、自分へ向いた口だと分かった。


「フェ……ン」


今度の声は、終わりが崩れた。


ブラムの腕に、リルの重さがかかった。


アルドがこちらへ顔を向けた。


リル、ブラム、台の上のフィンへ、順に目が移る。


若い憲兵がブラムの方へ近づこうとする。


「下げろ」


ブラムはリルをかばうように体をずらした。


「俺が下げる」


「台の前へ出すな」


「出したんじゃない。来ちまったんだ」


憲兵が何か言い返そうとした時、アルドの声が飛んだ。


「引きずるな」


憲兵の足が止まった。


アルドはもうブラムを見ていなかった。縄の位置、刃を持つ男の立つ場所、台の下で待つ下働きの動きを見ている。


処刑は止まらなかった。


止まる気配もなかった。


罪状を読み上げる男の口が、朝の石の上で動き続ける。フィンはその言葉を聞いているのか、聞いていないのか分からない顔で立っていた。目は、一度だけリルへ行き、それから足元へ落ちた。


リルはフィンから目を離せない。


縄の意味は分からない。


罪の意味も、倉の意味も、アルドの立つ場所も分からない。


けれど、フィンは来ない。

リルの方へ、口も動かさない。

いつもの曲がり角で待つ顔ではなかった。


合図が出た。


木が鳴った。


フィンの体が落ちた。


リルの声が途切れた。


前へ行こうとしていた体から、力が抜けた。膝が石へ落ちる前に、ブラムが布ごと抱え込む。


リルの目は、まだフィンから外れなかった。


けれど、声はもう形にならない。


「うあ……ああ……フェ……あああ……っ、あ……」


涙が頬を伝っても、リルは瞬きもしなかった。


フィンは動かない。


大人たちが台の下で体を扱う。死んだものを運ぶ手つきだった。頭が揺れ、首元の縄が朝の光の中で黒く見えた。


リルの指が、空へ伸びた。


届かない。


伸びた指は、途中で折れるように下がった。


「ああ……ああ……っ、あああ……」


ブラムはリルを離さなかった。


「見るな」


止めるためではなかった。


もう遅いものを、少しでも隠すための声だった。


リルの口が開く。声は出る。けれど、さっきまでのようにフィンの名へ届かない。喉の奥で「うう…」と潰れた音だけが漏れた。


台の下で、下働きの二人が縄の処理を待っていた。


普通なら、まだ待つ。


そう知っている者だけが、動けずにいた。刃を持つ男も、手順の次を決めかねたままアルドを見た。下働きの若い方は、板の端に手を置いたまま固まっている。


アルドが一歩前へ出た。


「下ろせ」


刃を持つ男の手が止まった。


「隊長、まだ」


アルドの目が男を向いた。


「今だ」


刃が入った。


縄が切られた。


フィンの体が板の上へ重く落ちる。


リルの肩が跳ねた。


ブラムが支えを強くする。


下働きの一人が布を持って近づいた。もう一人が足元を持つ。死体を運ぶための早い動きだった。広場の人々には、それで十分に見えた。刑は済んだ。あとは片付けるだけ。


アルドは言った。


「急げ」


助ける声には聞こえなかった。


誰にも、そうは聞こえなかった。


けれど、ブラムはその声で顔を上げた。


アルドは見返さない。


フィンは布に包まれ、小屋の方へ運ばれていく。見物人のざわめきが、遅れて戻ってきた。誰かが顔を背ける。誰かが「終わった」と言う。子どもの泣き声が遠くで上がる。


ブラムはリルを抱えたまま、人垣の端へ少しずつ下がった。


リルは抵抗しない。さっきまで前へ行こうとしていた体は、急に中身を失ったように軽くなっていた。


「リル」


ブラムの声がかすれる。


リルは返事をしない。


ただ、フィンが運ばれていく方へ顔を向けている。


口が開いた。


「フェ……」


そこから先は、音にならなかった。


ブラムはリルの顔を自分の肩へ向けようとして、やめた。


無理に隠せば、もっと壊れる気がした。


憲兵が一人、まだこちらを気にしている。ブラムはその目を受け、低く言った。


「この子は関係ない」


憲兵は返事をしなかった。


アルドの方を見た。


アルドは、もう低い小屋の方へ歩いていた。


低い小屋の戸が閉まる。


外のざわめきは、板壁を越えると少し遠くなった。下働きの男二人は、フィンを粗い板の上へ置いた。


若い方の男が、布の端を整える。


「早かったな」


年上の男が言った。


若い男は答えなかった。


さっきブラムから受け取った包みが、懐の中で重くなっている。粗末にするな。あの声が、まだ耳に残っていた。


布がフィンの顔にかけられる。


若い男は、板の端に置いてあった紐を取った。足元を縛るための紐だった。慣れた手つきで近づき、フィンの靴先へ手を伸ばす。


その時、布の下で、かすかに音がした。


若い男は動きを止めた。


「おい」


年上の男が振り向く。


「何だ」


若い男は、布の端をつまんだまま、フィンの口元のあたりを見た。


もう一度。


ごく薄く、布が持ち上がった。


風ではなかった。


小屋の戸は閉まっている。板壁の隙間から入る風は、足元の藁を揺らすだけだった。


若い男の顔から、色が引いた。


「……まだ」


年上の男が近づく。


若い男は、布を少しだけ上げた。


フィンの唇が、ほんのわずかに動いた。


小屋の外で、アルドの靴音が止まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ