第2話 半分のパン
パン屋の女は、フィンの銅貨を見てから、棚の端を指した。
「焼きたては無理だよ」
「わかってる。あるものでいい」
女は棚の端から、昨日の残りを一つ取った。紙にも包まれていない。片側が少しへこんでいて、焼き色の濃いところは石みたいに固そうだった。
「固いよ。歯に気をつけな」
「食えるならいい。腹が減らなきゃ」
女はパンを渡しかけて、フィンの腕を見た。
「パンばっかりじゃ大きくなれないよ。あんた、まだ子供なんだから」
フィンは返事をしなかった。
そんなことは、言われなくても分かっている。分かっていても、銅貨一枚で買えるものは増えない。
パンを受け取ると、すぐ服の中へ押し込んだ。
昨日の男がいた通りは避けた。
パンは服の中で、まだ少し温い。焼きたてではないと言われたが、橋の下の風よりはずっとましだった。
細い道を曲がり、壊れた塀の横を抜ける。
廃屋の戸口が見えた。
立てかけておいた木片は、倒れていなかった。
フィンは足を止めた。
それだけで、腹の奥が少し軽くなる。
すぐに、その軽さが気に入らなくなった。逃げたわけでも、誰かに連れていかれたわけでもない。たったそれだけで安心したみたいになるのは、腹立たしかった。
戸板を押すと、湿った木がぎいと鳴った。
少女は、壁際にいた。
置いた場所から少しも動いていないわけではない。膝の向きが変わっている。長すぎる袖は片方だけ少し戻り、細い指の半分を隠していた。古い布は、まだ膝の上にある。
フィンを見ると、少女は顔を上げた。
泣いてはいない。
怒ってもいない。
ただ、フィンの動きを追っている。
「……いたのかよ」
言ってから、変な言い方だと思った。
いなくなっていたら知らないと言ったのは自分だ。だが、本当にいなくなっていたら、たぶん探した。探す羽目になるから面倒だ。そういうことにした。
フィンは戸口の外を一度だけ見た。誰もついてきていない。パン屋の女も、昨日の男も、ここまでは来ない。
奥へ戻ると、少女はパンではなく、フィンの服のふくらみを見ていた。
「……これか」
フィンはパンを出した。
少女は動かなかった。
「食うか」
パンを差し出す。
少女はフィンの口が動いたところを見て、それからパンを見た。だが、手は伸びない。
「おい」
返事はない。
フィンは少し離れた位置から、もう一度言った。
「聞こえてんのか」
少女は、やはりフィンの口を見ていた。声の方へ顔を向けるというより、口の動きを追っている。
フィンはパンを持ったまま、少女の横へ少し回った。そこで短く声をかける。
「おい」
少女は反応しなかった。
けれど、フィンが正面へ戻ると、目はまたフィンへ戻った。
「……そういうことかよ」
耳が聞こえていないのかもしれない。
少なくとも、声だけでは届かない。
そう思ってパンを近づけると、少女の肩が小さく固まった。
フィンは手を引いた。
「近いと駄目か」
文句みたいに言って、パンを少し離す。
少女はパンを見ている。
食べ物だと分からないわけではなさそうだった。だが、渡されたから取る、というふうには動かない。
フィンはパンを自分の方へ戻した。
端をかじる。
固かった。
「……っ」
思ったより歯に来た。
パン屋の女の言った通りだった。文句を言いに戻る気にはならない。戻れば、昨日の男がいた通りに近づく。今は固いパンより、見つかる方がまずい。
フィンは奥歯で噛み砕き、少女に見えるように、もう一度口を動かした。
少女の目が、フィンの口からパンへ戻る。
「見てんなら、見ろ」
フィンはパンを両手で割ろうとした。
割れない。
膝に当てて力を入れると、乾いた音を立ててようやく裂けた。大きい方と小さい方に分かれる。
フィンは一度、大きい方を自分の手元へ残した。
少女はそれを見ている。
責める目ではなかった。
ただ、見ている。
「……見るなよ」
フィンは小さい方からさらに欠片を割った。少女の手に押しつけようとして、布を握った指がまだ固いことに気づく。
無理に開かせれば、布まで取ることになる。
フィンはパン片を持ったまま、少女の肩の手前で指を止めた。急に触れば、また固まるかもしれない。
少しだけ迷って、袖の上から軽く触れた。
少女の目が、パンからフィンへ上がる。
逃げはしない。
だが、体は小さくこわばった。
「取らねえって」
届いているか分からない言葉を置いて、フィンは自分の胸を指した。次に、パンを指す。自分の口を指し、ゆっくり噛む真似をした。
「食う」
わざと口を大きく動かす。
「く、う」
自分でやっていて馬鹿みたいだった。
それでも、少女はフィンを見ていた。
フィンは手のひらを開き、そこにパン片を置いた。指でつまみ、口に入れる。噛む。飲み込む。
次に、もう一つ小さく割った欠片を、少女の袖から出ている指先の近くに置いた。
押しつけない。
手のそばに置くだけにした。
少女は動かない。
フィンは待った。
廃屋の隙間から、風が抜ける。屋根の穴から差す光の中で、埃がゆっくり流れていた。外では誰かが荷車を引いているらしく、車輪の音が遠くでがたがたと跳ねた。
パン片は、少女の手のそばにある。
少女はそれを見ていた。
フィンは手を出しそうになって、やめた。
急かすと止まる。近すぎると固まる。声だけでは、たぶん届かない。
「面倒だな、お前」
言いながら、フィンは動かなかった。
かなり遅れて、布を握っていない方の指が動いた。
袖の端から、細い指が出る。
パン片に触れる。
すぐにはつかまない。
確かめるみたいに、爪の先で押す。
フィンは黙って見ていた。
少女はパン片をつまんだ。
口元へ持っていく途中で、一度止まる。フィンの顔を見る。
フィンは自分の口を指した。
「食う」
今度は声より、口の形を見せるつもりで言った。
少女の口が少し開いた。
「あ……」
声が漏れた。
返事ではない。
でも、何もない音でもなかった。
少女はパン片を口に入れた。噛むまでが遅い。飲み込むまでは、もっと遅い。固いせいもあるのか、口の中でどうしていいか探しているようにも見えた。
フィンはひびの入った小瓶を探した。
昨日の雨水が少し残っている。きれいとは言えないが、泥水よりはましだ。布で瓶の口を拭き、自分で少しだけ飲んでみせる。
「水」
瓶を少女の前へ置く。
少女は瓶ではなく、フィンの手を見ていた。
フィンは瓶を指し、自分の口を指した。もう一度、瓶を指す。
少女の目が、ようやく瓶へ落ちた。
指が伸びる。
けれど、瓶の横を触って止まった。
「こっち」
声にしてから、また届かないかもしれないと思う。
フィンは少女の手首をつかまなかった。かわりに、瓶の方を少しだけ近づける。少女の指が瓶の口に当たった。今度は握った。
力は弱い。
フィンは瓶の底を軽く支えた。
少女は少しだけ飲んだ。
喉が動く。
それを見て、フィンはようやく自分のパンをかじった。
腹は減っていた。
朝から何も食っていない。革袋の銭は、もう二枚しかない。明日の分まで考えるなら、今日全部食うわけにはいかない。
けれど、少女の食べ方は遅すぎた。
欠片を一つ食べる間に、フィンなら三つは食える。見ていると、腹が減るというより、妙な焦れったさが先に来る。
フィンは大きい方を半分に割った。
今度は、さっきより簡単に裂けた。中の白いところが少しだけ出る。固い皮よりは食べやすそうだった。
その白いところを少女の前へ置く。
「こっちの方がましだ」
少女はすぐには取らない。
フィンは自分の分を口に入れた。
固い皮が歯に当たる。腹に入れば同じだ。そう思って噛んだ。
少女は、白い方をゆっくり取った。
食べる。
また遅い。
でも、さっきより口の動きが迷っていない。
フィンは次の欠片を、さっきより少し遠くに置いた。
少女の肩は固まらなかった。
「そこならいいのか」
少女は答えない。
それでも、パンを見る。フィンを見る。少し遅れて、指を伸ばす。
声ではない。
でも、何も返ってこないわけではなかった。
フィンは残ったパンを見た。
半分より少し少ない。
自分の腹には足りない。少女の腹にも、たぶん足りない。二人分にするには、最初から少なすぎる。
少女は白いパンを持ったまま、フィンを見た。
そして、その欠片を少しだけ前へ動かした。
フィンの方へ。
差し出す、というほど綺麗な動きではなかった。手は途中で止まり、指はまだパンを握っている。くれるのか、ただ落としそうになったのか、はっきりしない。
だが、パンはさっきより確かにフィンの近くにあった。
フィンはその欠片を見た。
「……お前のだ」
少女は返事をしない。
もう一度、ほんの少しだけパンを押した。
床の上を、白い欠片がフィンの方へ近づく。
フィンは取らなかった。
取れば、この子の分が減る。
取らなければ、何をしたかったのか分からないままになる。
しばらくして、フィンは自分の手元の固い皮を小さく割った。自分の欠片を少女の前に置き、少女が押してきた白い欠片を指で軽く戻した。
「半分にするなら、こっちもだ」
少女が意味を分かったかは分からない。
でも、白い欠片を落とさずに持ち直した。
それから、フィンが置いた固い欠片を見た。
口には入れない。
ただ、見ている。
フィンは少し笑いそうになって、やめた。
「そっちは固い。無理するな」
届いているか分からない言葉を置きながら、フィンは固い欠片を自分で拾って食べた。
少女は白い方を食べた。
今度は、こぼさなかった。
廃屋の中は、相変わらず家ではなかった。屋根には穴があり、床には釘があり、壁の隙間からは冷たい風が入る。パンは足りない。銅貨は残り二枚。明日になれば、また何か盗らなければならない。
それでも、橋の下にいた古い布の中身は、ただの布でも、荷物でもなかった。
フィンの方へ、パンを動かした。
それだけで、面倒はもっと面倒になった。
食べ終わると、少女は膝の上の古い布をまた握った。口の端にパンくずがついている。
フィンは袖で拭こうとして、途中で止めた。
自分の袖も汚い。
乾いた布の端を探し、少しましなところで少女の口元を拭いた。少女は逃げない。ただ、フィンの動きを追っている。
「お前、名前は」
言ってから、声だけでは無理だと思い出した。
フィンは自分の胸を指した。
「フィン」
ゆっくり口を動かす。
「フィン」
次に、少女を指す。
少女はフィンの指を見た。
「お前」
当然、返事はない。
少女の口が少し開く。
「あ……う」
音は出た。
名前ではなかった。
フィンは眉を寄せた。
呼べなければ困る。
食わせるにも、水を飲ませるにも、待たせるにも、叱るにも、呼ぶ言葉がいる。おい、では届かない。お前、でも足りない。
少女は古い布を握っていた。
その布の端には、泥が乾いて固まっている。ほつれた糸の奥に、何か縫い目のようなものが隠れている気がした。
フィンは手を伸ばしかけて、少女の指が強くなるのを見てやめた。
布は、そのままにしておいた。
少女は布を抱え直した。
フィンは壁に背をつけ、残りのパンを服の中へしまった。今夜の分にするには少ない。明日の分にするには、もっと少ない。
それでも、全部食う気にはなれなかった。
廃屋の外で、誰かの笑い声が通り過ぎる。
フィンは戸口の影を見た。
名前も分からない子どもが、隣で古い布を握っている。
声だけでは届かない。
それでも、何も返ってこないわけではなかった。
フィンは、少女の膝の上の布をもう一度見た。
泥に隠れた縫い目が、薄い光の中で少しだけ浮いていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




