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第6話 檻の中のリル

朝になっても、リルの袖には赤い跡が残っていた。


乾いた血は、布の織り目に入り込んでいる。鼻の下にも、薄い赤が残っていた。リルは痛いとも、怖かったとも言わない。ただ古い布を膝に置き、戸口の方を見ている。


昨日、犬が逃げた方だった。


フィンは割れた桶を戸口の隙間へ押し込んだ。犬が入り込まないようにしたつもりだった。釘の出た板も奥へ蹴り、リルの手が届きそうな木片も横へ寄せる。


どれも、頼りなかった。


パンは端しかない。水瓶の底には、濁った水が少しだけ。昨日買った干し肉は固すぎて、リルはうまく噛めなかった。


出なければ、昼までもたない。


けれど、出ればリルは一人になる。


フィンは戸口の脇に木片を立てた。昨日と同じ目印だった。倒れていれば、誰かが入ったか、リルが外へ出たか分かる。


少しだけ戸板に寄せる。風だけでは倒れにくい。人か、犬か、リルが触れば倒れる。


何もしないよりはましだった。


フィンは自分の胸を指した。


「フィン」


リルの目が指を追う。


次に、戸口の外を指す。それからリルの座っている場所を指した。


「リル。ここ」


リルはフィンの口元を見ていた。


分かったとは言わない。分かっていないとも言わない。声は出るのに、言葉として返ってこない。


フィンは少しだけ手を開き、待つような形を作った。自分でやっていて、役に立つのか分からなかった。


「昼に戻る」


リルは、まだフィンの口を見ていた。


フィンは戸板を押して外へ出た。


朝の町は、もう動いている。


市場の方では荷車の音がし、酒場の裏からは水桶を引く音がした。いつもなら、人の流れを見て、どこへ入るか決める。目が外れる瞬間、腰の袋が揺れる場所、誰も見ていない荷の影。そういうものは、見ようとしなくても目に入る。


その朝は違った。


足だけが町へ向かい、気持ちはずっと廃屋の戸口に残っていた。


深くは狙わなかった。長くも残らなかった。


朝の町で、フィンは銅貨を少しだけ手に入れた。二人分には足りない。明日の分など、考えるだけ無駄だった。


それでも、日が高くなる前に切り上げた。


パン屋で固い欠片を買い、水瓶に水を足す。干し肉の端は買わなかった。リルが噛めないものを持って帰っても、またフィンの腹に入るだけだ。


服の内側にパンを押し込み、瓶を抱える。


走りたい。


けれど、走れば目立つ。目立てば、誰かに止められる。止められれば、帰るのが遅くなる。


フィンは人の流れに紛れて歩いた。


壊れた塀を抜け、川沿いの路地へ入る。


廃屋の戸口が見えた。


木片は倒れていた。


フィンは足を止めた。


犬かもしれない。


風かもしれない。


リルが少し触っただけかもしれない。


考えた言い訳は、どれも薄かった。


フィンは戸板を押した。


中に、リルはいなかった。


奥の壁際には、朝置いたパン片がそのまま残っていた。水瓶は倒れていない。古い布はない。昨日、鼻血を拭いた破れ布だけが、床の隅で丸まっている。


リルが座っていた場所から、戸口へ向かって、埃が乱れていた。


長い袖が床をこすったような跡がある。


「リル」


声は廃屋の中で止まった。


もう一度呼ぶ。


返事はない。


フィンは木箱の裏を見た。割れた桶をどかし、奥の暗がりも覗いた。いるわけがない場所まで見た。


いない。


それだけが、はっきりしていく。


フィンは持っていたパンを床に落とした。乾いた音がした。


すぐ拾う気にはなれなかった。


外へ出る。


昨日、犬が隠れた木箱の方を見る。いない。子どもたちが逃げた路地をのぞく。いない。


荷置き場の裏へ回ると、馬の匂いと湿った縄の匂いがした。


地面には足跡が多すぎた。


大人の靴。馬の蹄。犬の小さな跡。子どもの裸足に近い薄い跡。


その中に、袖がこすったような細い跡があった。木箱の角で途切れ、その先は荷車の車輪の跡に踏み消されている。


フィンはしゃがんだ。


木箱のささくれに、赤く汚れた糸がほんの少し引っかかっていた。


リルの袖口のものかもしれない。


違うかもしれない。


それでも、フィンはつまんだ。


軽すぎて、手が震えた。


道の先から、女たちの声が流れてきた。


「さっきの子、返事もしなかったね」


「親が出てこないなら、仕方ないだろ」


「でも、あんな小さい子を」


「檻の馬車、南へ行ったよ」


女たちは、フィンの方を見ていなかった。水桶を抱え直し、何事もなかったように歩いていく。


フィンは南へ向かった。


今度は、足を殺せなかった。


人と荷の間を抜ける。水桶を持った別の女が文句を言った。誰かの肩にぶつかった。振り返らない。南門へ続く広い道に出ると、馬車の列が見えた。


その一つが、檻を載せていた。


隠れていない。


道の端で堂々と止まり、商人が帳面をつけている。御者は馬の首を撫で、下働きの男が水桶を置いていた。檻の中には、子どもが何人もいる。


泣いている子がいた。


膝を抱えて、外を見ない子がいた。


檻の隙間から、道端の女をじっと見ている男の子がいた。女は銭袋を握ったまま、顔を上げなかった。


憲兵が通りを歩いていた。


檻の前を通っても、止まらない。


それを見た瞬間、フィンの腹の奥が冷えた。


悪ガキなら追える。


犬なら追い払える。


だが、この檻は、町の真ん中で止まっている。誰も隠していない。誰も止めない。


フィンは檻の中を見た。


奥に、古い布があった。


泥の落ちた端。ほつれた糸。橋の下からずっとリルが離さなかった布。


フィンは檻の正面へ回った。


リルは奥に座っていた。長い袖を抱え込むようにして、古い布を握っている。昨日の血の跡は袖口に残ったままだった。


フィンは格子の間から、リルの見える位置へ顔を寄せた。


「リル」


リルは動かない。


隣の子どもが、フィンを見た。


フィンはもう一度、口を大きく動かした。


「リル」


古い布を握る指が、少し動いた。


遅れて、リルの顔が上がる。


いつもと同じだった。


呼んですぐではない。けれど、確かに顔を上げた。


リルは檻の中から、フィンの口元を見ていた。


格子へ寄ることも、声を上げることもできないまま、古い布だけを握っていた。


フィンの手が格子にかかった。


下働きの男が、その手を払った。


「触るな」


フィンは男をにらんだ。


「その子は俺の知ってる子だ」


帳面を持った商人が、そこで顔を上げた。


汚れていない上着に、泥のついた靴。笑ってもいないし、怒ってもいない。荷の数を間違えないように見る目をしていた。


商人は檻の奥を見た。


古い布を握るリルに、短く目を留める。


それから、帳面の角で自分の指を一度叩いた。


「親は」


「いない」


「家は」


フィンは言葉に詰まった。


廃屋は家ではない。


それを、商人の前で言いたくなかった。


商人は短く待ち、答えが出ないのを見ると、帳面を閉じた。


「なら、身寄りなしだ」


「違う」


「どこが違う。」


フィンは檻の奥を見た。


リルは古い布を握っている。フィンの方へ手を伸ばさない。出てこようともしない。檻の戸がどこにあるかも、たぶん分かっていない。


それでも、リルはフィンを見ていた。


「俺が連れて帰る」


商人は檻の横へ目をやった。


「道端にいた。返事もしない。引き取り手もない。うちが拾った」


それだけ言って、檻の横木を指で叩いた。


「なら、荷だ」


「拾ったなら返せ」


「もう檻に入れた。うちのものだ」


商人はそれを、粉袋の数でも読むように言った。


「檻に入ったら荷だ」


その言葉で、檻の中の子どもが一人、肩を小さく丸めた。


リルは少し遅れて、その子の動きを見た。


フィンは格子を握り直した。


鉄は冷たく、動かない。


殴っても開かない。噛みついても、商人の手が離れるだけだ。ここで暴れれば、憲兵が来る。憲兵は檻を止めなかった。止められるのは、たぶんフィンの方だった。


フィンは、歯の奥で言葉を潰した。


「いくらだ」


商人の目が、フィンの服を見た。


破れた袖。泥のついた膝。子どもの体。上着の内側に、どれだけ隠せるかを測る目だった。


それから、檻の奥のリルを見た。


リルは古い布を握り、フィンの口元だけを追っている。


「銀貨十枚」


フィンは息を止めた。


商人は帳面を脇に挟み、御者の方へ目を向けた。


「出せるなら出せ。無理ならどけ。門が混む」


リルは、檻の中でフィンを見ていた。


名前を呼ばれた時と同じ目だった。


格子のこちらへは来ない。


来いと言っても、来られない。


フィンの手の中で、赤く汚れた糸が潰れた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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