第9話 あんちゃんと一緒がいい
朝の点呼のあと、僕はリナに小声で切り出した。
「マティを探しに行きたい」
「勝手に動いたら、脱走とみなされる」
「分かってる。でも、正式な用事があれば別だろ」
リナは少し考えるように黙り込んだ。断られる、と半分覚悟していた。
リナは少しの間、黙って僕を見ていた。
「炊事場の運搬係、今日は人手が足りないって、さっき聞いた」
「なんでそんなこと知ってるんだ」
「聞き耳を立てるのが得意なだけ」
事もなげに言われて、僕は何も返せなかった。彼女がどれだけのことを普段から拾い集めているのか、僕には想像もつかなかった。
「一人で無茶するより、それらしい理由がある方がいい。あんたは、隠すのが下手そうだから」
図星だった。何も言い返せず、僕はただ頷いた。
運搬係に志願すると、あっさり通った。人手不足は本当らしい。荷を運ぶ台車を押しながら、僕らは炊事場から各棟へと食事を配って回った。
初めて歩く区画には、見慣れない建物がいくつも並んでいた。訓練場でも寝室棟でもない、用途の分からない建物ばかりだった。表札も看板もなく、扉の前に兵士が立っているところだけが、そこに何かがあることを示していた。
「別枠」の棟は、思ったより小さな建物だった。窓の外から中を覗くと、マティより幼い子供たちが、床に座って何かの遊びのようなことをしていた。世話係らしい大人が一人、その様子を見守っている。
遊びといっても、はしゃぐ声はほとんど聞こえなかった。積み木のようなものを黙々と積んでいる子、壁に寄りかかって座ったまま動かない子。楽しんでいるというより、時間をやり過ごしているだけのように見えた。
マティを見つけたのは、隅で膝を抱えて座っているところだった。他の子供たちの輪には入らず、一人でいるようだった。
服は僕らと同じ灰色ではなく、もう少し柔らかそうな生地だった。それでも、表情には見覚えのある翳りがあった。村を出てから、みんなが少しずつ抱えるようになった翳りだった。
「マティ」
小声で呼ぶと、顔を上げたマティの目に、みるみる涙が浮かんだ。
「あんちゃん!」
駆け寄ろうとするマティを、世話係の大人が「静かに」とだけ制した。それでも、咎める様子はなかった。
「元気にしてた?」
「ここ、つまんない。みんな小さい子ばっかりで、話す人いない」
「そうか」
「ごはんも、あんちゃんと食べたやつと違う。もっと、やわらかいやつ」
「それは、良かったじゃないか」
「よくない。あんちゃんと一緒がいい」
飾らない言葉が、まっすぐに胸へ突き刺さった。良い環境かどうかより、一緒にいられるかどうかが、マティにとってはすべてなのだと分かった。
「あんちゃんのとこ、行きたい」
「まだ、無理みたいだ。でも――」
言いかけて、僕は続きが見つからなかった。無責任な約束はしたくなかったし、かといって、何も言わずに離れるのも辛かった。
「大きくなったら、こっちに来られるって、大人が言ってた」
マティの言葉に、僕は少し驚いた。
「そう言われたのか」
「うん。もう少し大きくなったら、って」
具体的にいつなのか、何のためなのか、マティには分からないようだった。僕にも分からなかった。それでも、いつかまた一緒になれるという言葉が、今の僕にはわずかな支えになった。
「あんちゃん、また来る?」
「来る。約束はできないけど、必ず、また会いに来る」
「約束できないのに、必ずって、へん」
マティらしい指摘に、僕はつい笑ってしまった。
「本当だな。でも、そう言いたい気分なんだ」
「じゃあ、あんちゃんの、その気分だけ信じとく」
五歳児らしい理屈だったけれど、僕にはそれで十分だった。信じてもらえるだけの何かを、これから少しずつでも返していきたいと思った。
台車を押すリナが、少し離れた場所からこちらを見ていた。急かすでもなく、ただ待っていてくれた。
「行かないと。また来るから」
「うん。ばいばい、あんちゃん」
手を振るマティを残して、僕らはその場を離れた。何度も振り返りたくなるのを、僕はどうにか堪えた。振り返れば、また離れがたくなる気がした。
「満足した?」
「うん。顔見れただけで、全然違う」
「そう」
それだけ言うと、リナはそれ以上何も聞かなかった。台車を押しながら、僕は隣を歩くリナに、初めて少しだけ礼を言いたい気持ちになった。
「今日は、ありがとう」
「別に、私にも運搬の仕事があっただけ」
そっけない返事だったけれど、僕を手伝う理由をわざわざ作ってくれたことには、気づいていた。
午後の鍛錬で、僕はアルトと組む相手に指名され、模擬戦を行うことになった。木剣を構えた瞬間から、間合いの違いがはっきり分かった。踏み込むたびに、こちらの動きを読み切られているような感覚があった。
結果は、話にならないほどの差だった。何度打ちかかっても、届く前に弾かれ、最後は地面に組み伏せられて終わった。周りで見ていた何人かが、小さくどよめいた。恥ずかしさよりも先に、悔しさが込み上げてきた。
「弱すぎる」
「分かってるよ」
「分かってるだけじゃ、変わらない」
言葉には、突き放すような響きと、わずかな苛立ちが混ざっていた。彼なりに、何かを期待しているのかもしれないと、負けた悔しさの中でふと思った。
差し伸べられるはずのない手を、アルトはそれでも一瞬だけ差し出しかけて、結局引っ込めた。代わりに背を向けて、次の相手のところへ歩いていった。何を考えているのか、僕にはまだ読み取れなかった。
父さんと母さんの顔を、また少し思い出そうとした。すぐには浮かばなかった自分に気づいて、僕は慌てて記憶をたどり直した。忘れかけているわけじゃない。ただ、この場所での毎日が、少しずつ、それ以外のことを考える隙間を埋めていってるだけだ。そう自分に言い聞かせた。
夜、体中の痛みに顔をしかめながら寝台に横たわると、リナが隣の寝台から小さく言った。
「今日、マティに会えてよかったね」
「うん」
「それとアルトに負けたのは、当然。あいつは別格だから、気にするだけ無駄」
慰めなのか、事実を告げているだけなのか、判断がつかなかった。それでも、今日一日の疲れの中に、少しだけ温かいものが混じっている気がした。




