閑話 小さな願い、これからの期待
午前中の授業は学生である修人にとって全く無意味な時間だった。今朝愛衣に対して行った行為の思い出が手に残っており、柔肌の感触と粘液の体験が何度も脳内で再生されたことで現を抜かしていたため、余韻に浸るあまり気持ちの切り替えができず殆ど身に入らなかったのだ。
そして昼食を済ました修人はそのまま昼休みの時間を利用して廊下の窓を全開にして外を眺めていた。季節は冬である。雪の降る地域に学校があるのだが、幸いなことに今は降雪はない。窓からは殆ど絶え間なく風が吹いてきて修人の身体の温度を確実に低下させているが、前髪を風に泳がせたまま黄昏るように呆けている修人はお構いなしにその姿勢を維持し続けていたのだが、誰かが近づいてくる足音が聞こえて窓を閉めようとした。修人自身冷風に晒されることは何となく心地が良くてそうしていたのだが、誰かそこを通ると窓を開けたら寒いと文句を言われそうで――まあ実際に数日前に同じことをしていて通りすぎた教員のひとりに寒いと注意されたので空気を読んで窓を閉める素振りだけしようとしたのだが、足音は修人の近くで止まった。また注意されると面倒だし、「これは換気をしていたんです」とか適当な言い訳を修人が考えていると、相手の方から声がかかった。
「窓を開けていたみたいですけど、寒くないんですか?」
聞きなれたその声音に修人はその言葉の発信源に顔を向けた。そこには制服の上にカーディガンを着た厚着の愛衣がきょとんとした顔をしながら修人をじっと見ていた。
「もしかして、換気をしていたんですか?」
「まあ、そんなところだよ」
修人は自分が考えた適当な言い訳が、愛衣にそのまま疑問として投げられたことで少し驚いたが他人から見ればそう見えたのなら都合がよかった為そういうことにしておいた。それから修人は不自然に思われないようにそれっぽく、そして割と本心で思っている言葉を紡いだ。
「暖房の聞いた室内にいると心地よくて眠くなるから……、食後だと特にね。だからこうして冷たい風に当たりながら外を眺めていたんだよ。まあ、誰かが来たら閉めちゃうけれどね」
そう言いながら修人は窓をゆっくりと閉じると鍵をちゃんと目視しながら施錠した。そんな動作を見ていた愛衣だが、修人がそっぽを向いている間に修人のそばに近付くなり疑問を投げかけた。
「佐渡くんはもうお昼ご飯を食べたんですか?」
「食べたよ」
そう素っ気なく返す修人。そして「えっ、もう食べ終わったの?」という顔をする愛衣の方に身体を向けると、「そういう愛衣さんこと食べたの?」と質問を返した。ちょうど顔が修人の胸元くらいまである愛衣は修人を見上げるような恰好になっている。近い距離にいるそんなふたりのことを、関係を知らない誰かがその様子を見たらきっと付き合っているのかもしれないと噂が立つような、そんな雰囲気があった。それを意識したのか否か、それは愛衣にしかわからないが、頬を少し紅潮させた愛衣が口を開いて答えた。
「私はまだです。お昼休み始まって間もないのでそんなすぐに食べられる時間はないですよ。佐渡くんは本当にご飯食べたんですか?」
「お昼は午後からの授業で眠くならない為に菓子パンひとつとかで軽めに済ませることがほとんどだよ」
「その代わりに朝とか夜に多く食べているんですか?」
「そうだよ。察しがいいね」
「佐渡くんはなんというか私の身体を支えられるくらい男らしい身体をしているから、ちゃんと食べていないはずがないと思って……。それにしても、お昼を軽めにするっていい考えですね。私も今度からそうしようかな……」
愛衣はそう言いながら一番上のボタンの開いた修人の制服の隙間から見える着衣に注目していた。校則はあるものの緩い校則であるため制服さえ着用していればピアスも、制服の下に防寒を目的としてパーカー等の洋服を着ると言った自由な校則であり、中に着る服は個人のファッションセンスが問われることを意味する。まあ無難な白いTシャツを着てくる生徒が大半なのだが、それでも自由な服を着たい生徒は少なからず存在しており、そのうちのひとりが修人だった。ご主人様であり、彼氏でもある修人が何を着ているか気になった愛衣は思わず修人の着ている服を覗いたのだ。
「佐渡くんって青色が好きなの?」
愛衣は目に入った服の色が修人の好みなのかもしれないと興味を持ってそう尋ねた。そしてそう言われた修人は愛衣の視線を辿り、自分の着ている服が青色であることを思い出して「そうだね、でも青だけじゃなくて寒色系の色が好きだね」と回答した。そう言われた愛衣はにっこりと微笑んで修人を見上げるとにこやかに微笑みながらこう言った。
「佐渡くんの好きな色を知れて嬉しい。私、佐渡くんのこと何も知らないから、少しでも佐渡くんのことを知りたいんです」
「これから嫌でも知っていくと思うよ。俺だって愛衣さんのことを何も知らないし、知りたい。普段の彼女としての愛衣さんの好みも、奴隷としての愛衣さんの好みも全て知りたいし、教えてほしい」
「それはもちろんです……」
愛衣はそう言った後、今度は照れた様に顔を下に向けた。
「やっぱり私……、自分の変態で普通の人とは違うところを見られても軽蔑せずに認めて受け止めてくれた佐渡くんのこと好きなんだなぁって思った。こんな気持ちになったこと初めてです」
修人はそう言われて照れた。修人はサディストだが普通に高校一年生の青春真っ只中の男子だ。そんな告白をされれば照れ顔を赤らめて嬉しい気持ちが高揚して心臓の鼓動が耳まで聞こえるほど高鳴るし、同級生やこの学校の生徒の支持を得ている愛衣とこんな親密にしている様子がバレたら大変だと心配して周囲に人がいないことをしっかりと確認して怠ることがないくらい慌てる。
そして修人は「それはよかった」などと敢えて素っ気なく言葉を返す。そしてとりあえず真上から愛衣を見下ろして頭頂部の可愛らしい旋毛を見ながら気持ちを落ち着かせつつ、話題を逸らすために言葉を紡いだ。
「そういえば愛衣さんはなんでここに来たんですか?」
「それは……」
下を向いていた愛衣だが、そう言いながら再び視線を修人に戻した。愛衣と修人は視線がばっちり合う。下から異性に、それも眉目秀麗な愛衣に見つめられている修人はあまりの可憐な視線に釘付けになり、蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らすことができずにいた。台詞の続きを待っていた修人はその時間が永遠に続くのではないかという感じさえしていたのだが、実際の所数秒と間を置くことなく愛衣の口から言葉が吐き出された。
「トイレに行きたかったからです……」
恥じらうようにそう愛衣は言い、紅潮した頬をわなわなと震わせながら視線を泳がせる愛衣の様子に修人ははっとした。
まさか、男子トイレで用を足したいのでは……。
そう思い至り修人は思わず言葉が口から漏れた。
「愛衣さん、トイレって男子トイレのことじゃないよね。そりゃあ、確かに今の時間帯なら男子は飯食っているから殆どの男子がトイレに行くことはないから往来はバレずにできるだろうけれど……」
「ち、違います! 普通に女子トイレに行きますっ!」
なんでもかんでも変態的嗜好に近付けないで、と言った様子の愛衣は修人の言葉を訂正した。
「それならわざわざ愛衣さんの教室から遠いトイレを使わないで近場の方へ行けばいいのに」
「それはそうなのですが、近場のトイレへ行くと何かと金魚の糞のように皆さんが付いてきてしまうので音を聞かれる心配もありますし」
皆さん、という単語に今朝目撃した愛衣の周囲に居た取り巻きを修人は思い出しつつ、愛衣本来の願望について素朴な疑問を投げた。
「音を聞かれると興奮するんじゃなかったの?」
「それとこれとは話が別です。自分で聞かせたい場合と勝手に聞かれる場合では心持が違います」
「マゾヒストの矜持だね」
「矜持ですとも」
愛衣はそう言うと、小さく身体をぶるりと震わせた。それからすぐに、「ちょっとお花を摘みに行ってまいります」と言い、愛衣は小走りで女子トイレの方へと向かった。修人は愛衣の姿を見送る為に少しだけその後ろ姿を見た。わずかに愛衣の匂いが残り香として修人の周囲に滞在していて、確かにそこに愛衣がいたことを感じさせた。なんで女子って――特に愛衣さんっていい匂いがするんだろう。修人はそんなことを思いつつ、再び窓の外へと、今度は窓を開けずに窓枠に腕を置いて体重を預けながら目を向けた。
しばらくすると再び足音が聞こえてきたことに修人は気が付いた。それは愛衣がトイレへ駆け込んで行った方からで、その音の正体が気になって修人はその方へと目を向けた。そしてそこには愛衣がとぼとぼと修人の方へと歩いてきており、手にハンカチを持って濡れた手を拭っている様子だった。その歩き方には何かを考えているような素振りも感じられるし、紅潮した頬には願い事をひた隠している幼子のような面影さえ見つけられた。
修人は誰かが来ていることが気になり、その誰かの正体が愛衣であることを知るなり、再び窓の方へと目を向けた。そして愛衣が修人の元へとやってくるとその隣に立った。少ししても愛衣が何も言わないし、どこかへ行こうともしないので、気まずくなった修人が愛衣を茶化した。
「ちゃんと女子トイレでやってきたの?」
「ちゃんと女子トイレやってきました。男子トイレには入っていないので安心してください」
「そう。……お昼ご飯食べに行かなくていいの?」
修人がそういえば愛衣は昼食を取っていないことを思い出してそう伝えた。相変わらず修人は窓を見続けている。別に愛衣と顔を合わせたくないとかではなく、それは目的があってそうしているのだが、それを知らない愛衣は、修人が窓の外を見る理由に何があるのか気になって探していたのだ。まあそれは修人のそばに少しでも長くいる為の愛衣の口実であり、修人にそう言われて帰ることを急かされていると感じた愛衣は、今更有耶無耶にする気持ちでもないと、少し勇気を出した愛衣は不安そうな面持ちをしながら少し力の入った拳を作ると修人にこう言った。
「実は……、ここのトイレを使おうと思った理由はただの口実なんです。本当は、佐渡くんに近い場所のトイレを使ったら、ひょっとしたら佐渡くんとお昼休みに出会えるかもしれないと思ったからなんです」
それは愛衣の乙女心だった。純然たる無垢な希望的な行動で、偶然を装ってでも会いたかったという欲求に従った行動だった。
その言葉に修人はときめいた。愛衣がトイレに行く前に感じた衝撃が、また愛衣の言葉によって修人の心臓の奥に鈍痛となって降りかかったのだ。それに伴って修人は加虐心が不意に芽生えてしまう。今すぐにでも自分を感動させた愛衣に対して加虐という愛を持って答えてあげたい。そんな気持ちが溢れ出そうになったが、下唇を力一杯前歯で噛みしめることで何とか理性を保った修人は、短い言葉を持って愛衣に答えた。
「俺も会えると思っていなかったから、愛衣さんとお昼に出会えて嬉しかったよ」
嬉しい、そう言われて愛衣は満面の笑みを浮かべて、
「よかった。ストーカーみたいだって言われて不愉快な気持ちにさせてしまうかもって思っていたけど、そう言ってもらえて安心した」
と愛衣はにこやかにそう言った。そう聞いて、修人は「愛衣さんのその気持ちはよくわかるよ。俺だってそうだから」と、修人は恥ずかし気もなくそう言った。
佐渡くんも、私に会いたくなる時があったんですね、なんて思った愛衣だったが、そう聞こうにも口に出すのが恥ずかしくなったので、「そういえば、佐渡くんはどうしてここにいつもいるんですか?」と話題を変えた。
修人に気持ちを同調されてすっかり気分を良くした愛衣がそう修人に聞いた。修人は少しの間困ったように「えーとね」などと唸っていたが少しして「あ、あれだよ。ほら見て」と、窓の外を指さした。愛衣はそう言われて視線の先に目を向けた。するとそこには学校を囲う塀の向こう側で大型犬二匹の散歩をしている年配の女性がいた。
「まさか、佐渡くんのここにいる目的って……」
「俺がここにいる目的、わかった?」
「……はい」
二匹の美しい毛並をした大型犬に見とれた愛衣がうわ言のようにそう短く返事した。
「綺麗なワンちゃんたちでしょう。ほら、あの婆さん、こっちに手を振ってくれたのわかる? 俺がストーカーのように狙ったタイミングで毎日ここにいることを知っているから通りがかる時に婆さんが手を振ってくれるようになったんだ」
そう言いながら修人は手を振り返した。愛衣は修人に倣ったわけではなく自然と老婆の気持ちに答えるように手を振り返していた。
そして大型犬を引き連れた老婆が過ぎ去り、少しの余韻に浸る修人は「これは俺の日課みたいなもんなんだ。別に犬を飼いたいという訳ではないけれど、ああいう日常の平和な一部がたまらなく愛おしく思える」としみじみと言った。
それから少しして愛衣が「羨ましい……」とぽつりとつぶやいた。てっきり相手を想い合ってぱったり出会うことが目的でそこにいたのものだと思い込んでいた愛衣は、実は修人が犬の為にそこにいたのだと知って高揚していた気持ちが少し落胆したのだった。もちろんそばにいた修人は愛衣のその言葉が聞こえていたし、羨望の眼差しを向けていたことに驚いたので敢えて聞かなかったことにしたのだが、愛衣が続けて、「佐渡くん、私にも首輪をつけてほしいです」などとマゾヒスト的で具体的な要求を言ってきたので聞き流すことができない状況になり、本来なら奴隷がご主人様に対して何かをしてほしいなどということはおこがましい事態なのだが、今回は愛衣のご主人様としてではなく彼氏として願いを聞き入れようと思った。
「今度用意するから、それまでは首輪なしで我慢してね」
修人のその言葉を言質とした愛衣が、「楽しみにしています」と嬉しそうに言うなり、愛衣は「ご飯食べてきますので失礼します」と修人の元から消えていった。
それから修人はひとりその場に残り、首輪どうしようかな……。などと今後の方針について熟考するのだった。




