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第8話 ノアちゃんは普通に挨拶したい



朝比奈邸の食堂に、知らない女の子が立っていた。


問題は――。


誰も、そのことに気づいていなかったことである。


「……あれ?」


最初に気づいたのはメグミだった。


味噌汁の椀を置き、食堂の入口へ目を向ける。


ユウトもつられて振り返った。


「え?」


そこに、一人の少女が立っていた。


ユウトと同じくらいの年齢に見える。長い黒髪に、静かな瞳。


黒と濃紺を基調にした服は、一応メイド服なのだろう。


ただ、普通のメイド服とは少し違う。


動きやすそうな暗色のジャージ素材に、控えめなフリルとエプロン。腰には小さなポーチ。足元は音の出にくそうなブーツ。


メイドと忍者を、本気で両立させたような格好だった。


「……誰?」


ユウトが聞く。


少女は静かに頭を下げた。


「初めまして。朝比奈殿」


「いつからいたの?」


「七分十二秒前からです」


「結構前からいた!」


ユウトの声に反応して、サッちゃんが勢いよく立ち上がった。


「ノアちゃん!」


少女――ノアは、サッちゃんへ小さく頭を下げる。


「お久しぶりです。サッちゃん先輩」


続いてリナへ視線を向けた。


「リナ先輩も、お久しぶりです」


「久しぶりね、ノア」


リナはほとんど驚いていなかった。


どうやら二人にとっては、見慣れた相手らしい。


ただし、ユウトだけは納得できていない。


「待って。どうやって入ったの?」


ノアは玄関の方向へ視線を向ける。


「玄関からです」


「普通だ」


「はい」


「じゃあ、なんで誰も気づかなかった?」


ノアは一拍だけ置いた。


「気づかれないように入りました」


「普通じゃなかった!」


ノアの眉が、ほんの少しだけ動いた。


どうやら本人は大真面目らしい。


「玄関は使用しました」


「そこだけ守っても駄目なんだよ」


「靴も揃えました」


「そこも問題じゃない」


「廊下の中央を歩きました」


メグミが首を傾げる。


「じゃあ、なんで気づかなかったんだろ?」


「足音を消しました。気配も抑えています」


「そこかな」


「視線を避け、死角を選択しました」


メグミは少し考えてから、柔らかく結論を出した。


「全部だね」


ノアの眉が、わずかに下がった。


「通常訪問として失敗したと判断します」


「通常訪問?」


ユウトが聞く。


するとノアは、腰のポーチから数通の封筒を取り出した。


さっきまでと比べて、わずかに声が引き締まる。


「本日の任務は三件あります」


「三件も?」


「はい」


ノアは一通目の封筒を取り出した。


「第一。サッちゃん先輩、およびリナ先輩への定期連絡書類の手渡し」


「はいっ!」


サッちゃんが勢いよく手を上げた。


リナが横から静かに止める。


「普通に受け取りなさい」


「はいっ!」


ノアはサッちゃんとリナへ、それぞれ書類を渡した。


続いて二通目。


「第二。黒百合を離れた松戸ミナミ殿への最終手続き書類の交付、および本人署名の回収」


地下への階段の方から、何かが落ちる音がした。


がたん。


数秒後。


「呼んだー?」


白衣姿のミナミが顔を出した。


ノアの視線が、ぴたりとそちらへ向く。


「ミナミ殿。所在を確認しました」


「何を?」


「ミナミ殿を」


「わたし、そんな探され方してるの?」


「退職後の手続きが未完了です」


ノアは封筒を差し出した。


「こちらに署名をお願いします」


「今?」


「今です」


「あとじゃダメ?」


「ダメです」


ミナミは少しだけ粘ったが、ノアはまったく動かなかった。


「ノアちゃん、相変わらず真面目だねえ」


しぶしぶ書類を受け取り、玄関脇の台で署名を始める。


リナはその様子を見ながら、ため息をついた。


「あなたが先延ばしにするからでしょう」


「ちゃんとやろうとは思ってたよ」


「いつ?」


「そのうち」


「それを先延ばしと言うのよ」


ノアは署名済みの書類を回収すると、最後の一通を持ったままユウトへ向き直った。


「第三」


「まだあるのか」


「今後、サッちゃん先輩、リナ先輩、ミナミ殿への連絡先として、朝比奈邸を使用してよいか。家主である朝比奈殿へ確認を取ります」


ユウトは少し驚いた。


「俺の許可がいるのか?」


「はい。個人宅を継続的な連絡先として使用するため、確認が必要です」


こういうところは妙にしっかりしている。


「まあ、連絡だけなら別にいいよ」


「承認を確認しました」


ノアはすぐに小さな手帳を取り出し、何かを書き込んだ。


「朝比奈邸、連絡先として使用可能」


「その場で記録するんだな」


「重要事項です」


隣でサッちゃんが大きくうなずいた。


「重要ですっ!」


ユウトは二人を見比べる。


「なんか似てるところあるな……」


ノアは手帳を閉じた。


「以上三件。任務完了です」


そして、きれいに頭を下げる。


「では、失礼します」


「もう帰るの?」


メグミの声に、ノアの動きが止まった。


「任務は終了しました」


「せっかくだし、朝ごはん食べていけば?」


ノアが瞬きをする。


「朝食」


「まだ食べてないでしょ?」


「任務外です」


「うん」


「必要性がありません」


「うん」


ノアは黙った。


任務内容を説明していた時とは違う。


今度は、本当に困っているらしい。


「……参加してもよいのでしょうか」


メグミが笑った。


「もちろん」


ユウトも空いている椅子を指した。


「席ならあるし」


ノアがユウトを見る。


「朝比奈殿からの指示ですか」


「いや。誘ってるだけ」


「誘い」


その言葉を確かめるように、小さく繰り返す。


数秒考えてから、ノアはうなずいた。


「では、参加します」


食卓に、椅子が一つ増えた。


リナが自然に皿を用意する。


メグミはいつものように朝食を続けている。


ノアは椅子へ腰を下ろした。


姿勢がいい。


良すぎる。


「ノアちゃん」


メグミが声をかける。


「はい。メグミ殿」


「もうちょっと楽にしていいよ」


「楽に」


ノアは肩を少しだけ下げた。


ほとんど変わっていない。


「現在、通常時より十八パーセント脱力しています」


「数字にしなくていいよ」


そのやり取りを見ていたサッちゃんが、目を輝かせた。


「ノアちゃんも普通の生活を学習中なのですねっ!」


「サッちゃん先輩も?」


「はいっ!」


ノアがサッちゃんを見る。


サッちゃんもノアを見る。


二人の間に、妙な共感が生まれた。


ユウトは嫌な予感がした。


「サッちゃん」


「はいっ!」


「ノアに普通を教える時は、メグミかリナにも確認してくれ」


「なぜですかっ!」


「なんとなく」


リナが紅茶を口に運びながら、静かに言う。


「正しい判断ね」


「リナまで!」


ノアは朝食をひと口食べた。


ほんの少しだけ、目元が柔らかくなる。


メグミはそれを見逃さなかった。


「おいしい?」


「はい」


「じゃあ、来てよかったね」


ノアはカップを見つめ、少し考えた。


「……はい」


短い返事だった。


でも、さっきまでの「任務」よりは、ずっと柔らかく聞こえた。


その返事を聞いたサッちゃんが、突然立ち上がった。


「ノアちゃん!」


「はい」


「通常訪問の訓練をしましょうっ!」


ユウトが止めるより早かった。


「わたしが普通の挨拶を実演しますっ!」


ユウトは眉をひそめる。


「サッちゃんが?」


「はいっ!」


不安しかない。


サッちゃんはいったん廊下へ出た。


数秒後。


胸を張って戻ってくる。


「おはようございますっ!」


声が食堂いっぱいに響いた。


ノアは真剣な目で観察する。


「声量、大。姿勢、良好」


「そこを参考にするな」


「明瞭で聞き取りやすいです」


「朝から近所まで聞こえそうだけどな」


ノアは小さくうなずいた。


「では、試行します」


廊下へ出る。


静かになった。


数秒。


十秒。


「……来ないな」


ユウトがそう言った瞬間。


「おはようございます。朝比奈殿」


「うわっ!」


真横にノアが立っていた。


ユウトが椅子から飛び上がる。


「いつ来た!?」


「三秒前です」


「気づかせて!」


ノアは少しだけ視線を落とした。


「失敗しました」


もう一度、廊下へ戻っていく。


今度はすぐに音がした。


ぺた。


ぺた。


ぺた。


全員の視線が入口へ集まる。


ノアが、スリッパを床へ叩きつけるように歩いてきた。


「おはようございます」


ユウトは額を押さえた。


「なんで足音だけそんな大きいんだ」


「存在通知です」


地下への階段付近で見ていたミナミが吹き出した。


「ノアちゃん、それ怪談の前振りみたい!」


ノアは真剣にうなずく。


「改善します」


リナが眼鏡を押し上げた。


「二人とも、普通を意識しすぎよ」


サッちゃんとノアが、ほとんど同時に振り向いた。


「では、どうすればっ?」


「どうすればよいでしょう」


リナは二人を見比べ、それからメグミへ視線を移した。


「メグミさん。お願いできる?」


「わたし?」


急に話を振られたメグミは、自分を指さした。


少し考えてから、ノアへ向かって軽く手を振る。


「おはよう、ノアちゃん」


それだけだった。


ノアが瞬きをする。


「……以上ですか」


「以上」


「警戒確認は?」


「しない」


「足音の調整は?」


「普通に歩く」


「適正声量は?」


「相手に聞こえるくらい」


ノアは少し困った顔になった。


「曖昧です」


メグミは笑った。


「普通って、だいたいそんなものだよ」


「だいたい」


横で聞いていたサッちゃんまで、真剣な顔になっている。


「曖昧」


「うん」


サッちゃんが感心した。


「高難度ですっ!」


「そこに感動しなくていいよ」


ノアは、もう一度廊下へ出た。


今度は、普通の足音が聞こえてくる。


小さすぎず。


大きすぎず。


やがて、入口からノアが姿を見せた。


少しだけ迷ってから、声を出す。


「おはようございます」


メグミが笑った。


「おはよう」


ユウトも返す。


「おはよう、ノア」


サッちゃんの顔がぱっと明るくなる。


「成功ですっ!」


ノアの目が、ほんの少しだけ丸くなった。


「……成功」


「うん」


メグミが頷く。


ノアは腰のポーチから、小さな手帳を取り出した。


「通常挨拶成功例として記録します」


ユウトは思わず笑った。


「そこはまだ記録するんだな」


「はい。今後、朝比奈邸への連絡任務を行う際に再現します」


「普通の挨拶に再現手順がいるのか」


ノアは真顔で頷いた。


「重要です」


サッちゃんも隣で大きく頷く。


「重要ですっ!」


二人の息だけは、妙に合っていた。


ユウトはその様子を見比べる。


「この二人を組ませるの、本当に大丈夫か?」


リナは紅茶をひと口飲んだ。


「私も少し不安ね」


その時、地下からミナミが顔を出した。


「普通度測定器、作ろっか?」


サッちゃんが振り向く。


「便利そうですっ!」


ノアも少し考える。


「測定精度によります」


「二人とも乗るな!」


ユウトの声が食堂に響いた。


朝比奈邸に、また新しい声が増えた。


今度は静かすぎて、気づくまで少し時間のかかる声だった。

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