第2話 本物のゲート
眠れなかった。
正確に言えば、眠るという選択肢が頭から消えていた。
午前一時四十三分。
拓真の机には、飲みかけのコーヒーと空になった栄養ドリンクが並んでいる。モニターには、先ほど視聴者から送られてきた三枚の写真と一本の動画が表示されていた。
「……もう一回」
拓真は動画を最初から再生した。
スマートフォンで撮影されたらしく、映像はかなり揺れている。
真夜中の山。木々。虫の声。そして、遠くから聞こえる撮影者の荒い呼吸。
『……なに、あれ』
男の声とともにカメラが動く。
映ったのは、古びたトンネルだった。
その入口から少し離れた場所に、何もない空間へ浮かぶ青白い線がある。
最初は細い。縦に置かれた蛍光灯のような光だった。
だが数秒後、光が左右へ広がっていく。
いや。
「……開いてる」
拓真は小さく呟いた。
光が広がっているのではない。
空間そのものが裂けている。
裂け目の向こうには、この山には存在しない景色が見えていた。
巨大な木。青みを帯びた草。そして空。
映っている範囲はわずかだが、向こう側が夜ではないことは分かる。こちらは午前二時で真っ暗なのに、裂け目の向こうは薄明るかった。
『なんだよ……これ……』
撮影者が後ずさる。
ガサッ、と何かが動いた。
男が振り返った瞬間、映像が激しく揺れ、そのまま途切れた。
「……三十二秒」
拓真は動画を止めた。
そして、また再生する。
三十二秒。
もう一度。
三十二秒。
今度は映像をフレーム単位に分け、ノイズや圧縮状態、光量、色温度、シャッター速度、手ぶれ、Exif情報を一つずつ確認していく。
少なくとも、拓真には加工の痕跡を見つけられなかった。
「映像合成なら……かなり手間がかかってるな」
しかも、問題は動画だけではない。
送信者から届いた撮影地点の座標を、拓真は自作のデータベースに入力した。
国内外のゲート現象に関する目撃情報をまとめたものだ。日時、場所、天候、電波障害、磁気異常、失踪事件、動物の異常行動。信憑性の低い都市伝説から、行政機関の公開資料に残る不可解な事故まで、思いつく限り詰め込んである。
「……やっぱり」
今回の場所から半径二十キロ以内では、過去五年間に原因不明の遭難が七件起きていた。
大型動物の目撃情報は十九件。そのうち四件では、通常の熊より明らかに大きかったという証言がある。
三年前には局地的な通信障害。
二年前には、送電線に異常がないにもかかわらず、周辺一帯が十一分間停電していた。
「偶然……」
拓真は呟き、すぐに首を振った。
「偶然で説明できる」
山で遭難者が出るのは珍しくない。熊の大きさだって、恐怖を感じた人間の目測なら当てにならない。停電も通信障害も、単独なら十分に起こり得る。
だが、同じ場所に重なりすぎていた。
「……面白い」
拓真の口元が緩む。
心臓が速い。眠気はもう完全に消えていた。
椅子から立ち上がる。
「行くか」
そう呟いた直後、拓真は動きを止めた。
「……いや、落ち着け。俺」
座り直し、深呼吸する。
本物かもしれない。
だからこそ、勢いだけで行くべきではない。
高校生の頃とは違う。あの時は偶然遭遇しただけだったが、今回は自分から調べに行くのだ。
相手が何なのかも分からない。
ゲートの向こうにいた巨大な影。撮影者が言っていた、近くで聞こえるという「変な鳴き声」。
もし本当に異世界の生物が出入りしているなら、心霊スポットとは危険度が違う。
「装備……」
拓真はメモ帳を開いた。
カメラ、赤外線カメラ、熱源センサー、電磁波測定器、放射線測定器、温湿度計、気圧計。空気採取容器に土壌採取キット、小型ドローン、予備バッテリー、ヘッドライト、携帯食、水、救急用品。
それから熊鈴と熊撃退スプレー。
「熊スプレーで向こうの生物に効くかは知らないけど……」
ないよりはマシだ。
拓真は部屋の隅へ目を向けた。
そこには、工場から持ち帰っていた試作外骨格の脚部が置かれている。
「……これも持ってくか」
戦うためではない。
山中で怪我人が出た時や、重い装備を運ぶ時に使える。万が一、大型動物と遭遇した場合にも、生身よりは多少マシだろう。
まだ完成品ではないが、試験用の補助フレームくらいなら使える。
拓真はスマートフォンを手に取った。
時刻は午前二時十七分。
「この時間なら……」
連絡先から一人の名前を選び、電話をかける。
三回目の呼び出し音で、ようやく相手が出た。
『……もしもし』
明らかに寝ていた声だった。
「陽斗」
『殺すぞ』
「今から山に行かない?」
『殺す』
「すごい写真が届いたんだよ」
『明日にしろ』
「ゲートかもしれない」
『…………』
しばらく沈黙が続いた。
『拓真』
「うん」
『お前、その台詞、この三年間で何回言った?』
「たぶん十四回くらい」
『数えてんのかよ』
「今回は本物っぽい」
『毎回言ってるだろ』
「動画送る」
『送るな。寝る』
「もう送った」
『お前さぁ……』
通話の向こうで布団が擦れる音がした。
しばらくして、陽斗が低い声で言う。
『……これ、加工じゃねえの?』
「少なくとも、俺には加工痕を見つけられなかった」
『場所は?』
「車で二時間ちょい」
『今から行くのか?』
「いや、明日の午後。明るいうちに現地を確認して、日が落ちる前に観測機材を設置する」
『……珍しいな』
「何が?」
『お前がまともなこと言ってる』
「俺はいつもまともだよ」
『じゃあ一人で行け』
「ごめんなさい」
拓真が即座に謝ると、陽斗は大きくため息をついた。
『俺、明日仕事なんだけど』
「土曜じゃん」
『編集の納期があるんだよ』
「車を出して」
『話を聞け』
「撮影も頼む」
『だから――』
「飯を奢るから」
『焼肉』
「ファミレス」
『じゃあ行かない』
「……焼肉」
『十七時集合』
「現金な奴だな」
『お前にだけは言われたくない』
電話が切れた。
拓真は笑う。
「よし」
そこからさらに三時間。
結局、眠りについたのは朝五時を過ぎてからだった。
◇ ◇ ◇
「お前、絶対寝てないだろ」
翌日、午後五時。
神代製作所の前に、白いワンボックス車が停まった。運転席から顔を出した藤崎陽斗が、拓真を見るなりそう言った。
「三時間寝た」
「寝てないのと同じだ」
「若いから平気」
「事故る奴が言う台詞だぞ」
「運転するのは陽斗じゃん」
「そういう問題じゃねえよ」
陽斗は車を降り、拓真の荷物を見た。
「で? キャンプでもするのか?」
大きなケースが四つ。ドローンケースに三脚、工具箱。それから長い金属フレーム。
「観測機材」
「軍隊でも行くのか?」
「失礼な。全部民生品だよ」
「最後のそれは?」
「外骨格」
「なんで?」
「安全対策」
「お前、安全って言葉の意味を知ってる?」
陽斗が呆れた顔をしたところで、工場の中から声が飛んできた。
「拓真」
「ん?」
父親の鉄平が、作業服姿のまま歩いてくる。その後ろから母親の美智子も顔を出した。
「あんた、山に行くんだって?」
「うん」
「また?」
「今回は本物かもしれない」
「毎回そう言ってるじゃない」
陽斗も小さく頷いた。
「ですよね」
「味方してよ」
「俺は常識側だから」
拓真が不満そうに唇を尖らせる。
鉄平は荷物を見回し、外骨格に目を止めた。
「それも持っていくのか」
「一応ね」
「使うなよ」
「必要なら使う」
「必要になるような場所に行くなって言ってんだ」
「それは無理」
「お前な……」
鉄平が眉間に皺を寄せると、美智子が拓真の顔を覗き込んだ。
「あんまり危ないところには入らないのよ」
「分かってる」
「一人にならない」
「陽斗がいる」
「俺が保護者みたいになってません?」
「昔からそうでしょ」
「否定できない……」
美智子は小さな紙袋を拓真へ渡した。
「これ、持っていきなさい」
「何?」
「おにぎりと唐揚げ」
「遠足じゃないんだから」
「どうせ調査を始めたら、ご飯を忘れるでしょ」
「……ありがとう」
「それから」
美智子の目が細くなる。
「会社のバッテリー、二つ持っていった?」
「……借りた」
「借りる時は許可を取りなさい」
「帰ったら申請書を書くよ」
「順番が逆」
陽斗が吹き出した。
拓真が荷物を積み終えたところで、鉄平が無言で近づいてくる。
「ん」
差し出されたのは、小さな金属部品だった。
「何これ?」
「膝の補強材だ」
拓真が目を見開く。
「昨日言ってたところ?」
「そのまま山で使ったら曲がる」
「……昨日、余裕を持たせろって言ってたやつか」
「作っておいた」
拓真は部品を受け取った。
面取りはきれいに施され、取り付け穴の位置も完璧だった。
「親父」
「なんだ」
「ありがとう」
「帰ってきたら材料代を払え」
「親父ぃ……」
「会社は慈善事業じゃねえ」
「息子割引は?」
「手間賃三割増し」
「ぼったくりじゃん」
「嫌なら返せ」
「使います」
拓真は素早く工具箱へしまった。
鉄平は鼻を鳴らし、少しだけ声を落とす。
「拓真」
「ん?」
「変なのを見つけても、近づくなよ」
拓真は父親の顔を見た。
「……分かってる」
「お前の“分かってる”が一番信用できねえ」
「今回は本当に慎重にやる」
鉄平はしばらく息子を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「ならいい」
二人は車に乗り込んだ。
エンジンがかかり、車がゆっくり工場を離れていく。
サイドミラーには、両親の姿が映っていた。
拓真は小さく手を上げた。
◇ ◇ ◇
「で」
高速道路を走りながら、陽斗が前を向いたまま尋ねた。
「マジで異世界だと思ってんのか?」
「可能性はある」
「何パー?」
「今のところ?」
「うん」
「三十五」
「意外と低いな」
「証拠が足りないから」
「お前なら八十とか言うと思ってた」
「俺、何でも異世界認定してるわけじゃないよ」
「知ってる」
陽斗が笑った。
「じゃなきゃ、三年も付き合ってねえよ」
都市部を抜けると、窓の外から建物が減っていく。やがて山が近づいてきた。
拓真は助手席でタブレットを操作していた。
「撮影者とは連絡取れたのか?」
「取れたよ」
「会うのか?」
「いや。本人はもう行きたくないって」
「そりゃそうだろ」
「写真を撮った次の日から、近くで変な鳴き声がするらしい」
「どんな声?」
「本人は、犬と牛を混ぜて低くした感じだって」
「全然分からん」
「俺も分からない」
「熊じゃねえの?」
「その可能性もある」
「熊だったら帰ろうな」
「観察してから」
「帰ろうな?」
「……はい」
「今、目を逸らしただろ」
さらに一時間半ほど走り、日が傾き始めた頃、二人は目的地付近へ到着した。
車を停められる場所を探し、林道の脇へ寄せる。
外へ出ると、湿った森の匂いがした。蝉の声。遠くで鳴く鳥の声。
「ここから歩くのか?」
「二十分くらい」
「この荷物を持って?」
「これを使う」
拓真は荷室を開け、外骨格を取り出した。
「……なるほど」
「こういう時に便利だろ?」
「お前のヒーロー装備、最初の仕事が荷物運びかよ」
「実用品って大事だからね」
拓真は腰部フレームを装着し、脚部を固定していく。電源を入れると、低い駆動音が響いた。
ウィン、と膝のアクチュエーターが動く。
「おお」
陽斗がスマートフォンを向けた。
「前より自然に動くじゃん」
「でしょ?」
拓真が歩いてみせる。
「荷物を積んでみて」
「壊れないだろうな?」
「縁起でもないこと言うなよ」
「前、壊れたじゃん」
「あれは試作一号」
「これも試作だろ」
「試作二号改」
「名前が変わっただけじゃねえか」
文句を言いながらも、陽斗はバッグを背部フレームへ固定した。
合計四十キロ以上の荷物だ。普通なら山道を運ぶのはかなり厳しい。
だが、拓真は軽く腰を伸ばした。
「お、全然いける」
「マジか?」
「負荷値二十八パーセント」
「普通に欲しいんだけど」
「量産したら一台二百万くらいかな?」
「それならいらないわ」
「即答だな」
二人はそんな会話をしながら、山道へ入った。
最初は整備された道だったが、進むにつれて道幅が狭くなっていく。草木が増え、足元には落ち葉が積もっていた。
二十分ほど歩いたところで、木々の向こうに古いトンネルが見えた。
コンクリート製で、長い間使われていないらしい。入口には簡易的な柵と、立入禁止の看板がある。
「……これ、不法侵入にならないか?」
「トンネルの中には入らない」
「本当だな?」
「今回は外側だけ」
「録音しておけばよかった」
拓真は周囲を見回した。
写真と同じ場所だ。
「まずは観測から」
外骨格を外し、ケースを降ろす。
ドローン、温湿度計、磁気センサー、電波強度計、放射線測定器。拓真は機材を一つずつ配置していった。
陽斗も慣れた様子でカメラを準備する。
「配信は?」
「まだしない」
「お前にしては珍しいな」
「本物だったら、場所を特定されると面倒だから。今日は録画だけ」
「了解」
拓真は地面に小型センサーを置いた。
「気温二十四・二度。湿度七十一パーセント。気圧は……普通」
「異常なし?」
「今のところは」
電磁波を測定したところ、拓真が小さく眉をひそめた。
「ん?」
「どうした?」
「少し高い」
「どれくらい?」
「異常ってほどじゃないけど……この周辺に設備はないよな」
地図を確認する。
送電線からも離れている。
「もう少し測ってみる」
場所を変えると、数値が上がった。
「……こっちの方が高い」
さらに数歩進む。
「ここだ」
拓真が立ち止まった。
写真で青白い裂け目が写っていた場所だった。
電磁波は周辺の約二・八倍を示している。
「陽斗」
「うん」
「これ、ちょっと面白い」
「その台詞を言う時のお前、大抵ろくなことが起きないんだよ」
「磁場も見て」
拓真がコンパスを取り出すと、針がわずかに揺れた。
「磁石とか埋まってるんじゃねえの?」
「調べる」
金属探知機を使うが、反応はない。
拓真は地面にしゃがみ込んだ。
「……ん?」
「今度は何だよ」
「これ」
草の一部だけが、周囲と違う色をしていた。
枯れているわけではない。青緑色に変色している。
拓真は手袋をつけ、ピンセットで一本だけ採取した。
「日本の草か?」
「俺は植物が専門じゃないから分からないよ」
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「大学に調べられる先輩がいるから」
「研究室へ持っていくなよ?」
「教授に許可を取ってからね」
「成長したな」
「失礼だな」
その時、少し離れた場所にいた陽斗が声を上げた。
「拓真」
「ん?」
「これ……」
声が低い。
拓真が近づくと、泥の上に何かの跡が残っていた。
「……足跡か?」
「犬?」
「いや」
拓真はメジャーを取り出し、跡の大きさを測った。
「三十四センチ」
「でかくね?」
「かなり大きい」
形は犬科に似ている。四本の指、肉球、爪。
陽斗が眉をひそめた。
「やっぱり熊じゃないのか?」
「熊は五本指だよ」
「じゃあ大型犬?」
「こんな犬がいたらニュースになる」
拓真は足跡を撮影した。
少し先にも、同じ跡が続いている。森の奥へ向かっていた。
陽斗が黙り込む。
「……追う?」
拓真も足跡を見つめた。
数秒後、首を横に振る。
「追わない」
「お」
「今日はゲートの調査が目的だから」
「偉いじゃん」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「好奇心に脚が生えたもの」
「ひどいな」
とはいえ、拓真も緊張していた。
足跡は新しい。昨日の雨が降った後についたものだ。
何かが、この場所にいる。
しかも大型で、種類も分からない。
「熊スプレー、すぐ出せるところに入れておこう」
「了解」
二人は機材の設置を続けた。
午後七時。
日が沈むと、山は急速に暗くなった。
ライトを点け、赤外線カメラを設置する。センサーの記録も開始した。
拓真はタブレットを確認した。
「撮影者がゲートを見たのは午前二時十二分」
「あと七時間かよ」
「ずっと待つ」
「焼肉」
「帰ったらな」
「高い店」
「調査が成功したら」
それから二人は待ち続けた。
一時間。
二時間。
虫の声や風の音、ときどき鳥の声が聞こえるだけで、何も起きない。
午後十時頃、陽斗がコンビニのおにぎりを食べ始めた。
「本当に朝までここにいるのか?」
「嫌なら車で寝ててもいいよ」
「お前を一人にしたら、絶対に森へ入るだろ」
「入らないって」
「信用ゼロ」
十一時。
十二時。
午前一時。
気温が少しずつ下がっていく。
拓真は何度もセンサーを確認した。
「……まだ変化なし」
「ハズレだったか?」
「まだ分からない」
午前一時四十七分。
陽斗が大きく欠伸をした。
「眠い……」
「車で寝ていいよ」
「いや、もう少しだけ」
午前一時五十八分。
拓真が画面を見て、眉をひそめた。
「……ん?」
「何だよ」
「温度が下がってる」
表示は二十三・一度から、二十二・八度、二十二・二度、二十一・四度へと急速に変化していた。
「急に下がりすぎじゃねえか?」
「夜だからじゃないのか?」
「一分で二度近くは季節的におかしい」
別のセンサーを確認する。
「磁場も変化してる」
電磁波の数値も上がっていた。
「おいおい……」
拓真が立ち上がる。
「カメラは?」
「回ってる」
午前二時三分。
周囲の音が変わった。
「……虫の声が消えたな」
陽斗が呟く。
さっきまでうるさいほど聞こえていた虫の声が、すべて消えていた。
風もない。
森全体が息を止めたような静けさだった。
拓真の腕に鳥肌が立つ。
「来る」
「分かるのか?」
「……分からない」
それでも、そう感じた。
午前二時六分。
センサーが警告音を鳴らした。
電磁波は通常値の五倍、七倍へと跳ね上がっていく。
「おいおい……」
拓真は写真に写っていた場所を見た。
まだ、何もない。
午前二時八分。
空気が揺れた。
「……!」
陽斗がカメラを向ける。
「今、見えたか?」
「見た」
陽炎のような揺らぎだった。
だが、気温は下がっている。
空間が歪んでいる。
拓真の呼吸が浅くなった。
高校二年生の夏に見たものと同じだった。
「……来る」
今度は確信があった。
午前二時十分。
何もない空間に、一本の青白い線が浮かんだ。
「拓真!」
「撮ってるか?」
「撮ってる!」
「センサーの記録も確認して!」
「分かった!」
線が伸びていく。
高さは二メートル、三メートルへと広がり、光量も増していった。
拓真は動けなかった。
五年間、探し続けてきた。
夢だったのではないかと思った夜もある。見間違いだったのではないかと、何度も自分に言い聞かせた。
それが今、目の前にある。
「……本物だ」
青白い線が左右へ開いた。
巨大な扉のように見えたが、実際には空間そのものが割れている。
向こう側には森が広がっていた。
だが、日本の森ではない。
巨大な木々。青い葉。そして空には、地球では見たことのない淡い紫色の光が浮かんでいる。
陽斗が呆然と呟いた。
「……CGじゃ、ねえよな?」
「俺に聞くなよ」
「いや、お前、こういうの詳しいだろ」
「現実にCGは出ない」
「それもそうか……」
拓真は笑いそうになった。
怖い。
足がわずかに震えている。
それなのに、胸の奥から嬉しさが込み上げてくる。
「……あった」
声が震えた。
「本当に……あった」
未知の世界。
ずっと探していたもの。
拓真は、思わず一歩近づきかけた。
「おい」
陽斗が肩を掴む。
「近づかないって言ったよな?」
「……うん」
拓真は足を止め、深呼吸した。
「そうだった」
「頼むぞ、天才」
「今のは危なかった」
「自覚があるなら、次から気をつけろ」
拓真は距離を取ったまま、ゲートを観測した。
気圧、温度、電磁波、映像。
「向こうと空気が混ざってる……?」
ゲートの周辺では、わずかな風が地球側へ吹いていた。
拓真は採取装置を準備する。
「空気を採る」
「近づくのか?」
「二メートルまで」
「俺も行く」
「いや、陽斗は――」
「お前一人だと入るだろ」
「入らないって」
「信用がない」
二人はゆっくりゲートへ近づいた。
三メートル。
二・五メートル。
二メートル。
目の前に立つと、ゲートは光の膜ではないことが分かった。
向こう側が、普通に見えている。
木の葉が揺れ、聞いたことのない鳥の鳴き声まで聞こえた。
拓真の目が輝く。
「すげえ……」
「拓真」
「分かってる」
拓真は採取装置をゲートの近くへ向けた。
「採取完了」
次に、ドローンを取り出す。
「飛ばす」
「通信が切れたらどうする?」
「ロープをつけてある」
「用意がいいな」
「そのために持ってきたんだよ」
小型ドローンに細い高強度ラインを固定し、電源を入れる。
プロペラが回り、機体が浮かび上がった。
「行くぞ」
ドローンはゆっくりゲートへ近づいていく。
一メートル。
五十センチ。
そして、ゲートを越えた。
画面が一瞬ノイズに覆われたが、すぐに向こう側の映像が映し出された。
「映った!」
拓真が声を上げる。
画面には、未知の森が広がっていた。
「通信も通ってる!」
「マジかよ」
「信号強度は落ちてるけど、まだ通じてる!」
拓真はドローンを少し上昇させた。
地面。植物。巨大な樹木。
「GPSは?」
「当然、ロスト」
「そりゃそうか」
「気温二十七度。湿度は高め。大気圧は……地球と近い」
拓真の手が震えた。
向こうの世界が、データとして目の前にある。
ドローンをさらに進める。
十メートル。
十五メートル。
「もう少し――」
その時、画面の端を黒い影が横切った。
「ん?」
「何かいたぞ」
「戻す!」
拓真は即座に操作し、ドローンを旋回させた。
森の茂みが揺れている。
「何かいる」
「分かってる」
ドローンをゲートへ向けて加速させる。
距離は十二メートル、十メートル、八メートル。
その瞬間、画面いっぱいに黒い何かが映った。
「――!」
衝撃。
映像が激しく回転し、通信警告が表示される。
拓真はラインを掴んだ。
「引っ張れ!」
二人で力いっぱい引く。
何かが向こう側で抵抗していた。
「重っ!」
「何かに噛まれてる!」
「マジかよ!」
さらに力を込める。
一メートル。
二メートル。
突然、抵抗が消えた。
「うわっ!」
二人は勢い余って後ろへ転んだ。
ラインの先から、ドローンがゲートを抜けて飛び出してくる。
ただし、半分しか残っていなかった。
プロペラは二枚。本体の右側は、完全に噛み砕かれている。
陽斗の顔から血の気が引いた。
「これ……何にやられたんだ?」
拓真は答えず、破損箇所を確認した。
残された噛み跡は、かなり大きい。
「……牙だ」
その瞬間、ゲートの向こうで草木が揺れた。
ガサッ。
二人が顔を上げる。
暗い森の中に、何かがいる。
低い唸り声が響いた。
腹の底まで伝わってくるような音だった。
「拓真」
陽斗が小さな声で言う。
「これ、ヤバいやつじゃないか?」
「……たぶん」
拓真は立ち上がり、ゆっくり後退した。
「機材は置いて、車まで戻る」
「異議なし」
その時だった。
ゲートの向こう、暗闇の中に二つの赤い光が浮かんだ。
目だ。
「……」
拓真の全身から汗が噴き出す。
向こう側から、巨大な前脚が現れた。
黒い毛。
その一部を覆っているのは、光沢を持つ硬質な甲殻だった。
「……犬?」
陽斗が呟く。
「違う」
拓真は即座に否定した。
あんな犬はいない。
体高だけでも一メートルを超えている。
頭が現れ、肩が現れ、胴体が続く。
それはゲートを越えた。
全長二メートルを優に超える獣。
狼に似た身体。黒い体毛。背中から肩を覆う、金属のような甲殻。口から伸びる牙。赤い眼。
獣は拓真たちを見つめ、低く唸った。
「……陽斗」
「何だ?」
「ゆっくり下がれ」
「言われなくても、そうする」
拓真は車までの距離を考えた。
二十分。
走って逃げ切れる保証はない。
熊撃退スプレーも、あの獣に効くかは分からない。
その時、視界の端に銀色のフレームが映った。
機材ケースの横に置かれた、試作外骨格。
獣が身体を低くする。
明らかな攻撃姿勢だった。
陽斗が息を呑む。
拓真の心臓が激しく鳴った。
怖い。
本能が逃げろと叫んでいる。
だが、逃げ切れない。
陽斗もいる。
「……マジかよ」
拓真は外骨格を見る。
まだ戦闘用ではない。
装甲も武器もない、ただの作業補助装置だ。
それでも、生身よりはずっとマシだった。
獣が地面を蹴る。
「陽斗、下がれ!」
拓真は叫びながら、外骨格へ向かって走った。




