第五章 五人目の放課後
六月の終わりの放課後、屋上の扉を開けようとしたときだった。
向こう側で、誰かが小さく息をのむ気配がした。
わたしが扉を引くと、すぐ前に、小柄な女の子が立っていた。肩が跳ねたみたいにびくっとして、慌てて半歩下がる。制服のリボンが少し曲がっていて、胸の前で手をぎゅっと握っていた。
「あ……すみません」
謝るようなことじゃないはずなのに、そう言わないとここに立てない子なんだと思った。
「ううん、びっくりしただけ。どうしたの?」
できるだけやわらかく聞くと、彼女は目を伏せたまま、小さな声で言った。
「あの……前から、何回か見てました」
「見てた?」
「はい……歌ってるの、ここで」
その言い方で、なんとなく分かった。ただ通りがかって一度見た、という感じじゃなかった。たぶんこの子は、何度かここまで来て、扉の向こうの声を聞いて、入る勇気が出ないまま帰ったことがある。
その姿を想像すると、少しだけ胸がきゅっとした。
「そっか」
わたしがそう返すと、女の子はおそるおそる顔を上げた。ショートボブで、丸い目をした、やさしそうな顔立ちだった。小柄で、どこか小動物っぽい。
「歌、きれいだなって思って」
たぶん、きれいだと思ったのは歌だけじゃない。この屋上に流れている時間ごと、この子は見ていたんだと思う。
「見学、したいの?」
聞くと、彼女は少し迷ってから、こくんと頷いた。
「迷惑じゃなければ……」
入りたい、とはまだ言えない言い方だった。断られたときのために、少しだけ逃げ道を残しているみたいだった。
「迷惑じゃないよ。むしろ嬉しい」
そう言うと、彼女の肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。
ちょうどそのとき、後ろから凛ちゃんたちも階段を上がってきた。
「あれ、誰かいる」
「見学の子?」
凛ちゃんが覗き込むようにして言うと、その子はまたぴんと背筋を固くした。玲奈さんがわずかに屈んで目線を合わせる。
「こんにちは。わたくしたちは、怪しい者ではありませんよ」
「いや、活動内容だけ聞くとだいぶ怪しいけどね」
「ひかりさん、そこは否定してください」
いつものやりとりに、女の子の口元がほんの少しだけ緩んだ。
そのとき、透子が屋上の端からこちらを見て、囁くような声で言った。
「……来る?」
短いひと言だった。でも、そのぶっきらぼうな優しさは、透子なりの歓迎だとすぐに分かった。
女の子は目を丸くして、それから小さく頷いた。わたしたちと一緒に、そっと屋上へ入ってくる。その足取りは遠慮がちだったけれど、もう帰ろうとはしていなかった。
「まだ名前、聞いてなかったよね」
「あ……小日向ましろ、です。一年です」
「ましろちゃん。わたしは水瀬ひかり。で、こっちが夏川凛ちゃん、月城玲奈さん、白石透子」
「よろしく!」
「よろしくお願いします」
「……よろしく」
「よ、よろしくお願いします……」
ましろちゃんの声は小さかった。でも、ちゃんと届いた。
少し話してみると、彼女は歌が好きで、放課後に校舎の近くを通るたび、屋上から聞こえる歌声が気になっていたらしい。最初は透子の歌に足を止めて、次には四人で歌う声に惹かれて、気づけば何度もここまで来ていたのだと言った。
「わたしなんかが入っても、大丈夫ですか」
その言葉に、わたしは一瞬だけ息を止めた。
できるかどうかより先に、いていいかどうかを聞く子なんだと思った。
「大丈夫だよ」
なるべく間を置かずに言った。
「歌が上手いかどうかとか、経験があるかとか、もちろんそれも大事かもしれないけど。でも、ここに来たいって思ってくれたなら、それだけでじゅうぶんだよ」
ましろちゃんは、少しだけ目を見開いた。信じていいのか迷うみたいに、わたしの顔を見ている。
「……ほんとうに?」
「ほんとうに」
凛ちゃんが大きく頷いた。
「大歓迎! ちっちゃくてかわいいし!」
「そこが一番最初に来るんだ」
「実際かわいいじゃん」
「否定はしませんけれど」
玲奈さんが微笑んで、透子も小さく頷いた。
「……いてほしい」
透子がそう言うと、ましろちゃんは完全に固まったみたいになった。それから、目の縁を少しだけ赤くして、ぎゅっとスカートを握った。
「……入りたいです」
決意というより、ようやく追いついた本音みたいな声だった。
「うん」
わたしは笑った。
「じゃあ、今日から仲間ね」
その瞬間、ましろちゃんが泣きそうな顔で、でもちゃんと笑った。
屋上の風が吹いた。夕方の空は淡い橙色で、フェンスの向こうに広がる街も、どこかやわらかく見えた。
五人になったんだ、とそのとき初めて実感した。
流れ星が落ちる屋上に、またひとつ、帰ってきたくなる理由が増えた気がした。
「ねえ、流れ星、五本になったね」
凜ちゃんが嬉しそうに言った。
「うん」
「増えてる。人数が増えるたびに増えてる」
「そうだね」
「ということはさ……」
凛ちゃんが少し考える顔をした。
「もしもっと大勢で歌ったら、もっとたくさん落ちるのかな」
「文化祭のライブで確かめよう」
「それまで待つの?」
「待つ。そのくらい楽しみにとっておこう」
凛ちゃんが「そっか」と言って、空を見上げた。
ましろちゃんが、おずおずとわたしに近づいてきた。
「あの、ひかり先輩」
「なに?」
「ほしあま部って、どこを目指してますか?」
「まずは文化祭。でも、その先も見たい」
「その先?」
「うん。もっと遠くまで、わたしたちの歌が届く場所」
ましろちゃんは少し考えて、言った。
「ましろ、お役に立てるか分かりませんが」
「役に立てるよ。声、あるんだから」
「……でも、ましろには夢とか、目標とか、そういうのがなくて」
「今はなくていい。歌うのが好きなら、それでじゅうぶん」
ましろちゃんがわたしを見た。
「先輩は、夢ありますか?」
「わたし?」
「はい。アイドル部の先輩なのに、夢がないとか変ですよね」
「変じゃない。わたしも夢ってよく分からない。ただ、みんなと一緒にいたいとは思ってる」
ましろちゃんは少し不思議そうな顔をした。
「それって、夢じゃないんですか」
わたしは少し考えた。
「……夢なのかな」
「ましろはそう思います」
ましろちゃんはそう言って、また前を向いた。
夕日が落ちていた。橙の光がみんなを照らしていた。みんなの分の影がコンクリートに伸びていた。
ほしあま部が五人になった日の夕方は、少し風が強かった。
それでも、その日はなんだか、空気までやわらかい気がした。




