第19話 声にならない声
朝は、教会の扉の隙間から先に来た。
細く開いた隙間から、冷たい光が床に落ちている。夜のあいだ長椅子に残っていた湿り気が、白く薄く見えた。
リルは椅子の端に座っていた。
膝の上には古い布がある。片方だけ短く直された袖は、もう片方より少し上で止まっていた。椅子の横には、細い金具が置かれている。トマが廃屋から持ってきて、ヘレナがそこへ置いたものだった。
リルはそれに目を落とす。
それから、外へ目を戻す。
水の入った椀は、まだ少しも減っていない。
「リル」
ヘレナが声をかけた。
少し遅れて、リルの顔が上がる。口元を確かめ、また外へ目を戻す。
「今日は、外へ出ません」
リルは答えない。
言葉が届いた顔ではなかった。ただ、ヘレナの口元がいつもより硬く動いたことだけは見えたように、肩が小さく固まった。
教会の奥で、誰かが咳をした。
ヘレナは一度振り向いた。布を取りに行く。その短い間に、石段の向こうを行く人影が増えた。祈りのあとに散る足ではない。朝市へ向かう足でもない。大人たちは同じ方へ顔を向け、斜めの光を横切っていく。
リルの指が、細い金具に触れた。
冷たい先を押す。すぐ離す。
外の光の中を、何人かの影が通った。桶を抱えた女。荷車を押す男。子どもを抱え、急いで通り過ぎる男。
行き先はそろっていた。
リルは立った。
膝の布がずれかけ、短い方の袖が揺れる。金具は椅子の横に残ったままだった。
奥から戻ってきたヘレナが、出口の前で足を止める。
「リル」
ヘレナの口元は荒く動いていなかった。けれど、出口に立つ体が、道をふさいでいた。
それで、リルの足は一度止まった。
ヘレナは近づきすぎなかった。急に手を伸ばせば、リルはそこで固まる。そう分かっている距離だった。
「ここに」
リルはヘレナの口元を見る。
その目が、外へ動く。
通りの影が、また広場の方へ流れた。
リルは細い金具へ目を落とした。次に、外の光を見た。どちらにもフィンはいなかった。
声が漏れた。
「フェ……」
音は途中でほどけた。
ヘレナの足が動いた。
リルはその前に、敷居を越えた。走ったわけではない。ただ、外へ出た。光に顔をしかめ、布を胸に寄せる。
「リル、待ちなさい」
ヘレナは追おうとした。
けれど、リルの腕を取ることはできなかった。急に引けば、リルはその場で動けなくなる。通りには人がいる。広場へ向かう足がある。ヘレナは奥へ手で知らせ、戻るまでの短い間、リルから目を離してしまった。
その一瞬で、リルは通りの端へ出ていた。
大人の体が横を通る。リルは立ち止まり、その背中が離れるのを待った。それから、人の流れと同じ方へ、ゆっくり歩いた。
教会の前にも、石段の下にも、いつもの影はなかった。
いつもなら、先に立つか、曲がり角で待つか、少し離れた場所からこちらを確かめる。今日は、どこにもいなかった。
リルは道の端を歩いた。
桶を抱えた女が横を通る。揺れる水に目が行き、足が止まる。けれど、すぐに教会の方へ顔を向けた。違う。そこにもいない。
ブラムの店の裏手へ続く細い道に出た。
酒樽の匂いが薄く残っている。濡れた木箱の影。黒ずんだ板戸。フィンがいつも最後に手で押さえて閉めたもの。
リルはその前で立った。
布を抱えたまま、見上げる。
開かない。
板戸の隙間から、奥で人の口が動いているのが見えた。けれど、その中にフィンの顔はない。リルは戸に触れようとして、指を途中で下ろした。
また歩く。
市場の端に出る。朝の支度をする大人たちは、手を止めがちだった。台に野菜を並べる男が、通りの向こうへ顔を向ける。魚を入れた桶を運ぶ女も、同じ先を気にしている。
「広場だってよ」
「倉を破った子どもだろ」
「アルドが出るなら、本当なんだろうな」
言葉の意味は、リルの中で形にならない。
ただ、話す大人たちの顔が、一つの先へ向いていた。
広場。
人がそちらへ行く。
リルは、その背中を追った。
途中で、水路の角が見えた。
角の向こうで、水が白く落ちている。
水しぶきが石の上で細かく跳ねていた。以前、フィンが待ってくれた場所だった。濡れた石を踏まないように、前に立って止めた場所。フィンが自分の胸を指して、ゆっくり口を動かした場所。
リルの足が止まる。
口が開いた。
「フェ……」
水車は回っている。
けれど、そこにもフィンはいない。
リルは、水車の方へ曲がらなかった。
人の流れは途切れない。振り返る大人も、立ち止まる大人も、みんな同じ先を見ていた。
石の広い場所が近づくほど、人の足が増えた。
大人の背中が前をふさぐ。荷車の車輪が石の隙間で揺れる。誰かの外套が視界を遮る。知らない口の動きが頭の上を行き交う。
それでも、リルは進んだ。
押しのける力はない。すり抜ける速さもない。人と人の隙間が空くのを待って、半歩ずつ入る。布を抱え直し、短い袖の先から出た指を、布の中へ引っ込める。
広場の裏手では、ブラムが低い小屋の前に立っていた。
死体を運ぶ下働きの男が、小屋の戸に寄りかかっている。
ブラムの店に時々、余り物のパンを買いに来る男だった。
ブラムは昼食の包みを一つ渡した。
「粗末にするな」
男は包みを見て、眉をひそめる。
「何の話だ」
「今日の子どもだ」
「俺たちは死体を運ぶだけだ」
「分かってる」
ブラムはそれ以上言わなかった。
止められない。逃がせない。アルドが何をするかも知らない。できることは、死んだ後の扱いを少しでも荒くさせないことだけだった。
男は包みを懐へ押し込み、気まずそうに小屋の中を見た。
「見張りがいる。余計なことはできねえぞ」
「逃がせって話じゃねえ。払わされるのは、いつも弱い奴だ」
ブラムはそう言って、人の集まる方へ向かった。
その時、人垣の隙間に、小さな頭が見えた。
古い布。
片方だけ短い袖。
ブラムの足が止まった。
「……リル」
声は、ほとんど自分にだけ聞こえた。
リルは人垣の隙間から、台のある方へ出ようとしていた。
台が見えた。
木の台。
柱。
縄。
憲兵の靴。
アルドの黒い外套。
リルは、それらを順番には追わなかった。
台の上にいるフィンだけを捉えた。
フィンは高いところに立っていた。
両手が自由ではない。首のそばに、太い縄がある。いつものように、服の内側からパンを出さない。道の先を指さない。リルの歩く速さを確かめない。
こちらへ顔も向けない。
リルは人垣から出た。
石の上に足が入る。
見物人の一人が気づいて、眉を寄せた。
「おい、あの子」
リルは振り向かない。
フィンの方へ行こうとした。
足は速くならない。走る形にもならない。ただ、体だけが台へ向かっている。抱えた布が腕から滑り、片方だけ短い袖がさらに上へずれる。
ブラムが人垣を割った。
「リル!」
リルの足の前に膝を入れ、布ごと受け止めるようにして止めた。リルの体がぶつかり、布の端がブラムの肩にかかる。
「行くな」
リルはブラムを見ない。
ブラムの腕の向こうに、フィンがいる。
「そこは駄目だ」
リルは前へ出ようとした。
ブラムの腕に体が当たる。力は弱い。けれど、何度止めても、また前へ傾く。布が落ちかけ、ブラムが慌てて押さえた。
台の上で、フィンの指が動いた。
縛られているから、何もつかめない。
フィンは、リルへ顔を向けなかった。
見てはいけなかった。
ここで見れば、呼んでしまう。呼べば、リルの名が広場に置かれる。リルの名が、縄や古鍵や倉の粉と同じ場所に並ぶ。
だから見なかった。
リルの喉が震えた。
「う……」
それは泣き声の始まりに似ていた。
でも、泣き声ではなかった。
フィンはまだこちらを向かない。
「うー……あ……」
広場のざわめきが少し乱れた。
リルはブラムの腕を押した。押したというより、体ごとフィンの方へ行こうとしていた。足は止められている。腕も止められている。声だけが、ブラムの肩を越えていく。
「フェ……ン」
小さくはなかった。
けれど、名前としてきれいでもなかった。声の端が割れ、途中で別の音が混じる。
見物人が振り返った。
憲兵の一人がこちらへ足を向ける。
ブラムがリルを抱え込んだ。
「見るな、リル」
リルは止まらない。
「ああー……フェン……」
台の上で、フィンの顔がわずかに動いた。
リルは、もう一度声を出した。
「フェン……フェン……う、あ……フェン」
その声は、広場の上へ散らばった。
誰を呼んでいるのか、分からない者はいなかった。
フィンが顔を上げた。
見てしまった。
リルと目が合った。
リルはブラムの腕の中で動きを止めた。体だけはまだ前へ行こうとしているのに、目だけがフィンに縫い止められる。
フィンの口が動いた。
遠すぎて、口の形は読み取れない。
来るな、と言ったのか。
見るな、と言ったのか。
リルには分からない。
ただ、自分へ向いた口だと分かった。
「フェ……ン」
今度の声は、終わりが崩れた。
ブラムの腕に、リルの重さがかかった。
アルドがこちらへ顔を向けた。
リル、ブラム、台の上のフィンへ、順に目が移る。
若い憲兵がブラムの方へ近づこうとする。
「下げろ」
ブラムはリルをかばうように体をずらした。
「俺が下げる」
「台の前へ出すな」
「出したんじゃない。来ちまったんだ」
憲兵が何か言い返そうとした時、アルドの声が飛んだ。
「引きずるな」
憲兵の足が止まった。
アルドはもうブラムを見ていなかった。縄の位置、刃を持つ男の立つ場所、台の下で待つ下働きの動きを見ている。
処刑は止まらなかった。
止まる気配もなかった。
罪状を読み上げる男の口が、朝の石の上で動き続ける。フィンはその言葉を聞いているのか、聞いていないのか分からない顔で立っていた。目は、一度だけリルへ行き、それから足元へ落ちた。
リルはフィンから目を離せない。
縄の意味は分からない。
罪の意味も、倉の意味も、アルドの立つ場所も分からない。
けれど、フィンは来ない。
リルの方へ、口も動かさない。
いつもの曲がり角で待つ顔ではなかった。
合図が出た。
木が鳴った。
フィンの体が落ちた。
リルの声が途切れた。
前へ行こうとしていた体から、力が抜けた。膝が石へ落ちる前に、ブラムが布ごと抱え込む。
リルの目は、まだフィンから外れなかった。
けれど、声はもう形にならない。
「うあ……ああ……フェ……あああ……っ、あ……」
涙が頬を伝っても、リルは瞬きもしなかった。
フィンは動かない。
大人たちが台の下で体を扱う。死んだものを運ぶ手つきだった。頭が揺れ、首元の縄が朝の光の中で黒く見えた。
リルの指が、空へ伸びた。
届かない。
伸びた指は、途中で折れるように下がった。
「ああ……ああ……っ、あああ……」
ブラムはリルを離さなかった。
「見るな」
止めるためではなかった。
もう遅いものを、少しでも隠すための声だった。
リルの口が開く。声は出る。けれど、さっきまでのようにフィンの名へ届かない。喉の奥で「うう…」と潰れた音だけが漏れた。
台の下で、下働きの二人が縄の処理を待っていた。
普通なら、まだ待つ。
そう知っている者だけが、動けずにいた。刃を持つ男も、手順の次を決めかねたままアルドを見た。下働きの若い方は、板の端に手を置いたまま固まっている。
アルドが一歩前へ出た。
「下ろせ」
刃を持つ男の手が止まった。
「隊長、まだ」
アルドの目が男を向いた。
「今だ」
刃が入った。
縄が切られた。
フィンの体が板の上へ重く落ちる。
リルの肩が跳ねた。
ブラムが支えを強くする。
下働きの一人が布を持って近づいた。もう一人が足元を持つ。死体を運ぶための早い動きだった。広場の人々には、それで十分に見えた。刑は済んだ。あとは片付けるだけ。
アルドは言った。
「急げ」
助ける声には聞こえなかった。
誰にも、そうは聞こえなかった。
けれど、ブラムはその声で顔を上げた。
アルドは見返さない。
フィンは布に包まれ、小屋の方へ運ばれていく。見物人のざわめきが、遅れて戻ってきた。誰かが顔を背ける。誰かが「終わった」と言う。子どもの泣き声が遠くで上がる。
ブラムはリルを抱えたまま、人垣の端へ少しずつ下がった。
リルは抵抗しない。さっきまで前へ行こうとしていた体は、急に中身を失ったように軽くなっていた。
「リル」
ブラムの声がかすれる。
リルは返事をしない。
ただ、フィンが運ばれていく方へ顔を向けている。
口が開いた。
「フェ……」
そこから先は、音にならなかった。
ブラムはリルの顔を自分の肩へ向けようとして、やめた。
無理に隠せば、もっと壊れる気がした。
憲兵が一人、まだこちらを気にしている。ブラムはその目を受け、低く言った。
「この子は関係ない」
憲兵は返事をしなかった。
アルドの方を見た。
アルドは、もう低い小屋の方へ歩いていた。
低い小屋の戸が閉まる。
外のざわめきは、板壁を越えると少し遠くなった。下働きの男二人は、フィンを粗い板の上へ置いた。
若い方の男が、布の端を整える。
「早かったな」
年上の男が言った。
若い男は答えなかった。
さっきブラムから受け取った包みが、懐の中で重くなっている。粗末にするな。あの声が、まだ耳に残っていた。
布がフィンの顔にかけられる。
若い男は、板の端に置いてあった紐を取った。足元を縛るための紐だった。慣れた手つきで近づき、フィンの靴先へ手を伸ばす。
その時、布の下で、かすかに音がした。
若い男は動きを止めた。
「おい」
年上の男が振り向く。
「何だ」
若い男は、布の端をつまんだまま、フィンの口元のあたりを見た。
もう一度。
ごく薄く、布が持ち上がった。
風ではなかった。
小屋の戸は閉まっている。板壁の隙間から入る風は、足元の藁を揺らすだけだった。
若い男の顔から、色が引いた。
「……まだ」
年上の男が近づく。
若い男は、布を少しだけ上げた。
フィンの唇が、ほんのわずかに動いた。
小屋の外で、アルドの靴音が止まった。




