11.名前
気が付けば、桜と出会ってから1か月が経過していた。
梅雨も過ぎ、夏本番という暑さだ。
なかなか仕事というのは簡単には見つからないが、アルバイトを雇ってくれるところが見つかったので、俺は仕事を探しながらそこに勤めることにした。
時折桜ともメールのやりとりをしている。
そして今、ようやく2人の都合が合い、桜とカフェに居座ったところなのである。
「ごめんな、忙しいのに」
1か月ぶりに会うことで、少し緊張している俺は、そんな言葉しか出なかった。
今日の彼女は、もちろん制服ではなく私服だ。
見慣れない姿に思わず固まってしまった。これが見惚れるということなのだろうか。
透けるような髪は、綺麗に高い位置で1つにまとめられている。
そして手には、いつもの小さなメモの束。
{いいえ。誘っていただいて嬉しいです}
今日1枚目の会話メモだ。久しぶりに見る彼女の文字。
桜は、本当に嬉しいという感情が外に出ている笑顔を見せる。
「そっか。ならよかった」
こちらも、桜に率いられるように、笑顔で返した。
「そういえば、この間皐月さんのところに住み込みって言ってたけど、実家には帰ったりはしないのか?」
{時々帰ります。私の家も皐月の所と同じで、父しかいなくて}
彼女の家族構成をよく知らなかったので、少し驚く。
お父さん、よく家を出ることを許してくれたなあ、などと思いながら、桜の手元に視線をうつす。
この子も十分苦労しているらしい。
「そうなのか。桜さんも大変なんだな」
俺がそう言うと、桜は少し困った顔をして、すぐに1枚メモを書き上げて俺に渡す。
{桜でいいですよ}
「……へ?」
考えが追い付かなくて、おもわず馬鹿みたいな声をあげてしまう。
確かに、年下に”さん”をつけるのはおかしいかもしれないが。
恥ずかしさはあったが、もう一度言い直す。
「さ……さ、さくら?」
名前を言うだけなのに、ずいぶん戸惑ってしまった。
真麻以外の女子を呼び捨てにすることなど、今までなかったのだ。
俺はかなり顔の温度が上がり、真っ赤になっていたが、桜はまた、太陽のような笑顔を俺に向けた。
彼女の行動には、逐一揺さぶられる。
そのあとも赤面しながらなんとか名前を呼び、会話を続け、2時間ほどが経過した頃。
桜から話が持ち上がった。
{蓮……くん。少し、歩きませんか? 花屋より向こう側へは、あまり行ったことがないんです}
彼女が言っている”向こう側”とは、おそらく俺がよく通る桜並木の道の方のことだ。
「そ……そうなんだ。じゃあ、少しいろんなところを散歩しようか」
提案にのった俺は、清算を済ませ、桜とともにカフェを出た。




