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第3話 古い布の名

朝になっても、廃屋は家にはならなかった。


屋根の穴から落ちた夜露が、床の黒い染みを少し広げている。壁の隙間から入る風は細く、乾いた藁をこすって、時々かさりと鳴った。


フィンは残しておいたパンを、手のひらの上で二つに割った。


大きい方を自分の口へ入れかけて、やめる。


少女は壁際に座っていた。昨日と同じ場所ではない。少しだけ横へずれている。膝の向きも変わっていた。けれど、古い布はまだ膝の上にあり、片方の手がその端を握っている。


「……食うか」


少女はフィンの口元を見た。


フィンは小さい方をさらにちぎり、床の上、少女の手の近くへ置いた。近づけすぎると肩が固まる。遠すぎると、気づくまで時間がかかる。


少女は、しばらくパン片を見ていた。


フィンは待った。


待つのは得意ではない。盗む時は、待つより先に手を動かす。相手の目がそれた一瞬で、腰袋の紐をゆるめる。荷車の影に入る。曲がる。逃げる。


けれど、この少女相手には、急かすほど遅くなる。


やがて、袖の端から細い指が出た。パン片に触れ、爪の先で少し押してから、ようやくつまむ。口へ運ぶ途中で一度止まり、フィンの顔を見た。


昨日よりは、少しだけ早い。


「そうだ」


言ってから、フィンは舌打ちした。


褒めたところで、分かった顔はしない。少女はパンを噛みながら、フィンの手を見ていた。


フィンはひびの入った小瓶を持ち上げた。中の水は少ない。昨日より濁っている気がしたが、ほかにない。


「水」


少女は小瓶を見なかった。


フィンは瓶を自分の口元へ運ぶふりをして、少しだけ飲む。それから、少女の前へ置いた。


少女は瓶ではなく、フィンの指を追っている。


フィンは瓶を指し、口を指し、もう一度瓶を指した。少女の目が、ようやく瓶へ落ちる。指が伸びる。けれど、瓶の横を触って止まった。


「こっち」


声にしてから、また届かないかもしれないと思う。


フィンは少女の手首には触れず、瓶を少しだけ近づけた。少女の指が瓶の口に当たる。今度は握った。


底を支えてやると、少女は少しだけ水を飲んだ。


こぼれた水が、顎を伝って布に落ちる。


「あー……」


少女の喉から、細い声が出た。


泣き声ではない。返事でもない。ただ、水を飲んだあとの空気に、音が混ざったみたいだった。


フィンは瓶を戻しながら、眉を寄せた。


「呼びにくいんだよ、お前」


少女は口元を見た。


「お前じゃ、何も伝わんねえだろ」


少女は、分かったとも分からないとも返さない。


昨日もそうだった。自分の胸を指して「フィン」と言えば、少女は指を見た。少女を指しても、返ってきたのは「あ……う」という音だけだった。


名前を知らないと、面倒が増える。


飯を渡すにも、水を飲ませるにも、そこに座れと示すにも、戸口へ行くなと止めるにも、全部いちいち手でやるしかない。手でやっても、分かるまで時間がかかる。


フィンは少女の膝の上を見た。


古い布。


泥が乾いて固まり、端はほつれている。橋の下で見つけた時から、少女はそれだけは離さなかった。昨日、布の奥に縫い目のようなものが見えた。今朝の薄い光でも、同じところがかすかに浮いている。


フィンが手を伸ばすと、少女の指に力が入った。


「取らねえ」


少女は布を握ったまま、フィンの手を見る。


フィンは自分の両手を少し上げてみせた。何も持っていない。次に、布の端を指す。それから、首を横に振る。


少女は動かない。


怖がっているのか、分かっていないのか、ただ嫌なのか。どれなのかは分からない。だが、昨日より指の力は強くならなかった。


フィンは布の端だけを、指先でつまんだ。


湿ったところは冷たく、泥の固まったところは石みたいにざらついた。無理に引けば、少女が握っている部分まで動く。だから、端だけを少し持ち上げ、屋根穴から落ちる光の下へ寄せた。


縫い目は、泥の下にあった。


字というより、糸で作った細い傷に見える。


フィンは爪で泥を削った。乾いた泥が粉になって落ちる。まず、短い線が見えた。


リ。


さらに隣をこすると、もう一つ字が出た。


ル。


短い名だった。


看板の字はろくに読めない。長い札も、役所の貼り紙も、ほとんど分からない。けれど、荷に書かれた持ち主の印や、短い名の字なら、盗みの途中で嫌でも覚える。


リル。


フィンは口の中で、その音を転がした。


拾った時には、ただの古い布だった。泥と草の種だらけで、橋の下に捨てられていたもの。少女が握っているせいで捨てられなかっただけの布。


そこに、名が残っていた。


「……リル」


少女は動かなかった。


フィンはもう一度、少しだけはっきり言った。


「リル」


少女の目が、布からフィンへ上がった。


すぐではなかった。呼ばれて振り向く普通の子より、ずっと遅い。けれど、確かに顔を上げた。


布を握っていた指が、ほんの少しだけ動く。


フィンは布の端を離した。


「あるじゃねえか」


少女――リルは、フィンの口元を見ていた。


「名前」


リルの口が小さく開く。


「あ……」


名にはならなかった。


でも、フィンはもう一度呼んだ。


「リル」


今度は、リルの目が逃げなかった。


戸口の外で、小石が転がる音がした。


フィンは反射で身を起こした。リルの肩を押すようにして、壁の影へ寄せる。押されたリルは倒れなかったが、布を抱え直して、フィンを見上げた。


外の影が戸口をふさいだ。


「やっぱここか」


入ってきたのは、トマだった。


フィンより少し上に見える。細い体に、色の抜けた上着を引っかけている。片方の袖口が裂けていて、そこから赤く荒れた手首が見えていた。


トマは廃屋の中を一度見回し、フィンの顔を見て、それから壁際のリルで止まった。


「……なんだ、それ」


「入ってくんな」


「入ったあとに言うなよ」


トマは戸口から半歩だけ中へ入った。足元の釘を見て、踏まない場所を選ぶ。こういう廃屋に慣れている歩き方だった。


「昨日、通りで騒ぎになってたぞ。革袋ひとつ、消えたって」


「知らねえ」


「知らねえ顔が下手になったな」


トマの目は、もうリルから離れていない。


「分け前は」


「ない」


「三枚は入ってたって聞いた」


「耳がいいな」


「お前ほど手は早くねえからな」


軽く言ってから、トマは急に口を閉じた。


リルが、戸口の方を見たからだった。


声に反応したのか、影が動いたからなのかは分からない。ただ、リルは見慣れない口元をじっと見ている。けれど、トマが一歩近づくと、布を握る指だけが強くなった。


トマは足を止めた。


「拾ったのか」


「違う」


「じゃあ盗んだのか」


「それも違う」


「なら何だよ」


フィンは答えなかった。


答えられる言葉がなかった。


橋の下にいた。置いていけなかった。パンを買った。名前があった。どれを言っても、足りない。


トマは息を吐いた。


「お前、それ抱えて逃げられると思ってんのか」


フィンは顔をしかめた。


「抱えて逃げねえよ」


「逃げる時に、抱えるしかなくなるだろ」


トマの声は荒くなかった。むしろ低い。だから余計に、廃屋の中でよく聞こえた。


「市場で走る時、どうすんだよ。塀の隙間は通れねえ。溝も越えられねえ。転んだら、置いてくのか」


「置いてかねえ」


「じゃあ捕まる」


短い言葉だった。


フィンは言い返そうとして、口を閉じた。


リルはトマではなく、フィンの顔を見ている。話の意味を追っている顔ではない。けれど、声の硬さは感じているのか、布を抱える指に力が入っていた。


「呼べば来んのか」


トマが聞いた。


フィンはリルを見た。


「……遅いけど、見る」


「走れって言ったら」


フィンは答えなかった。


「隠れろって言ったら」


答えられない。


トマは笑わなかった。


「死ぬぞ」


その言い方が気に入らなくて、フィンは立ち上がった。立っても、トマより少し低い。


「勝手に決めんな」


「決めてんのは俺じゃない。外にいる大人だよ。捕まえるやつ。殴るやつ。持ってくやつ」


トマは戸口の外を顎で示した。


「アルドに見られたら終わるぞ」


その名が出ると、フィンの腹の奥が少し冷えた。


アルドは、ただの大人ではない。道端で子どもを殴って笑うような男でもない。だからこそ、面倒だった。見逃す時は見逃す。けれど、線を越えたものは覚えている。


フィンが盗んでいることも、たぶん知られている。


トマはリルを見た。


「その子、喋れねえのか」


「声は出る」


「返事は」


「……返事みたいには、ならねえ」


「余計まずいだろ」


フィンは唇を曲げた。


「見りゃ分かることを言うな」


「見えるから言ってんだよ」


トマは少し間を置いた。


「荷物じゃねえって顔してるけど、泥棒には荷物だろ」


フィンの中で、何かがかちりと嫌な音を立てた。


リルは布を握っている。長すぎる袖の折り目が、片方だけまた少し崩れていた。朝の光の中で、泥の落ちた布の端に、細い糸の名が見えている。


「荷物じゃねえ」


「じゃあ何だよ」


フィンはすぐには言えなかった。


妹ではない。家族でもない。拾った、と言えば、それは捨てられたものみたいになる。助けた、と言えるほど、何かをしてやれたわけでもない。


けれど、橋の下の布ではなくなった。


ただの面倒でもなくなった。


フィンは、リルの前からどかなかった。


「名前がある」


トマの眉が動いた。


「名前があれば、腹ふくれんのかよ」


「ふくれねえよ」


「だったら、なおさら考えろ。連れて逃げられない。置いて盗みに出ても危ない。隠しておけば誰かに見つかる」


トマはリルを見た。


「名前があるなら、余計に雑に置けねえだろ」


フィンは言葉を失った。


トマの方が現実を見ている。飯は勝手に増えない。銅貨は残り少ない。盗みに出るなら、リルは足手まといになる。隠れ場所も、逃げ道も、全部変わる。


それでも、名前を見たあとでは、布ごと押しのけることはできなかった。


「……だから、荷物じゃねえ」


フィンの声は、さっきより小さかった。


正しいことを言った気はしない。


ただ、そこだけは譲れなかった。


トマは頭をかいた。


「馬鹿だな、お前」


「今さらだろ」


「笑うとこじゃねえぞ」


「笑ってねえ」


「そういう顔にも見えねえな」


短い沈黙が落ちた。


外を荷車が通る音がする。遠くで女の笑い声がし、すぐに消えた。廃屋の中だけが、少し暗い。


リルが、フィンの上着の裾に触れた。


握ったわけではない。


袖の端が触れただけかもしれない。


けれど、フィンはその場所を見た。リルは、布を抱えたままフィンを見ている。名を呼ばれた時と同じ目だった。


トマもそれを見て、顔をそむけた。


「分け前、今日はいい」


「最初からやるって言ってねえ」


「そういう顔で言うな。取りに来たこっちが悪者みたいだろ」


「悪者だろ」


「お前にだけは言われたくねえ」


トマは戸口へ向かった。外へ出る直前、足を止める。


「次に盗みに出る時、そいつどうすんだよ」


フィンは答えられなかった。


トマはそれ以上言わなかった。壊れた戸板の隙間を抜け、路地の方へ消えていく。足音はすぐに遠ざかった。逃げ足は、フィンほどではないが早い。


廃屋に、また風の音だけが戻った。


フィンはしばらく戸口を見ていた。


次に盗みに出る時。


その言葉だけが残る。


盗みに出なければ、食えない。出れば、リルを置くことになる。連れていけば逃げられない。置いていけば、誰かに見つかるかもしれない。


フィンは壁際へ戻った。


リルは古い布を握っていた。泥の落ちた端に、まだ名が見える。


「リル」


呼ぶと、少し遅れて顔が上がった。


やっぱり、すぐではない。


でも、上がった。


フィンは残ったパンを見た。小さい欠片が二つ。自分の腹にも、リルの腹にも足りない。今日のうちに、またどこかで銭を取るか、何かを替えるかしなければならない。


トマの言う通りだった。


名前があっても、腹はふくれない。


フィンはパンの小さい方をリルの前へ置いた。


リルはすぐには取らない。


それでも、見ている。


「……ここにいろって言っても、まだ分かんねえよな」


リルは返事をしない。


フィンは自分の胸を指した。


「フィン」


次に、リルを指す。


「リル」


リルの目が、フィンの指を追った。


それから、自分の布を見た。


細い指が、縫い目の近くを押さえた。


フィンは息を吐き、戸口の外を見た。


昨日の通りへ戻れば、革袋をなくした男がまだいるかもしれない。別の通りへ行けば、今日の獲物は少ないかもしれない。いつも通りには動けない。


それでも、腹は減る。


リルはパン片に触れた。


また、遅い。


フィンはその遅さを見ながら、盗みに出る道順を頭の中で一つ消した。


大人の肩が通らない塀の隙間。


雨水の流れる溝。


野良犬が抜ける細い道。


どれも、ひとりなら通れる。


リルを抱えては通れない。


フィンは、まだ外へ出られずにいた。

本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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