第7話 買い戻す言葉
「銀貨十枚」
その値だけが、道の音から浮いて聞こえた。
馬が蹄を鳴らす。御者が手綱を引き直し、下働きの男が水桶を荷台の横へ寄せた。門の方では、荷車が詰まり始めている。誰かが早くしろと怒鳴り、別の誰かが笑った。
檻の中で、リルは古い布を握っていた。
フィンは格子をつかんだまま、商人を見た。
「そんなにあるわけねえだろ」
「ならどけ。邪魔をするな」
商人は怒らなかった。
怒るほどの相手ではない、という顔だった。
「門が混む。その前に抜けなきゃならない」
「その子は俺が――」
「親代わりか」
フィンは言葉を切った。
親代わりではない。
「兄か」
違う。
「買い手か」
違う。
商人は、答えが出ないことを確かめるように、帳面の角で自分の指を軽く叩いた。
「どれでもないなら、邪魔だ」
フィンは格子を揺らした。
鉄は動かなかった。音だけが乾いて鳴り、檻の中の子どもが一人、肩を跳ねさせる。道の向こうを歩いていた憲兵が、ちらりとこちらを見た。
檻は止めない。
でも、フィンが暴れれば止めに来る。
それが分かっただけで、腹の底が冷えた。
「リル」
フィンは檻の奥へ顔を寄せた。
リルは古い布を握っている。名前を呼ばれたことは、少し遅れて届いたらしい。目が上がる。
「こっち来い」
リルは動かない。
檻の戸は横にある。フィンはそこを指した。自分の胸を指し、戸を指す。もう一度、口を大きく動かした。
「こっち」
リルはフィンの指を見た。
それから、自分の膝の上の古い布を見た。
体は、動かなかった。
商人が短く息を吐いた。
「本人が来ないものを、連れて帰ると言うのか」
「分かってねえだけだ」
「なら、なおさら荷だ」
フィンの奥歯が鳴った。
商人は檻の横へ回った。格子の間からリルを見下ろす。目は冷たいのに、手つきだけは丁寧だった。品を傷つけないように見る手つきだった。
「名は」
「リル」
「本人に言わせろ」
フィンは檻の中を見た。
「リル」
リルはフィンを見ている。
「リ、ル」
フィンはゆっくり言った。
リルの口が少し開いた。
「あ……」
それだけだった。
名にはならない。
商人は帳面に何かを短く書いた。
「聞こえないのか」
フィンは答えなかった。
答えれば、値が上がるのか下がるのか分からなかった。
商人は下働きの男に顎で合図した。男が檻の横木を指で叩く。かん、と硬い音がして、リルの肩が小さく縮んだ。
「おい。こっちを見ろ」
リルは声の方ではなく、叩かれた横木を見た。
男が手を振る。
リルの目は、動く手を追った。
「立て」
商人が言った。
リルは立たない。
古い布を握ったまま、手の動きを見ている。意味が分かっていないのか、知らない大人が怖いのか、それとも檻の中でどう動けばいいのか分からないのか。フィンにも分からなかった。
下働きの男が、格子の間から手を入れようとした。
フィンは反射的にその手を払った。
「触るな」
憲兵の視線が、今度ははっきりこちらを向いた。
商人が片手を上げた。
「やめろ。傷になる」
下働きの男は舌打ちしたが、手を引いた。
傷になる。
その言い方に、フィンの喉が詰まった。
人に触るな、ではなかった。
傷になるから、だった。
リルはフィンを見ている。何が起きているのか分からないまま、硬くなった声にだけ引かれている。昨日の血の跡が、袖口にまだ残っていた。古い布の端にも、赤い点が乾いている。
商人は帳面を閉じかけた。
「銀貨十枚は変わらない。出せないなら――」
「売れねえよ」
声が先に出た。
商人の手が止まった。
フィンは自分の口から出た言葉を、少し遅れて聞いた。
リルは古い布を握ったまま、フィンを見ている。
フィンは格子から手を離した。
「連れていったって、手間だけ増える」
商人の目が細くなる。
「何を知っている」
「見れば分かるだろ」
フィンは檻の奥を見ないようにした。
見れば、言えなくなる。
「名前も言えねえ。返事もできねえ。言われたことも分からねえ」
リルの口が少し開いた。
「あ……」
小さな声だった。
返事ではない。
けれど、その音が出たせいで、フィンの言葉は余計に逃げ場をなくした。
商人はリルを見た。
リルは、商人の目を避けるように古い布を抱え直した。自分が何を言われているのか、言葉として分かっている顔ではない。ただ、場の固さだけを受けて、指に力を入れている。
フィンは続けた。
「飯だって、ひとりじゃまともに食えねえ」
嘘だった。
全部ではない。
待てば、食べる。見せれば、飲む。白いパンなら、少し早くなる。フィンの方へ欠片を動かしたことだってある。
けれど、ここではその全部が邪魔だった。
「買うやつがいたって、すぐ嫌がる」
商人は帳面を開き直した。
「手間か」
「手間だ」
「お前は欲しがっている」
「俺は、知ってるからだ」
「なら銀貨十枚だ」
「知ってるから言ってんだよ」
フィンは商人をにらんだ。
「高く売れる子じゃねえ。呼んでもすぐ来ねえ。逃がしたって、自分じゃ逃げられねえ。泣いて人を呼ぶこともできねえ」
言うたびに、何かが削れていく。
商人がリルを見る。
リルは檻の中で、古い布を抱え直した。抱え直しただけだった。逃げない。怒らない。訴えない。自分を安く言われていることも、たぶん分かっていない。
それが、いちばんひどかった。
商人は下働きの男に目を向けた。
「朝、誰が拾った」
「荷置き場の裏です。声をかけても返事はなし。手を引けば来ましたが、すぐ布を握る」
「暴れたか」
「いいえ」
「泣いたか」
「いいえ」
「飯は」
「まだです」
商人は帳面に短く線を引いた。
檻の中の男の子が、リルから少し離れた。自分まで同じ値にされるのを怖がったようにも見えた。リルはその動きを少し遅れて見た。
フィンは、目をそらした。
商人はしばらく考えたあと、言った。
「銀貨二枚」
「ない」
「なら終わりだ」
「銭と品ならある」
商人の目が、フィンの服をもう一度測った。
「出せ」
フィンは服の内側に手を入れた。
朝の残りの銅貨。パンを買って、水を足したあとに残ったもの。指の腹で数える。少ない。少なすぎる。
それでも、出した。
銅貨が商人の帳面の上に落ちる。
四枚。
商人はそれを見た。
「ふざけるな」
フィンは奥歯を噛んだ。
服の内側をもう一度探る。小さな銅片が二つ。昨日から残していた古い硬貨。割れた縁のせいで、店では嫌な顔をされるものだった。
それも出した。
商人は受け取らない。
「馬の餌にもならない」
フィンは腰紐の内側を探った。
薄い銀の飾り板が一つ出てくる。酒場裏で酔った男の腰袋から抜いたものだった。まだ替えていない。小さすぎて高値にはならないが、銅貨よりはましだ。
商人の目が、初めて少しだけ動いた。
フィンはそれも帳面の上へ置いた。
まだ足りない。
分かっていた。
フィンは靴の内側から、油紙に包んだ小さな布袋を抜いた。中には、切れた銀の首飾りの鎖が入っている。輪の半分ほどしか残っていない。ちゃんとした店では買い叩かれる。だが、子どもが朝のパン屋で出せる銭ではないから、隠していた。
油紙を開くと、商人は指先で鎖をつまんだ。
「盗んだな」
「買うのか、買わねえのか」
フィンは商人の目を見た。
「これ以上はない」
嘘ではなかった。
廃屋へ戻れば、床板の割れ目に売上袋がある。だが、戻っている間に馬車は門を出る。ここで出せるものは、もうない。
服の内側には、つぶれかけたパンと、水の入った瓶だけが残っていた。
商人は銅貨、銅片、薄い銀の飾り板、切れた銀の鎖を見た。
それから、リルを見た。
リルは古い布を握り、檻の揺れに少し遅れて体を直している。
商人は下働きの男に言った。
「開けろ」
フィンは一瞬、意味が分からなかった。
「ただし、布も一緒に出せ。あとで泣かれても困る」
「泣かねえよ」
言ってから、フィンは自分で嫌になった。
リルは泣かない。
泣けないのか、泣き方を忘れているのか、泣くほど分かっていないのか、フィンには分からない。
檻の鍵が開いた。
鉄の戸が、短い音を立てて動く。檻の中の子どもたちが、いっせいにその音を見た。外に出られるのはリルだけだと分かるまで、誰も動かなかった。
下働きの男がリルの腕を取ろうとする。
フィンは檻の戸へ身を寄せた。
「俺がやる」
「早くしろ」
フィンは格子の中へ半分だけ身を入れた。
檻の中は、汗と湿った藁の匂いがした。リルのそばにいた子どもが、膝を抱えたまま少しだけ場所を空ける。その子の目は、フィンを見ていなかった。
フィンはリルの前にしゃがんだ。
「リル」
リルは少し遅れて顔を上げた。
いつもと同じ遅さだった。
その同じ遅さに、フィンの喉がひどく痛んだ。
さっき自分は、それを値下げの材料にした。
フィンは自分の胸を指した。
「フィン」
次に、檻の外を指す。
それから、リルの古い布を指した。
「リル。来い」
リルはフィンの指と、外の光を順に見た。
動かない。
フィンは手を伸ばしかけて、止めた。急に引けば、布をもっと握る。知らない男に引かれた時と同じになる。
フィンは自分で少しだけ後ろへ下がった。
檻の戸のところまで。
もう一度、呼ぶ。
「リル」
リルの指が、古い布の端を握り直した。
膝が動く。
遅い。
ひどく遅い。
けれど、動いた。
リルは床に片手をつき、古い布を抱えたまま、檻の戸の方へずり寄った。下働きの男が舌打ちする。フィンはそちらを見なかった。
戸口の段差で、リルの袖が引っかかった。
フィンは袖の端を持ち上げた。
「そこ」
リルはフィンの手を見る。
袖が外れる。
リルは檻の外へ出た。
道の石の上に座り込むように膝をつく。立ち方が分からないのではなく、急に外へ出されて、どこに体を置けばいいのか分からないようだった。
フィンはリルの前にしゃがみ、手を出した。
リルはすぐには取らない。
フィンの手を見る。古い布を見る。動き出す檻の戸を見る。
それから、袖の先が、フィンの指に触れた。
握ったわけではない。
触れただけだった。
それでも、フィンはそのまま待った。
商人が品を小袋へ落とす音がした。銅貨よりも重い音が、二つ混じった。
「安くしたんだ。あとで返せとは言うな」
フィンは商人を見なかった。
馬車が動き出す。
檻の中の子どもたちが揺れた。泣いていた子が、また声を上げる。膝を抱えた子は顔を伏せる。格子の隙間から道端の女を見ていた男の子は、もう女の方を見ていなかった。
車輪が回る。
リルはその音を追った。
フィンも見た。
追えない。
開けられない。
買い戻せたのは、リルだけだった。
馬車が少しずつ遠ざかる。商人は帳面を脇に挟み、御者に何かを言った。下働きの男が後ろの扉を確かめる。憲兵は門の方へ歩いていく。
町は、何も変わらなかった。
フィンの手の中には、もう銅貨も銅片も残っていない。
服の内側には、つぶれかけたパンと、水の入った瓶だけがある。明日の分は消えた。今日の分も足りない。
リルは隣にいる。
袖には赤い跡が残っている。古い布の端にも、乾いた血の点がある。檻の中で握りしめていたせいで、泥の落ちた糸の名が少しゆがんでいた。
フィンは、袖を直そうとして手を伸ばした。
途中で止めた。
さっき、言った。
返事もできない。
言われたことも分からない。
手間だけ増える。
売れない。
その言葉で、リルは檻から出た。
その言葉で、リルは安くなった。
リルがフィンを見上げた。
意味は分かっていないのかもしれない。けれど、フィンの声が変だったことは、たぶん見ていた。いつもより硬く動いた口も、たぶん見ていた。
フィンは名前を呼ぼうとした。
声が出る前に、喉の奥で止まった。
リルの袖の先が、もう一度フィンの指に触れた。
今度は、ほんの少しだけ引っかかった。
握るほどではない。
でも、離れもしなかった。
フィンはその袖の端を、強くつかまないように指で受けた。
檻の馬車は南門の向こうへ消えていく。
道には、馬の匂いと、踏まれた藁と、商人の小袋が鳴った音だけが残った。
フィンはようやく、口を動かした。
「……行くぞ」
リルは返事をしない。
ただ、フィンの声に少し遅れて顔を上げた。
廃屋へ行くしかない。
けれど、あの場所に戻しても、同じように守れる気がしなかった。
フィンは袖の先に触れたまま、南門とは反対の道へ歩き出した。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




