聖女の美しさは罪なのか ー05ー
※少し痛々しい表現があります
「本当に、大丈夫なの。ご主人」
あの日のことをよく思い出せない。
『起こってしまってからのこと』はよく思い出せるのに、その日に至るまでのことはノイズがかかっているみたいに思い出せない。
気が付いた時にはニケの世界は、焦げた臭いと赤色に支配されていた。
死にたくない、と強く思った。
そしてあの日から、ニケの人生は変わって今や異世界にいる。
あの日は多分運命の日。
ニケの運命を変えた日。
あの日、あの時に「死にたくない」と思ったからこそ、トラックに当たったあの夜に繋がった。
「大丈夫よ、ルーカス。安心して」
そして今日もまた、きっと運命の日だ。
運命が変わる、いやーーー……
ニケは心配そうなルーカスに向かって、安心させるように大きく頷く。
黒に変えてもらっていた髪は元に戻してもらっていたので、ニケが頷くと視界の端で見覚えのある桃色が揺れた。
ドアの前にいるルーカスは金色の瞳を動かした、窓のすぐ側に立つニケに。
ただでさえ青白い肌は、不安のせいかもっと青白くなっている。
「どうやって安心しろっていうの。根拠は?」
ルーカスとニケの間。
ドアと窓の間、ベッドの近くに立っているニキータも同じように振り返ってニケを見遣る。
苛立っているようで落ち着きがない。
ニケは知っている、ニキータも多分不安なんだってことを。
ニケはふたりに向かってにっ、と歯を見せて笑った。
今日は運命の日。
ニケ・ヴィクトリアの運命が変わる日。
「私、神様に愛されてるから」
ルーカスとニキータがそれを聞くと、同時に笑った。
「残念ながらその通りかも」
「俺様は神が嫌いだけど、ニケのことは好きだろうなきっと」
緩んだ空気を切り裂くように、ドアがノックされる。
甘くて優しい声がする。
甘くて優しくて、有無をいわせない強い声だ。
「時間ですよ、入ってもよろしいですね?」
3人は目を見合わせた。
ニケは大きく息を吐き出しながら、チラリと窓の外に視線を落とす。
ドアの前にいるのであろう青年とそっくり同じ顔の赤毛の青年が、不機嫌そうにこちらを睨みつけていた。
大丈夫。彼らはそこにいる。
「準備いい?開けるよ」
ルーカスがドアノブに手をやった。
「お前に嫌われたところで俺様は痛くも痒くもねぇけど!!ねぇけども!一応不いっとくな!俺様のことを嫌いになるんじゃねぇぞ!!」
ニキータがニケを指差しながら叫ぶ。
ニケは頷いた。
私は聖女だ。
聖女になるはずだった。
聖女になるはずなのにーーー
運命はねじ曲げられた。
ならばその運命をまた変えてやる。
今日は運命「が」変わる日ではない。
今日で運命「を」変えてみせる。
「お迎えにあがりましたよ、君達はこのまま騎士団の方へとーーー……」
ニキータが褐色の手をニケに向けた。
ぐ、と魔王は息を飲む。
水色の瞳がゆらり、と揺れたのをニケは見た。
「何をして……!」
「我が命を聞け!風撃破!」
「やめろ!!!」
甘い声が響いたのと、自分の骨が折れた音が聞こえたのは同時だった。
目には見えない大きなものが腹部目掛けて思い切りぶつかってきた、とニケが思った時には口から血が噴き出していた。
真っ赤な血の次に、ニケの視界に飛び込んできたのは怖いくらいに青い空。
部屋の中にいたはずなのにな、なんて何処か冷静な頭の中で思った。
ニケに直撃した衝撃波は、少女の骨をへし折っただけでは留まらず、宿屋の壁、窓ごと吹き飛ばす。
少しだけ青い空が近くなったのは一瞬。
次の瞬間には、粉砕した窓ガラスや木片と一緒に弧を描きながらニケは地面に向かって落ちていくーーー
痛みなんて感じない。
ただ身体は動かない。
何もかもがスローモーションのようだ。
ニケは瞳だけ動かして、宿屋の中を見た。
壁ごと吹き飛んだので部屋の中はよく見える。
手を伸ばしたまま、呆然としている赤毛の隊長。
拳を握りしめながら、じっとこちらを睨んでいるニキータ。
ドアの側で真っ青になりながら、唇を噛んでいるルーカス。
ゆっくりと落ちていく中、ニケは笑った。
息すら出来ないのに笑えるなんて、不思議。
そう思うとますます可笑しくなって、ニケは微笑みながら落ちていく。
「嘘だろ!?」
声がした。
顔はコピーしたみたいにそっくりなくせに、声は同じってわけではないらしい。
似ているけれど違う声が他の人達に指示を飛ばしているーーー……と、思っている間に、ニケの身体は地面に叩きつけられた。
ごふ、と口から血が噴き出る。
衝撃波を食らった時よりも地面に落ちた方が痛い。
息ができない、身体中が痛い。
苦しい。痛い。苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい。
人の気配がする。
悲鳴が聞こえる。
叫び声がする。
まだだ、まだダメ。
耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて。耐えろ!こんなことは全然苦しくない。痛くない。辛くない。
痛みで意識を失いそうになる。
ニケは必死になって耐えながら、その瞬間が来るのを待ったーーー……
「おい、お前……!」
赤髪の青年が視界に入ってくる。
緑色の瞳。
そっくりだが、そっちじゃない。
晴天だったはずの空を雲が覆い隠す、まるで突然夜が来たかのように。
突如として、そして急速に薄暗くなっていく様は世界の終わりのようだとニケは思った。
宿屋の3階から赤い髪が見える、真っ青な顔で隊長がこちらを見下ろしているーーー……
時は来た。
「み、てな、さぃ、よ」
折れた骨が肺を貫いたのだろうか、息ができない。
痛みに促されるように、ニケはゆっくりと目を閉じるーーー……全ての魔力が己の身体中を駆け巡ることを想像しながら。
「ひ、ぃる」
光が差し込んだ。
深い暗い雲がニケの上だけ割れ、ニケにだけ向かって真っ直ぐに光が降り注ぐ。
ニケを取り囲んでいた騎士達は恐れをなして後退り、弟だけは息を飲んでいた。
いや、誰もが息を飲んでいた。
誰がまともに息なんてできるだろう、こんな光景は見たことがなかった。
町中には狂ったように鐘の音が響き出す。
町には教会がひとつしかないはずなのに、至るところから鐘の音が降り注ぐ。
狂ったように、何かを伝えようとするように、怒りに満ちているように。
少女はその音を聞きながら、ゆっくりと身体を起こしたーーー……
口元の血を拭い、彼女は微笑む。
落ちながら見せた、あの妖艶で美しい笑顔で。
「見ていてくれた?」
既に痛みも苦しみもない。
立ち上がったニケは微笑んだまま2人に交互に視線を向ける、呆然として座り込んだままの赤毛の弟と、青ざめた顔でこちらを見下ろしている赤毛の兄に。
聖女様しか回復魔法は使えない。
疑いようがない、目の前で彼女は。
死の淵から回復したのだから。
狂ったように鐘の音が響く。
まるで国中に響き渡るかのように。
「聖女、様………………」
頭を抱えながら誰かが、呻いた。
その瞬間に鐘の音はピタリと音を止め、降り注ぐ光の中央では美しき「聖女様」は微笑む。
鐘の音は神の声。
神は告げていた、彼女こそが聖女だと。
いかにこの国が恐ろしい罪を犯してしまったのかと。
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