2024/02/24
4934.
<俺は、篠田英介。信じられないとは思うが、実は人間じゃない。人間たちサバと呼ぶ生き物で、海でずっと気の向くままに生きていたのだが、ある日突然、人間になった。
人間の言葉は、なぜか脳にインプットされていた。戸籍も当然のようにあって、周りの人も親さえも、俺が人間として17年生きてきたような記憶を持っている。俺だけが、ずっと海で過ごしていた記憶を持つサバで、3日前に人間界にやってきた>
「よっ、英介っ。またぼーっとしてんなぁ。やっぱまだ事故の影響残ってんのか?」
<俺は、1週間前に事故に遭ったことになっているらしい。実際、目が覚めたら病院だった。家族や友だちのことが分からず、一時的な記憶障害だろうということで、体の方は問題なかったので退院し、日常生活に戻って少しずつ思い出していくのがいいと医者に言われた。
確かにこの3日間で、ある程度のことは俺の記憶として存在するようになった。少なくとも、初めて会った人との新しい記憶じゃない。目の前の友人、神原樹生とは去年も同じクラスで向こうから声を掛けて来てすぐに打ち解けたことは、はっきりと俺の記憶として存在している>
「おーーーい。また1人の世界に入ってないかーー」
4935.
「あぁ、悪い悪い。やっぱちょっとまだ頭が働かないみたいだ」
「そっかぁ。ま、当分は安静に過ごすしかないな。なんかあったら遠慮なく言ってくれよな」
「迷惑かけるな」
「だから遠慮すんなって。その代わり、俺が事故に遭った時に返してくれりゃあ良いから」
4936.
「おっはよー! お2人さんお揃いでー」
「おっ、ゆかりちゃんチーーッス」
「篠田も元気、とまではいかなくても調子は悪くなさそうだね。 あたしのことも分かるようになってきた?」
「あぁ、お陰様でな」
4937.
<こっちは、桐葉ゆかり。神原と同じく1年の頃からの仲で、よくこの3人でつるんでる。がさつなところはあるが、お見舞いに来てくれたのはもちろん、最初は俺が桐葉のことが分からず目の前ですごい落ち込みようで、根はいいやつだ>
「そかそか。もうあんな他人を見るような目をされるのは懲り懲りだよ~」
「ごめんって、本当に記憶が曖昧になってて」
「なんにしても、記憶喪失どかじゃなくて良かったっ」
4938.
「今日放課後どうする? 英介の快気祝いにイイもん食いにでもいくか?」
「さんせー♪ 篠田は大丈夫?」
「あぁ、先生にちょっと呼ばれてるぐらいで、特に予定とかはないよ」
「そかそか、じゃあ待つことにするよ」
4939.
キーーン、コーーン、カーーン、コーーン。
「はいホームルーム終わりー。部活のある人もそうじゃない人も遅くなりすぎないようになー。あと篠田、言ってた通り、職員室までいいか?」
「はい」
<俺はサバの身だけど、諸々の記憶とセットで勉強に関することも脳内にインプットされていた。“xのn乗の微分はnかけるxのn-1乗”だとか、“江戸時代の3代目将軍は家光”だとか。チンプンカンプンだけど暗号みたいな感じで頭の中にあって、それをそのまま答案用紙に書くことで試験をこなしてきたという記憶さえもある>
4940.
「それじゃあ、行って来る」
「行ってら~」
「俺らを置いて先生とデートなんかするなよー」
「するわけないだろバカ」
4941.
「今村先生、来ました」
「よし、いい子だ。あれから調子はどうだ? 目が覚めた直後は、親のことも分からなかったというが」
「もうある程度は大丈夫です。たまに、思い出すのに時間がかかることもありますが」
「そうか。さすがの私も、自分の親がボケる前に教え子に忘れられてしまったんじゃないかと冷や冷やしたものだったよ」
4942.
「その節は失礼しました」
「いや、済まない。愚痴っぽくなってしまったな。事故から1週間。医者のお墨付きもあるから大丈夫だとは思うが、ちょっとでもおかしいと思ったら言うんだぞ。お前の体のことは、お前にしか分からんのだからな」
「はい。それが、周りに心配をかけない一番の方法だと、分かったので」
<人間とは、奇妙な生き物だ。食べるものさえあればいいはずなのに、社会なんてものを形成して、子供は学校という名の共同施設に通わせて言葉や計算を学ばせる。
行き着く先は就職で、畑仕事やそれに使う機械作りはともかくとして、ただの遊び道具やら移動手段も作ったりしてる。歩けば何十日も掛かる場所にたった数時間で行けるのは凄いことだけど、それに何の意味があるんだろう? だって、歩いて行ける範囲で生活してても飢えることなんてないし>
4943.
「ところで篠田は、何か趣味はあるのか?」
「趣味、ですか?」
「そうだ。部活には入ってないみたいだし、仲のいい友達がいるのは知ってるんだが、どうにも、人生に楽しみを見出そうとはせず惰性で生きてるように見えてしまってね。担任としては心配なんだ」
「惰性で生きる、ですか・・・」
4944.
「あぁ~・・・表現が良くなかったな。なんというか、こう、ただ単に命があるから生きてるというか、自分の意志で死ぬような真似はしないだけという風に見えるんだ。若い頃からそれじゃあ、心配にもなる」
「そうは言われても・・・」
<何がダメなんだ? 死にたくはない。家族や友達にも死んで欲しくない。そうならないために、食べる。それで、家とか学校で会って、他愛のない話をする。その繰り返しで問題ないんじゃないのか?>
「しっくりこないという顔をしているね。そこでひとつ先生から提案、いいや、命令だ」
4945.
「命令?」
<言うにこと欠いて命令って・・・>
「そう。命令だ。“オススメ”としか言わなかったら、君は動かないだろうからね」
(この子はきっと、人生を楽しむことを放棄したんじゃない。初めから、それが頭の中にないんだ。何故かは知らない。奨学金も不要な家庭だし貧しくはないはずなんだが・・・)
4946.
「それで、命令っていうのは何です?」
「実は、部員が少なくて困ってる部活があってね。そこに入って欲しいんだ」
「え、部活ですか? でも・・・」
「不安があるのは分かる。でも部員は1人だから、既に人間関係が出来上がってて、みたいなことはないから安心して欲しい」
4947.
「とりあえず考えてみますけど、何の部活なんですか?」
「文芸部だ。本来は詩や小説を作るんだが、ひとまず読書だけでいい。今いる1人の部員もそれだけだしな」
「はぁ」
<読書かぁ。本を読むだけでいいなら楽だけど、暗号としての記憶が増えるだけで、なんの役に立つんだってのばっかりなんだよなぁ>
4948.
「できることならフィクション、作られた物語を読んで欲しいけど、制限はしないことにする。時間潰しだと思って好きなのを読むといい」
「分かりました。ただ今日は、神原たちを待たせてて」
「そうなのか。じゃあせめて顔出しだけでも行ってくれないか? 実はもう、部員候補が今日行くって言ってしまったんだ」
「えぇ? まあいいですけど・・・」
4949.
「すまないね、強引に決めてしまって。私としては、できれば君に生きる上での楽しみを見つけて欲しいんだ。君の友達で言えば、神原は女の子とデート、桐葉はギター。どっちとも、人生に役立てようしてやってることじゃない。それぞれ、単に生きるという枠を超えた、楽しみを見出しているんだ。君にも、それを見つけて欲しい」
「見つかるかは分かりませんが、とにかく文芸部には行ってみます」
「あぁ。部員の子とも仲良くなってくれると私は更に嬉しいよ。君と同じクラスだからね」
「同じクラスですか? 期待に応えられるか微妙ですが・・・善処します」
4950.
「文芸部の部室は図書室のすぐ手前だ。その子もどっちかにいるはずだから、行ってみて」
「分かりました。では失礼します」
ガララララッ。
<まさかこんなことになるなんてな。もうちょっと掛かるって神原にメールして、っと、行くか。
同じクラスの人かぁ・・・誰だろ。まぁ、神原と桐葉以外とはほとんど喋らないし、ギクシャクしたら部活行かなきゃいいだけだから、気楽に構えよう>
4951.
<えっと、この廊下の一番奥の部屋が図書室だから、部室はその手前だな>
コン、コン。
<反応なし、か。図書室に行ってみよう>
ガララララ・・・。
4952.
<図書室か。初めて来たけど、本ばっかりだ。人は、受付の人の他は6~7人。黙々と本を読んでる人もいれば、勉強してる2人組もいる。って、文芸部の人って、誰だ? 受付の人に聞いてみよう>
「あの、すみません。文芸部の人っていますか? 先生に頼まれて用事があるんだけど」
<よし、嘘は言ってない>
「文芸部の? あぁ、いつも同じ場所にいますね。ここからじゃ見えないですけど、あの8番の棚の向こうにもテーブルがあって、そこです」
4953
<よし、あっちの方だな。委員の人にお礼を言って、行ってみる。マジで誰なんだろ。と言ってもクラスメイトほとんど覚えてないんだよな・・・名前を言われたら顔はぼんやりと浮かぶし、顔を見れば名前も出て来るような気がするけど
文芸部で読書ばっかりしてるってことは、大人しめの人かな。もしかして女子? だとすると尚のこと仲良くなるの難しそうだなぁ・・・どんな本読んでるんだろ>
(ハァ、ハァ、すごい、人間の体、何回見ても不思議ですね・・・)
<まだ受付の近くにいた俺には、その荒い息は聞こえてこなかった>
「くちゅん!」
4954.
<今のはクシャミ? ここから見える範囲の人たちじゃないみたいだから、奥のテーブルの人か。絶対女子だ・・・いやでも文芸部の人しかないと限った訳じゃないし>
そろり、そろり。
<案の定、1人だった。あの子は確か、というか間違いなく、笠井さんだ。決してクラスの中心にいるタイプじゃないけど、かなりの美人で有名な人だ。文芸部だったのか・・・。
笠井さんは、さっきクシャミしたことも忘れたかのように熱心に本を読んでる。俺に気付く様子はない。もうちょっと近付くか>
(ハァ、ハァ、ハァ・・・)
4955.
<何を読んでるんだ? 凄い食い入るように顔を本に近付けてるし、なんか息も荒い>
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・!」
<やっぱり息が荒い! マジで何呼んでんだ? というかもうあと2~3歩ぐらいの所まで来たのに全然気付かないぞこの人!>
(あぁ、やっぱりすごいです・・・!)
4956.
<もう、手を伸ばせば肩に触れるぐらいに近付いたのに、気付いてくれない。どういうこと・・・?>
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・!」
<大丈夫かこの人!? 普段は絶対こうじゃないよな? 黙々と本を読んでるだけのような気がする。正直あんまり覚えてないけど、教室でもこうだったら絶対に気付いてる>
(あぁぁ~・・・! 私もいつか、人間のオスと結ばれて、こうなる日が来るのでしょうか・・・!)
4957.
<マジで気付かれない。もうこうなったら、肩をゆすってみるしかないだろう。そうしようとした瞬間、俺の目には彼女が読んでる本の中身が見えてしまった。見えて、しまったんだ・・・>
「えぇっ!」
ガタッ。
「げっ!」
4958.
<やらかした! 音出した! 声まで出した!>
「え・・・?」
<さすがに笠井さんも異変に気付いて、ガガガガガ、と壊れかけの機械みたいに首を動かして俺の方を見た。顔が、サーーーッと青ざめていってるのが、俺は俺で動揺してるのにハッキリと分かった>
「あ、えっと・・・今村先生に文芸部に入るよう言われて来た、篠田です」
4959.
<なに挨拶してんだ俺ぇぇぇぇぇぇぇ。いやいやそれ以前に、なんて本読んでるんだこの人ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。教育資料だから図書室にもあるんだろうけどぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。保健の教科書の30倍生々しかったぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。やめてくれよ、ただでさえ人間の体になって発情期の頻度おかしくなってるんだからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ>
「あ、う、あ、う・・・」
「図書室では静かにしてくださーーい」
<口をパクパクさせたまま動かない笠井さんと、冷静に声だけを飛ばして来る図書委員。うん、図書室でデカい声出したのは謝る。だけど許して。あの笠井さんが息荒くしてこんな本読んでるって知ったら誰だってビビるから!>
4960.
「あっ、えっ、新入部員っ、えっ・・・」
<ようやく笠井さんが動いた。何やらメールを確認してるけど・・・>
(来るって言ってたの木曜日だったはず・・・あぁっ、先生曜日間違えてる! 9月8日は水曜日だよぉぉぉぉぉぉ! 曜日だけ見て日付見てなかった私も悪いんだけどぉぉぉぉぉぉぉぉ!!)
<がっくし。終わった、と言わんばかりに下を向いて魂が抜けた笠井さん。多分あれだな。俺が来るって言われてた日が違ったんだな。先生がやらかしたんだろうけど>
4961.
すくっ。
<10秒ぐらい固まってた笠井さんだけど、一瞬で顔を上げてニコッを笑顔を向けて来た>
「篠田君ですね。今村先生から話は聞いてます。文芸部の笠井奈々です。私1人しかませんけど、これからよろしくお願いしますね」
<ええぇぇぇぇぇぇぇ。あの本見られたの無かったことにしたぁぁぁぁぁぁぁぁ。ビビるぅぅぅぅぅぅぅぅ。無理あるだろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。俺も何も見なかったことにした方がいいやつなのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ?>
4962.
「あ、えっと、よろしく・・・。あ、今日は友達と用事あって、先生に顔出しだけでもって言われてて来てて・・・と、とにかく明日から来るからよろしく!」
「えっ?」
がしっ。
<え? 速やかに立ち去ろうとしたら、手を掴まれた・・・>
4963.
「あの、笠井さん・・・?」
「わっ、ごめんなさい。私ったら何を・・・今村先生強引ですもんね。篠田君の予定も確認せず今日行くように言った可能性もありますもんね。日付と曜日が合ってないメールなんてしょっちゅうですもんね。あ、そうだ私部室に戻らなきゃ。とにかく明日からよろしくお願いしますね篠田君」
<笠井さんは立ち上がって、足早に俺の横を通り過ぎる。その瞬間、小声で聞こえた・・・>
「終わりました終わりました絶対に見られました有り得ませんでも現実これは現実現実現実現実現実もう終わりました私は学校の笑いものです変態野郎です帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい海に帰りたい・・・」
4964.
<ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ。怖ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。何だったの今のぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。いや、まあ、あんな本を食い入るように読んでるのを見られたらあぁもなるか・・・>
しーーーーーーん。
「すっ、すみませんっ、すぐに出て行きます・・・!」
<今の会話も、スタスタ歩く笠井さんの足音も、響いたことだろう。委員の人にでも睨まれたのか、笠井さんの謝る声が聞こえた。
それにしても、先生に入れと言われた部活で初日からこんなことになってしまうなんて、俺はどうすればいいんだ・・・。
しかし、これが俺の運命を変える出会いになろうとは、この時は思いもしなかった>