第6話 完璧なメイドは、少し怖い
リナが朝比奈邸に来る前日の夜、ユウトはようやく少しだけ思った。
この屋敷は、騒がしくなった。
広すぎる玄関。長い廊下。静かすぎた食堂。
そこにサッちゃんの足音と声が増えただけで、朝比奈邸はずいぶん変わった。
ただし、変わった方向が正しいかどうかは、まだ別問題だった。
「ご主人様、朝食ですっ!」
翌朝。
食堂に入ったユウトを、サッちゃんが元気よく迎えた。
長い金髪。青みのある瞳。黒基調の戦闘メイド服。白いエプロンとヘッドドレス。指抜きグローブ。
見た目だけなら、文句なしに立派なメイドだった。
ただし、その手には配膳用のトレーではなく、細長い定規が握られている。
「……サッちゃん。その定規は?」
「配膳角度を最終確認していますっ!」
「朝飯に角度はいらない」
「箸の配置角度が三度ずれると、ご主人様の初動に影響しますっ!」
「食事に初動って概念を持ち込むな」
テーブルには、焼き魚、味噌汁、卵焼き、ご飯、小鉢が並んでいた。
料理は今日も普通にうまそうだ。
問題は、皿の配置だけが作戦図みたいに整っていることだった。
《朝食開始予定時刻まで、残り一分です》
天井からKAINの声が響く。
「KAINもカウントしなくていい」
《サッちゃんより朝食習慣安定化のため、時間管理補助を要請されています》
「朝ごはんくらい、もう少し気楽でいいんだよ」
「気楽な朝食……高難度ですっ!」
ユウトが席につこうとした時だった。
「おはよ、ユウト」
向かいの席から、普通に声がした。
相沢メグミが、すでに味噌汁を飲んでいた。
「……なんでいるんだよ」
「うちの炊飯器、今朝ちょっと調子悪くて」
「理由が軽い」
「あと、サッちゃんの卵焼きが気になって」
「さらに軽い」
メグミは卵焼きを一切れ食べて、にこっと笑った。
「おいしいよ、これ」
サッちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございますっ! メグミ様の朝食参加を歓迎しますっ!」
《メグミ様の朝食参加頻度は増加傾向》
「KAIN、数えなくていい」
《内部記録のみに移行します》
「やっぱり数えるんだな」
メグミは平然と朝比奈邸の朝食になじんでいる。
サッちゃんだけが、その自然さを真剣に観察していた。
「メグミ様は、朝比奈邸の朝食環境に自然参加していますっ」
「そんな大げさじゃないよ」
「自然参加……高難度ですっ」
「そこまで難しくないと思うけどなあ」
ユウトは苦笑しながら席についた。
その時、KAINの声が響いた。
《正門に来訪者》
「こんな朝早くに?」
《識別信号、照合中。朝比奈総一郎様の事前登録データと一致》
サッちゃんが立ち上がった。
「警戒しますっ!」
「朝飯中に立つな。まず誰か確認してからでいい」
《登録名、リナ》
その名前を聞いた瞬間、サッちゃんの表情が変わった。
嬉しそうで、少し緊張した顔。
「リナ!」
「知り合いか?」
「はいっ。非常に優秀なメイドですっ!」
「サッちゃんが言うと、だいぶ強そうだな」
「強いですっ!」
「メイドの説明だよな?」
玄関のチャイムが鳴る。
サッちゃんは一歩踏み出しかけて、ぴたりと止まった。
「ご主人様」
「なんだ?」
「玄関から来ていますっ」
「普通だよ」
「リナは優秀ですっ!」
「天井から来ないだけで評価が上がるのか」
ユウトはメグミと顔を見合わせ、玄関へ向かった。
扉を開ける。
そこに立っていたのは、黒髪をポニーテールにした女性だった。
眼鏡の奥の目は涼しげで、背筋はまっすぐ。紫がかったチャイナ風のメイド服に白いエプロンを合わせている。
立っているだけで、玄関の空気が少し整ったように見えた。
「お初にお目にかかります」
彼女は静かに頭を下げた。
「リナと申します。朝比奈総一郎様のご依頼により、本日より朝比奈邸の生活補佐に入ります」
「朝比奈ユウトです。ええと……よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします、ユウトさん」
声も姿勢も、落ち着いている。
その落ち着き方が、少し怖いくらいだった。
「リナ!」
サッちゃんがぱっと顔を明るくした。
リナはサッちゃんを見て、ほんの少しだけ目元を柔らかくした。
「サッちゃん。相変わらず元気そうね」
「はいっ! 朝比奈邸に配属され、ご主人様の生活防衛を担当していますっ!」
「生活防衛」
リナは一拍置いた。
「……言葉からして、すでに少し不安ね」
「的確だ」
ユウトが思わず言うと、リナは静かにうなずいた。
「まず、屋敷の現状を確認しても?」
「どうぞ」
「リナ、こちらですっ!」
サッちゃんが案内しようとした瞬間、リナは天井を見上げた。
「サッちゃん」
「はいっ!」
「天井に修繕跡があるわ」
「進入経路の名残ですっ!」
「玄関を使いなさい」
「ご主人様にも同じ指摘を受けましたっ!」
「なら、聞きなさい」
「はいっ!」
リナは怒鳴らない。
声を荒げもしない。
ただ静かに言っただけなのに、サッちゃんは自然に背筋を伸ばした。
ユウトは小声でつぶやく。
「すごいな。サッちゃんが一発で止まった」
「リナはすごいですっ!」
「自分で言うのか」
食堂に戻ると、メグミがまだ普通に朝食を食べていた。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
リナはメグミに向かって、きれいに一礼した。
その動きの途中で、彼女はほとんど音を立てずに、廊下に置かれていた非常用バッグを壁際に寄せ、曲がっていたスリッパを整え、サッちゃんのエプロンのリボンを直し、ユウトの前に自然な位置で椅子を引いた。
全部が、一つの動きの中で終わっていた。
メグミが箸を止める。
「……今、四つくらい何か起きましたよね?」
「俺も見逃した」
「普通よ」
リナは当然のように答えた。
サッちゃんは目を輝かせている。
「これがリナの生活補佐ですっ!」
「生活補佐って、こんなに速いのか」
「速さを見せないのが大事よ」
リナはサッちゃんを見た。
「サッちゃん。あなたは動きが大きすぎるわ」
「大きいですかっ?」
「ええ。全力なのは悪くない。でも、日常では相手の動く余地を残しなさい」
「相手の動く余地」
「全部を先に終わらせればいいわけではないわ。気づかせないくらい自然に整える。それが生活の補佐よ」
サッちゃんは、重大な戦術講義を受けている顔になった。
「気づかせないくらい自然に」
「そう」
「了解しましたっ!」
その返事と同時に、サッちゃんが動いた。
ユウトの箸を一ミリ右へずらす。
味噌汁の椀を半歩分近づける。
ご飯茶碗の角度を直そうとして、メグミの肘とぶつかりそうになる。
メグミが器用に避けた。
「おっと」
「全然自然じゃない!」
「気づかせないように高速化しましたっ!」
「高速化したら気づく!」
リナは眼鏡を押し上げた。
「違うわ。速さではなく、間よ」
「間」
「相手が動く。そこで必要なら支える。先回りしすぎない」
「先回りしすぎない」
サッちゃんは真剣にうなずいた。
そして、ユウトが卵焼きへ箸を伸ばすのを待った。
じっと見る。
ものすごく見る。
青みのある瞳で、真剣に見る。
「……食べづらい」
「先回りしないため、待機していますっ!」
「待機圧が強い!」
メグミが口元を押さえて笑った。
「サッちゃん、もうちょっと力抜いていいよ」
「力を抜く」
サッちゃんは肩の力を抜こうとした。
なぜか背筋がさらに伸びた。
「抜けてない」
「抜き方が不明ですっ!」
「そこからか」
リナは静かにため息をついた。
けれど、呆れているというより、少し懐かしそうだった。
「相変わらずね」
「はいっ!」
「褒めてはいないわ」
「改善しますっ!」
朝食は、なかなか進まなかった。
リナが来たことで食卓は整った。
サッちゃんが真似しようとして、余計に落ち着かなくなった。
メグミだけが、その中で普通に味噌汁を飲んでいる。
ユウトは箸を持ったまま、ぼそりと言った。
「この家、メイドが増えるたびに朝飯が遠くなるな」
メグミが吹き出した。
サッちゃんは真剣に振り返る。
「朝食到達距離に問題が?」
「そういう距離じゃない」
リナはテーブルを見た。
「まず、全員座りましょう」
「全員?」
サッちゃんが目を瞬かせる。
「あなたもよ、サッちゃん」
「しかし、給仕が」
「ユウトさんは、あなたと一緒に食べることを望んでいるのでしょう?」
サッちゃんはユウトを見た。
ユウトは少し照れくさくなって、視線をそらした。
「まあ……そういうことにしたしな」
メグミがにやっと笑う。
「そういうことなんだ」
「深い意味にするな」
「まだ何も言ってないよ」
サッちゃんは嬉しそうに席へ戻った。
リナは少し考えてから、空いた席についた。
「では、私も少しだけ」
「リナも?」
「食卓の状態を確認します」
「結局仕事なんだな」
四人の朝食が、ようやく始まった。
ユウト。
サッちゃん。
メグミ。
リナ。
広すぎる朝比奈邸の食堂に、四人分の気配がある。
少し前まで、一人で食べていた場所とは思えなかった。
「いただきます」
ユウトが言う。
「いただきますっ!」
「いただきます」
「いただきます」
四人の声が重なった。
サッちゃんは、自分の茶碗を見つめていた。
「朝食環境が、さらに拡張されましたっ」
「だから拡張って言うな」
リナは味噌汁をひと口飲んだ。
「味はいいわ」
「ありがとうございますっ!」
「ただし、定規は片付けなさい」
「はいっ!」
サッちゃんは素早く定規を片付けようとした。
リナが見る。
「ゆっくり」
「はいっ!」
サッちゃんは今度、異様にゆっくり定規を持ち上げた。
一秒。
二秒。
三秒。
メグミが小声で言った。
「儀式みたい」
ユウトも小声で返す。
「定規を封印してるように見える」
「そこまで間を取らなくていいわ」
リナの指摘は、静かで正確だった。
食後。
メグミは自分の皿を下げようとした。
サッちゃんとリナが同時に反応する。
サッちゃんは勢いよく立ち上がりかけ、リナは音もなく一歩だけ動いた。
メグミは二人を見て、にこっと笑った。
「自分の分くらい運ぶよ」
サッちゃんが固まる。
「しかし、メグミ様は来訪者ですっ」
「でも、しょっちゅう来てるし」
《メグミ様は準常駐者です》
「KAIN、そこ強調しなくていい」
リナはメグミの皿に手を出さなかった。
「では、お願いいたします」
「はい」
メグミは普通に食器を運ぶ。
サッちゃんはそれを見ていた。
「来訪者が、自分の食器を運ぶ」
「うん」
「支援対象が、自分で行動する」
「そうだな」
「……相手の動く余地」
ユウトはうなずいた。
「たぶん、そういうこと」
リナが静かに言った。
「覚えがいいわね」
サッちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「リナに褒められましたっ!」
「大きな声を出さない」
「はいっ!」
声は少し小さくなった。
けれど、嬉しさはまったく隠れていなかった。
その日の午後。
ユウトが学校から帰ると、朝比奈邸の空気はさらに変わっていた。
廊下の非常用バッグは、見えない場所に移されている。
玄関の靴は自然な角度で揃っている。
リビングのテーブルには紅茶の用意。
ソファには座りやすい位置にクッションが置かれている。
「あれ……なんか、家っぽくなったな」
ユウトが言うと、サッちゃんがはっとした顔をした。
「家っぽく」
リナは紅茶を注ぎながら、静かに言った。
「家は、力を抜ける場所であるべきです」
「力を抜ける場所」
サッちゃんはその言葉を、胸に刻むように繰り返した。
「昨日まで、ちょっと秘密基地みたいだったからな」
「秘密基地」
「それはそれで男心には響くけど、毎日は疲れる」
「毎日疲れる家は、問題ですっ」
「そういうこと」
ユウトがソファに座ると、背中が自然に落ち着いた。
「……うん。いいな」
サッちゃんが一歩前に出る。
「ご主人様、朝比奈邸の生活環境改善は成功でしょうかっ?」
「成功だと思う」
「やりましたっ!」
サッちゃんは嬉しそうに拳を握った。
その瞬間、テーブルのカップが少し揺れる。
リナが無言で押さえた。
「サッちゃん」
「はいっ!」
「喜ぶ時も、テーブルから少し離れなさい」
「了解しましたっ!」
ユウトは笑った。
完璧なリナが来て、朝比奈邸は少し整った。
でも、静かになったわけではない。
サッちゃんがいる限り、この家はやっぱり騒がしい。
「リナ」
「はい」
「これからよろしく」
「よろしくお願いいたします、ユウトさん」
サッちゃんが横で胸を張る。
「リナがいれば、朝比奈邸の生活防衛力は大幅に向上しますっ!」
「また防衛って言ってる」
「生活補佐力、よ」
リナが即座に直す。
「生活補佐力ですっ!」
「そこはすぐ直るんだな」
夕方の光が、リビングに差し込んでいた。
広すぎる屋敷に、また一人、足音が増えた。
サッちゃんの足音は、勢いよく前へ出る音。
リナの足音は、静かに整える音。
どちらも、昨日までの朝比奈邸にはなかった音だった。
「ご主人様」
サッちゃんが真剣な顔で言った。
「わたしは、リナから生活の間を学習しますっ!」
「おう。頑張れ」
「まずは、静かに移動しますっ!」
そう言って、サッちゃんはものすごく不自然にゆっくり歩き始めた。
廊下を、一歩。
また一歩。
背筋を伸ばし、足音を消そうとして、逆に全身に力が入っている。
ユウトはそれを見て、思わず言った。
「サッちゃん」
「はいっ」
「それ、忍者の訓練みたいになってる」
リナが眼鏡を押し上げた。
「違うわ。忍者にも失礼よ」
「リナ、厳しいですっ!」
朝比奈邸は、少し整った。
けれど、やっぱり今日も騒がしい。
完璧なメイドは、少し怖い。
そして、完璧なメイドに教わるサッちゃんは、かなり騒がしかった。




