第1話 橋の下の古い布
雨は、橋の下まで斜めに吹き込んでいた。
フィンは橋脚の陰に身を沈め、上着の内側を押さえた。そこには、濡らしたくない革袋が一つ入っている。中身が多いか少ないかは、まだ見ていない。今は開けるより、見つからない方が先だった。
坂の上で、男の声がした。
「川の方も見ろ!」
雨にちぎれた声が、石橋の下まで落ちてくる。
フィンは息を殺した。
橋の下は臭い。泥と腐った菜っ葉と、濁った川の匂いが混じっている。雨の日に、わざわざ降りてくる大人は少ない。濡れるし、足元は滑るし、拾えるものもろくにない。
隠れるにはちょうどいい。
川は増えていた。橋脚にぶつかった水が、泡と枯れ葉を巻きながら流れていく。上から落ちる雨だれが、石の上で細かく砕けた。
フィンは上着の内側をもう一度押さえ、坂の方を見た。
声は近づいてこない。
このまま少し待てばいい。足音が消えたら、別の路地へ抜ける。革袋の中を確かめるのは、そのあとでいい。
そう思った時だった。
雨だれの向こうで、古い布が動いた。
最初は、風だと思った。
泥を吸って重くなった布だ。端はほつれ、草の種がつき、雨に打たれて川の色に近くなっている。誰かが捨てた寝具にも見えたし、盗品を包んだ荷にも見えた。
橋の下に物があることは珍しくない。関われば、たいてい損をする。
フィンは動かなかった。
布が、もう一度動いた。
風ではなかった。
内側から、ほんの少し押された。
「……知らねえよ」
今は隠れていればいい。上の足音が消えるまで、余計なものを確かめている場合ではない。
そう思ったのに、布の端から細いものが見えた。
指だった。
泥で汚れ、爪の先だけが白い。布の端を握っている。握っているというより、そこだけは流されないように残しているみたいだった。
フィンの喉の奥が乾いた。
子どもの指だった。
坂の方へ体を向ければ、まだ逃げられる。盗った革袋もある。濡れた橋の下に、誰が何を捨てたかなんて知る必要はない。
雨が、布の上を叩く。
指は動かない。
フィンは上着の内側を押さえたまま、しばらく立っていた。
それから、舌打ちした。
「……くそ」
橋脚の陰から出て、布へ近づく。濡れた石が靴の下で滑りかけた。坂の上の声は、雨に混じって遠くなっている。
布の端に手をかけると、冷たかった。
引こうとすると、小さな指に力が入った。
フィンは手を止めた。
「取らねえよ」
盗ったばかりの革袋を腹に隠したまま、よく言えたものだと思った。
それでも、指から布をはがさないよう、別の端を少しだけめくった。
中にいたのは、少女だった。
ひどく小さく見えた。髪は雨で頬に張りつき、顔の半分に泥が乾いている。服は体に合っていない。袖が長すぎて、手がほとんど隠れていた。
目は開いていた。
泣いてはいない。
助けを呼ぶこともない。
ただ、フィンを見ていた。
「おい」
返事はない。
少女は、フィンの口が動いたところを見ていた。
「聞こえてんのか」
声に反応したようには見えなかった。けれど、何も見えていないわけではない。フィンが顔の前で指を一本立てると、少女の目はその先を追った。
見えてはいる。
口が少し開いた。
「あ……」
声は出た。
けれど、返事にはならなかった。ただ、喉の奥で揺れた音が、雨の音に混じって消えた。
フィンは布をめくった手を離した。
このまま置いていけば、たぶん誰も気づかない。気づいても、触らない。橋の下の濡れた布を、わざわざめくるやつはいない。
雨は強く、川は増えている。
少女はその中で、布だけを握っていた。
フィンは一度、立ち上がりかけた。
少女の目が、フィンを追った。
追っただけだった。
呼び止める声はない。手も伸びない。泣きもしない。
それが、余計にまずかった。
「……来るか」
少女は答えない。
フィンは自分の胸を指し、橋の外を指した。それから、少女を指す。
「ここにいるか。来るか。どっちだよ」
雨だれが橋の縁から落ち、少女の布に当たった。古い布の色が、また濃くなる。
意味が分かったのか、分からないのか、分からなかった。けれど、布を握る指が強くなった。体がこちらへ傾いたようにも見えたし、ただ雨を避けて縮んだだけにも見えた。
「返事くらいしろよ」
「あ……う」
声は出た。
けれど、それは選ぶ言葉ではなかった。
フィンは雨の向こうを見た。坂の上の声は、もう遠い。今なら逃げられる。革袋もある。パンくらいなら買える。
ひとりなら。
少女は、布を握ったままフィンを見ていた。
選べ、と言っても選べない。
来い、と言っても、たぶん動けない。
置いていけば、橋の下の古い布に戻る。
フィンは鼻から短く息を出した。
「……もういい」
濡れた石に膝をつき、布ごと少女を抱え上げる。
思ったより軽かった。
軽すぎて、腕の置き場に迷った。力を入れれば壊してしまいそうで、肩の下へ手を回すのも少し怖い。布を握っている指には触れないようにする。
少女は暴れなかった。
上着の内側で、革袋が固く当たる。
フィンは橋の下を出た。
泥の上には、古い布があった跡が残っている。水が流れ込めば、すぐ消える。そこに誰かがいたことなど、川と雨が勝手に隠してしまう。
フィンは振り返らなかった。
人目の多い道は避けた。表通りには戻れない。さっきの男がまだ怒っているかもしれない。泥だらけの少女を抱えたまま歩けば、誰かが聞く。
誰の子だ。
どこから連れてきた。
なぜ濡れている。
答えられることは何もない。
荷置き場の裏を抜け、壊れた塀の隙間から細い路地へ入った。雨でぬかるんだ地面に足を取られそうになるたび、少女の膝を壁にぶつけないよう抱え直す。
「足」
言っても返ってこない。
フィンは少女の膝のあたりを少し持ち上げ、壁から離した。少女はその動きを目で追い、布を握ったまま体を縮めた。
悪さをして逃げるだけなら慣れている。
だが、子どもを濡らさず運ぶやり方なんて知らない。
廃屋は、川沿いの路地を二つ曲がった先にあった。
戸板は半分割れ、壁の隙間から細い光が入っている。屋根もところどころ抜けているが、奥の一角だけは雨を避けられた。
フィンは肩で戸板を押した。
腐った木が嫌な音を立てる。中の空気は湿っていて、古い埃と藁の匂いがした。床には木片が散り、釘の出た板もある。
「家じゃねえからな」
少女に言ったのか、自分に言ったのか、分からなかった。
フィンは壁際の木片を足でどけ、釘の出た板を蹴って寄せた。雨の当たりにくい場所へ古い布切れを敷き、そこを指す。
少女は床ではなく、フィンの指を見た。
フィンは自分で壁際にしゃがんで見せた。それから少女を同じ場所へ座らせる。
少女は抵抗しない。
ただ、置かれた場所に座る。
長すぎる袖の端が床に触れていた。濡れた袖口が埃を拾い、古い釘の近くへずるりと落ちる。
フィンは眉を寄せた。
「そんなの、引っかけるだろ」
少女は口元を見るだけだった。
フィンは、布を握っていない方の袖をつまんだ。湿って重い。折ってもまだ長く、もう一度折ると、細い手首が少し見えた。
少女の目が、その動きを追っている。
見てはいる。
それだけは分かる。
もう片方の手は、まだ布を握っていた。無理にほどけば、また指に力が入るだろう。
少し迷ってから、フィンは指の下を避けるように袖の端だけを持ち上げた。
少女の指が強くなる。
「取らねえって」
フィンは自分の手を上げ、首を横に振って見せた。それから、布ではなく袖の端を指す。
少女の指は布を握ったままだったが、それ以上は強くならなかった。
袖を折る。
布は残る。
もう一度折る。
細い手首が、ようやく外に出た。泥のついた指は、まだ布の端を握っている。
フィンは手を離した。
廃屋の外では、川の音がいつもより太く聞こえた。雨はまだやまない。
フィンは上着の内側に手を入れた。
革袋がある。
中を開けると、銅貨が三枚入っていた。
三枚。
自分ひとりなら、今日全部を使わずに済む。二枚残せば、明日も動ける。一枚で腹に入るものを選べる。
壁際の少女は、名前も分からず、言葉も返せず、古い布だけを離さない。
フィンは銅貨を一枚取り出した。
残りは二枚。
少女はその動きを見ていた。
「ここにいろ」
フィンは自分を指し、戸口の外を指した。それから、少女の座っている場所を指す。
少女は返事をしない。
ただ、フィンの手を追っている。
フィンは戸口の影に、割れた木片を一本立てかけた。戻った時に、そこが変わっていないか分かる。
少女は木片を見て、それからフィンを見た。
「いなくなってたら、知らねえからな」
嘘だった。
いなくなっていたら、たぶん探す。
探す羽目になるから面倒だ。そういうことにした。
フィンは戸口を出た。
雨はまだ降っている。遠くの通りの声が、細く混じっていた。
服の内側には銅貨が二枚。
手の中には一枚。
革袋から出した銭だった。
橋の下の古い布は、もう雨の中には残っていない。
フィンは銅貨を握り直した。
面倒を拾った。
それでも、あの布を雨の中へ戻す気にはなれなかった。
パンを買うなら、さっきの男がいた通りは避けた方がいい。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




