第四章 願いが叶った日
五月の半ばに部を作ってから、時間は思ったよりあっという間に過ぎた。
中間テスト前は屋上に集まる回数も減っていたけれど、そのぶん終わってからは、取り戻すみたいに毎日顔を合わせるようになった。
ほしあま部の活動もようやく本格的に動き出していた。
最初に気づいたのは、凛ちゃんだった。
六月の体育の授業だった。五十メートル走の計測で、凛ちゃんは八秒八を出した。
すごく目立つ数字というわけじゃない。でも、凛ちゃんは教室に戻ってくるなり、少し変な顔をした。
「ひかり、ちょっといい?」
廊下に連れ出されて、小声で言われた。
「あたし、去年の記録より一秒以上も速くなってた」
「それはすごいね」
「そうじゃなくて」
凛ちゃんは声をさらに潜めた。
「去年の体育祭、あたしクラスで遅い方だったんだよ。それが今日、一番速かった」
わたしは少し考えた。
「練習したとか」
「してない。むしろ最近ダンスの練習ばっかりで走ってない」
「成長期とか」
「高二だよ」
沈黙。
「……屋上で願い事、したことある?」
わたしが尋ねると、凛ちゃんがわたしの目を見た。
「した。流れ星が落ちたとき、足速くなりたいって言ったじゃん」
「あれ、本気で願ったの?」
「……なんとなく、心の中で。歌いながら空見てたら、なんか願いたくなって」
わたしは廊下の壁にもたれた。
偶然かもしれない。でも偶然と言い切れない気もした。流れ星が落ちる屋上で歌いながら願い事をして、それが叶った。そういう話が、今目の前にある。
「玲奈さんに聞いてみよう」
昼休みに四人で集まった。
わたしが凛ちゃんの話をすると、玲奈さんが少し目を細めた。
「実は、わたくしも少し気になっていたことがあって」
「何ですか?」
「先週、学校の音楽室でピアノを弾いていたら、音楽の先生が声をかけてきました。地区のコンクールに推薦したいと。これまで声をかけていただいたことはなかったのですが」
「それって」
「偶然かもしれません。でも、あの夜、屋上で歌いながら、ピアノが上手くなりたいと思っていたのは本当のことで」
玲奈さんは少し言いにくそうにした。丁寧な口調のまま、でもどこか戸惑っている。
「因果関係を証明する方法がないのは分かっています。ただ、気になって」
透子は黙って二人の話を聞いていた。
わたしは透子を見た。
「透子は? 何か変わったことない?」
透子は少し間を置いた。
「……歌の録音、聴き直した」
「最近の?」
「屋上で練習始める前と、始めたあとの。自分で録ってたやつ」
「どうだった?」
「……違った」
凛ちゃんが前のめりになった。
「上手くなってた?」
「上手くなったというより、声が変わった。出なかった音域が出てる。力まなくても声が出るようになってる」
「それって」
「練習した分もあると思う」
透子は穏やかな声で言った。
「でも、こんなに早くは変わらない」
四人で少し黙った。
風が窓から入ってきて、カーテンを揺らした。
凛ちゃんが口を開いた。
「流れ星、願い叶えてない?」
誰も否定しなかった。
放課後、四人で屋上に上がった。
いつもより少しだけ緊張した空気があった。確かめに来た、という感じがした。
「今日、ちゃんと願い事をしてみよう。歌いながら、ちゃんと心の中で」
「実験みたい」
わたしが言ったら、凜ちゃんがすぐに突っ込んできた。
「実験です」
「叶わなかったら?」
「それはそれで分かったことになる」
玲奈さんが頷いた。
「では、願うことを一つ決めておきましょう。歌いながら意識するために」
透子は空を見上げていた。
「透子は何を願う?」
わたしは尋ねた。
「……もう願った」
「今のうちに?」
「うん」
透子は何を願ったのか言わなかった。わたしも聞かなかった。
凛ちゃんは「あたしはダンスがもっと上手くなりたい」と言った。玲奈さんは「コンクールでいい演奏ができますように」と言った。
わたしは何を願おうか少し考えた。
自分の夢、というものがよく分からなかった。歌が好き、みんなと一緒にいたい。それだけで今はじゅうぶんな気がした。
でも願い事ひとつ、と言われたら。みんながずっと一緒にいられますように。
そう思った。漠然としていたけれど、それが一番近かった。
「行こう」
四人で向き合って、歌い始めた。
今日は玲奈さんが作ったメロディの、サビの部分だけを繰り返した。まだ完全には歌詞が埋まっていないところは、ラララで繋ぐ。透子の声が中心にあって、わたしたちがそれを囲む。
サビに入った瞬間、それぞれが心の中で願った。わたしには分からなかったけれど、みんなの顔がすこしだけ変わった気がした。目を閉じている子も、空を見ている子も、それぞれの場所に意識が向いている感じがした。
そして。落ちた。
一本、二本、三本、四本。
今日も四本だった。
凛ちゃんが「わあ」と小さく声を上げた。玲奈さんが目を見開いた。透子は無表情のまま、でも目が少し大きくなっていた。
歌が終わった。
四人で空を見上げた。
「四本」
わたしは言った。
「人数分、また」
凛ちゃんも。
「偶然ではないと思います」
玲奈さんも。
透子は何も言わなかった。ただ空を見ていた。
翌週、凛ちゃんが走り幅跳びの記録も伸びたと言いに来た。
体育の授業で自己記録を更新して、先生に二度見されたらしい。
「もう偶然じゃないよ。絶対叶ってる」
「うん」
「すごくない? 本物じゃん、流れ星」
「本物だと思う」
玲奈さんがコンクールの本選に通過した、という話もその週に聞いた。推薦で出した地区の大会で、審査員に名前を覚えてもらったと。
「これまで地区止まりだったのが、次のステージに進めそうです」
「よかった」
「……ひかりさんのおかげかもしれません」
「わたし何もしてないよ」
「誘ってくれたから、屋上に来た。屋上に来たから、歌った。歌ったから、星が落ちた」
玲奈さんは穏やかに、でもはっきりと言った。
「全部繋がっています」
わたしは少し照れくさかった。でも嬉しかった。
透子の変化は、もう少し時間をかけて分かってきた。
屋上での練習中、透子が以前は出なかった高音を、さらりと出した。凛ちゃんが「いまの音域すごくない?」と言って、透子が「……そう?」と答えた。
わたしには分かった。透子は分かっている。でも言葉にしない。それが透子らしかった。
でも、その頃から、少しだけ気になることがあった。
何かが変わっているのは分かる。でも何かが、妙だった。
凛ちゃんがある日、何気なく言った。
「ねえ、小学校のとき仲良かった子ってみんないる? なんか急に思い出せなくて」
「誰が?」
「地元の友達。名前は出てくるんだけど、顔が思い出せなくて。よく一緒に走り回ってた子がいたはずなんだけど」
「記憶って薄れるよ」
「そうかな。なんか変な感じがして。忘れてる気がするより、最初からなかったみたいな感じ」
わたしは少し引っかかった。でもそのときは、気のせいだと思った。
玲奈さんも、ある日少し変なことを言った。
「昔の写真を見ていたのですが」
「どんな写真?」
「小さい頃、お母様とピアノの前で撮った写真があって。でもその日のことが、まったく思い出せないんです」
「写真を見ても?」
「写真の中の自分と母の顔は分かります。でも、何を話したか、どんな気持ちだったか。何も出てこない。写真の中の出来事なのに、まるで他人の写真みたいで」
玲奈さんは少し困ったような顔をして、それからいつもの穏やかな表情に戻った。
「年齢のせいかもしれませんね。子どもの頃の記憶は薄れるものですし」
「そうかもしれない」
わたしもそう答えた。
でも、二つが重なった。凛ちゃんの地元の友達の記憶。玲奈さんの母親との思い出。
二人とも、大事そうなものが、なんとなく薄れている。
偶然かもしれない。でも、もう一つ気になることがあった。
わたし自身のことだった。
最近、妙に思い出せないことがある。小さい頃のことで、大事だった気がすることが、どこかに霞んでいる。
何だろう、と思う。
でも思い出せない。
思い出せないということだけが、残っている。
その日の屋上で、わたしは透子に聞いた。練習が終わって、二人でフェンスの前に立っていた。凛ちゃんと玲奈さんは先に降りていた。
「ねえ、透子」
「なに」
「透子は、歌が上手くなった以外に、何か変わったことない?」
透子が少し間を置いた。
「……どういう意味?」
「忘れてることとか、思い出せないこととか」
透子の横顔が、かすかに固まった。
それが答えだとわたしには分かった。
「透子も、ある?」
「……少し。妹のことで、思い出せないことが増えた気がする」
「妹さんがいるの?」
「いる。でも、小さい頃の記憶が、なんか、薄い。昨日まで覚えていた気がしたのに、今日見たら霞んでる、みたいな感じ」
わたしは黙った。
透子が続けた。
「気のせいかもしれない」
「そうかもしれない」
でも二人とも、気のせいだとは思っていなかった。
フェンスの向こうで、街の灯りがぽつぽつと増えていった。空が暗くなっていく。流れ星はもう落ちない時間だった。
「願いが叶うのと、何か関係があると思う?」
わたしが尋ねると、透子は少し考えてから答えた。
「……分からない。でも」
「でも?」
「タイミングが、重なってる気がする」
それだけ言って、透子は口を閉じた。
わたしも何も言わなかった。
言葉にしてしまうのが、少し怖かった。
願いが叶う代わりに、何かが消えていくとしたら。
その何かが、思い出だとしたら。
考えかけて、わたしは首を振った。まだ分からない。まだ確かめていない。決めつけるのは早い。
「今日も練習、よかったよ」
わたしは話題を変えたけど、
「……うん」
透子もまだ考えていた。わたしと同じように。
夜風が吹いた。屋上には二人だけが残っていた。
流れ星は落ちない夜の空の下で、わたしたちは少し違う重さを持ったまま、並んで街を見ていた。




