第5話 鼻血
次の朝、フィンは長く迷わなかった。
残ったパンは、もう端しかない。干し肉も昨日のうちにほとんどなくなった。水瓶の底には、濁った水が少し残っているだけだった。
リルは廃屋の奥に座っている。
昨日より、少し戸口に近い場所だった。
フィンはそれを見てから、床板の割れ目に押し込んだ売上袋へ目をやった。銀貨はある。だが、今すぐ使える銭ではない。子どもが朝から銀貨を出せば、盗んだと見られる。
今日いるのは、銅貨だ。
パン屋に出してもおかしくない、軽い銭。
フィンは戸口の脇に木片を立てかけた。昨日と同じ場所だ。倒れていれば、誰かが入ったか、リルが動いたか分かる。
分かった時には遅いかもしれない。
それでも、置かないよりはましだった。
フィンは自分の胸を指した。
「フィン」
リルの目が指を追う。
戸口の外を指す。次に、リルの座っている場所を指す。
「リル。ここ」
リルはフィンの口元を見ていた。
分かったのか、口の形を追っているだけなのかは分からない。
確かめている時間はなかった。
フィンは戸板を押して、外へ出た。
昨日の市場には近づかない。
売上袋をなくした商人は、まだ腹を立てているはずだ。探しているのが商人だけならともかく、別の大人にまで話が回っていたら面倒になる。
フィンは酒場の裏へ回った。
朝の裏口には、夜の酒が残っている。樽の匂い、湿った藁、踏まれた煙草の葉。壁にもたれた男が一人、目を閉じていた。腰袋の口がゆるい。
深くは取らない。
フィンは水桶を運ぶ下働きの後ろに入り、男のそばをすり抜けた。体が触れた瞬間、腰袋の中へ指を入れる。つまんだものだけを服の内側へ落とす。
銅貨が八枚。
もう一度戻れば、袋ごと取れるかもしれない。
だが、男のまぶたが動いた。
フィンは振り返らず、路地を曲がった。
今日はそれでいい。
パン屋で、昨日より少しましなパンを買った。白いところが少し多い。干し肉の端も一切れ買う。井戸で瓶に水を足した。
それだけで、銅貨は半分以上消えた。
フィンはパンを服に押し込み、廃屋へ戻った。
走らない。
走れば目立つ。目立てば、帰るのが遅くなる。
フィンが角を曲がったあと、廃屋の前に犬が来た。
昨日の犬だった。
痩せた茶色の犬。片耳が欠け、尻尾の先だけ泥で黒い。戸口の前で鼻を地面につけ、石の隙間や木箱の下を嗅いでいる。
リルは廃屋の奥から、それを見ていた。
犬が鼻を鳴らす。
リルの口が、少し開いた。
「あ……」
犬の片耳が動いた。
返事ではない。
けれど、犬は音のした方を向いた。リルはその動きを見て、古い布を片手で抱え直した。
犬は戸口の前をうろつき、床に落ちていたパンくずを見つけた。鼻で押す。硬かったのか、すぐには食べない。前足でひっかき、ころりと転がす。
リルは、床に片手をついた。
袖が埃を拾う。
立つまではいかない。けれど、座っていた場所から膝ひとつ分だけ前へ出た。
外から、子どもの声がした。
「いた、いた」
「また来てる」
「こっちだよ」
子どもが三人、路地の奥から走ってきた。小さな女の子と、鼻をすすっている男の子。それから、少し年上の少年が一人。
女の子は手に、芋の皮を持っていた。
「ほら」
芋の皮が戸口の前に落ちる。
犬はそれを追い、鼻先でつついた。くわえようとして失敗し、皮は床の上をすべった。
子どもたちが笑った。
「取れてない」
「下手だな」
「もう一回」
年上の少年が、薄いパンくずを指で弾いた。犬は今度こそくわえようとして、前足を滑らせた。尻尾が上がり、片耳がぴんと立つ。
女の子が手を叩いた。
「できた」
「できてないよ」
「でもかわいい」
犬は得意そうに見える顔で、パンくずをくわえたまま戸口へ戻ってきた。
リルはその犬を見ていた。
子どもたちを見ているのではない。飛ぶ皮、跳ねる犬、揺れる尻尾。その動きを目で追っている。
犬が戸口まで戻ってきた。
リルは、もう少しだけ前へ出た。
古い布は片手で抱えている。もう片方の手を犬の方へ伸ばす。指先が床をなぞり、戸口の光の中へ入った。
犬は敷居を越えず、鼻先だけを中へ入れた。
リルの指先を嗅ぐ。
冷たい鼻が触れる。
リルの喉から、短い声がこぼれた。
「あ……う」
犬は一度下がり、それからまた鼻を近づけた。
女の子が目を丸くする。
「その子も、触りたいのかな」
鼻をすすっている男の子が、戸口の中をのぞいた。
「ここに住んでるの?」
リルは答えない。
犬を見ている。
男の子は首をかしげた。
「聞いてないのかな」
「知らない子には近づくなって言われてる」
女の子はそう言ったが、犬から目を離さなかった。
年上の少年は、犬にもう一つパンくずを見せた。
「こっちだって」
犬は少年の方を見た。けれど、リルの袖の匂いも気になるらしく、戸口と子どもたちの間を行ったり来たりする。
「ほら、こっち」
少年が少し強く手を振り、戸口の外から斜めに一歩踏み出した。
犬はその動きに反応して、戸口の前で跳ねるように向きを変えた。
同時に、リルも犬の方へ手を伸ばした。肩は、もう敷居を越え、戸口の外側へ少し出ていた。
普通の子なら、少年が前へ出た時点で身を引く。犬が跳ねれば、体をよける。けれど、リルは犬の鼻先だけを見ていた。
少年の膝が、リルの肩に当たった。
押すつもりではなかった。
遊びの中の、ただの勢いだった。
だが、リルは受け止め方を知らなかった。
体が横へ崩れる。袖の端が割れた木箱に引っかかり、膝が床をこすった。顔をかばう手は出ない。
鼻先が、戸口の敷石に当たった。
鈍い音がした。
リルは声を上げなかった。
うつむいたまま、止まった。
最初に気づいたのは、女の子だった。
「血」
リルの鼻から、赤いものが落ちた。
古い布の端に、一滴つく。
年上の少年の顔が変わった。
「俺、押してない」
女の子はリルを見て、それから少年を見た。
「当たったよ」
「ぶつかっただけだろ」
鼻をすすっていた男の子が、犬を抱こうとして失敗した。犬は低く鳴いて、木箱の陰へ逃げる。
リルはその声に顔を向けようとした。
また、鼻血が落ちる。
赤い点が、床の埃に広がった。
そこへ、フィンが角を曲がってきた。
戸口の前に子どもがいる。
倒れた木片。
床に座り込んだリル。
赤い跡。
フィンの手の中で、パンの端がつぶれた。
「何してる」
声が低く出た。
子どもたちが振り向く。
女の子はすぐに下がった。鼻をすすっていた男の子も、犬の方を見たまま後ろへずれる。年上の少年だけが、少し遅れて口を開いた。
「勝手に倒れたんだ」
フィンが近づく。
少年は一歩下がった。
「ほんとだって」
フィンの足が前へ出た。
追える。
曲がり角へ入る前に捕まえられる。肩をつかんで、壁に押しつけて、二度と近づくなと言える。
少年は走った。
女の子も、男の子も続いた。
フィンは一歩、追った。
リルの鼻血が、また落ちた。
フィンの足が止まる。
リルは、逃げた子どもたちではなく、犬が隠れた木箱の方を見ていた。片耳だけが、箱の陰からこちらを向いている。
「……くそ」
フィンは子どもたちを追わなかった。
リルの前にしゃがむ。
鼻血は細く続いていた。袖口にも赤い跡がついている。古い布の端にも、小さな血の点が落ちていた。
「こっち向け」
リルは犬の方を見ている。
「拭けねえだろ」
フィンは自分の服の端を見た。汚い。だが、床の布よりはましだった。裾の内側を少し裂き、指に巻く。
鼻の下へ当てようとすると、リルの目が布へ動いた。
古い布を取られると思ったのか、指に力が入る。
「そっちは取らねえ」
フィンは破った布を見せ、自分の服を指した。それから、リルの古い布には触れないように手を浮かせた。
リルはすぐには分からない。
それでも、逃げなかった。
フィンは血を拭いた。
赤い色が布に移る。鼻の横にも、上唇にもついている。痛いはずなのに、リルは泣かない。怒らない。血を気にするより、犬が隠れた木箱の方へ目を向ける。
「犬はあとだ」
リルはフィンの口元を見た。
意味が届いたかは分からない。
けれど、今は血を止める方が先だった。
フィンは布を押さえ直した。強く押せば嫌がるかもしれない。弱ければ止まらない。加減が分からず、何度も指の位置を変える。
木箱の陰で、犬が小さく鳴いた。
リルの指が、床を少し動いた。
フィンは言いかけて、口を閉じた。
リルを叱っても、何も戻らない。
犬を追い払っても、血は止まらない。
子どもを殴っても、フィンがいなかった時間は消えない。
倒れた木片が、戸口の横に転がっている。
フィンはそれを見た。
奥に座らせたはずのリルは、戸口で血を出している。
パンはある。
水もある。
名前も呼べる。
それでも、犬が来た。子どもが来た。リルは動いた。
フィンは、つぶれたパンを床に置いた。干し肉も服の中で折れていた。買ってきたものはあるのに、リルは見ない。
犬の方を見ている。
鼻血は少しずつ止まりかけていた。
袖口の赤い跡は残った。
フィンは布を押さえたまま、戸口の脇へ腰を下ろした。ここなら犬のいる木箱も見える。路地も見える。リルもすぐ横にいる。
子どもたちの足音は、もう聞こえない。
追えば、まだどこかで見つけられるかもしれない。
けれど、追えば、またリルはひとりになる。
木箱の陰から、茶色い鼻先がのぞいた。
リルの目が、わずかに動く。
フィンは手についた赤を見た。
何か言いかけて、やめる。
廃屋の外で、子どもの笑い声が遠くへ流れた。
それがさっきの子どもたちかどうかは、分からなかった。
フィンは倒れた木片を拾わなかった。
ただ、リルの鼻の下に当てた布を、もう一度押さえ直した。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




