↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/18

第2話 深夜の脱出訓練



翌日。


朝比奈邸のリビングには、応急処置の白い板が天井に張られていた。


もちろん、昨日サッちゃんが突き破って降ってきた場所である。


「……直るまで、そこだけ見ないようにしよう」


ユウトがぼそりと言うと、天井のスピーカーからKAINの声がした。


《修繕業者の到着予定は本日十四時です》


「助かる」


《なお、サッちゃんより屋根裏構造の再確認申請が出ています》


「却下してくれ」


「ご主人様!」


背後から元気な声が飛んできた。


振り返ると、サッちゃんが両手に工具箱と掃除用具を持って立っていた。


黒基調の戦闘メイド服に白いエプロン。長い金髪を揺らし、青い瞳を輝かせている。


「天井進入ルートの安全性を検証しましたっ!」


「だから天井から入る前提をやめろ」


「改善案として、次回は荷重分散用のワイヤーを使用しますっ!」


「次回がある時点で改善じゃない」


サッちゃんは、昨日の大惨事などなかったかのように動いていた。


掃除は速い。洗濯物の畳み方もきれい。廊下の隅まで埃ひとつない。


問題は、そのすべてが少しだけ戦闘寄りなことだった。


玄関には、非常用の靴が左右きっちり角度を揃えて置かれている。


「なんで俺の靴が全部右足から履ける向きになってるんだ?」


「緊急退避時、右足からの初動が最も安定すると判断しましたっ!」


「普通に履かせてくれ」


廊下には、避難用バッグが三つ並んでいた。


「軽装退避用、長期避難用、対未確認事態用ですっ!」


「最後のやつ何に備えてるんだ」


「未確認なので不明ですっ!」


「不明なまま準備するな」


有能ではある。


有能ではあるのだ。


ただ、基準が徹底的におかしい。


その日の夜。


ユウトはいつもより早くベッドに入った。


昨日は天井が落ち、父の遺言映像を見せられ、謎のメイドが現れ、契約書を読まされかけた。


一日で浴びる情報量ではなかった。


「今日は普通に寝る。絶対に寝る」


《就寝予定時刻、通常より二十七分早いです》


「疲れてるんだよ」


《普通の睡眠を希望しますか》


「普通じゃない睡眠があるのか?」


《定義が必要です》


「定義しなくていい」


ユウトは布団をかぶった。


部屋は静かだった。


広い屋敷の夜は、少し冷える。けれど、昨日までのような無音ではない。どこかに誰かがいる気配が、ほんの少しだけあった。


「……まあ、悪くはないか」


そう思って、目を閉じた。


そして、深夜二時。


「ご主人様っ!」


「うわあああああっ!」


ユウトは飛び起きた。


ベッドの横に、サッちゃんが立っていた。


姿勢よく、きりっと、ものすごく真剣な顔で。


「緊急脱出訓練を開始しますっ!」


「悪夢だった!」


「いいえ、現実ですっ!」


「なお悪い!」


サッちゃんは布団ごとユウトを抱えた。


「対象確保。搬送開始しますっ!」


「待て待て待て! 俺は荷物じゃない!」


「緊急時には生命維持を最優先しますっ!」


「生命維持の前に睡眠維持!」


《KAINより通知。現在、深夜二時三分。緊急脱出訓練モードが起動しています》


「止めてくれ!」


《致命的危険は確認されていません》


「精神的危険は!?」


サッちゃんはユウトを抱えたまま、窓を開けようとした。


「窓から出るな!」


「最短退避経路ですっ!」


「階段がある!」


「階段ルートは二十六秒遅延しますっ!」


「さっきから三十秒くらい我慢できないのか!」


結局、ユウトが必死に抵抗したため、窓からの脱出は回避された。


ただし、階段を降りた先の庭には、すでに訓練コースが完成していた。


地面には白線。植え込みの間にはテープ。芝生の上にはマット。さらに、どこから持ってきたのか白い煙まで漂っている。


「なにこれ」


「朝比奈邸緊急退避訓練コース、試作一号ですっ!」


「いつ作った」


「ご主人様の就寝後ですっ!」


「寝ろよ!」


「訓練開始しますっ!」


サッちゃんはユウトの手を引いて走り出した。


「第一障害、低姿勢移動!」


「高校生は夜中に庭を這わない!」


「第二障害、段差回避!」


「寝起きで跳べるか!」


「第三障害、仮想危険区域突破!」


「赤いテープ踏んだらどうなるんだよ!」


「心理的緊張が発生しますっ!」


「もうしてる!」


サッちゃんは真剣だった。


ふざけている様子はない。


むしろ、あまりにも本気だからこそ、ユウトはツッコミ続けるしかなかった。


その時だった。


パキ、と頭上で嫌な音がした。


古い庭木の枝が、夜風に揺れて折れかけていた。


「ご主人様、上方注意」


KAINが警告するより早く、サッちゃんが動いた。


ユウトを片腕で抱き寄せ、もう片方の手で落ちてきた太い枝を受け止める。


音は重かった。


けれど、サッちゃんの腕はほとんど揺れなかった。


彼女は枝を地面にそっと置き、ユウトを見た。


「負傷はありませんかっ?」


「……ない」


《反応速度、予測値を上回っています》


KAINの声が響く。


ユウトは、サッちゃんの横顔を見た。


さっきまでの訓練はめちゃくちゃだった。


けれど、今の一瞬だけは違った。


本当に、守られていた。


「サッちゃん」


「はいっ!」


「助かった。ありがとう」


サッちゃんの表情が、一瞬だけ明るくなる。


「ご主人様の安全確保は、最優先任務ですっ!」


「でもな」


「はいっ!」


「俺、明日学校なんだ」


「はいっ!」


「寝かせてくれ」


サッちゃんは固まった。


「……睡眠不足」


「そうだ」


「睡眠不足は、判断力低下、体力低下、免疫低下を引き起こす強敵ですっ!」


「じゃあ今すぐ制圧してくれ」


「了解しましたっ! 睡眠不足を制圧しますっ!」


「寝かせてくれればいいだけだ!」


訓練終了時刻、二時二十九分。


ユウトは疲れ切った足で屋敷へ戻った。


サッちゃんは当然のように抱えて運ぼうとしたが、それは断った。


「歩ける。というか、歩かせてくれ」


「了解しましたっ。自力移動を支援しますっ!」


「支援しなくていい。隣を歩いてくれればいい」


「隣」


サッちゃんは少しだけ考えてから、ユウトの横に並んだ。


庭から屋敷へ戻る短い道。


月明かりの中で、サッちゃんの金髪が淡く光っていた。


「サッちゃん」


「はいっ」


「守ろうとしてくれてるのは、わかった」


「はいっ!」


「でも、まず俺の生活を守ってくれ」


「生活、ですかっ?」


「寝るとか、学校行くとか、朝起きるとか。そういうやつ」


サッちゃんは真剣な顔で黙った。


「敵を倒すだけでは、守れないのですかっ?」


「たぶん、守れないものもある」


「……生活を守る」


サッちゃんは小さく繰り返した。


部屋に戻ると、彼女はベッドの横に立った。


「では、就寝中の警戒に移行しますっ!」


「寝ろ」


「しかし」


「サッちゃんも寝る。自分の部屋で」


「わたしの睡眠も、任務に含まれますかっ?」


「含まれる。絶対含まれる」


「理由を確認してもよろしいでしょうかっ?」


ユウトは布団に入りながら、少しだけ目をそらした。


「……その方が、俺が安心する」


サッちゃんは、ぱちぱちと瞬きをした。


それから、いつものように背筋を伸ばした。


「了解しましたっ。ご主人様の安心確保のため、わたしも睡眠を取りますっ!」


「うん。おやすみ」


「おやすみなさいませ、ご主人様っ!」


サッちゃんは敬礼のように背筋を伸ばし、部屋を出ていった。


ドアが閉まる。


今度こそ、部屋は静かになった。


《再就寝を確認。推奨睡眠時間まで残り不足気味です》


「KAIN」


《はい》


「明日の朝、起こすの少し遅めで」


《学校に遅刻しない範囲で調整します》


「頼む」


ユウトは目を閉じた。


守られている。


でも、生活はまだ守られていない。


「生活を守る、か」


ドアの向こうで、サッちゃんの足音が遠ざかっていく。


広い屋敷の夜に、またひとつ、新しい音が増えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。