第10話 ご主人様の一日は、もう静かではない
朝。
目覚まし時計が鳴る、その少し前だった。
《おはようございます、ユウト様。午前六時三十分です》
「……知ってる」
ユウトは布団の中で目を閉じたまま答えた。
あと五分くらい、このままでいたい。
そう思った直後、廊下から軽い足音が近づいてきた。
こんこん、と扉が鳴る。
「ご主人様! おはようございますっ!」
「……おはよう」
「入ってもよろしいでしょうかっ!」
一応、ノックして許可を待つようにはなったらしい。
「どうぞ」
「失礼しますっ!」
扉が勢いよく開いた。
許可を待つことと、静かに入室することは別問題のようだ。
サッちゃんは長い金髪を揺らしながら部屋へ入ってきた。黒と白の戦闘メイド服に白いエプロン。手には、きれいに整えられた制服一式を抱えている。
「本日の制服ですっ! アイロン処理、糸くず除去、ボタン確認、ほつれ確認、すべて完了しています!」
「ありがとう。でも、そこまでしなくていいよ」
「では次回から工程を削減しますか?」
「そういう意味じゃないんだけどな」
サッちゃんは首を傾げた。
ユウトはベッドから起き上がり、制服へ着替える。ネクタイを適当に結んだところで、サッちゃんの視線がぴたりと止まった。
「ご主人様」
「何?」
「ネクタイが曲がっています」
「ああ。あとで直すよ」
「修正しますっ!」
返事を待つより早く、サッちゃんが近づいてきた。
指抜きの黒いグローブに包まれた指が、ユウトの襟元へ伸びる。結び目をつまみ、少しだけ位置を直した。
その瞬間、ユウトは妙に意識してしまう。
近い。
長い金髪の毛先が、肩へ触れている。
「……サッちゃん」
「はい?」
サッちゃんはネクタイしか見ていない。
「近くない?」
「作業に必要な距離ですっ!」
「また距離に名前つけてない?」
「動かないでくださいっ!」
「はいはい」
仕方なく黙っていると、サッちゃんは手早く結び目を整えた。
「完了です!」
満足そうに顔を上げる。
そこでようやく、サッちゃんも二人の距離に気づいたらしい。青い瞳がわずかに揺れ、頬がほんの少し赤くなった。
「……失礼しました」
一歩下がる。
さっきまでの勢いが、そこだけ少し弱い。
「いや。ありがとう」
ユウトがそう言うと、サッちゃんはすぐにいつもの笑顔へ戻った。
「では、朝食の準備へ戻りますっ!」
「走るなよ」
「はいっ!」
廊下へ出ていく。
数秒後、足音が少しだけ速くなった。
「……走ってるよな」
《通常歩行速度の約一・四倍です》
「KAIN、そこは報告しなくていい」
朝から、もう静かではない。
ユウトは鏡を見る。
ネクタイだけは、きれいに整っていた。
◆
食卓に並んでいたのは、トースト、卵、サラダ、それにスープ。
見たところ、ごく普通の朝食だった。
「普通だ」
「はいっ!」
サッちゃんが胸を張る。
「一般的な高校生の朝食を参考にしました!」
「普通の朝飯を作るのに、そんな研究したの?」
「生活支援には情報収集が必要です!」
以前なら、栄養効率や活動時間について長い説明が始まっていたところだ。
ユウトはトーストをひと口かじる。
少し柔らかい。
「あれ」
サッちゃんが身を乗り出した。
「どうでしょうか?」
「昨日より焼き方変えた?」
「はいっ!」
一気に顔が明るくなる。
「昨日、ご主人様が端の部分を少しだけ残されていたため、焼き時間を三秒短縮しました!」
ユウトはトーストを見る。
確かに、こっちの方が好みだった。
「……よく見てるな」
「はいっ! ご主人様を観察することは重要ですので!」
「その言い方はちょっと怖い」
「では、ご主人様をよく見ることが重要です!」
「さらに直接的になったな」
サッちゃんは大真面目だった。
どうやら本人には、何の他意もないらしい。
たぶん。
ユウトはもう一口食べる。
「でも、こっちの方がうまい」
「本当ですかっ?」
「うん」
サッちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「成功です!」
その笑顔を見ると、ユウトも少しだけ笑ってしまった。
朝は、以前よりずっと騒がしい。
けれど最近、その騒がしさにも少し慣れてきた。
◆
学校へ向かう途中、メグミと一緒になった。
「おはよう、ユウト」
「おはよう」
メグミはユウトの顔を見るなり、少し笑った。
「また朝から何かあった?」
「なんでわかるんだよ」
「最近、朝の話をよくするようになったから」
ユウトは返事に詰まった。
以前なら、朝なんて起きて、食べて、学校へ来る。それだけだった。
「静かな朝が懐かしいよ」
「戻りたい?」
少し考える。
「……五分くらいなら」
メグミが吹き出した。
「短いね」
「それ以上は暇そう」
自分で言ってから、ユウトは少しだけ首を傾げた。
いつから、そう思うようになったのだろう。
◆
放課後。
朝比奈邸の玄関を開ける。
「ただいま」
《おかえりなさいませ、ユウト様》
KAINの声が響く。
以前なら、それで終わりだった。
今は違う。
廊下の奥から足音が近づいてきた。
けれど、途中で止まる。
ユウトが顔を上げると、少し離れた場所にサッちゃんが立っていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
朝とは違う、少し落ち着いた声だった。
「ただいま」
ユウトは靴を脱ぎながら、サッちゃんを見る。
「今日は突っ込んでこないんだ」
「はいっ!」
サッちゃんは嬉しそうに頷いた。
「帰宅直後は、ご主人様が靴を脱いだり荷物を置いたりする時間が必要だと学習しました!」
「ちゃんと覚えてるんだな」
「相手の動く余地を残す、ですっ!」
「うん。いいんじゃない?」
サッちゃんの顔がぱっと明るくなる。
「成功です!」
一歩。
こちらへ近づく。
さらに一歩。
ユウトは思わず笑った。
「成功した途端、距離詰めてない?」
ぴたり。
サッちゃんが止まる。
「……近すぎましたか?」
「いや」
ユウトは少し考えた。
「それくらいなら、別に」
サッちゃんが目を丸くする。
それから、少しだけ嬉しそうに笑った。
「では、この距離を基準に――」
「記録しなくていい」
「はいっ!」
玄関に二人の笑い声が響いた。
ユウトは鞄を持ち直す。
最近は、サッちゃんの「おかえりなさい」を聞いて、ようやく帰ってきたと思うようになっていた。
◆
夜。
朝比奈邸は静かだった。
ユウトはリビングのソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
《室温二十三・一度。湿度四十九パーセント》
KAINの声が響く。
「うん」
それきり。
また静かになる。
以前なら、毎晩こんな感じだった。
テレビの音と、時々聞こえるKAINの声。
誰かが廊下を歩くこともなければ、食堂から話し声が聞こえることもなかった。
ユウトはソファへ身体を預ける。
「……静かだな」
何となく口にした。
少し間を置いて、もう一度つぶやく。
「静かすぎるか」
自分でも意外な言葉だった。
「ご主人様?」
振り返る。
サッちゃんが二つのマグカップを持って立っていた。
「まだ起きていたのですか?」
「うん」
「温かい飲み物をお持ちしました」
「ありがとう」
マグカップを受け取る。
サッちゃんは少し迷ってから、ユウトの隣へ腰を下ろした。
近すぎない。
でも、遠くもない。
二人でしばらくテレビを見る。
珍しく、サッちゃんも何も言わなかった。
「静かですね」
やがてサッちゃんが言った。
「うん」
「……申し訳ありません」
ユウトは思わず横を見る。
「なんで謝るの?」
「もっと賑やかにした方がよろしいでしょうか?」
「しなくていいよ」
「ですが」
「そういう意味じゃないって」
ユウトは笑った。
マグカップから湯気が上がっている。
「前は、この家ずっとこんな感じだったんだよ」
「静かだった?」
「うん。朝も、帰ってきても、夜も」
サッちゃんは黙って聞いていた。
「今は朝からサッちゃんが来るし、飯食ってても何か起こるし、帰ってくれば迎えに来る」
「はい」
少しだけ、小さな返事だった。
ユウトはマグカップへ目を落とす。
「静かなのも悪くなかったけどさ」
少し言葉を探した。
「今の方が、帰ってきた感じする」
サッちゃんが黙った。
ユウトが横を見ると、青い瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「……ご主人様」
「何?」
「わたしもです」
「何が?」
サッちゃんはマグカップを両手で持ったまま、少しだけ視線を落とす。
「ご主人様が帰ってくると、安心します」
ユウトの胸が、わずかに跳ねた。
サッちゃん自身も、自分の言葉に気づいたらしい。少しだけ頬が赤くなる。
「これは……護衛対象の帰還を確認したことによる安心感でしょうか」
「俺に聞かれてもな」
「分類できません」
「無理にしなくていいんじゃない?」
「そうでしょうか」
「そういうものもあるだろ」
サッちゃんはしばらく考えていた。
やがて、小さく頷く。
「……では、保留します」
「保留なんだ」
「はい」
いつもの調子に戻った。
けれど、サッちゃんは立ち上がらなかった。
二人でテレビを見る。
しばらくして、肩に柔らかな感触が触れた。
ユウトが横を見る。
サッちゃんの肩が、自分の肩に触れている。
偶然かと思った。
けれど、離れない。
「……サッちゃん」
「はい」
「近いけど」
「はい」
いつもなら、何か理由をつけるところだった。
けれど今日は、なかなか言葉が出てこない。
ユウトは少しだけ笑った。
「護衛のため?」
サッちゃんは考えた。
ほんの少しだけ、ユウトの肩へ重みを預ける。
「……たぶん」
一拍。
「違います」
ユウトは何も言えなかった。
サッちゃんも、それ以上は何も言わない。
テレビの音だけが、静かなリビングに流れている。
朝比奈邸は、もう静かな家ではない。
それでも。
こんな静けさなら、悪くない。




