閑話 サドはマゾに育てられる
夜の帳が降りかけている玄関先の広場で退屈そうにスマホを眺めて愛衣を待っていた修人だが、下駄箱の近くから誰かが走ってくる気配と足音がして本能的に顔を向けた。
愛衣が修人の方へと向かって走ってきていた。身体を過ぎる風にきめ細かく細い黒髪を空に畝らせ、完璧なまでに端整な顔を荒い呼吸で赤らめて歪ませているし、今にも制服を突き破りそうなくらい上下に弾んでいる大きな乳房の空気抵抗が大変そうで、スカートが時折捲りあがってちらつく弾力のある柔肌が重力に引っ張られて小波を打つ陶器のように白い肌がやけにいやらしく修人には見えた。
「お待たせしましたぁ……。はぁ、はぁ、疲れた……」
息を荒らげながら苦しそうに修人に詫びを入れる愛衣。そしてそんな愛衣を修人は苦笑しながら心配した。
「大丈夫か? ゆっくり歩いて来ればよかったのに、なんで走ってきたの」
「佐渡くんを……」
「落ち着いてからでいいから」
何かを言おうとした愛衣だが、まだ肩を上下に震わせながら荒らげた呼吸をしていたので見兼ねた修人が落ち着かせようとしてそう言った。それから少しして、落ち着いた様子の愛衣は口を開いた。
「佐渡くんを待たせちゃ悪いと思ったから……、その、人としても、奴隷としても、ね」
駆け足で来たことで血流が良くなり脈拍の上がった愛衣は顔が真っ赤に紅潮しており、それと同じように充血した唇を艶めかしく動かしてそう吐露した。ライトを当てられた宝石のように煌めく大きく潤んだ瞳の眼差しを向けられる修人は、今写真を撮って額縁にでも飾れば何かの賞を受賞できるかもしれないとふと思った。
「あんまり長いこと待たされるなら文句の一つや二つ言うかもしれないけれど、五分や十分を待つ程度の時間は気にしないよ。転んで怪我される方が困るから今度からは歩いてきてね」
修人の目は平均的なサイズより少し大きいが、そんなもの比較にならないほどぱっちりとした愛衣の眼力に気圧されそうになる修人だが、視線の相撲をして最初に折れるのはだいたいいつも愛衣の方だ。そんな愛衣が答えた。
「佐渡くんは優しいね」
伏し目をした愛衣がうつむき加減でそう言うなり修人の横に並んだ。それから修人の顔をじろっと見つめると言葉を紡ぐように、
「優しすぎるくらい」
と愛衣は言った。それはマゾヒストの愛衣による苦情だった。今まで人に優しくしてきて苦情どころか文句のひとつも言われたことのなかった人生の修人は一瞬そんな愛衣の申し入れに狼狽えて口をぽかんと開けて呆けてしまったのだが、幸いなことに先程愛衣が言った『奴隷として』という単語を思い出したことで愛衣が修人に伝えたい意味を何となく察したことで話し合いをしようと修人は思った。
真面目な顔つきになった修人は何の気なしに隣にいる愛衣の手をまるで慣れているかのような手つきで握るなり、愛衣をエスコートするようにそそくさと歩き出した。それについて修人が恥ずかしそうにする素振りはなかったし、そんなことを考える余地が無いほどこれから話し合うことに集中しようとしていたのだ。当然というべきか愛衣はその修人の行動に驚いた。なんせ親族以外で初めて異性と手を繋いだからだし、さっき走ったことで手汗が掌に溜まっておりそれがバレることが恥ずかしいからである。そして以前に経験を経たことがあるかのような振る舞いの彼氏である修人に誰か他の女の影を想像して愛衣は少しだけ落ち込んだし、それと同じように現状の強引な修人の姿に胸の奥が高鳴るようなドキドキした高揚も感じていた。マゾヒストである前にひとりの女子高生であり、彼氏の一挙手一投足が気になる恋心を抱く愛衣だが、そんなことを知らない修人は愛衣が疲れないようになるべく歩幅を緩めて歩こうとしており、普段の能面のような感情のない顔をしている。そんな修人がひっそりと口を開いた。
「昼にも伝えたけれど、愛衣さんのことをもっと教えてほしい」
感情の感じない素っ気のない修人のその台詞に、愛衣は条件反射的に言葉を返した。
「何をですか?」
「そうだなあ。例えば……、愛衣さんが絶対にやってほしくないプレイとか、絶対に触れてほしくない部位、絶対に言ってほしくない言葉……。でも一番知りたいことは、愛衣さんがしてほしいことかな」
「それって……、教えることで何かあるんですか?」
「あるよ」
修人がそういう頃には校門を出ており行先の分岐が左右に別れた。そこでぴたりと足を止めた修人が愛衣の方へと顔を向けた。相変わらず顔を向けるとじっと見つめ返してくる愛衣の挙動に修人は慣れないのだが、我慢しながら「どっちに行くの?」と聞いた。愛衣は短く「右です」と言う。右の道は並木道であり、街灯が多くて明るかった。そして愛衣は「分岐点に来たらお知らせしますね」と続けると、「うん」と絶世の美女と並んで歩く修人がそう短く頷くなり、「それで」と前置いて話を続けた。
「お互い話し合って、何をしたらダメなことで、何をしたら相手が気持ちよくなれるかを知ることって、結構大事なことなんだ、SMプレイって。SMプレイはお互いに気持ちよくさせることが出来る素敵な関係だけれど、ふとした時に相手の心の中に秘めている精神的な超えてはいけないラインを越えて関係が破綻することが良くあるらしいんだ。サディストもマゾヒストも人間だから、生きてきてトラウマになった事柄、コンプレックスに思っている何かを抱えて生きているはずだし、それに触れられ続ければプレイに集中できなくなることは当たり前だよね。まあでも、世の中には相手がどんなことをすると興奮するかを探りながらSM関係を楽しむ人がいることをインターネットで体験談を何件も目にしたから知っているし、人の楽しみ方は自由だから俺は手探りで行うプレイを完全に否定はしない。でも、俺は最低でもSMプレイをする事前に『何をされたら嫌なのか』を知っておきたい。愛衣さんに三度もSMプレイをしておいて偉そうなことを言うには立つ瀬もない気持ちだけれど、本当にそう思っているよ。だから愛衣さんがされて嫌なことを知りたい」
じっと修人の語りを聞いていた愛衣はそう聞いていて納得していた。愛衣はどちらかと言うと修人にどんなことをされるか楽しみにして興奮していたし、インターネットで検索してきたSMプレイの予備知識が無駄にあるせいで余計に次に何が来るのか楽しみにしていたくらいだ。愛衣は修人のその言葉は良好な関係を築くための建前だけれど、本質的な根源にあるのは優しさから来る気遣いだと何となく察していた。
「それはつまり……、私との関係を壊したくないから、そう聞いてくれているんですよね?」
愛衣は修人の意図を何となく知っていて、だが確認の意味を込めて悪戯っぽい笑みを浮かべてそう修人に尋ねた。
「……そうだよ。せっかく素敵なパートナーに出会えたんだから手放したくないって思うのは普通のことだろっ」
真意を汲まれて見透かされたような質問に修人は顔が真っ赤になり、図星をつかれた恥ずかしさで息巻きながらそう返答する様は初々しささえあった。
愛衣はその言葉を耳から仕入れるなり自然と笑みがこぼれていた。不敵な笑みであり、相思相愛であることを改めて確認したことで愛衣は誠意をもって回答した。
「そうですね、確かに良好なSMの関係を築くには腹を割って話し合った方が良いですね。……私は佐渡くんが理想とする奴隷になりたいです。だから佐渡くんが思っているやりたい調教、やりたいお仕置をしてほしいです。私はどんなプレイでも受け入れる覚悟でいます。だから、私は佐渡くんの理想とする奴隷になってずっとそばにいたいです。……だめ、でしょうか……?」
腹を割って話した愛衣。それなりの覚悟が必要な発言だったため、愛衣は言葉を並べている途中に不意に修人の手をぎゅっと握っていた。もちろんそのことを修人は気が付いているし、修人本人はそれが恥じらってのことだろうと見当はついていた。愛衣のその言葉に嘘偽りは無いのだが、それから間を置かずに「あっ、嫌なことはありました」と愛衣は追加の注文を修人に伝えた。
「私は佐渡くん以外の人に触られたくないです。それと恥ずかしい姿を見られると興奮するんですけれど、過激な衣装で人前に出るのはちょっと抵抗があります……、です。それと……、欲張りかもしれないけれど、佐渡くんが私以外の奴隷を飼うことも嫌です。私を独占してほしいし、私以外に目を向けないでほしいです。……我儘な奴隷でごめんなさい」
愛衣はそう言い、潤んだ瞳でおずおずとご主人様の機嫌を窺いながら言った。要望を言えと言われたからそう伝えたのだが、ご主人様の行動にまで口を出したことで機嫌を損ねたと愛衣は思った。そしてそんな愛衣の台詞と顔に目を向けた修人は、愛衣の破壊的なまでに完璧な顔立ちとサディストの魂を刺激するような独占欲を満たす甘い言葉に心臓を握りつぶされたような鈍痛を感じた。これをときめきというのだった、と愛衣と出会って修人は既に何度か経験しているが、今の衝撃はそれまでのものよりも一層強力だった。まあ当の愛衣は別に修人にそう思わせるためにと狙って愛想を振りまいているわけではなく、美貌を持っている自覚がないため天然でそうしているから恐ろしいのだが。
「我儘を言ってくれてありがとう。……そう言ってもらえて嬉しいし、愛衣さんが伝えてくれた嫌な事は絶対にしない。あと……、俺も愛衣さんを独占したいって思っていたから、心配しないで」
修人は照れた顔をするなり愛衣に見せないようにしようと真っすぐ道先を見据えながらいつもの能面顔になろうと努めていた。そんな一連の動作を見ながら優しい言葉を告げてくる修人の姿が愛くるしくなった愛衣は、「普段からもっと厳しくしてくれてもいいのに」と思っていたことを我儘ついでに独白した。
そんな言葉を受けた修人は愛衣を一瞬見るなり前に向き直った。冷ややかな視線。ずっと――まあ時折進行方向を見ながらだが修人の顔に釘付けになっている愛衣はそんな視線を見逃さなかった。愛衣の背筋に感じるひんやりとした汗と微弱な肝を冷やすような焦燥感は、愛衣にとって癖になりそうな刺激だった。ふたりの進行方向に信号があり、黄緑色の点灯が激しく点滅して赤色に変わる。それから修人が先に横断歩道のずっと手前で立ち止まる。愛衣はそんな落ち着き払った修人に並ぶようにぴたりと立ち止まるのだが、修人からのまとわりつくような全てを見抜くような冷たい視線を逸らせずにいた。
「普段からサディスティックに振舞わない理由はね、愛衣さんに日頃から刺激を与えてしまったら節操なくどこでも発情したら困るから公の場ではあまりそういう対応をしなかったんだよね。メリハリが大事だって伝えたでしょう?」
そう言い、修人は不適な笑みを愛衣に見せた後、愛衣を睨むようにして目を細めるなりこういった。
「やっぱりお仕置は今日やろう」
愛衣は震えた。今まで自分のことを見てくる視線はどれもこれも美術館に並んだ貴重な展示物を見るような保護的な視線や羨望の眼差しが殆どだった。だが、今目の前にいるご主人様である修人から浴びせられる汚物を見るかのような軽蔑された視線に愛衣の魂が震えたのだ。修人は愛衣から視線を逸らさずに言葉を紡ぐ。
「本当は明日お仕置しようと思ったけれど、明日が土曜日だったことを忘れていたから仕方ないね」
修人はにこやかにそう飄々と言う。そして信号が青に変わった。そこで修人は歩き出した。手を引かれたままの愛衣はつられて歩くのだが、いきなり愛衣にとってはご褒美とも言えるお仕置が行われることをご主人様から告げられた愛衣はひっそりと口を開いて恐る恐るこう聞いた。
「あの……、どこでお仕置をするんでしょうか……」
「そうだね……。愛衣さんの家かな」
「えっ!」
愛衣が修人にそう言われるなり、条件反射的にそう口から驚きを表現した後で表情がその感情に追いついていた。
「ご主人様が私の家に来るのですか?」
いきなりそんな強引な押しかけをするのがサディストの心理なの? と言いたげで青ざめた表情であわあわしている愛衣がそう言うが、誤解を解くように先程とは打って変わって修人は優しく「愛衣さんの家にはいかないよ」と言い、愛衣を落ち着かせた。それから続けて、修人が言葉を紡ぐ。
「ビデオ通話をしようよ」
「ビデオ通話ですか?」
「そう。愛衣さんの家って無線の電波通ってる?」
「はい、いつも自宅ではそれを使っていますが……」
「よかった。ビデオ通話ってデータ通信量えげつないからね」
「そうなんですね。……いつからビデオ通話をするんですか?」
「そうだね……。愛衣さんがお風呂に入る前かな。連絡して」
「お風呂に入る前、ですか?」
「うん。あっ、愛衣さんが言っていたお風呂前にするアレ、しないでね」
愛衣は修人に満面の笑みでそう言われて一瞬きょとんとした顔をした後、自分が何を言われたのか理解して悲しそうな顔で修人を見た。
「……はい」
我慢を強いられた愛衣がそう返事をする頃、愛衣はそっと立ち止まって「もう少しで私の家なので、もうここまでで大丈夫です。ありがとうございました」と凛とした面持ちで愛衣はエスコートをしてくれた修人に告げたが手を離さないでいた。そして愛衣は繋がれた手をじっと見た。そして修人もそれにつられて視線を追った。それからほんのりと頬を赤らめた修人はそっと手を離した。別れを告げられて名残惜しくなった修人はしばらく愛衣の全体像を見つめた。それは高校一年生らしい初々しい反応だった。
それから最初に口を開いたのは愛衣だった。
「うん。ここまで送ってくれてありがとうございます。ご自宅はここからどのくらいの距離ですか?」
「あと一キロくらい歩いたところかな」
「遠かったらどうしようかと思いました」
「遠かったとしても送っていくよ。心配だから」
「それは……、彼氏としてですか?」
「そうだよ。愛しい彼女のためにね」
愛衣は修人にそう言われて伏し目がちになると頬を紅潮させた。
「それじゃあ、またあとで」
そんな愛衣の様子を見るなり、修人はいつも通りの無愛想な顔になってそう愛衣に伝えた。愛衣の彼氏として修人はこの時間が名残惜しかった。このままこの時間が止まればいいのに、という陳腐な願いを不意に思わせるくらい修人にとってそこは穏やかな優しい時間が流れていたのだ。
そしてしばらく修人は愛衣が自分に背を向けて帰ることを望んでいたが、一向にこちらを見て動こうとしないので修人が先に愛衣に背を向けて帰路を歩いた。背後から愛衣の透き通った声音で「またあとで」という声を聞いてちらりと背後を見るなり、小さく片手をあげた。そして再び前を向いて家路を辿った。




