第8話 シスター・ヘレナの戸口
南門とは反対の道へ入っても、フィンはすぐに廃屋へ向かわなかった。
リルは隣にいる。
古い布を抱え、袖の先をフィンの指に引っかけている。握るほど強くはない。離れたら、そのまま置いていかれると思っているのか、ただ布が触れているだけなのか、フィンには分からなかった。
袖口には、昨日の赤い跡が残っている。
檻の中で握りしめたせいで、布の端の糸も歪んでいた。そこに縫われた名を見て、フィンは喉の奥を固くした。
リル。
名前を口にすれば、遅れて顔を上げる。
その遅さを、さっき値下げの材料にした。
フィンは口を開きかけて、やめた。
謝れば済む話ではない。謝ったところで、リルに何が伝わるのかも分からない。伝わらない言葉を、自分が楽になるためだけに出すのは、もっと嫌だった。
通りの角に、宿屋の看板が揺れていた。
古びた木の板に、寝台と杯の絵が描いてある。銭を出せば、屋根の下で眠れる。馬車の客や荷運びの男たちが使う場所だ。隠しておいた銭も、売れる小物も、全部なくなったわけではない。
一晩なら、どうにかなるかもしれない。
だが、二晩、三晩は無理だ。
親も荷もない少年が、言葉を返せない小さな子を連れて部屋を借りる。宿の主人は顔を覚える。銭の出どころも見る。リルに名を尋ねれば、リルは答えられない。フィンが代わりに答えれば、余計に見られる。
フィンは看板から目を外した。
銭で買える場所はある。
でも、そこに二人でいれば怪しまれる。
リルの足が止まった。
向こうから荷車が来ていた。車輪が石に当たり、がたがたと音を立てている。御者が馬をなだめる声。脇をすり抜ける女の笑い声。革靴の音。水桶の跳ねる音。
リルは道の端で固まった。
「こっちだ」
言葉だけでは足りない。
フィンは手を引きかけた。
やめる。
さっき檻の中で、下働きの男がリルの腕を取ろうとした。フィンはそれを払った。触るな、と言った。
自分ならいいのか。
そう思ったら、強く引けなくなった。
フィンは前に出て、自分の胸を指した。それから、通りの端を指す。荷車が通り過ぎるまで待った。
リルはフィンの指を見ている。
車輪が目の前を過ぎた。泥の跳ねた跡が、リルの靴先の近くに散る。
荷車が通り過ぎ、泥の跳ねが途切れてから、リルは片足を出した。
遅い。
急かせば、もっと止まる。
フィンは奥歯を噛み、いつも使う細い抜け道を見た。
壊れた樽の裏を抜ける道だ。大人の肩は通らない。フィン一人なら、そこから廃屋の近くまで早く行ける。追われた時も、何度か使った。
リルは通れない。
通れたとしても、途中で服が引っかかる。知らない人影で止まる。抱えて走れば、すぐ目立つ。
フィンはその道を捨てた。
大通りの端を歩く。
廃屋へ向かう角が見えた。
そこには、割れた戸板がある。木箱がある。犬が入れる隙間がある。子どもが覗ける戸口がある。フィンが出れば、リルはまた一人になる。
食べ物は、数日はどうにかなる。
だが、盗みに出なければ、その先はない。銭に替えられる物も、いつまでも隠しておけない。使えば見られる。替えれば足がつく。小銭は、またどこかから取らなければならない。
出るしかない。
出れば、リルは残る。
フィンは廃屋へ向かう角を通り過ぎた。
リルは角を見た。
自分の場所だと分かったのかもしれない。分かっていないのかもしれない。けれど、足がまた止まりかけた。
「今日は、そっちじゃない」
フィンは教会の方を指した。
リルはフィンの口元を見て、それから指の先を見る。
遅れて、また歩いた。
教会は、町の端に近い石造りの建物だった。
立派ではない。壁は白く塗られているが、雨の跡が筋になって残っている。戸口の前には、古い長椅子が一つ置かれ、欠けた鉢に水が張ってあった。
朝の祈りを終えた人たちが、何人か外へ出てくる。
その脇を、二人の子どもが木椀を抱えて通った。片方はフィンよりずっと小さく、もう片方は痩せた腕で椀を胸に寄せている。どちらも、首から小さな木札を下げていた。
教会で正式に預かられている子どもだ。
フィンはその札を見て、足を鈍らせた。
ここは、来た子を誰でも奥へ入れる場所ではない。名と預けた者が帳面に書かれ、椀と寝床の数に入れられる。フィンも昔、その中の一人だった。
六つの頃から十二になるまで、ここで飯をもらった。熱を出した時には奥の部屋で寝かされた。袖が破れれば縫われた。喧嘩をして帰れば、まず顔を洗わされた。
十二になると、出る。
靴直しの親方のところへ行った。三月で逃げた。次の荷運びも続かなかった。そういう子どもは、フィンだけではない。ここから出た子は、どこかで働く。続くやつもいる。消えるやつもいる。
フィンは、消えた方の子どもになった。
そして今、名も事情もまともに説明できない子を連れて、戸口の前に立っている。
頼むしかない。
戸口の中から、女の声がした。
「そこに立っていると、出入りの邪魔になります」
フィンは顔を上げた。
シスター・ヘレナが立っていた。
昔より髪に白いものが増えている。黒い衣の袖は相変わらずきちんと折られていて、手には水を入れた木椀がある。ヘレナはフィンを見ても、すぐに何かを言わなかった。
まず、リルを見た。
長すぎる袖。乾いた血の跡。古い布。戸口の前で止まった足。
それから、フィンを見た。
「フィン」
名前を呼ばれて、フィンは目をそらした。
その呼び方は、昔と変わっていなかった。
「昼間だけでいい。見てもらえませんか」
ヘレナは木椀を持ったまま、戸口から半歩出た。
「その子を?」
フィンはリルを見た。
「俺が外に出る」
「働きに?」
フィンは答えなかった。
ヘレナはそれ以上、追わなかった。
フィンの上着のふくらみ。汚れた膝。子どもが持つには重すぎる目つき。そういうものを、ヘレナは昔から見逃さない。
見逃さないが、戸口で吊るし上げる人でもなかった。
「親方のところは、もう離れたのですか」
「かなり前に」
「あなたの年頃なら、珍しい話ではないでしょう」
その言い方が、かえって痛かった。
責められた方が、まだ返せる言葉があった。
リルがヘレナの口元を見ていた。
ヘレナはそれに気づき、声を落とした。
「名前は」
「リル」
「本人は、挨拶はできますか」
フィンはリルを見た。
できる、とも、できない、とも言えなかった。
「リル」
遅れて、リルの顔が上がった。
「……ほら」
フィンは自分の口元を指し、ゆっくり動かした。
「こんにちは、だ」
リルはフィンの口を見ていた。
口が少し開く。
「あ……」
言葉にはならなかった。
ヘレナは、その遅さと口の動きを見た。
驚きはしなかった。かわいそうだとも言わなかった。ただ、椀を戸口の横へ置き、リルの前に立ちはだからないように体をずらした。
「事情は、帳面に書けますか」
フィンは黙った。
リルがどこから来たのか。
誰が預けるのか。
いつまで預かるのか。
どれも、まともには言えない。
檻から買い戻した。
そう言えば、ヘレナはどうするだろう。どこの商人か、誰が入れたか、なぜフィンが銭を出したか、聞くに決まっている。
それを話せば、リルはもっと大人の目に入る。
病院か、別の預け先か、もっと遠い誰かか。
フィンの手が、勝手に上着の裾を握った。
「正式には預かれません」
ヘレナは言った。
「その子は、うちの子ではありません」
「だから頼みに来ました」
フィンの声は、自分で思ったより硬かった。
「奥じゃなくていい。寝床もいらない。札もいらない。昼の間だけ、ここに座らせて下さい」
ヘレナはフィンを見た。
昔、熱を出した時に見た目だった。嘘を見抜く目ではない。隠したものごと、どこまで抱えられるかを見る目だった。
「昼の間だけ」
ヘレナは繰り返した。
「その子を椅子に座らせるだけなら、できます」
フィンは少しだけ息を吐いた。
「助かります」
「水と、残っていれば粥は出せます。奥へは入れられません。夜も置けません」
フィンは言い返せなかった。
夜こそ、屋根がほしい。戸がほしい。リルが犬や子どもや檻の馬車から離れていられる場所がほしい。
だが、ここはそれをくれる場所ではない。
リルは二人の口元を順番に見ている。意味が届いている顔ではない。けれど、フィンの口元が硬くなったことは見ているのだろう。古い布を抱える指に、少し力が入っていた。
ヘレナは戸口の内側へ目を向けた。
「入れますか」
リルは動かない。
敷居の木を見る。ヘレナの靴先を見る。戸口の奥を見る。奥の長椅子には、老人が一人座っていた。別の隅では、小さな子どもが空の椀を抱えて眠っている。
リルだけの場所ではない。
フィンは背を押しかけた。
指がリルの肩に触れる前に止まる。
押したら入るかもしれない。
でも、それは檻から出す時と同じになる。
フィンは自分で敷居の内側へ片足を入れた。すぐ戻り、リルを見る。
「リル」
リルはフィンの足元を見た。
それから、古い布を抱え直した。
片足が上がる。
敷居に引っかかった。
フィンの体が動きかける。ヘレナの目がそこに落ちた。責める目ではなかった。待ちなさい、とも言わない。ただ、見ていた。
フィンは手を出さなかった。
リルは足を上げ直した。
敷居を跨ぐ。
古い布の端が木に触れて、かすかな音を立てた。
ヘレナは奥の長椅子へ歩き、一人分の端を空けた。座っていた老人が、帽子を寄せる。ヘレナは椅子の脚を一度押し、揺れないことを確かめた。
「ここへ」
リルは椅子を見た。
すぐには座らない。座面に残った人の跡を見て、床を見て、フィンを見る。
フィンは戸口に立ったままだった。
リルが座らないなら、抱えて座らせるしかない。そう思った時、リルの膝が折れた。ゆっくりと、長椅子の端に腰を下ろす。
浅い座り方だった。
どこまで体を預けていいか分からない座り方だった。
古い布は膝の上。袖の赤い跡は、そのまま。
ヘレナは直さなかった。
代わりに、椀を椅子の横へ置いた。
「飲めるなら、ここに水があります」
リルは水を見ない。
フィンを見る。
その目は、廃屋の床から見上げる時とは違っていた。間に、敷居がある。椅子がある。ヘレナがいる。奥には木札を下げた子どもたちがいる。
フィンは戸口の縁を握った。
「日が傾く前に来る」
ヘレナは椅子の背に手を置いた。
「遅れたら、戸口で待たせます」
「外には出さないで」
「戸口までです。夜は置けません」
フィンは口を開いた。
だが、ヘレナに怒っても、帳面は埋まらない。寝床は増えない。リルは預かり子にはならない。
町は見逃してくれない。
リルがフィンを見ていた。
フィンはリルの前にしゃがんだ。袖の端を直そうとして、途中で手を止める。
さっきまで、その袖は檻の中にあった。
フィンは、袖ではなく、床に落ちかけていた古い布の端だけを持ち上げ、リルの膝へ戻した。
リルはその手を見ていた。
逃げない。
でも、フィンの顔から目を離さない。
「ここにいろ」
言ってから、フィンは自分の胸を指した。
「フィン」
次に、戸口の外を指す。
それから、リルの座っている椅子を指した。
「リル。ここ」
リルはフィンの指を追った。
椅子を見る。
ヘレナを見る。
またフィンを見る。
口が開いた。
「あ……」
言葉にはならない。
けれど、フィンの袖の先へ、リルの指が伸びた。
届かない。
リルは椅子から身を乗り出すほどには動かない。ただ、床の上で迷うように指先を止める。
フィンはその指を見た。
取れば、離れにくくなる。
取らなければ、この子はまた置かれたと思うかもしれない。
フィンは自分の指を、リルの袖の先に軽く触れさせた。
握らない。
引かない。
ただ、そこに置く。
リルの指が、わずかに曲がった。
ヘレナは何も言わなかった。
戸口の外で、人の声が流れていく。通りはもう昼に近い。フィンがいつまでもここにいれば、盗れるものも減る。見られる場所も増える。
外へ出なければならない。
そのために、ここへ来た。
フィンはリルの袖から指を離した。
リルの目が追う。
フィンは立ち上がり、ヘレナを見た。
「お願いします」
言ったあとで、口の中が苦くなった。
昔も、こういう言い方を教えられた。
人に何かを頼む時は、盗る時みたいに手だけを出すな。言葉を出せ。相手の目を見ろ。返事を待て。
フィンはほとんど守らなかった。
守らなくても、生きてこられた。
でも今は、リルを椅子に座らせるために、その言葉がいる。
ヘレナは少しだけ眉を動かした。
「分かりました」
それだけだった。
許すとも、任せなさいとも言わなかった。
フィンはリルの前にもう一度しゃがんだ。
「リル」
遅れて、顔が上がる。
その遅さに、また喉の奥が痛んだ。
フィンは無理に笑わなかった。
自分の胸を指す。戸口の外を指す。太陽の方を見て、それからまたリルを指す。
「日が傾く前」
伝わらない。
分かっていても、言った。
リルはフィンの口元を見ている。
フィンは、リルの古い布の端を膝の上へ整えた。今度は、布の名が見えるようにした。
「ここ」
椅子を指す。
「リル」
リルの指が、自分の布の名に触れた。
偶然かもしれない。
それでも、フィンはそれ以上言わなかった。
立ち上がると、戸口へ向かった。
背中に視線を感じる。
振り返れば、行けなくなる。
そう思ったのに、敷居の前で足が止まった。
振り返る。
リルは長椅子の端に浅く座っていた。古い布を膝に置き、椀の横で、フィンの方を見ている。ヘレナは離れた場所に立ち、リルに近づきすぎない距離を取っていた。
椅子はある。
家ではない。
預かり子の札もない。
夜になれば、ここにはいられない。
けれど、今だけは、廃屋の床ではなかった。
フィンは戸口を出た。
外の光が目に刺さる。
通りには、盗れるものがある。腰袋。荷の端。酒場裏の銅貨。替えられる小物。取らなければ、明日の食い物は減る。取れば、また誰かに追われる。
教会の戸口の内側で、ヘレナがリルの前へ回ったのが見えた。
「リル」
ゆっくりした口の動きだった。
すぐには反応がない。
間を置いて、椅子の脚が小さく鳴った。
フィンは歩き出した。
細い抜け道へ入る前に、一度だけ教会の戸口を見た。
戸は、まだ閉まっていなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




